光りと影の狭間で・4

音楽大科学の黒く堅牢な正門を潜り、緑の濃い影を作るリンデンバウムの並木道を通り抜けると、現われるのは中世的な雰囲気を漂わせる石畳の広場。その中央にある大きな台座の上では、創設者である音楽家の白い彫像がやってくる学生達を出迎え見守り、問いかけるように真摯な視線を向けている。

彼の背後に聳えるのはギリシャ神殿風デザインを取り入れた白い大講堂。帝国時代の宮殿の名残であり、見るものを圧倒させる重厚さと壮麗さは、ここが大学の構内である事を一瞬忘れさせくれるほどだ。内部は装飾だけでなく音響効果や設備も整っていて、有名なオーケストラのコンサートホールに勝るとも劣らない。
正面の階段の上で均等に並ぶ丸い列柱から差し込む影が、広場の石畳に長い光りの模様を描き出していた。



客席へと続く重い革張りの扉が開き、隙間から身体を滑り込ませるようにロビーへと出てきたヴィルヘルムがきょろきょろと周囲を見渡すと、出口へ向かおうとする月森の姿を捕らえて指差し、あっと目を見開き声を上げる。どうやら月森を追いかけ先回りをしようと客席を突き抜けてきたらしく、もう少しだったのにと悔しそうに眉を顰めた。


『おーいレン! 何処へ行くんだ、待てってば! レーン!』


明るい光りと白い大理石の床が広がる大講堂の静かなロビーに、足早に歩く硬い靴音が忙しなく響き渡る。
言葉の代わりに表すのは隠せない苛立ちと焦り・・・押さえ切れない感情の数々。
今は構わないでくれ・・・俺を一人にしてくれ、一刻も早くこの場から去りたいんだと向ける背中で語りながら。
ヴァイオリンケースを持ち譜面を脇に抱えたまま、ただ真っ直ぐ前だけを見据えて。


単位の必修科目であるオーケストラの練習が終わるなり、叩きつけるようにステージを去り、手早く楽器を片付けて飛び出した俺を追いかけてきたのだとは分かっていた。呼び止める大声は聞こえているがあえて呼びかけに応じずにいると、地団太をふむ気配と癇癪を起こす声が沸き起こり、静かなロビーへ二人分の忙しない足音が連弾のように響き渡る。

追いかけられる足音に気持も焦り、鼓動に煽られながら早足は駆け足へと変わる。しかし後から来たとはいえヴィルの足の方が早かったようで、あっという間に肩を強く捕まれた。駆ける反動のままに後ろへ振り回されると、温和な彼には珍しく眉を吊り上げた顔が目の前に迫る。負けじと真っ直ぐ睨み返したが、無論相手も一歩もひるむ事が無い。


『待てって言ってるのが聞こえないのか、お前は! 携帯電話じゃないんだから、電波の圏外だなんていい訳は無しだからな!』
『授業は終ったんだ、後は俺がどうしようが君には関係ないだろう。やる事が他にもあるんだ、時間を無駄にしたくない。この手を離してくれ』
『なっ・・・関係無いって、久々に聞いたぞそのセリフ! 関係あるから言ってんだよ、そう言う時に限って後ろめたい事隠してるってのもな。扉を閉めて自分の中に入れないつもりだろうが、ただ逃げてるだけってどうして分からないんだよお前は。大方カホコと喧嘩したのも、レンが今みたいに余計な事言ってカホコを傷つけたんだろう? だからまだ仲直り出来ずに、自己嫌悪に陥っているっているのか?』
『・・・・・・喧嘩は俺と香穂子の問題だ。それこそ大きなお世話だ』


低く静かに声を吐き出すと、目を驚きに見開き息を飲む気配が肩を掴む手から伝わってくる。その手が緩んだと思った次の瞬間、大理石の壁に背を強く打ち付けられた。全身を吊り上げられる感覚と息苦しさが襲い掛かり、眉根を寄せ呻き、喉元に力を込めて耐る。頭一つ分背が高く俺より遥かに体格も良いヴィルに、力のまま胸倉を掴み上げられ、踵が僅かに浮かび上がった。


胸に沸き立つ痛みと嫌悪感は締め付けられるだけでなく、心の奥深くに癒されずに残る本音という傷を、鋭い刃物で抉られたから。反論できないから続く言葉が紡げずに、睨んだり強がったりと精一杯の虚勢を張るしか出来ない。もどかしくて溢れる自分自身への苛立ちは、俺ではなく気遣ってくれる大切な相手を傷つけてしまうのに。また彼女の時と同じ事を繰り返そうとしているのか・・・俺は?


ヴィルの言った事は正しい・・・あの時も、苛立ち焦る俺を気遣う香穂子に冷たく扉を立てた。
君には関係ないと・・・だがそれは俺の感情に君を巻き込みたくなかったから。心配させたく無かったんだ。
心にある言葉をそのまま伝えれば良かったと気付いた時には既に遅く、口から滑り落ちた言葉の雫は戻る事が無かった。

伝える術を知らずに不器用で、君の考えが知りたいと思っても、俺自身の事でさえ見えずに精一杯。
だから心の中を覗いて、全て知る事が出来たらいいのにと思う。
君の中にある俺に関する部分や、俺の中にある君や俺自身を取り出し手帳に書き取れたら・・・君を泣かさずに済んだのかも知れない。


脇に抱えていた譜面がバサリと音を立てて床に落ちる音で我に返り、朦朧とする意識の中でヴァイオリンケースだけは手放さないように力を込める。


『だったら何一人で焦ってイラついてんだ。俺と話が出来ないほどの用事って何だ、言ってみろよ! お前が巻き込んだのにここ最近は練習だって避けてすっぽかしやがって、大切な時なのに本気が聞いて飽きれる。さっきの授業だってそうだ、ちょっと前のお前より酷いぞ。少なくとも音楽に八つ当たりはしなかった・・・どうしたんだよ急に』
『八つ当たりなどはしていない・・あれも俺の音楽だ。それに俺がなりたいのはコンマスじゃない、ソリストだ』
『あー言えばこういう・・・。頑固なのは元からだけど、いつから心にも無い屁理屈捏ねるようになったんだよ』
『おい待てよ、手を離せヴィル! ほらレンも落ち着けってば、二人ともどうしたんだよ! おいレーゲント、そっちの腕もっとしっかり抑えくれ。』
『そうだぞ〜お前らシュバイツの言う通りだぜ、喧嘩するなら外でやれよな。神聖な音楽の大講堂を汚すんじゃない。講義棟裏の溜まり場なら、いくらでも審判してやる。但し、指は大切にしろよ』


突然割って入った声が、至近距離で睨み合い、俺の襟元を締め上げ掴みかかるヴィルを引き離す。
暴れる猛獣を取り押さえるように背後から彼を二人ががりで押さえつけているのは、授業のオーケストラに参加していた同じヴァイオリン科の仲間達。騒ぎを聞きつけ心配した数名が、後を追って来たらしい。

苦しさから解放され一気に流れ込む空気に咳き込むと、大丈夫かとそう言って駆け寄るもう一人に片手を挙げて静止の合図を送った。足元にヴァイオリンケースを置き、呼吸を整えながら乱れたシャツの襟元を整えヴィルの正面に向き合えば、なおも食いかかろうとして押さえつけられる。


『プロのソリストを目指しているのはお前だけじゃない。コンマスの椅子だって座りたくても座れないやつだって大勢いるんだぞ、揚げ足とってレンを降ろしたい連中もいるだろう。授業のオケだからって甘く見るなよ、学生とはいえ立つ土俵は一般の団体と同じだ。ここから目に留まり世界へ羽ばたく人間だっているんだ。ソリストになるなら尚更だ、オケを知らずにコンチェルトが出来るかっての!』
『ヴィル・・・お前本当にレンには過保護だな。いつもと違うのは俺たちだって知ってたしそりゃ正直戸惑ったさ。波風立つたびに心配してヴィルが手出し口出しフォローしたくなる気持も分かるけど、レンにとってはお前がおせっかいかも知れないんだぜ。俺だったらプライドが傷つくね、だったらお前がコンマスをやれよって』
『・・・・・・・・・・』


オーケストラは各楽器のエキスパートの集団だ。一人一人が様々な経験を積んで来ているし、異なる音楽観を持っている。そこでバラバラになってしまうメロディーやテンポについてアイディアを出す人がいて、演奏を一つにまとめていく・・・それが指揮者。奏者一人一人が自分の音楽の接点をいち早く見つけて、そこにオーケストラ全員を導くのがコンマス。指揮者と楽団員の間にたって指揮者を立て時には意見したり、かつ奏者の言い分を伝え上手く演奏できるようにもする・・・いわば指揮者と奏者を繋ぐパイプ役といるだろう。

他にも弦楽器のボウイングを決めてソロを奏でたり、アンサンブルの要とならなければいけないのに。
曲想について指揮者と上手くコンタクトが取れず、意見を戦わせて言い争いになる始末。ボウイングの指示も乱れて、俺のソロもミスが多発・・・全てがごてごてに回ってしまった。

音は心を素直に映すとは良く言ったものだ。
積み重ねるのは長い年月がかかっても、崩れるのは一瞬なのだと思い知る。
これ以上崩れないように・・・手から零れないようにと拳を強く握り締めた。


次第に焦りと苛立ちを覚える俺が意見を述べ、指示を出す毎に荒い波風が起こるのを、側にいたヴィルがフォローしまとめてくれたのだ。確かに彼らの言う通り今日はどうかしていた・・・彼がいなければ演奏どころか授業にさえもならなかったと思う。ありがたいと思いつつも、だからこそどうにも出来ない自分が許せず居た堪れなくて・・・一人にして欲しくて、早くこの大講堂を去りたかった。

こんな事をしている場合ではない・・・一刻を争うのにと。
ずっと追い立て脳裏を支配する別の意識に何も考えられず、全てが霞のように消えかけ遠のきながら。


『たまにはレンだって調子の悪い時だってあるだろう? 一緒につるんでるヴィルは何か知ってるんだろうけれど、いろいろ忙しいみたいだし。そのせいなのか、ここ最近急にやつれたんじゃないか?』


そう言葉を聞いた皆が一斉に俺を振り向き、視線が集中する。フイと顔を反らしていたヴィルが視線を戻し、俺を観察するようにじっと見据えると、難しそうに眉を潜めて溜息を吐いた。
自覚は無いが、そんなにもあからさまに心配されるほど、顔にも音にも疲労感が現われているのだろうか。


『・・・・・・離してくれ、もう暴れないから。二人だけで話がしたいんだ』
『もう暴れないって約束するか? 本当だな?』
『約束する。と言っても、レン次第だけど』
『という事だ、レンはどうだ?』
『俺も異論はない』


瞳を閉じて、静かに吐息を吐き出すように返事をするヴィルに、彼を抑えている仲間の一人が俺を見た。
レンも大人しくしてくれるよなと穏やかに声をかけられ、暫しの沈黙の後、腕を組みつつ多少憮然としながら頷けば、二人ががりで羽交い絞められていた身体がようやく解放される。

一歩踏み出す足に鼓動と肩が跳ねるのを感じると、足元に落ちたままでいる数冊の譜面を拾い上げたヴィルが、苦笑しながら俺へ手渡した。お前の喜怒哀楽には必ず香穂子が絡んでいるってすぐに分かるんだと、そう言って受け取る俺の肩を軽く叩いてくる。すまなそうにいつもの笑みを向けつつも、先ほどまでの勢いを沈めたブルーグリーンの瞳が、瞳の奥を探るように真っ直ぐ俺を射抜いて。


『カッとなってすまなかったな。お前が最近いつも俺との約束すっぽかすから、今日の件でドカンと来たんだ』
『・・・俺こそ、すまなかった』
『焦ったりイライラしたり、この世の終わりみたいに沈んだり、そうかと思えば遠くを見たり・・・。香穂子と電話で喧嘩したって知った時から様子がおかしかったけど、数日前までは今ほどじゃ無かった。だがお前は何も言わない・・・ひょっとして、良くない事が起こっているんじゃないのか? 唯の心配なら良いんだけど、昔の傷が疼くと言うか勘というか』
『・・・・・・・・・・・』
『ここで言いたくないのなら、俺たちだけで場所を変えようか。それでも言う気がないのなら、一切態度に現すな。音楽も大事だがそれ以上に、俺たちだってレンが大切だし心配なんだ』



静かに強く語る声が重く心に響き、見えない手がいつまでも暗闇に迷う俺を叱咤する。
今にも吐き出してしまいたい心の内で荒れ狂う感情の渦を抑えるように唇を噛み締め、、目の前に受け取ったままの譜面を見つめながら両手で強く握り締めた。

俺の事や彼女の事、秘密に運んでいる件も含めて一体何から伝えればよいのか・・・ちゃんと話せるだろうか。
ただの考えすぎや、思い過ごしならば言いいのだが・・・。
不安に潰されそうになる心に香穂子の温もりを探しつつ胸に抱き、一筋差し込んだ希望の光りを縋るように手繰り寄せて。俯く視線を上げて真摯な瞳を受け止めると、震えかける吐息でやっと一言呟いた。

場所を変えたいと---------。

即答で分かったと返事をしたヴィルはくるりと背を向け、固唾を呑んで見守る、俺たちを追いかけてきた三人のヴァイオリン科の仲間を振り返った。

『そういう事だから俺たちの事は心配するな。後で楽器を取りに戻るから講堂の鍵を閉めるなって伝えておいてくれないか。シュバイツもレーゲントたちも、野次馬するなよ』
『あぁ・・・もちろん、そんな事したら俺たちがヴィルに締め上げられちまうだろうさ。皆まだ残っているみたいだから、こっちは任せておいてくれ。その代わり言える範囲でいいから、後でちゃんと俺たちにも教えろよ』


まだ少し心配そうな三人が後ろ髪を引かれるように、佇む俺とヴィルを時折振り返りながら大講堂のホール内に戻ってゆく。大理石が白く輝く広いロビーにいるのは俺たち二人だけになり、再び静けさが戻ると、じゃぁ行こうかと肩越しに俺を振り返り出口に向かって歩き出した。何処へ行こうとしているのか・・・床に置いていたヴァイオリンケースを持つと、先を行く背を見つめて数歩後から、つかず離れずの距離でゆっくり追いかける。


壮麗な装飾が施された大きな玄関扉からロビーへ差し込む西日が、二つの点を黒く長い影線へと変えてゆく。
逆光の眩しさに細めた目の裏に、俺を照らす温かさにと同じ温もりを持つ、大切な君の笑顔が光りと共に浮かんで見えた。


まるで照らす太陽の先へ・・・君の元へと導くように・・・。


今すぐに君に会いたい・・・声が聞きたい。
不用意に傷つけた過ちを謝り、想いを伝えたいんだ。
だが一体君は今、何処にいるんだ・・・・・・・・?