光に向かって・9




学長先生の家に住み込む学生たちが、音楽について語り共に奏でたり、それぞれが自由に寛ぎ交流する為の談話室がある。この部屋の壁を埋め尽くすのは音楽関係の本や楽譜、レコードやCD、そしてコンサートのDVDなど・・・。音楽を学ぶ学生達の為に開放された、学長先生が長年集た貴重なコレクションもある談話室は、読書や調べ物にも最適だ。

暖炉の前にあるソファーで、お茶を片手に貴重な書物や音源を自由に閲覧できるだけでも、住み込む甲斐があると思う。
ここが一番居心地良いと気に入っていた香穂子は、大きな窓辺に譜面台を置き、瞳を閉じて心地良さそうにヴァイオリンを奏でていたな。一つ一つがまるで生きているような鼓動を持ち、静かに語りかけてくるようだと思うのは、音楽を学び語り合った、多くの学生たちや音楽家の歴史を見てきたからなのだろう。


暖炉の前にあるテーブルに楽譜を広げ、所狭しと埋め尽くされた音楽関係の本は、ドイツ語の他に日本語のものも数冊積み重ねられている。辞書を片手に本を読みふける香穂子は、取り組む曲について調べている真っ最中のようだな。香穂子の傍らに立ち、テーブルに置こうかと視線を巡らせたが、彼女の本や楽譜が多く置き場所がない。万が一汚れたら困るな・・・そうだ、では少し離れた窓辺にしようか。

深い木目の小さなテーブルに持ってきた木目のトレイを置き、マグカップに注がれたカフェオレと、焼き立てマフィンの白い皿を配置して、彼女のためのお茶を整えよう。ここなら庭の景色や緑も見えるし、気分転換にもなりそうだ。


「香穂子、少し休憩にしないか? 学長先生の奥様から、淹れたてのカフェオレと焼き立てマフィンを託されたんだ」
「ありがとう、蓮くん。じゃぁちょっと、気分転換しようかな。ふふっ、そういえば前にも同じような事があったよね」
「この間は香穂子が、この談話室で本を読む俺を、お茶を持って訪ねてくれてたんだったな・・・あの時は嬉しかった。婦人に頼まれたというのもあるが、香穂子に会いたかった。君がひといき付けるように、今度は俺が何かしたかったんだ」


お茶の用意が出来たことを伝えると、読んでいた本から顔を上げた香穂子が立ち上がり、今行くねと心弾む笑顔を返してくれる。真上に伸ばした両腕で背伸びをすると、気持ち良さそうな開放感が風となり、足取り軽く窓辺へ駆け寄ってきた。温かな湯気を登らせたマグカップには、たっぷり注がれたミルクの優しさ。白い皿には焼き立てのマフィンが甘い香りを放ち、窓辺の小さなテーブルに漂う空気を胸いっぱいに吸い込めば、良い香りだねと幸せそうに頬を綻ばす。

お腹空いてたから凄く嬉しいと、少し照れた顔で勧めた椅子に腰を下ろす香穂子へ、小脇に抱えていた本を差し出した。


「先日、この本を探していただろう? 俺が持っていた本なんだが、もし良ければ君も読んで欲しい。参考になるはずだ」
「ありがとう蓮くん! やっぱり日本語で書かれている方が、読むのも理解も早いし助かるよ」
「そうか、良かった。俺はもう読み終わっているから、返すのはいつでも構わないから。じゃぁ俺は、これで失礼する・・・」
「え!? ちょっと待って、蓮くんもう行っちゃうの? もう少し一緒にいようよ、駄目かな。あ、でもお茶は私の分しか無いんだよね・・・どうしよう」


名残惜しさを感じる心を叱咤しながら踵を返し、立ち去ろうとした一歩がそれ以上動かなかったのは、背後でシャツの裾をしっかり掴む香穂子が「行かないで・・・」と引き止めていたからだ。j邪魔をしては悪いと思ったからすぐに立ち去ろうと思っていたが、本当は俺も共に過ごしたい想いは同じなんだ。君さえ良ければ、少しの間ここにいても良いだろうか?

きゅっと握り締めたまま、うん!と嬉しそうに頷く香穂子の笑顔が、甘酸っぱい疼きとなって心を締め付ける。待ち遠しさにソワソワする香穂子の向かい側へ座ると、自然と笑顔が浮かび頬が緩む自分に気付いた。俺は一足先に学長先生たちとお茶を飲んだが、君と過ごす時間こそが心が求める休息なのかも知れない。


持ったマグカップを口持ちへ寄せ、熱いカフェオレを冷まそうと、すぼめた唇からふぅっと吐息を吹きかけ続けている。手元に俺のマグカップは無いので特にすることもなく、だからこそ飲む前から美味しそうに瞳を輝かせ、くるくる楽しそうに動く表情から目を離すことが出来ない。

俺の視線を受け止めている事に気付いた香穂子がふと動きを止め、見る間に頬が赤く染まる。カップをテーブルに置き、顔に何か付いてるかと恥ずかしそうに訪ねられて、俺も初めて我に返る始末。照れるほどそんなにもじっと見つめていただろうか・・・と、逆に俺の方が気恥ずかしくなり顔へ熱さが込み上げてしまった。

熱さに耐えられなくなるのはいつも俺の方で、ふいと視線を逸らした先は、先程まで彼女が熱心に本を読んでいた暖炉前のソファー。窓辺の明るさに慣れた目は、室内の景色を再び捕らえるまで僅かの時間がかかり、白い光だけが映る視界が少しずつ焦点を結んでゆく。

カフェオレを冷ます香穂子の少し早い吐息だけが甘く疼く沈黙の中で響き、言葉の代わりに鼓動を高鳴らせてくれるんだ。何か語らないと・・・沈黙と熱さ耐えきれず、君への想いが溢れてしまいそうになる。だが二人同時に身を乗り出し、何かを言いかけ近い距離で眼差しが交われば、再び顔を染めてしまうんだ。


「・・・テーブルにあった譜面は、ベートーベンのヴァイオリンソナタだな。ソナタでも中期の頃の曲だ、俺も以前演奏したことがある」
「さすが蓮くん、譜面見ただけで分かるんだね。実はコンクール一次予選の課題曲なの。演奏する曲のことを調べていたんだよ」
「曲を演奏する上で、ヴァイオリンは氷山の一角だ。まず曲の背景、経緯や歴史があり、アナリーゼがあって初めて演奏できる。そういった土台があってこそ、難しいパッセージを弾きこなす練習や弓の使い方、旋律のフレージングやハーモニーのバランスを整える、技術練習が大きな意味を持ってくるんだ」
「学長先生にも、レッスンで同じ事を言われたよ。演奏する曲をもっと知らなくちゃ駄目だって、この曲が大好きになるように愛しなさいって・・・」
「それでここ最近、ずっと談話室や部屋に籠もることが多かったのか」
「うん・・・」


少しだけ疲れた表情を浮かべたが、俺がじっと見つめている事に気付き、心配しないで?と憂いを隠すようにいつもの元気さを取り戻した。光を灯した瞳で読んだ本の感想を語る香穂子に、俺もその本を以前読んだと意見を語合う。新たな解釈に新鮮さを覚えれば、カフェオレと焼き立てマフィンがあるのも忘れた香穂子は、テーブルに戻り本や楽譜を持ち出し互いに話も弾む。

そうしてひとしきり話し終えた香穂子が、すっかり覚めてしまったカフェオレを飲み、落ち着いたところでマフィンを一口食べ終わるのを少し待っていよう。美味しいねと幸せな笑顔を取り戻し、コクンと飲み下したのを見届けてから、真っ直ぐ彼女の瞳を見つめ真摯に想いを届けた。

音楽は、音を出す時間より、それ以前の作業が長く感じる。生み出す力を多く費やすからだ。時間をかけ深く音楽を知ることで、自分自身が素晴らしいと思える曲になる。真摯な気持で譜面に臨まなくては、演奏する曲の素晴らしさを聴衆に伝えることが出来ない。大切に思えなくては、良い練習も出来ない・・・学長先生はそう仰りたかったのだろう。


「背景を知らなくては曲のドラマを音で演出することも出来ないってことだよね。彼がこの曲でどんな事を言いたかったのか、どんな想いが込められているか。テンポや曲調にも理由があると思うし、曲を作ったときどんな状況だったんだろうなって・・・考えたり調べていたの」
「一人の音楽家の人生を、何日かの勉強で分かろうとするのは傲慢かも知れない。だが少しでも作曲者の心に触れないと、全身全霊の力も演奏に現れない。ベートーベンは特に悲しみや暗闇を感じ取らなければ、あの美しい憧れに満ちた旋律は弾きこなせないだろう。俺も以前、先生に言われたことがある」
「自分の中で作った曲のイメージに確信が持てるまで、心と身体に染み込むまで。何度でも譜面を読んだり、曲に関する本を読まなくちゃ駄目なのに、まだまだ足りなかったみたい。ヴァイオリン弾きたい気持ばかりが焦ってたのかな」
「音楽に正解はない、譜面は一つだが奏者の数だけ音楽がある。だから作曲されてから数百年経っても、多くの人に愛されていると俺は思う。例え他人がどう言おうとも、絶対に素晴らしいと誇れる曲こそが自分にとっての正解だ」
「蓮くん・・・!」


練習に費やした時間に比べると演奏はあっという間に終わってしまう。それでも音楽を続けるのか、君に尋ねても良いだろうか。俺は、理想とする音楽が奏でられたら充実度も増すからだ。そして次もより良い音楽を奏でるために、試行錯誤を繰り返す・・・。

香穂子の試行錯誤は、君が自分に課したハードルの高さの証。彼女が自分の力で挑まなくてはいけない壁だが、きっと乗り越えて行けると信じている。どんな時にもくじけない強さと前向きさ、そして音楽を愛する想いで。奏でる曲には演奏家の姿勢や考え方が素直に反映されるから、いずれ音楽となって現れるだろう。

音楽は時に孤独だが、自分一人ではないと感じたとき幸せに変わるのだと、忘れないで欲しい。まだ星奏学院に通っていたと冬に君へ話した事を覚えているだろうか。音楽を愛しなさい・・・と、俺も同じ事を学長先生に言われたんだ。これは音楽を創る過程だけではなく、俺たちが歩む道にも当てはまると君も思わないか。


驚きに目を見開いた香穂子が、ふわりと微笑みを浮かべ、蓮くんありがとう・・・そう心へ響く音色のような想いを届けてくれた。