光に向かって・10



ケストナー家の一階角部屋に位置するレッスン室は、リビングよりも広いフローリングの床の上に、赤い模様織りの絨毯が敷かれている。柔らかな絨毯の上に並ぶのは、二台のグランドピアノ。整えられた庭の緑が明るく映える、白い木枠の窓やドアなど・・・白を基調としたインテリアが多いこの家の中でも、レッスン室だけは全てが黒に近い深いダークオークに覆われ、凜と落ち着いた空気を醸し出していた。

防音だけでなく室内の音響設備も良いから、この部屋では特に楽器の音色が良く生きる。二面のガラス窓から差し込む光を自然の照明にすれば、サロンコンサートのステージができあがりだ。いつもは厳しいレッスンが行われるこの部屋も、休日ともなれば、グランドピアノがある方をステージに見立てて、向かい側に並べた数個の椅子たちが客席に変わる。


『カホコ、そこは違うよ。こういう風に音を鳴らすんじゃ』


グランドピアノの傍に譜面台を置き、コンクールの課題曲を弾く香穂子の向かい側に座り、真摯な眼差しで耳を傾けている学長が、静かに手を挙げて音色を止め、すっと椅子から立ち上がった。蓋をしたグランドピアノの上に置いてある愛用のヴァイオリンを構えると、止めたところから少しさかのぼった同じフレーズを艶やかに奏でてゆく。譜面は同じ筈なのに、弓の動き方一つでも奏でる音色の違いに、香穂子は息を呑む驚きで、焼き付けるようにじっと見つめ返していた。


『高音と中音のバランスはこれくらいじゃのう。このフレーズでは全ての音にうヴィブラートをかけたり、そのヴィブラートが均一なものであったりすると、強調されるべき音の効果が損なわれてしまうんじゃ。今のままではAとFの四分音符の意図が伝わってこないぞ。それに3小節目のF#の音は、次のGの音の安定を予感させ、導く存在でなくてはならん』
『はい、先生』
『そこの小節線を越えた音と音の間にヴィブラートをかけてみなさい。一つのフレーズの緊張感が、弓の返しによって損なわれる危険性を少しでも和らげることが出来るじゃろう』


ふむふむと頷く香穂子が譜面に注意を書き込むと、再びヴァイオリンを構え弾き始めた。そうして奏でる途中で再び止まり、細かい指導が入るを繰り返し、最後にもう一度全てを通し終わったところで、ようやく学長の顔に穏やかな笑みが浮かんだ。すぐに声を出そうとする香穂子に、人差し指を唇に当てながらウインクで制止をすると、壁際に置いてあるオーディオの録音スイッチをオフにする。肩越しに振り返り、もう良いぞとレッスンの緊張を解いた悪戯な笑顔で合図を送ると、練習の演奏を録音したディスクを取り出、表面にマジックで記入するのは今日奏でた曲名と日付を。

楽器を肩から下ろし一息つく香穂子に、ケースごと録音のディスクを手渡し、お疲れ様・・・そう声をかけて自分も楽器を片付けながら、壁の時計を見れば数時間が過ぎていた。レンの集中力も素晴らしいが、カホコもたいしたものじゃな。終わった途端にどっと重さを感じる身体を椅子に沈める学長は、クロスでヴァイオリンを拭きながら、元気さを失わない姿に微笑みを浮かべている。


『さてカホコ、今日のレッスンはここまでじゃ。明日は大学で会議があるからレッスンはできないが、次までに指摘したところを弾きこなせるように練習しておきなさい。仕上げなくてはいけない課題曲も、他にも2曲残っていたじゃろう?』
『はい、頑張ります! はぁ〜でも、コンクールも大きくなると、課題曲がたくさんあるんですね。ヴァイオリン協奏曲が2曲に小品が一曲、それにソナタが三曲も。ファイナルまでに何曲弾くんだろう・・・』
『大きなコンクールともなれば、上に進むにつれて連日の結果に喜んだり沈んだり落ち着かないじゃろう。日々の緊張を抱えながら選考会のたびに違った曲を披露するのじゃから、肉体的にも精神的にも過酷な道じゃ。まぁプロのソリストならば当然のことじゃがのう』


曲目を指折り数えて難しそうに眉を寄せた香穂子だが、頑張らなくちゃ!とその手を握り締めながら、不安そうに揺らぎかけた瞳に強い光を灯した。愛用のヴァイオリンを片付ける学長も、レッスンでの厳しい眼差しを緩めて微笑みを注ぐ。


『ちなみにワシの音大の卒業試験は、もっと課題曲が多いぞい』
『学長先生の音大ってことは、蓮くんやヴィルさんが来年受ける卒業試験ですよね』
『レンからは何も聞いておらんかね。ヴァイオリン科の終了には学科と実技の必須単位、CD録音と小論文、2回にわたる公開演奏全てにおいて一定の評価が必要じゃ』
『さっき曲目が多いって言っていたのは、公開演奏の試験なんですか?』
『バロックから2曲、練習曲2曲、古典派ソナタ3曲、ロマン派3曲、印象派、近現代からそれぞれ一曲。ヴァイオリン協奏曲は2曲、オーケストラ付き。曲目合わせてざっと15曲以上、全部演奏したら何時間かかるかのう・・・。2週間の試験期間では2回に渡ってこれらの曲を弾きこなすんじゃ。早い者は年が明けたら、試験に向けて取りかかるらしい』
『すごい・・・まるで試験というよりコンサートみたい。何時間も集中力を持ち続けなくちゃいけないんですよね』


プロのソリストとして一歩を踏み出したばかりの月森も、コンサート活動と平行して卒業試験に挑むことになるだろう。曲目を聞いただけでも過酷なスケジュールを想像できるのに、学業だけでなく音楽活動も加わるなんて、一体どれだけ忙しくなるのだろう。目差す音楽の道は果てしなく高く、目標としたコンクールも通過点の一つにしか過ぎないのに・・・ここで根を上げる訳にはいかない、自分も頑張らなくては。

ヴァイオリンをケースに戻しかけた手を止めて、再び楽器を取り出し用意を始める。この後もレッスン室で練習をしたいと申し出た香穂子に、今日は朝からずっと何時間弾き続けているのかねと、壁の時計を見た学長が驚きの眼差しを向けた。
もっと頑張らなくちゃ、上手くなりたいんです・・・蓮くんだって頑張っているんだからと。一歩踏み出しながらの真剣な想いが、熱く胸を震わせるほど伝わってくる。


『カホコの気持は良く分かる、じゃが質の高い集中力を持続させるには、適度な休憩も必要じゃ。人は現在という瞬間に意識を留めることが難しい。休み無く長時間続けた練習から得られるものは少ないからじゃ。例えば今朝起きたことや窓の外を通る鳥、庭を駆け回るワルツたちに視線を奪われていたじゃろ? レンが散歩から戻ったかと思ったかね、心にある想いが膨らんできてはおらんかね』
『でも、私・・・』
『注意力の注意というのは、眉間に皺を寄せたり、歯ぎしりしながら奮闘するのとは違うんじゃよ。心にゆとりが無くなると、音の世界が狭くなる・・・テクニックの解決にはらなんよ。少し外へ散歩に出てはどうかね、たまにはレンと一緒に』
『え? 蓮くんと一緒にお散歩・・・ですか。そういえば、コンクールで渡欧してから、ゆっくりお散歩してないなぁ』
『ヴィルから聞いたぞ。最近は食事以外、殆どレンとは一緒に過ごしていないそうじゃな』


ケストナー家のダイニングで皆が揃っての朝食を取ったあと、朝8:30から夜の9時までは、純粋に音楽の事だけを考えていられる環境の中で、食事や休憩、散歩以外は練習とレッスンという音楽付けの日々。ヨーロッパで行われる国際コンクールを間近に控えた香穂子と、プロのヴァイオリニストとして初めてのコンサートを控えた月森。そして彼のサポートとしてピアノ伴奏や二重奏をする、同じヴァイオリン科のヴィルヘルムが学長先生の家に住みこみ、レッスンを受ける集中合宿の毎日が過ぎてゆく。

初めて国際的な大舞台のコンクールに挑む、香穂子のヴァイオリンを最終的に仕上げるつもりで、長めの休暇を取った学長も、二人のレッスンが終われば香穂子に付きっきりの状態で、熱心な指導に当たっていた。家が離れているだけでなく互いに忙しい月森とヴィルヘルムは、顔を合わせる機会が否が応でも増えた結果、以前はだいぶ手こずっていた、コンサートに向けた練習時間の調整をしやすくなったらしい。曲の最終仕上げに取りかかりながら、それぞれが個人的に学長先生のレッスンを受け、音楽を更に磨いていた。

整った環境の中で、音楽の事だけを考えていられる幸せと充実感。挑む舞台は違っても、音楽の高みと目標に向かい、互いに刺激を与えたり受ける中で、今まで数多くの音楽家たちがこの家で学んでいったのだろう。


夕食が終わるとそれぞれが、防音の整った練習室でヴァイオリンを弾いたり、多くの本やCDが揃う談話室や自分の部屋に籠もり、眠るまでの間も音楽を学ぶ事に余念がない。学長先生は3人のレッスンもみているから、自然とスケジュールもずれてしまう。だから同じ家で生活していても食事の時間にしか揃うことは無かったし、香穂子と部屋が隣であっても、互いに部屋を尋ねる事も少なかったように思う。

月森と隣り合った部屋の壁を、良くコンコンと叩いて合図を送っては、言葉の代わりに小さく控えめに返るノック。壁の向こうで楽しむ小さな会話、ただそれだけで幸せを感じ頬を緩ませて。目の前にある目標が大切と言い聞かす理性が強いのか、一緒にいられる安心感なのか。ささやかな触れ合いだけでも心が温まるのに、寒さに熱が奪われるのも早く・・・会えなければ会いたくなるし、触れられないと余計に互いを求めてしまい、自然とそれが正直な音色となるから。


『学長先生・・・』
『どうした、カホコ』
『心に一つでも気になることがあったら、演奏に必要な集中力が出せない・・・良い音楽が出来ない、という事なんですよね。蓮くんと一緒に過ごせなくて寂しがってると、学長先生はちゃんとお見通しだなんて凄いな』
『香穂子の音色は心に正直じゃからのう。コンクールで奏でるのならば、お前さんにしか出せない温かく優しいキラキラな音色であって欲しいんじゃ。せっかくお互いが部屋を訪ねやすくしようと隣にしたのに、一つ屋根の下な夜の甘いドキドキが足りないのじゃないかね?』
『えっと、その・・・今は私も蓮くんも、音楽が大事なんです!』


恋の指導までは大丈夫だと、真っ赤になって反論する香穂子の反応は、予想通りとばかりに穏やかな笑みで受け止めると、ゆっくり窓際に歩み肩越しにこちらへおいでと振り返る。窓の外へ広がる緑と花を眺めながら、愛と音楽は植物と同じじゃと頬を綻ばせて、隣に並んだ少し頬を染める香穂子に視線を送った。窓を開けば白いレースのカーテンを優しく揺らす微風が、風に乗って運んでくれる月森のヴァイオリンの音も。

愛も音楽も植物と同じじゃよ。植物は水と光が無いとしおれてしまうのは、庭の花を育てて分かったじゃろう?
愛や幸せも手をかけなければしおれてしまう。ならばどうしたら良いのか・・・愛を伝える言葉や優しさ、思いやりを栄養にして注げば、やがて愛が笑顔の花を探せ大きく育ってゆく。ちゃんと水と光と栄養を与えておるかね。

諦めず曲がらない心と笑顔が太陽、水はヴァイオリンの音色。今を楽しいと思える気持が幸せ。自分が必要とされたり、好きな相手から求められれば力が沸いて、何でも出来る気になる・・・いや、できるんじゃ。その力が今のレンと香穂子には何よりも必要じゃとワシは思う。会いたいときに傍にいる・・・一つ同じ屋根の下にいるからと安心していると、夏のバカンスの時のように、もっと一緒に過ごしたかったと後悔しても知らんぞ?