光りの春 〜another Eteruno〜 中編

女性たちの輪にすっかり馴染んで溶け込み、香穂子は身振り手振りを交えて話しに夢中になっている。
そろそろ戻っておいでと視線で語りかける月森に気付き、返事の代りに小さく手を振り返すと輪を抜けて、少し離れた壁際で見守る月森とヴィルヘルムの元へ駆け寄ってきた。髪を背に跳ね躍らせながら、足取りも軽く人ごみを器用にすり抜け、お帰り・・・と微笑で迎える月森を真っ直ぐ振り仰ぐ。


『楽しい話の最中に、すまないな。挨拶がまだだったろう?』
『いっけない、つい夢中でうっかりしてた。ヴィルさんこんにちは。今日は、お招き頂きありがとうございます!』
『やぁカホコ、堅苦しい挨拶は気にしないで。会えて嬉しいよ、相変わらず元気そうだな』


後ろ手に組んでただいまの元気な返事をする香穂子は、挨拶が遅れてごめんなさいとそう言って、月森の隣に佇むヴィルにぺこりとお辞儀をした。


『ヴィルさんの家でパーティーやるって聞いて、すごく楽しみだったんです。初めて蓮のいるドイツへ来た時に、ヴィルさんのお兄さんの結婚パーティーに招待された以来だから、懐かしいなぁ。今日はあの時の広間じゃないんですね』
『鏡の間は広いし、特別な晩餐やパーティーの時しか使わないんだ。おっと・・・今日のパーティーも特別だけどな。レンから聞いてるだろう? ドイツへ来た香穂子の歓迎と、君たち二人の結婚祝いも兼ねてるんだ』
『婚約はしたけど、お式とか入籍はもうちょっと先なの。もう・・・嬉しいけど、気が早すぎです!』
『まぁ細かい事は気にしない、気にしない。一緒に暮らしてるんだから同じだろう? まぁこれも予行練習だと思って楽しんでくれよな。晴れて正式に夫婦になった暁には、この前の鏡の間を使ってドーンと盛大に祝うから』
『そうやって、蓮にも入れ知恵したんでしょう?』
「他の皆は気付かないと思うけど、日本語の分かる俺には隠せないぜ。香穂子がレンの事、この前まで蓮くんって呼んでたのに、いつのまにか蓮って呼んでたしな。知らないのなら親切に言うけどレンもカホコも、寄り添う空気が既に恋人を通り越して夫婦なんだよ」


突然日本語で切り返したのは、意味合いを正確に伝えたかったからなのか。
いや・・・それもあるが。にやりと悪戯に歪んだ口元が、二人だけの会話もしっかり俺には分かるんだぞという言葉を伝えてくる。名前一つで大きく変わったと思えないが、周りから見れば俺たちはそう見えるんだな。


真っ赤になって照れながら頬を膨らます香穂子に、目出度い事には変わりないだろうと。そう言って俺の時と同じように胸を張り自信たっぷりに告げるヴィルに、そうなのかな・・・と結局信じて丸め込まれてしまう。
だがありがたい心遣いに感謝している気持は、彼女も俺と同じなのだ。
小さく俯きもじもじと前に組んだ手を弄り出す香穂子に、見守る俺まで一緒に熱さが込み上げてくる。

嬉しさを隠せずにはにかんでいた香穂子が、何かを思い出したのか手の平をポンと叩く。
瞳を輝かせてパッと俺を振り仰ぎ、とっておきの秘密を伝えるように頬を紅潮させて身を乗り出してきた。


「ねぇ聞いて。私ね、さっそくお友達が出来たんだよ。さっき何人かと連絡先を交換したの。今度一緒にお茶をしようって、約束しちゃった」
「凄いじゃないか、良かったな。もし良ければ、俺たちの家にも招待したらどうだ?」
「え!?いいの? じゃぁ、蓮の言葉に甘えてお話してみようかな。子供の頃に親の仕事の都合で日本に住んだ事がある人や、日本の文化を勉強している女の子もいたんだよ。皆ピアノやヴァイオリンも弾けるから、いつか一緒に合奏できたらいいな〜」


ずっと手の中へ握っていた手帳の切れ端は、連絡先を記したメモだろうか。肩を寄せつつ捕まえた蝶を見せるようにそっと開いて披露すると、頬を綻ばせて大切な宝物を胸へ抱き締めた。恐らくドイツへ渡ってから始めて出来たであろう友人なだけに、心から嬉しい気持が伝わってくる。だがパーティーが始まってからのはしゃぎぶりや明るい笑顔が普段と違い、どことなく弾けすぎてぎこちない・・・危ういものを感じるのは何故だろう。

張り詰めすぎて切れる寸前の弦を知らせるように、心が警笛を鳴らし予感のような重いものが押し寄せる。
自分が辛くても俺や周りを第一に気遣う香穂子だから、無理をしていなければいいのだが・・・。


「香穂子、疲れていないか? あまり遅くならないうちに、早めに失礼しようと思うんだが・・・」
「大丈夫、疲れてないよ。まだまだ全然平気、蓮ってば突然どうしたの?」
「いや・・・ならいいんだ。別に・・・その、深い意味は無いんだ」


ホッと安堵に緩ませながら先に続ける言葉を飲み込んだ俺を、香穂子は不思議そうに首を傾けている。
しかし隠していたのに勘の鋭い彼女は見えない言葉を解したようで、しゅんと押し黙り、メモ用紙ごと両手を握り締め俯いてしまう。


「・・・ごめんね・・・・・・」
「香穂子、どうかしたのか? なぜ君が謝るんだ?」
「蓮と私のお祝い、私の歓迎・・・。でも本当は、ずっと元気が無かった私を励ます為だったんでしょう?」
「香穂子・・・」
「だってそうでしょう!? 私知ってたよ・・・賑やかなパーティーが一番苦手な蓮が、こっそりヴィルさんと企画を進めてたのを。それにね、誰もがみんな私に親切で、温かいんだもの。心配させたくないから黙ってたのに、それが余計に蓮を苦しめて心配ばかりさせてた・・・私・・・ごめんなさいっ・・・!」


髪がヴェールのように表情を隠すが唇は強く噛み締めて、耐える華奢で細い肩は小さく震えていた。
彼女が見せる表情一つで青空の高みから地の底へと、こうも突然俺の景色が変わってしまう。
言わなければ良かったのか・・・後悔に痛みを覚えるが既に遅く、抑えていた感情が関を切って溢れ出した。


「傷つけてしまったのなら、すまない。香穂子が謝る事は何一つも無い。むしろ謝らなくてはならないのは、君の辛さを救ってやれなかった俺の方だ。楽しんで欲しい、君の笑顔が見たいという願いは本物だから」
「蓮の力になりたい、温かい家をつくって守りたい・・・なのに助けてもらってばかりで、何も出来無い自分が悔しいの。早くドイツの生活に馴染まなきゃって思うのに、日本との違いや、知らない事の多さに戸惑ってばかり。やっと一緒にいられる・・・蓮に追いついたと思っても、あっという間に引き離されちゃう・・・それが怖かった」
「・・・俺は、香穂子がドイツの生活に馴染めず辛いなら、安心して暮らせる日本へ帰ってもいいと思ってる」
「・・・っ! だ、駄目だよ。大学は・・・プロとして演奏活動はどうするの!」
「四年間の区切りと必要な単位は全て修得している。何処を拠点にしても、ヴァイオリニストとして活動できる。香穂子が壊れてしまっては、俺が音楽を続ける意味がない。何よりも大切なのは、香穂子だから」


真っ直ぐ振り仰いで訴える瞳に優しく微笑んで語りかけながらも、心は悲鳴を上げるほど苦しさを訴えていた。
それは俺の痛みではなく、彼女が感じていた心の痛みが流れ込んだもの。
音楽の環境を考えれば一緒にこのままドイツで暮らせたらいいと思うし、君ならきっと乗り越えられると信じている。だが精一杯頑張っている者に、これ以上期待を背負わせるのは重荷にしかならないのを身をもって知っているから。やっと手に入れた幸せ、君を手放すなんて俺には出来ない。


「駄目っ、だめだよ・・・私のせいでそんな事しちゃ駄目! せっかく二人で頑張ってきた事が、無駄になっちゃうよ。蓮と一緒に私はドイツに残るの、ここで暮らすって決めたんだもの!」
「だが・・・・・・」


先へ続ける俺の言葉を遮り、聞きたくないと無言で訴える香穂子が、駄目だと何度も呟きながらぶんぶんと勢い良く首を横に振る。賑やかだった図書室はいつの間にか静まり返り、遠巻きに俺たちを見守っているのが分かった。悲しむ彼女を他の者の目に触れさせたくない、どうか落ち着いて欲しい。
高ぶった感情が止まらない彼女を宥め、胸に閉じ込めようと一歩を踏み出し、手を伸ばしたその時だった。

正面から歩み寄る俺と反対側、背後から近付いた人影が一足早く攫ってしまい、手の中に風がすり抜けた。
突然背後から抱き締められ、きゃっ!という香穂子の驚いた悲鳴が上がると、反射的に緊張で身体が固まったが、すぐに安堵という脱力感に襲われた。驚かせてすまんのう〜と穏やかな笑い声に聞き覚えがあり、肩越しに振り返った香穂子も途端に嬉しそうな笑顔を見せる。


『・・・っ学長先生!』
『カホコ、久しぶりじゃな。楽しいパーティーなのに、主役の君が悲しい顔をして、どうしたんだね?』
『久しぶりって・・・昨日レッスンでお会いしましたよ』
『おぉ、そうだったか。カホコに会えない一日は、とても寂しくて長く感じられるからのぅ』


うんうんとにこやかに頷きながら、大切な孫娘を慈しむように背後から抱き締めている白髪の老紳士。音楽大学の学長でもあり、数多くのヴァイオリニストをこれまで生み出してきただけでなく、自らも名を残したヴァイオリニスト。現役を退きもう弟子は取らないと言っていたが、香穂子を気に入ってヴァイオリン見て下さっている。
今では婦人と共に私生活でも良き相談相手になっているようで、彼女はドイツでの両親と慕っていた。


ビックリさせないで下さいと拗ねる香穂子は、すっかり毒気を抜かれたのか大人しさを取り戻していた。
奥様はご一緒じゃないんですねと周囲を見渡し残念そうにする耳元に、預かっていた伝言じゃと耳打ちする。
俺には聞こえなかったが感激で頬を綻ばせているのを見ると、きっと幸せな祝福の言葉だったのだろう。


『学長先生、そういう恥ずかしいセリフは、ここの新婚夫婦だけにしてもらいたんだけど。どうぜ俺たちをずっと見てたんだろう? だったら、もうちょっと空気読んで登場してくれたら嬉しいな』
『もちろん読んでおったとも。ワシが登場するのは、ここしかないと思ったんじゃが、違ったかの?』
『いつまでもカホコを抱き締めてると、エロじじいって目の前のレンが焼もちやくから、さっさと離れておくれよ』


それはお前さんのセリフじゃろう?と。背を引き剥がすヴィルへ不本意そうに顔をしかめる学長先生が、香穂子の頭をポンポンと撫でると渋々ながら離れていく。話を遮って悪かったなと何故か代りに謝り、ついでにいいかいとそう付け足して。二人を黙って見守っていたヴィルが月森を手で制止すると、そっと間に入って香穂の目線に合わせて屈みこんだ。


『カホコはドイツが嫌いになったのかい?』
『・・・大好きです』
『心に深い傷を残す、嫌な想いをしたのかい?』
『違います、ビックリしたり戸惑った事はあるけど・・・みんないい人たちばかり。ただ、知らない事が多すぎて動けなくて・・・どうしたらいいか自分でも分からなくなったんです』


優しい呼びかけにふるふると首を振り、言葉を選んで考えた後にしっかりと言葉を伝えた。
良かった・・・安心したよと安堵の溜息で囁いたのは、心の底からの言葉だったのだろう。
香穂子が再び落ち着きを取り戻し、視線を上げてくれるまで何も言わず、辛抱強くじっと見守ってくれている。


『もう一つ俺からの質問だ。ヴァイオリンは好きかい?』
『大好きです』
『じゃぁ大丈夫、心配はいらない。君は頑張れる、きっと上手くいくよ』


どうして大丈夫なのかと訝しがる彼女へ瞳を緩め優しく語りかけると、屈んでいた身体を起こし『・・・という事だから』とそう言って俺の肩をポンと叩く。肩にしっかり乗せられた手の平の重みと温もり、そして香穂子へと向けられた微笑みは、魔法の呪文のように心へとストンと染み込み静かな波紋を描き出した。

ヴィルは香穂子が高校からヴァイオリンを始めた事を知っている。俺からは話していないが、恐らく何かの際に本人から聞いたのだろう。彼が語りかけた言葉・・・それは俺が伝ようとした言葉。


「香穂子、初めてヴァイオリンに触れた時から今までを思い出してみてくれ? 音楽という新しい世界に踏み入れた自分と、ドイツでの新天地で生活を始めた君は同じだ。今はこうして、お互いが隣にいるじゃないか」
「ヴァイオリンと、ドイツの生活? あっ・・・!」


初めは音が出て楽しくて、でも楽しいだけじゃ駄目だと葛藤の中から気付いた君。
頑張らなくてはと必死に練習を重ね、最後には再び音楽を奏でる楽しさに気付き戻ってゆく。
知識や技術に乗せる感情が気持や言葉を伝え、君が描いた世界が広がる。
自分と音楽が一つになって切り離せないくらい、ヴァイオリンが好きになっていたじゃないか。

ここでの生活も、きっと同じ。スタートラインの時間などは関係ないんだ。
ありのままを素直に受け止め、どこまでも真っ直ぐで純粋な君は、余裕も無くただ必死に日々を過ごしていた俺に楽しむ事を教えてくれた。大きな翼で俺を飛び越え、導いてくれたように・・・。

君は君のままでいいんだ・・・そのままで。


大きく見開いた香穂子の瞳に、俺が映る。
届けた想いごと焼き付けて君の中に溶け込み、心ごと抱き締められたらいいのに。


『難しく考える事はない、思い通りにならなくて当たり前なんじゃ。この国・・・特にこのベルリンはドイツでも特殊でいろんな人が暮らしている。だからこそ、夢が形になる街なんじゃよ。何もかもが自分の思い通りになる、そんな生き方は詰まらんじゃろう』
『学長先生・・・』
『時には立ち止まる事も必要じゃ、自分の立っている場所を確かめる為に。迷った時、やる気が出ない時、そんな時だって必ず大きな意味がある。動けない時間も大切にしなさい』


時間と呼吸をも止める一瞬の沈黙に新たな流れを与えてくれたのは、側で見守っていた学長先生だった。
静かに歩み寄る靴音がコツンと響き渡り、俺と香穂子の真ん中辺りで立ち止まる。語る視線を香穂子へ注いでいても、向ける言葉は俺にも向かっているのだと分かった。


『何もする気が起きない時や上手くいかない時は、何もしなくて良いんじゃ。それは神様がくれた心の休日じゃから。“このままではいけない”なんて思わないで、ゆったり心を休ませて上げなさい』
『心の・・・休日? 立ち止まるための時間って事?』
『じゃがいつまでも止まっていては駄目じゃぞ。前に進む風は自分で作るもの、ただ待っているだけでは何も変わらんよ。風はここで起こすんじゃ・・・心でな。傷ついたり落ち込んだり、心配させたり不安になったり。心がいっぱい動くのは良い事じゃと思う。カホコの同じ心が、喜びや安らぎ、幸せを感じているのだからのう』


そう言って学長先生は自らの胸に押し当てた手の平を数度軽く叩き、心の場所を示した。
同じように手を当てて心の在り処を探し出す香穂子に、深い皺を寄せた奥で微笑みかけ、そうじゃと諭すように頷く。風は自分の心で起こすもの・・・脳裏で反芻しながら、見えない心の手で俺も胸に手を当てた。
君だけでなく俺も、心を動かし一緒に風を起こさなければ。

涙を堪え震える声を詰まらせながら、蓮・・・と小さな吐息に混じって俺を呼ぶ。
表情を隠すように俯きつつ手の平で目尻を拭い、鼻をすすると、落ち着く為に大きく深呼吸を一つした。
気合を入れるようにぐっと両手の拳を握り締めて振り仰ぎ、確かな意思と輝きを宿した光りが、迷う事無く真っ直ぐ俺を射抜く。


「私・・・焦ってばかりで、自分だけしか見えてなかった。見守って支えてくれる蓮やヴィルさんや学長先生たちのこと、ちっとも見てなかった・・・ごめんなさい」
「焦らなくていい、ゆっくり君のペースで。俺は香穂子がいたからここまでやってこれた、君がいてくれるからこそ今の俺がいるんだ。俺も力になりたい・・・足りない欠片は、二人で一緒に集めよう。香穂子、俺と一緒にドイツへ残ってくれるだろうか?」
「私頑張るよ、蓮と一緒にここにいる。側に居るみんなにも、感謝してる。たくさん心を動かして昨日より今日、今日より明日って、もっと素敵な自分になりたい」


俺の手を取りそっと胸に導くと、焦る俺を気にも留めず柔らかな膨らみへと押し付ける。
手の平に感じる温もりと、確かに脈打つ鼓動。周囲の視線を気にしつつ熱くなった頬を感じなら、慌てて引き戻する力を押しとどめるように、私の心・・・ちゃんと動いてるよね?と。
晴れやかな笑みを見せる香穂子に全てが引寄せられ、気付けば温かさごと腕の中に深く閉じ込めていた。


「風を感じる、香穂子の心が動いているのを。俺の心が激しく高鳴っているのも、感じるだろうか?」
「うん・・・私も感じるよ、蓮の心もちゃんと動いてる。蓮の風は温かくて、聞いていると優しい気持になれるの」


抱き締めた耳元に、想いを伝える熱い吐息で囁けば。背に縋りつく腕に力が籠り、腕の中の君も胸に額を擦りつけるように頷いた。振り仰いだ瞳から押さえ切れない透明な雫が一つ、また一つと零れて頬を伝う。



『光りの春・・・じゃな』
『光りの春? どういう意味でしょうか』


お互いにはっと我に返り慌てて身体を離せば、香穂子の頬は恥ずかしそうにほんのり赤く染まってる。俺の頬も火を吹きそうに熱いから、きっと同じように赤い顔をしているのだろう。我を忘れたとはいえ、先生や友人達の前だった事に気付き、今更ながら居た堪れない気持になってくる。

どうやらヴィルに通訳をしてもらっていた学長先生が、皺に隠れた目を細めて頬を綻ばせながら、納得したようにうんうんと頷いている。俺の質問にふと視線を向け、おや、レンは知らなかったかねと意外そうに驚いてみせる。今のカホコそのものじゃよと謎解きのように悪戯っぽく、そのうえ心躍る何かを見つけたように嬉しそうに。


『光りの春、これはロシアに伝わる言葉でな・・・っと。ワシよりヴィルに説明してもらった方が良いかのう?』
『どうして俺なんだよ。単に説明するのが面倒臭いだけなんじゃないのか?』
『レンやカホコだけでなく、キミにとっても大切で思い出のある言葉だと思うんじゃが・・・ちがったかの?』


じいさんには敵わないなと、溜息を吐きながら大げさに肩を竦めてみせたヴィルが数歩前に歩み出る。
俺と香穂子の正面に立ち、指先で頬を掻きながら懐かしそうに瞳を緩ませた。
くすぐったそうな笑みを見せ、星になった彼女がロシアにいた頃、春の足音を一つ一つ教えてくれたのだと。


『ロシアではまだ気温が低い春先、日脚が延びて空が明るくなった頃に、屋根の雪が水滴となって落ちる最初の一滴を“光りの春”というんだ。ささやかだけど、彼らにとっては大きな喜び。寒さが厳しい所ほど、春をきざす最初の歩みを気にかけて、敏感に感じ取ろうとするのさ』


香穂子の瞳から零れた涙を光りの春に例えた学長先生と、同じように春を望む想いを持つ友人・・・。
彼らの慈しみと優しさが、泣きたいくらいに嬉しく思えた。
春は鳥や虫の音色のように、向こうから話しかけてはくれない。人の心も、また同じ。
繊細な春の息吹を受け止めるには、豊かさと細やかな気配りが必要だから。


雪解けの一滴。それは寒さで凍った心を溶かした香穂子の涙から生まれた、輝く希望------。


香穂子の頬を包み指先で光りの春を拭うと、くすぐったそうに頬をすり寄せてくる。
輝きを取り戻し蘇った太陽は、手の平へ預けた心に溢れる愛しさを乗せて。

しかしこれで一件落着かと。そう思ったところでヴィルと視線が絡み、にやりと悪戯な光りが頬に浮かんだ。


『さぁ丸く収まったところでお二人さん。ここらで夫婦最初の共同作業・・・ってやつを,してもらおうか』
『夫婦最初の共同作業?』
『へっ? ひょっとして、私たち何かやらされるんですか?』


打ち合わせでは、そんな事は一言も聞いていなかった。
一体何を企んでいるのかと、眉を寄せて睨むが気に止めた様子もなくゆっくり歩み寄ってくる。周りを見渡し片手を挙げて何やら合図をすると、部屋を埋め尽くすパーティーの参加者達が心得たように動き始めた。