光りと影の狭間で・2

休憩時間に1時間以上頑張ったものの、結局蓮くんは捕まらなかった。
沈む心が重い足枷となり、身体を引きずるように控え室へ戻って鏡に向かうと、赤く腫らした目を潤ませた私がいた。駄目だよ、こんな悲しい顔じゃお祝いできないよ・・・私が楽しくなくちゃ、みんなも楽しめない。
ねぇ笑って? そうだ、楽しい事を思い出そうよ!

鏡の自分に向かって話しかけながら、一緒に過ごした思い出の数々は泣きたいくらい心を温かくしてくれた。




きっかけは些細な事だったと思う。

その時ばかりはお互いに心がささくれ立っていたから、いつもは気にならない事が気になったり押さえ切れなかったり。お互いの感情をぶつけ合い、収拾がつかなくなって・・・つまりは喧嘩。

頻繁に会話をやり取りするようになったのも、蓮くんが留学してから久しぶりなら、喧嘩をするのもひさしぶりだったなと思った。例え海を隔てていても想いをぶつけ合えるほど心の距離が近付いたのか・・・。
側にいれば仲直りも簡単だけど、離れていればそうもいかなくて。掛け違えられたひとつのボタンのせいで全ての歯車がずれていくように、些細なすれ違いがいずれ取り返しのつかない事にもなりかねない。



几帳面な彼はメールをだせばすぐ返事が届くのに、それさえも来なくなっていて。忙しくなるという言葉通りに、私がいつ電話をかけても蓮くんに繋がる事は無かった。今何処にいるの、何をしているの?と聞いても内緒だと交わされるだけ。

心が不安定なままでは電話しちゃいけないって分かっていたけど、だからこそ蓮くんの声が聞きたかった。
出来事や思った事など、あなたと話せればどんな事があったって、それらは全て素敵な事になるから。


私からの連絡手段を絶たれた一方通行な状態の中でも、彼が時折くれる電話やメールが嬉しかった。
耳の中に残る声を何度も思い返してみたり、送られてきたメールたちを眺めては頑張らなくちゃって思ったり、思わず微笑んでしまったり。耳に届く声は私の心を軽く温かく包んでくれて、簡潔で短いけれども気遣いに溢れた文章の中からは、蓮くんらしさが伝わってくるの。

だからこそ声が聞きたい、話がしたい・・・あなたの存在を感じさせて欲しい。


顔が見えないから、会えないから、何処で何をしているのか分からないから余計に不安が募って。
私の事も見て、話も聞いてと訴える想いは強まるばかりだった。


私から掛けた電話がようやく繋がった時には、ドイツで深夜をまわっていた。いつもなら休んでいる迷惑な時間だと分かっていたけど、朝も夜も捕まらないのでは寝ている時間に掛けるしかなかったから。

起こしちゃってごめん・・・遅くにごめんねと必死に謝る私に、眠れなくて起きていたんだと穏やかに言うけれども、明らかに寝起きの声だと分かってしまう。嘘の苦手な彼が吐く小さな嘘は、どんな時にも私を気遣ってくれる優しさの裏返し。胸に痛くて押し黙った声を震わしている私に、声が聞けて嬉しいと・・・その言葉にほっと心が緩んだのも束の間の間。


口調は優しいけれども、交わす言葉の裏には、いつもの穏やかさとは違い、押さえ切れない焦りや苛立ちのようなものが漂っていた。やっぱり私が寝ているところを起こして怒ってるのかも、蓮くん寝起きが悪いから。
そう言う私に違うんだと、すまなそうに謝ったけれど本当に? いつもの蓮くんじゃないみだいだよ・・・。
冷静な彼には珍しく押さえ切れない疲れた態度を見せるほど、きっと気落ちをする事があったんだと思った。

伝わる声と呼吸からあなたを感じ取ろうと、強く押し当てた受話器を強く握り締め目を閉じ、心の波動を沿わせるように。


悲しい顔をしている時には私が笑わせてあげたい。どんなあなたも受け止めたい。
心の中に言葉と感情を閉じ込めて何も言ってくれないのは、心配させたくないからだって分かるから、言いたくないのなら無理には聞かないよ。でも頼られなくても、私はいつでも蓮くんの一番の味方でいたい。

寄り掛かって欲しいのに、想っても伝えてもあなたには届かなくて変わらないのなら、一体どうしたらいいの?
次第に感情が高ぶり不安に包まれる私に気付き我に返って、すまなかったと謝る彼。
だからその時弾けてしまったの。


『謝らないで・・・すまないなんて思ったりしないで!』


ごめんの一言で心の扉を閉ざされたような気分になり、目の前が一瞬真っ暗になった。まだ知り合って間もなかった頃に良く聞いた台詞が脳裏へ過ぎる、「君には関係ない」と。他人なんだと言われているようで、悲しくなるじゃない。

受話器を強く握り締める手も震えだし、悲しさと悔しさで滲む涙を堪える声も手も震え・・・。
押さえ切れない感情の渦に飲み込まれながら、私が一方的に電話を切ってしまったの。

どうしてあんな事をしたんだろう。
浮かぶのは後悔ばかりで、息苦しさに締め付けられそうになる。
やっと声が聞けたのに、こんな状態だなんて悲しすぎるよ・・・私たち。




電話を切った直後にかかってきた電話は、蓮くんからだと分かっていたけど私はあえて取らなかった・・・取れなかったの。これ以上溢れる想いをぶつけたら、もっと彼は困ってしまう。それに大粒の涙を零してしゃくりあげている私を、知られたくなかったから。

代りに電話を取った母親に「出ないもん!」と抱えたクッションに顔を埋めながら言い張ると、困ったように溜息を吐きながら、ごめんなさいね、あの子意地っ張りで・・・と頭を下げる母。ちらりと肩越しに伺いながら、どうして私じゃなくてお母さんが謝るのと心で反発しながらも、素直じゃないのは本当の事だから何も言えなかった。

その後も毎日何度もかかって来た蓮くんからの電話を取らないままピタリと治まり、互いに声を交わせないまま時間だけが無常に過ぎ去っていった。心に刺さったとげを残したまま。


嬉しい気持の時は思わないのに、沈んだ気分の時なるといつも思ってしまうの。
あなたのお陰、あなたのせい・・・くれる一言や向けられる小さな仕草の一つ一つに振り回されてばかりだと。
そう感じているのはここにいる私で、全て自分の心が生む問題。

謝るチャンスはいくらでもあったのに・・・あの時、謝ろうとしていたあなたの電話から顔を背けていたのは私。
少し困ってしまえばいいのにと、拗ねて意地悪にそう思ったのは嘘では無いけれど。
呼びかけが無くなってから初めて、彼がこのまま離れていったらどうしようという恐怖が芽生え始めた。
振り回して・・・それなのに反動で大きく自分が振り回されて、こんな私が嫌になるほどに。


寂しくて悲しいのは、きっと蓮くんだって一緒なのに、どうして私だけがって思ったりしたんだろう。
私よりもずっと忙しい筈なのに今では頻繁に連絡をくれるし、大切に想われているんだなって遠く海を隔てても伝わってくる。言葉から、受話器越しの吐息から、心に届く温かい音色から・・・。

後悔は、後から悔いると書くけどまさに言葉の通りだと思う。
謝らなくちゃ・・・今すぐごめんねって蓮くんに謝らなくちゃ。
でも電話もメールも繋がらない日は続くばかり、どうしよう、もう遅いのかな・・・。



崩れるようにストンと鏡前の椅子に座ると、化粧台に顔を突っ伏して大きく溜息を吐いた。耳に聞こえる震える吐息は切ない風となって、心と瞳を揺らしてゆく。部屋の窓から漏れ聞こえる賑やかな祝福の声だけが、静かな空間を満たしていて、背中に受ける温かな日差しが温かい。

泣かないで・・・どうか悲しまないで。

背中から優しく語りかけ全身に広がってゆく優しい温かさは、大好きなあなたが優しく抱き締めてくれるのに似ている。心を委ねて感じれば、耳に蘇る心地良い声が次第に私の心をゆっくり解きほぐしてくれるのを感じた。
今はどうか、あなたを想いながらこの温もりだけに浸らせて欲しい・・・。



コンコン-------。

軽く鳴り響くドアのノックに意識を急速に引き戻され、伏せてた顔を慌てて上げた。
少し目元が赤いけど腫らしてはいないよね。鏡に身を乗り出しつつ確認すると、ドアの向こうへ声をかけると、黒いタイトなスカートスーツを着て耳に小型のインカムをつけたチーフが開いたドアから現われた。


「日野さん〜そろそろ出番だから、用意お願いね」
「は・・・はいっ、今行きます!」


ガタガタと慌しく椅子から立ち上がり、ドレスの上に羽織っていたジャケットを背もたれにかけた。もう一度鏡をみて前髪を直しつつニッと笑顔を作って気合を入れると、机に置いていたヴァイオリンを持って小走りにドアへと向かう。開け放って待ち構えていたチーフにすれ違い様にポンと肩を叩かれ、何事かときょとんと見つめる私に、仕事用の硬く鋭い眼差しがふわりと和らいだ。


「みんながあなたを待っているよ。大切な人へと日野さんが願うように、ここに集う人も、今いない人も・・・。 心配の数と、それが実際に起こった数とを比べてごらん。心配したほど、心配した事は起こっていないから」
「・・・・・・!」
「私たちウエディングプランナーの仕事は皆に夢と思い出を売る事だけど、音楽も同じでしょう? でも生み出して多くの人たちに届けるには、潰されないように自分にもたくさんのパワーが必要だよね。足りないなって思ったら、心のポケットを覗いてみて。どんなささやかなものでもいい・・・ポケットに集めた小さな幸せたちが、大きな力と勇気をくれる筈だから」
「心のポケット?」
「素直になりなさい、心のままに・・・そうすればきっと見えるから。悲しみの後には必ず幸せがやって来るものだよ。迷いの中にいるのは、新しく生まれ変わろうとしている証拠、日野さんも海の向こうの彼もね。だから幸せの欠片をたくさん集められるように、余分な気持はポケットから捨ててしまいなさいな」


職業柄もあるけれど、女の感は鋭いのだとそう言ってにこりと微笑むと、人差し指で私の胸を示してきた。
どうして分かったんだろうと驚きに目を見開くものの、部屋に漂う空気の重さと私に何かを感じ取ったのかも知れない。楽器を持って塞がっている手の代りに胸元を見下ろして覗き込むと、顔を上げて元気良く笑顔と返事を返した。


「はい、頑張ります!」
「よ〜し、いい返事だ。さて私たちも戦闘態勢にはいりますか〜」
「た、戦うんですか!?」
「ま、似たようなもんでしょう。二人分・・・いや、それ以上の夢と人生預かってるわけだから、責任重大だぞ」


緊張感の漂う裏の廊下を表へ向かって歩きながら、楽しんで行こうー!と拳を高く振り上げるチーフにくすりと笑いを漏らすと、あんたもだよと悪戯っぽく頭を軽小突かれた。
う〜っと唸る私に肩を寄せながら元気でた?と耳元でそう囁いて。


大丈夫だよ、だって見えたもの。
さっき覗いた心のポケットには、蓮くんがくれたキラキラが以前と同じように・・・うぅん、それ以上の輝きを放ったままいっぱい入っていたから・・・。