光りの春 〜another Eteruno〜 前編

サマータイムが終わり11月の声を聞くと、ドイツでは冬が訪れる。

鉛色のどんよりとした空が広がり晴れる日は滅多に無く、いつ雨や雪が降ってもおかしくない気候と日ごとに衰え現われない太陽。頬を切る風は冷たく研ぎ澄まされ、厳しい寒さは増すばかり。
昼間の短さと暗く厳しい寒さに人々の気は塞ぎこみ、底知れぬ憂鬱が支配する季節の始まりだ。


秋から新生活を始めた者が慌しかった生活に落ち着きを取り戻し、ホームシックにかかったり周りが見えるからこそ戸惑い悩み始めるのもちょうど同じ頃。春や夏ならばまだ救いようもあるが、何年もずっと暮らす人でさえ憂鬱になりがちな冬場は二重に苦しく、闇に捕らわれた者の末路は悲惨を極めるという。


俺も過去何度となくこの闇に捕らわれ、底知れない深遠に引きずり込まれそうになった。だがその度に側に居る友人や、遠く海を離れた香穂子の想いが温かな光りとなって俺を救い出してくれたんだ。
あの時に君や友たち・・・俺の大切な人たちがいなければ、今頃どうなっていた事かと思い返すだけでも背筋が凍る。


だが、これからは幾度冬が巡っても闇に捕らわれ、身も心も寒さに凍る事も無いだろう。
冬の中にも着実に春の兆しはあるのだと・・・冬の後には必ず春がやってくると君が教えてくれたから。
何よりも太陽のように暖かな香穂子自身が、いつでも俺の側にいてくれるから。


そして冬の憂鬱を薙ぎ払うように訪れるのがクリスマス。
暗さが増すほどその明るさを増すクリスマスマーケットが、凍てついた心を溶かし温めてくれるように。クリスマスという祭りに、人々は太陽の再生と来るべき春を見出そうとするのだ。

音楽大学の友人であるヴィルヘルムから、俺と香穂子宛てに一通の招待状が届いたのは、木枯らしが吹き冬への心構えと支度を整え始めたある日の事。クリスマスの準備が始まる11月末の日曜日・・・つまりアドヴェントの初日に、アドヴェントクランツの一本目のキャンドルへの点灯式を行なうという名目で、クリスマスを祝うパーティーを行なうというものだった。




まだ午後も早い時間だというのに気忙しく沈む太陽は西へ傾き、足元へ黒く長い影を落としている。
ベルリン郊外にある駅に降り立ち、駅前から乗り込んだタクシーで「フランツ家まで」と言うだけで到着した、見上げるほどの黒い堅牢な門。中央にある紋章の熊たちが、クリスマスらしく大きなリースを咥えていた。

貴族の城の名残らしく歴史を感じさせる広大な建物なのに、不思議と威圧感を感じさせない。
急勾配の三角屋根とダークブラウンの化粧柱が印象的な、英国チューダー様式と手入れのされた庭が温かさをもたらしているのだろう。門から建物まで続く道沿いに広がる緑や、車寄せ前にあるロータリーを兼ねた花壇にはクリスマスの装飾や電飾が施されており、見るものを楽しませてくれる。著名な庭師やフラワーコーディネーターに頼んでいるという空間は、街中のディスプレイよりも素晴らしく幻想的で一見の価値があると思う。
車寄せまで行くというタクシーをあえて門前で降りたのは、香穂子と一緒にこの景色を眺める為だった。


月森の手を握り締めてきょろきょろと周りを見渡す香穂子は、花や植栽を彩った電飾の一つ一つに目を向け、綺麗だねと頬を綻ばせながら眺めている。日が暮れて吐く息の白さが色濃くなっても不思議と寒さを感じないのは、繋いだ手から感じる温もりが包んでくれるからなのか・・・それとも互いに注ぎあう微笑なのか。時を忘れて暫し立ち止まり、青と白に彩られた電飾の海を眺めていた香穂子がふと我に返ると小さく肩を竦めてくる。


「あっ・・・! 急いでいるのに、ごめんね。目の前まで来てるのに、ゆっくりしてたら約束の時間に間に合わなくなっちゃうね。綺麗だからつい見とれちゃったの」
「時間はまだあるから大丈夫、ゆっくり眺めるといい。俺ももう少し、君と一緒にこの景色を眺めていたいから」


優しく瞳を緩めて寄り添う香穂子へそう言うと、じゃぁのんびり歩きながらにしようよと繋いだ手を抜け出し。
解き軽い衝撃と共に飛びつき、抱き締めるように腕を絡めてきた。
マフラーに埋もれた愛らしい笑顔がちょこんと振り仰いで、君の吐息が冷えた俺の頬を温めてくれる。


門から車寄せまで続く石畳の小道の脇や冬枯れの芝生には、先日降ったばかりの雪が溶けずに残り、ライトアップの光りを反射している。コツコツと二人分響く二人分の足音も雪の白さに吸い込まれてゆくようで、踏みしめたくてウズウズしている香穂子が、温かいお布団みたいにフカフカだねと無邪気にはしゃいでいた。


「ねぇ、今日はヴィルさんが主催のクリスマスパーティーなんでしょう? アドヴェントクランツのキャンドル点火って、わざわざパーティーのセレモニーにするほど大切なの?」
「ドイツではキャンドルが生活に深く根付いている。キャンドルの灯火は単なる明かりではなく心を照らす精神的な燈なのではと、俺は暮らし始めてそう思った。暗闇の中で揺らめく燈は荘厳で、落ち着くだろう? じっと見つめていると、火影に想いや願いを託しなくならないか?」
「う〜ん、言われてみるとそうかも・・・。まだまだ知らない事ばかりだけど、奥が深いんだね」


丸いリースに四本の太くて短いキャンドルが立ててあり、一本目はクリスマス四回前の日曜であるアドヴェント初日に点火され、日曜が巡るごとに灯火が増えていく。家庭でもごく普通に灯されており、中には手作りをする家もあるが、俺と香穂子は二人で選んだものを花屋で買い求めた。ここに来る前にさっそく灯したばかりのアドヴェントクランツのキャンドルを、思い出したのだろう。

人差し指を唇に当ててう〜んと唸りながらも自分なりに納得したようで、それ以上は深く追求してこなかった。
その事に安堵して、香穂子に気付かれないようにホッと胸を撫で下ろしたのは秘密だけれど。


「ヴィルさんのでパーティーに、蓮と二人でお呼ばれするのは久しぶりだね。私が初めて蓮のいるドイツへ遊びに行った時以来だよ。あの時も確か今と同じクリスマスだった・・・懐かしいな〜」
「あれから何年経っただろうか、という程そう昔でも無いんだが。ヴィルのお兄さんの結婚披露パーティーで、香穂子と一緒にヴァイオリンを弾いたんだったな」
「パーティーの最後、一番クライマックスの新郎新婦の二人が踊るワルツで二重奏をしたんだよね。温かくて幸せで、楽しかった・・・うぅん、嬉しかったの。私ね、もう一度やりたいな。蓮と一緒のステージで演奏したい。でもね、皆の前で踊れたらもっと幸せだろうなって思ったの」


懐かしく思い出しているのかうっとりと瞳を緩めながら、甘えるように俺の腕へと擦り寄ってくる。
どちらも、いつか必ず実現しよう------耳元でそう言って髪を絡めるように愛撫をすれば、約束だよと。
くすぐったさを堪える小さな笑い声が絡めた腕から伝わった。


君が見せてくれるひと時の笑顔に、こんなにも心が安らぐ・・・。


クリスマスパーティーもアドヴェントクランツのキャンドル点灯も、集まろうと呼びかけるきっかけの一つでしか無いんだ。本当の理由は別にある、会場に入ったその時まで香穂子には内緒だか。

ヴィル本人がしたためた俺と香穂子の招待状の宛名を見て、彼女は気付いただろうか。
一通の招待状に連署された名前が密かなトラップ・・・そしてこのパーティーの意味である大きなヒント。
気が早いなと小さな笑いを漏らしつつ、言葉には出さないが心には込み上げる嬉しさと、ヴィルへの感謝が溢れている。香穂子に知らせたらきっと喜ぶだろうから、真相を告げたくてうずうずしているんだ。

絡められた腕を引寄せて互いに温もりを感じあいながら、どうか彼女へ伝わるように・・・・。太陽の再生を願うクリスマスの祭りに、どうかこの手にある俺の太陽にも本当の輝きが戻るようにと願わずにいられなかった。




玄関で招待状を渡しコートと荷物を預けると、案内されたのはパーティーが行なわれる図書室。
指定された時間よりも早く付いたはずだが、溢れる人の多さと閉められた部屋の扉から察するに、どうやら俺たちは一番最後らしい。

ヴィルが声をかけて集まったのは、同じ音楽大学に学ぶヴァイオリン科の馴染みの面々。卒業後にオーケストラへ入ったりと音楽の道に進んだ者、教職に就いた者や祖国へ帰った者などもいるが、大半は変わらず上構課程のマイスタークラスで学んでいた。数ヶ月ぶりに集まった同窓会の雰囲気にも似ていて、おのおのが同伴者を連れて賑わいを見せている。気軽な服装でと招待状にあったように、俺はスーツで、香穂子は丈が短めのワンピースに膝丈のブーツ。誰もがドレスやタキシードではなく、普段よりお洒落をした装いだった。


通された部屋は書斎というよりもサロンに近く、大広間と変わらない広さを感じさせた。明るい木目のフローリングに高い天井まで続くクリーム色の優しい壁。一万冊はあると言われるフランツ家自慢の蔵書たちが頭くらいの本棚に収まり、壁沿いを囲むように埋め尽くしている。蓮は本が読みたいんでしょう?と悪戯っぽく見上げた香穂子にはしっかり心を読まれていたようで、パーティーよりも珍しい本の数々に夢中になりそうだ。

部屋の窓辺にはグランドピアノも置かれており、広く開けられた中央にのスペースに鎮座する、金色のキャンドルも眩しい大きなアドヴェントクランツがクリスマスの雰囲気を醸し出している。


緊張に固まり繋いだ手にきゅっと力が籠る香穂子へ、大丈夫だからと優しく微笑みを向け、安心してもらうように手を重ねた。しなやかな左手の薬指にはめられた指輪ごと、託した想いと温かさで包み込むように。
一つ深呼吸をして幾分か落ち着きを取り戻したのか、柔らかさが戻ったのを見計らい、彼女の手を取り彼らの中に誘う。すると俺と香穂子に気付いた仲間達に瞬く間に周りを囲まれ、「おめでとう!」という祝福の言葉と共に温かい拍手が降り注いだ。光りと花びらのシャワーのように。

驚きと戸惑いを隠せない香穂子は、俺の腕を軽く揺さぶると背伸びをして、心配そうに小声で囁いた。


「ねぇ、どうして皆が私たちにおめでとうっていうの? クリスマスの挨拶だから?」
「これは、ただのクリスマスパーティーじゃない。ドイツで暮らし始めた香穂子の歓迎と、俺たちの婚約祝いも兼ねているんだそうだ。どちらかといえばクリスマスはおまけで、今日の主役は香穂子・・・君だよ」
「えっ・・・わ、私!?」
「いろいろと忙しく、挨拶とお披露目が遅くなってしまったが。君がドイツの暮らしに慣れて落ち着いた頃を考えていたんだ。ヴィルがクリスマスのパーティーをやると言い出したから、調度良い機会だと乗らせてもらった」
「蓮・・・・・・」


そう・・・知らされていなかったのは、主役である香穂子だけ。

香穂子は驚きに目を見開いて月森を振り仰ぎ、言葉を詰まらせ優しく注がれる琥珀の瞳をじっと見つめる。
繋いだ手を解いて静かに一歩前へ進み、状況を整理しようと一生懸命ながらもゆっくり周りを見渡し、全ての人から向けられる温かい祝福と歓迎に驚きつつも、嬉しさを隠せないでいた。
胸の前に組んだ手を抱き締めるように小さく俯き僅かに震えていたが、きらりと光る目元を人差し指で拭うと、綻んだ満開の笑顔が優しい春の風となって見守る人々の心へと運ぶ。

心を吹き抜ける温かい風が、香穂子と同じく感慨に胸を詰まらせる月森の脳裏に、鮮やかな記憶を蘇らせた。



大学生の身でありながら留学中のドイツでヴァイオリニストとしての地位を得た俺は、香穂子の大学卒業をの日を待ってプロポーズをした。今なら一人でも君を守り養える・・・これ以上は離れたくない、結婚しようと。
潤んだ瞳で微笑み、真っ直ぐ俺を見つめながら受諾の返事をしてくれた香穂子を抱き締め、左手の薬指に指輪をはめ・・・。綻び始めた春の日に、俺たちの長かった冬もこうして春を迎えて終わりを告げた。

あの日に感じた想いと出来事は、熱い記憶となって俺のこの胸に染み込んでいる。


それからは互いの家に挨拶に行ったり、香穂子は渡欧や移住の準備に追われ、俺も香穂子も日本とドイツを行ったり来たりと数ヶ月間が慌しく過ぎ去った。迎えに行った俺と共に今度は二人でドイツへ渡ったのは、彼女の卒業式にプロポーズをしてから半年後。俺が四年間の学生生活に一区切りをうち、秋の風が漂い始めた9月の事だった。

籍を入れて正式な夫婦になるには、俺が卒業後のマイスタークラスを終えて正式に卒業してから。
もう少し先になってしまうが、婚約中とはいえ日本を離れて共に暮らすのだ。
互いに歩む生活や結びつく心は、既に夫婦といっても良いだろう。


やっと俺たちは、ここまでこれた・・・。
辛かった日々を思い出して見れは分かる、永遠に続く悲しみなんて無い事を。
振り返れば大きな悲しみや離れ離れの寂しさの後には、必ず大切は君という喜びがいた。

深い悲しみの日々の中で見つけた心の中の宝物は、ダイヤや金貨よりも尊い一生の宝物なんだ。


ゆっくりと香穂子に歩み寄ると、華奢な細い肩をそっと抱き包んだ。指先に込める力と交わる瞳で言葉を交わし、注がれる周囲の視線を一身に浴びながら大切なパートナーを皆の前で披露する。
淀みない真っ直ぐな言葉と溢れる自信を持って、香穂子にも仲間達にもずっと伝えたかった一言を・・・。


『俺の妻の・・・香穂子です』


そう言った直後にきょとんと首を傾げた香穂子の顔が、瞬く間に茹でだこのように真っ赤に染まる。
ちょっと蓮ってば〜と慌てて俺の腕に縋り、激しく揺さぶるのも予想通りで。
何か間違った事を言ったかと悪戯っぽく言えば、その通りだけどでも・・・とごにょごにょと口篭ってしまう。


「えっ、妻って奥さんって・・・え〜っ!? 蓮ってば確かにそうだけど、まだ籍入れてないから気が早いよ〜」
「招待状にも、ちゃんとそう書いてあったろう? 」
「招待状・・・? あっ! そういえば前は別々に来てたのに、一通のカードに名前が連署してあったよ。しかも私の名前、カホコ・ツキモリって。絶対にヴィルさんの早とちりだと思ってたのに、蓮も一緒にグルだったんだ」
「早いか遅いかの問題だけで、君が俺の妻である事には代わりは無い。それに・・・その、俺の都合で待ってもらっているが、気持はもう夫婦だから」


私に秘密でいろんな事してたんだね!と頬を脹らませたものの、熱さに耐えられずフイと顔を逸らす俺に、ふわりと微笑んで隣に寄り添う。ありがとう・・・俺だけに聞こえる風に乗って、甘い囁きが耳に届いた。



おめでとうと声をかける仲間たちへ香穂子を伴い、挨拶をしてゆく。彼女にとって以前会った事があるも懐かしい再会の者が殆どだが、彼らの連れなどは俺も初めて顔を合わすから緊張は俺も同じ。初めは緊張していた香穂子も親しく声を掛ける仲間達に打ち解けたのか、まだ慣れないドイツ語を駆使して身振り手振りの挨拶を交わしていた。真っ赤になりながら、『月森蓮の妻の、香穂子です』とドイツ語で自己紹介するのも忘れずに。

しかし隣で聞いている自分の方がくすぐったくて照れ臭いものだと改めて気付き、彼女が自信をもってそう言い出す頃には逆に俺が口元を抑え顔を逸らしつつ「もう・・・いいから・・・」と止める始末。蓮がそう言ったのにとむくれ出すのを宥めながら、互いに交わすそんな些細なやり取りさえも、今は幸せで嬉しくて仕方が無い。


やがて香穂子は連れである女性たちへ誘われて話の輪に加わると、楽しそうに笑い声を漏らしながら会話を始めた。少し離れた所から見守っている俺にレン・・・と声を掛けられたのは、知らず知らずのうちに緩んでいた頬を引き締めようとした、ちょうどその時だった。いつもいつも、この男はタイミングが良いのか悪いのか。

眉を潜めて肩越しに振り返れば、すぐ真後ろで人懐こい笑みを見せ、両手に一つずつ飲み物のグラスを掲げ持つヴィルヘルムだった。タイはせずに襟を寛げたシャツの上に羽織ったシックな色合いのブレザーが、クセのあるブロンドの髪の毛やブルーグリーンの瞳を引き立てている。首からアクセサリーのようにぶら下げているコンパクトなデジカメは、イベントのたびに見かけるから彼の必需品なのだろう。

グラスの中には、小さな気泡が浮き上がる琥珀色の液体。
中身が同じ二つのグラスのうち、差し出された一つのシャンパンを受け取った。


『レン、花を眺めながら何を想ってニマニマしてるんだい?』
『ヴィル・・・いつからそこにいたんだ』
『えっと〜最初から君たちの真後ろにいたんだけど、気が付かなかったみたいだね。レンはカホコしか目に入ってなかったみたいだし』
『・・・挨拶が遅れてすまなかった。香穂子は今、女性陣に誘われて話しに夢中のようだ。忙しいところをすまないが、少し待っていてくれないか?』
『俺は構わないから、ゆくっり楽しむといい』


聞こえてくる会話は互いの自己紹介から始まり、日本についての質問、日本とドイツのクリスマスの過ごし方の違いなど。若い女性の集まりともなれば自然と話しの流れは恋人へのクリスマスプレゼントだったり、欲しいプレゼントだったり・・・こういうのは何処の国でも変わらないらしい。


視界に香穂子の姿を捕らえながらヴィルと二人で他愛も無い話をしていると、一斉に彼女達の視線が俺に集まった。何事かと緊張が走って目を見開けば、香穂子は真っ赤になって照れている・・・一体何を話していたのか。すぐに話しに戻った女性たちの中心にいた香穂子は、身を乗り出しくいつく女性たちへ、恥ずかしそうに照れながら左手の甲を顔の前に掲げている。なるほど・・・そうか、指輪を見せていたのか。

ホッと安堵をしたものの、何故か俺まで照れ臭さが込み上げて居た堪れなくなってしまい、顔を背けてグラスの中身を口に含んだ。しかし照れ隠しに飲んだ甘くほろ苦いシャンパンの香りが、余計に熱さを増してゆく。
飲みかけのグラスを回して弄びながら、目を細めて視界に映る香穂子を見つめたまま、隣へ黙って佇む友人へと語りかけた。


『香穂子が楽しそうにはしゃいだり、笑うのを久しぶりに見た。・・・ありがとう』
『カホコ、元気そうじゃないか・・・でも、久しぶりなのか? レンと一緒の時は、いつも楽しそうに見えるけどな』
『俺以外の誰かと話せる機会が滅多に無かったから、きっとはしゃいでいるんだろう。家で一人ポツンといるよりも、彼女には賑やかな場所が似合う。光りを掴んで一歩を踏み出して欲しいと、願っている』
『ホームシックかぁ・・・。俺はこの国から離れて生活した事が無いから、お前たちの気持が分かってやれないかも知れない。だけどこれだけは思う、この国を・・・ドイツを嫌いにならないで欲しい。嫌な所もあるだろうけど、いい所だってたくさんあるんだぜ』
『俺も君たちに何度も助けれられた・・・だから今ここにいるんだ。ずっと見守ってくれていた香穂子も知っているから、彼女なりに一生懸命自分の中で戦っているんだ。こればかりは、彼女自身を信じるしかない』
『レンも、辛いな・・・・・・。大切な人が側にいればって言っても、実際には一言で片付けられない現実がある』


俺の所へ来て共に新しい生活を始めてから数ヶ月、初めは何もかもが珍しく、楽しそうにはしゃいでいた。
しかし生活に落ち着きを取り戻すと、忙しさに紛れて見えなかったいろいろな面が見えてくるようになる。
冬の足音が大きくなるに連れて、香穂子の元気や笑顔が弱まっていったと気付いたのはつい最近。

俺の前では決して弱音を吐かないけれど、ホームシックにかかっているのだと直ぐに分かった。
どんなに隠しても音色は正直で、奏でるヴァイオリンの音色もどこか元気がなく・・・それでも一生懸命笑おうとしている健気さが伝わってきたから。


表に現われるまで気付いてやれなかった自分の迂闊さを、どれだけ責めて恥じただろう。
だがこうしている間にも、決して弱音を吐こうとしない彼女は一人悩んでいる、俺まで立ち止まっている場合ではないんだ。手遅れでなければいいのだが・・・。



香穂子は初めて俺のいるドイツへ来た時から温かく整った環境に迎えられ、出会う人々にも恵まれた。
だが旅行で訪れるのと実際に暮らすのとでは訳が違う、外に吹く冷たい風を身をもって知る事になる。
外国人としての自分・・・愛想の無いドイツ人に戸惑ったり・・・文化や習慣の違い、言葉の壁。

まだ俺という日本語を話せる相手がいるのが救いだが。来たばかりで近所にもそれ程親しい交流が多くない香穂子は、俺との散策や買い物の他は、自然と家に籠りがちになってしまったのだ。学長先生の奥様やヴィルのお義姉さんなど力になってくれる人はいるが、そう足しげく毎日通えるものではない。

初めて異国の地で一人生活を始めた頃の自分を思い出すと、香穂子の気持が痛いほど分かる・・・。


気分転換に外出しても俺の腕を片時も離さずしっかりとしがみ付き、暫く経つと「お家に帰ろう?」と切なそうに見上げて呟いてしまう。香穂子のいう“家”というのは、もちろん俺と暮らすドイツの家だと分かっているが。
時々それが「日本に」という言葉に聞こえてならないのは、彼女の心の叫びなのか、俺の考えすぎなのか。


ぎゅっと縋りつく腕に込められた力と、隙間風が吹きぬけるような心を揺さぶる響き。
そうだな・・・家へ帰ろう、抱き締め返す腕と語る声はどこまでも温かく優しく。眉を潜めて苦しさに耐えながら、何とかしてやりたい・・・香穂子に心からの笑顔を取り戻してやりたいと、心では強く願う。


時が解決してくれるかと思えば、ただ流れるだけで何もしてはくれない。
笑顔の下で俺に気付かれないようにと悩み苦しむ彼女の為に、何も出来ないでいる自分自身が悔しかった。
香穂子を守る・・・幸せにする・・・そう誓ってドイツへ連れてきたというのに。

どうして一人の力は・・・俺の力は、大切な人を救えない程こんなにも弱く脆いのだろう。
戒めるように空いている方の拳をポケットの中で、痛いほど強く握り締めた。



俺が苦しんでいた時、闇の中から君が助けてくれたように。今度は俺が君を助ける番だから。