光に向かって・8



『ここでこう、俺のボーンが動いて、学長先生のルークをもらう・・・と』
『おいこら、ヴィル。そこは無しじゃ、ちょっと待たんかい! う〜む、ならばビショップはこう動くしかないかのう・・』
『ふふっ、待った無しって何度も言ってるだろう? でも、どう出ても無駄だよ。ここで更にルークが動いて・・・ほら、追い詰められたらチェックメイト、学長先生のキングは頂き!』
『くぅ〜っ、またか。これで三連敗じゃ・・・』


金のドアノブが付いた応接室の白いドアを数度ノックしても返事はなく、ドアの前で立ちすくむ香穂子は、暫く考えた末にドアノブへ手をかけた。失礼しまーすと控えめに囁きながら、そっと開いたドアの隙間へ屈めた身体をすべり込ませれば、聞こえてくるのは学長先生とヴィルヘルムの賑やかな話し声。


「失礼しま〜す・・・あれ? 蓮くんここにもいないよ。どこに行ったのかなぁ」


ドアと同じ色彩で統一された白い木枠の格子から、溢れる光の眩しさに視界が一瞬白さに包まれて。閉じてしまった瞼を少しずつゆっくり開き、きょろきょろと部屋を見渡すがどうやらここにも月森はいないらしい。小さく溜息をついた香穂子だが、ぱっとひらめき笑顔を浮かべると、フローリングの床に敷かれた赤い絨毯を音もなく踏みしめ、深い褐色のアンティークテーブルへと軽やかに歩み寄ってゆく。

正面のテーブルを挟んで座る二人が、チェス盤を挟み向かい合い、チェスを楽しむ昼下がり。だがゲームに夢中なのか、ヴィルヘルムも学長先生も背後に立つ自分に気づかない。何度やっても同じだと肩を竦めるヴィルヘルムは、奪い取ったキングとクイーンを両手に摘んでちらつかせる・・・。その余裕に闘志が沸き立ち、駒をチェス盤に並べながら、もう一度勝負だと意気込む学長だが、勝負の行方は見るにも明らかだ。


話を中断させて申し訳ないけれど、キリの良いタイミングを見計らって声をかけよう。ふわりと緩む微笑みのまま、会話を追ってきょろきょろと交互に二人を見ていた香穂子が、あの・・・と声をかけて一歩を踏み出しかるちょうどその時。勘弁してくれと、小さく溜息をつきながら窓辺をふり仰ぐヴィルヘルムが、ガラスに映る香穂子に気が付いた。

ガラス窓越しに「やぁ!」と笑顔で挨拶をすれば、チェス盤と睨めっこをする学長先生も顔を上げて視線を移し、肩越しに振り返る。チェスの勝負に燃えていた勢いの色をは一瞬で柔らかなものに変わり、香穂子を見つけた瞳はたちまち目元の深い皺に隠れてしまう。


『カホコもチェスをやりに来たのかね。どうじゃ、ワシの代わりにヴィルを負かしてくれんか』
『ごめんなさい学長先生、私・・・チェスのやり方を知らないんです。キングにクイーンとか、駒の名前は少し分かるんですけど』
『じゃぁ今度俺が教えてあげるよ、練習の合間の息抜きにね』
『うわ! ありがとうございます。あ、でも難しそうだから余計に頭を使いそう』
『そうだ、久しぶりにレンと勝負しようかな。この間負けたから次は絶対負けないぞー』
『蓮くんは強いんですか? チェスをやってるところ、見たことないんです』
『勝負は勝ったり負けたり引き分けだな、お互い良いライバルってとこ。学長先生が弱すぎるんだよ・・・』


癖のあるブロンドの髪を掻き上げながら、ぷぅと唇を尖らせるヴィルヘルムに学長も頬を膨らませて。似たような二人の姿に、ついくすくすと笑いが零れてしまう香穂子の笑顔が窓辺の二人にも伝わり、見えない会話のように合わせた視線
から温かな笑顔が広がってゆく。

チェスのやり方と同じくらい、蓮くんが勝負をするところが見てみたいのだと目を輝かせて興味を示す香穂子に、椅子を持ってくるよとヴィルヘルムが立ち上がり、学長先生がテーブルの上を整え始め・・・。だがしげしげと駒を眺めるうちに、そういえば蓮くんを探しているところだったと我に返り、首や手を勢いよくぶんぶんと目の前で振り慌てて二人を制した。


『えっと、今は蓮くんを探していた所なんです。蓮くん、どこに行ったか知りませんか?』
『レン? そういえば見かけないな、ヴァイオリンの練習じゃないのか。それともワルツとドルチェの散歩とか』
『買い物の予定があったから、今日は私が散歩に連れて行ったんです。今はほら・・・窓から見えるお庭の敷石の上で、二匹とも気持ち良さそうに寝そべっていますよ。ふふっ、ぴったりくっついて気持ち良さそう〜』
『カホコはレンに用事があるのかね、ヴァイオリンの事ならワシらが代わりに聞こうか?』
『えっと、その・・・』


練習室やレッスン室、二階の部屋やリビング・・・探した部屋を指折り数えながら、どこにいないのだと困ったように眉を寄せながら首を傾ける。外出した様子はないから家にいるはずなのは確かなのに、また会えないのかなと萎む心から零れそうになる溜息を、今は笑顔で隠さなくちゃ。今は会いたい時に会える、傍にいる事が出来るのは、とても幸せなことだと思う。けれどそう心に言い聞かせても、レッスンや練習が忙しくて同じ家に住みながらも、朝晩の食事以外になかなか顔を合わすことがないから。近くにいるほど会えないのは、やはり少し寂しい。


なぜ月森を探しているのかとごく自然な質問だったのに、たちまち頬を染め小さく俯き、ごにょごにょと口籠もってしまう。小脇に抱えた本を照れ臭そうに弄っていたが、二人の視線を受け止めていると気づき、熱の感じる頬のままコホンと咳払いをして、抱えていた本・・・ドイツ語で書かれた厚めのハードカバーを差し出した。


『今度、コンクールで演奏する曲のことをもっと調べたくて、学長先生から薦めてもらった本を読んでいたんです。お家の図書室で見つけたんですけど、ドイツ語がどうしても難しいところがいくつかあるんです。分からない表現や日本語訳をを教えてもらおうかなと思って・・・その、蓮くんを探していたんです』


学長先生だけでなく、もしもドイツ語が分かるならと蓮くんからも薦めてもらった本だから、絶対に読みたいと思ったのは心の中だけの秘密だ。会いたい、声が聞きたいと思った気持も本当だと言えるわけが無くて、でも正直に顔へ出ている香穂子に学長もヴィルヘルムもすっかりお見通しだと、気付いていないのは本人ばかり。窓辺の二人が顔を見合わせ視線で語り合うと、楽しい話を思いだしたように微笑みを浮かべた。


『あのっ! 学長先生もヴィルさんも、どうしてくすくす笑うんですか?』
『ごめんねカホコ、気分を害したのなら謝るよ。いやぁ、君たち本当にそっくりだねと思ったら楽しくなっちゃったのさ。少し前にも、レンが同じように俺たちの所に顔を出して君を捜していたよ。カホコを捜しているんだが、どこにいるか知らないかって、冷静を装いつつちょっと内心は必死にね。なるほど、ちょうど君がチワワたちの散歩に出ている時だったのか』
『え、蓮くんも私をさがしていたんですか!?』
『黙っていたけど実は・・・ね、学長先生。応接室を出た後は、どこに行ったかは残念だけど俺たちには分からないんだ。見ての通り、チェスの勝負中だったからね』


驚きにぱちくりと目を瞬かせ身を乗り出す香穂子に、レンも一勝負どうだいと薦めたら、それどころじゃないって怒られたよと。ワシらとのチェスよりも香穂子が大事だったらしいと、拗ねたようにクイーンの駒をくるくる弄ぶ学長に、照れ臭さに腕の中へ抱え込んだ本を、きゅっと強く抱きしめなる香穂子の顔が、見えない湯気を登らせ真っ赤に染まってゆく。

学長がヴィルヘルムに話を振れば、レンはもっと正直に顔へ出ていたからそわそわしていたけどねと、思い出し笑いを堪えながら身振り手振りの再現に、小さな微笑みが頬に綻んだ。


『カホコ談話室は捜したかね? あそこは蔵書やCDも多いから調べ物にはぴったりじゃ。ソファーに埋もれているかもしれんから、部屋の隅々までしっかり捜さんとな。もしくは練習室前にある庭のベンチとか、あそこは木陰になっているし風も通るから気持ちが良いんじゃ』
『談話室にお庭・・・いえ、まだです。あ!もしかして蓮くんは、談話室いるかも』
『コンサートが終わった後にも演奏会が控えているからのう。その選曲のために調べたいとって言っていたから、本や楽譜をどこか静かなところで読み込んでいるのかも知れん』
『ありがとうございます、学長先生』
『音を出しヴァイオリンを演奏している時間よりも、それ以前の作業の方が遙かに長い。自分の中でイメージが出来るまで、譜読みや調べ物をするのは大切な事じゃ。自分が良いと思えた曲であれば、音楽を作り上げる過程でぶつかる壁も、乗り越えてゆく力を注ぎ続けられるじゃろう』


良い練習をしたり、演奏する曲の素晴らしさを伝えのに必要なのは「曲を愛しきれるかどうか」・・・じゃよと。椅子に座る身体を香穂子に向き直り、本を抱えて立つ大きな瞳の奥を真摯に見つめながら静かに語る声が、さざ波のように空気を震わせ心に染み込んでゆく。吸い寄せられるように見つめ返す香穂子、隣でじっと聴き入るヴィルヘルムにも。


『俺は彼女が留学していた頃、会いたい傍にいたいって想いが募ると、ちょっとしたことでも不安が募って愛情表現が空回りしたこともあった。愛されることに必死で自分を見失いそうだったから。一人の時間をいかに充実させるかが、世界を広げ深みのある人間になれるかって事なんだよね。恋して生き生きしするってこと、君たちを見ていると思うよ』
『そ・・・んな強くないですよ、恥ずかしいなぁもう。私だって、元気がなくなったり寂しいときだってあります。でも蓮くんが頑張ってるから、私も道が寄り添えるように頑張るって決めたんです』
『恋人と離れているときには、今の自分に足りないものを並べてしまいがちだろう? 寂しさや悩みを抱えると眠れない状態が続いたり、食欲が無くなることもある。でも一人でいても元気になれる方法を、君たちは自分なりに掴んでいるんだろうな』
『思いっきり自分為に使えるのって贅沢だなって思うんです。なんて、私も蓮くんが留学したての頃は自分しか見えていなかった・・・。どんな時も自分らしさを失っちゃいけないって、蓮くんが教えてくれたんです』


内側から漲る自信と誇らしさが、輝きとなり瞳から溢れている。この素直な強さと素直な前向きさが、音の生まれる源となり、世界にたった一つしかない心に届く音を生み出すのだろう。一呼吸置いてから、香穂子に向き合うよう脚の向きを変え椅子に座り直すと、ヴィルヘルムはブルーグリーンの瞳を笑顔から真摯な色に変え、じっとひたむきに語りはじめた。

寂しさはどんなにたくさん愛があっても満たすことは出来ない。だから貪欲にもっと・・・と手を伸ばし求めてしまうんだ。満たすことが出来るのは自分を大切に想う気持、そして胸を張って誇れる大切な何かを持つこと。たとえば頑張って磨き上げた音楽や自分自身だったり、相手を信じる想いなのだと。


「俺がそう気付いたのは彼女が空の星になった、もうずっと後だったけどね」
「ヴィルさん、あの・・・ごめんなさい」
「あぁそんな悲しい顔しない! 湿っぽい話じゃなくて、ありがとうってレンやカホコに言いたいんだ」
「ありがとうって、どういうことですか? 心の傷に触れて、怒ってないんですか?」
「どうして怒るんだい? 気付けなかった後悔よりも、気付けた喜びに変えたい・・・これもレンの言葉さ。この前向きさは、きっとカホコの影響だよね。気持次第で傷にも肥やしにもなるのなら、俺は受け止め感じた気持ちを心の栄養にしていきたい。俺自身の音楽のためにね。カホコもレンが留学してからの四年間を、音楽と心の栄養にしたいだろう?」


切なげに微笑んでいた口元をいつもの人懐こい微笑みに戻し、ドイツ語ではなく流暢な日本語で語りかけてくる。
慎重に言葉を選びながらのドイツ語ではなく、日本語に言い換えたのは真っ直ぐ気持を伝えたいから。月森には出来る限りドイツ語でと言われているが、日常会話には困らないものの、まだドイツ語が不安定な香穂子の為に。

心にストンと降り注ぐ透明な滴の言葉たちが、熱さとなって身体の奥から溢れてくる。隣に佇む学長先生を見れば、言葉無く頷き相づちを打っていた。そんなとき隣で静かに会話を聞いている学長は、日本語が分からないと言いながらも、二人の表情で内容が分かっていると思えてくる。


『愛するというのは互いに見つめ合う事ではなく、一緒に同じ方向を見ることじゃ。お互いの個性を認め合うからこそ、良い関係が気付けるとワシは思う。幸せというのは手を伸ばせば届く近い距離ではなく、少しだけ先にあるのかもしれん』
『少し先・・・蓮くんも、以前同じ事を言っていました』
『レンがカホコに会えずにいた頃に、話した事があっての。いつも傍にいることと、それぞれの音楽や心が一つに寄り添うことは違う。一緒に二人の少し先の未来を見つめる・・・その目標に向けた確かな一歩と充実感が、光となり幸せに続くのじゃ。だから今の君たちがある、違うかね?』
『・・・学長先生』



そろそろ息抜きしたい頃じゃろうから、一息つけるようレンに温かいお茶でも持って行ってあげなさい・・・。

窓から差し込む日だまりの優しさで微笑む学長先生に、穏やかにぺこりと頭を下げて一礼をすると、踵を返し髪を靡かせながら足早に応接室を駆け去ってゆく。閉まりかけるドアの隙間からひょいと顔を覗かせ、笑顔で小さく手を振る香穂子に、まるでカーテンコールだねと手を振り・・・また手を軽く挙げて挨拶を返して。白いドアの向こうに消えた小さな太陽は、まずはキッチンへ行って温かいお茶を二人分淹れてから、談話室にいる月森の元へ向かうのだろう。

頑張る二人を見ていたら、俺もヴァイオリンが弾きたくなったよと。一息ついて立ち上がったヴィルヘルムも、もう一勝負を迫る学長に悪戯な笑みを向けながら、続きはまた後でとテーブルに広げたチェスを片付け始めた。