光に向かって・7



学長先生の家にはピアノがある防音の練習室と、グランドピアノが部屋に二台あるレッスン室がある。今は数名がこの家で暮らしているため、環境が整った練習室は当然希望も殺到し、騒動の元になりかねない。ならば時間を決めて予約制にしようという事になり、話し合いのわずか一時間後には、ヴィルヘルムがさっそく時間ごとの予約表を作ってくれたのは今朝の事だ。さすがに大学の学生組織で会長を務めているだけ会って作業が早いな、しかも使いやすい。


「星奏学院の練習室を思い出すなぁ・・・予約で一杯だったときには、蓮くんが一緒に練習しようって誘ってくれたよね」


ね?とふり仰ぐ笑顔に少しだけ熱さを顔に募らせながら、俺も懐かしい記憶のアルバムが開いてゆくようだ。リビングに置かれたファイルを手にした香穂子は凄いねと感動を露わに目を輝かせ、学長先生に披露するのだと嬉しそうに部屋を駆け出してゆく。子犬のように駆け去った背中を二人分の微笑みが見送ると、少しして学長先生と共に頬を紅潮させながら戻ってくる。誰が一番先に予約を書くかじゃんけんしようと拳を振り上げ提案するけれど、君はコンクールが迫っているのだろう? 


「コンクールが近いのだから、香穂子が優先的に使うといい」
「え、でも蓮くんやヴィルさんだってコンサートが控えているでしょう? 私ばかり駄目だよ、蓮くんが先なの」
「ピアノは場所が限られちゃうけど、練習室の他にレッスン室もあるし、家のどこでもヴァイオリンは弾ける。コンクール前に曲を仕上げる今が一番大事なときだから、俺たちの事は気にせず、香穂子は香穂子の音楽だけを考えてくれよな。ね、学長先生?」
「え、そんなヴィルさんまで・・・!」


日本語の会話と事情を学長先生に小声で通訳すると、頬を緩ませながら頷き、戸惑う香穂子へペンを差し出した。受け取ったペンを握り締め、困ったように俺たちの顔を交互に見つめていたが、ぽんと背中を優しく押す励ましに自信と光を取り戻し、やがて「ありがとう」と照れたように頬を染め気合いを漲らせる。学長先生とレッスンの時間を相談しながら、いそいそとペンを走らせ、新しい予約表を埋めてゆく。そしてペンのバトンは俺に託され、次にヴィルヘルムに・・・。



ヴァイオリンの弓が弧を描き降ろされると、タイミングを合わせたようにドアのノックが響き渡る。ドイツ語で返事をすると、開いた扉の隙間からひょっこり顔を覗かせたのは香穂子だった。学長先生のレッスンを終えたばかりの彼女は、確か俺の次に練習室の予約を練習室の予約を入れていたな。

君に会った瞬間に心の色が変わるから、笑顔に釣られて自分にも微笑みが浮かんでいるのが分かる。「時間だよ」そういって壁の時計を示すと、足取り軽く練習室に駆け寄りヴァイオリンケースを床に置く。本当ならば香穂子に練習室を明け渡さなくてはいけないのに、どこかお互い離れがたくて。結局は数曲合わせた後に、ふわりと優しいキスを香穂子の唇に残し練習室を去った。








玄関から小道を辿り緑のアーチを潜った先にあるのは、柔らかな日だまりに優しく溶け込む秋。夏には白い花だけが咲く夢のような景色を描く庭も、秋を迎え彩り溢れ、庭を通り抜ける風が黄金色に輝く葉や、差し込む木漏れ日を揺らしている。華やかでも無く大きくもないが、花や自然特有の凛とした気高い空気と、手入れをする人の温かで優しい心が溢れている空間だ。


学長先生や婦人が丹誠込めて手入れをしている庭広がるのは、目に喜びを与える広々とした芝生の緑と溢れる花たち。そして豊かな枝葉の腕を伸ばすリンデンバウムの懐には、童心に帰れる素朴で小さなブランコが、こちらへおいでと微笑みかけている。かつては子供達の遊び場だったらしいが、今は香穂子の読書やひなたぼっこに使われているそうだ。

香穂子のヴァイオリンが聞こえる練習室の窓は、夏には真っ白い小花がカーテンのように覆っていたが、緑の葉と蔓草が覆い季節の移り変わりを伝えていた。だが、花の変わりに、窓辺に宿る煌めきたちが、彼女の音楽に耳を澄ませているようだ。練習室の音楽が一番良く聞こえるように置かれた、二人がけのベンチも未だ変わらない姿を残している。

ベンチに座ってのんびり音色に耳を傾けたいと思ったが、少し歩こうかと誘われ肩越しに窓を振り返り、慌てて後を追う。


『秋の黄色、秋の青、深まる季節の赤・・・同じ色彩でも微妙な色の違いで季節を感じることが出来る。この表現の豊かさは、音楽に通じると思わんかね? 完成は常に磨かねばならん。道端の小さな花や空を感じる心が、奏でる音楽や表現も変えてくれるとワシは思う』
『香穂子も足元の小さな花や、空の青さ一つ一つに感動しては笑顔を綻ばせていました。自然を感じる心・・・幸せを届けたいと願う彼女の音楽のようですね』
『独特な色遣いをマスターするには心の窓を開かねばならん。音楽もワシらの人生も自然の姿をよく観察すること、自然がお手本じゃよ』


リビングに戻って予約ノートを確認すると、レッスン室はヴィルヘルムがピアノとヴァイオリンの練習で暫く押さえている。この後はどこで練習しようか、自分の部屋か誰もいないなら図書室か・・・それとも庭では駄目だろうか。レッスンを終えた学長先生に、庭へ行かないかと誘われたのは、家の中を彷徨っているそんな時だった。

庭に降り注ぐ光を集めるように、瞳を閉じながら空気を吸い込む学長先生は、聞こえるかね?と耳に手を添えながら肩越しに振り返る。 さわさわと揺れる自然の音に耳を澄まし、深まりゆく季節を感じる・・・。そんなさりげない日常は、とても懐かしく思えるほど久しぶりだな。


『ヴァイオリニストは常に四本の弦と弓と向かい合い、日々練習することも大事だが、演奏者であり表現者でもある。自分の内面をじっくりみつめたり、瞑想する事も音楽には大切じゃよ。自分は今どういう状態で、自分に足りない物は何か。それをどう改善して音にすればよいかを、丁寧になぞりながら自分自身を診断する時間なんじゃ』
『心を見つめた考えは必ず音楽や演奏に反映されるし、舞台で自分を支える力になる・・・俺もそう思います。だがゆったりとする時間と心を持つのは、なかなか難しいですね。散歩や読書をしながら、こうして庭の景色を眺めるのも久しぶりです』
『ホッホッ・・・慌ただしさに呑まれると、つい自分を見失いがちになってしまうからのう。レンは、今何を思う?』
『完璧な演奏、想いを音に乗せて語りかける・・・。そのために、常に強い集中力と精神力を保ち続けたい』


庭を案内というよりも、ゆったりとしたアンダンテの足並みで先を歩く、長先生の後を、同じ早さでついて行くと言った方が良いだろうか。この庭の見頃はチューリップが5月、紫陽花や白薔薇は6月頃だが薔薇は秋にも返り咲き、キクやクレマチスなど・・・。い花が多いが桃色や赤、青や黄色もたくさんあるのだと、花の名前を呼ぶ眼差しは大切な子供のように慈しみ溢れていた。

綺麗ですねと、心から溢れた想いを言葉にすると驚いたように俺を振り返り、皺に隠れた瞳を緩め微笑みに変わる。
今は花の時期では無いがと小さく呟いた学長先生は、脚を止めた花の前に脚を折ってしゃがみ込む。見上げる瞳がこちらへと誘っているのに気付き、膝を折って隣にしゃがむ。なぜだろう、名前は分からないのに、この花にどこかで会ったような親しみを感じるのは。


『こうして庭を訪れてくれる人と感動を分かち合いたいから、雑草取りや小さな作業の手間も惜しまない。ワシにとっては音楽と同じく、生活の一部じゃよ』
『香穂子も俺たちや音楽を花に例えていました。今は土の中で芽吹きを待つ時なのだと、たくさんの人の想いが花びらになって、俺たちという花が咲くのだと・・・。花を咲かせたい想いは、愛しい人の笑顔のために音楽を届けたい、想いに似ていますね』
『愛は植物と同じじゃよ。花は水と光が無いと枯れてしまうが、愛も手をかけ想いを注がなければしおれてしまう。けれど気持を伝える言葉や思いやりという栄養を注げば、愛は綺麗な花を咲かせて大きく育つじゃろう』
『音楽も愛を育てる大切な栄養の一つというわけですね。いや・・・愛という花が、音楽の栄養なのでしょうか、学長先生』


嬉しそうに頬を綻ばせながら、レンも分かるようになったのうと言われれば、急に照れ臭さが顔に集まってしまう。だが気まずさにふいと逸らした顔を引き戻したのは、目の前にあるこの花は、香穂子が植えたのだと俺に優しく告げたから。

そういえば学長先生に託され、香穂子に手渡したアルバムに入っていた気がする。急遽二人で演奏することになった彼女のアルバイト先だったブライダルハウスで、演奏前のひとときの寛ぎの時に、これは私が育てた花なのだと、嬉しそうに写真を見せてくれたのを思い出す。そうか、これが香穂子の小さな分身なんだな。


『夏になると白くて可憐な花が咲くんじゃよ。花の時期は終わってしまったが、一回り大きくなって、また花を咲かすために頑張っておる。喧嘩したお前さんに謝りたくて、カホコが一人先に渡欧してしまった夏に、花市で選んだんじゃ。あの頃は元気が無かったが、音楽を磨きながら花を育て、施設から引き取ったチワワの子犬を面倒見ながら、強さと優しさを自分の中に見つけ、育てていったんじゃよ』
『花はか弱そうに見えますが、実は強くて逞しい。土の中で耐えながら冬を越し、春を迎える力を持っている・・・だからこそ人に幸せを与える力があるのだと思います、彼女の音楽そのものですね』
『他にもかつてこの家で学んだ学生達が植え育てた花がたくさんあるぞい。そこの赤い花二つはヴィルの兄ゲオルクと妻のものじゃ。ちなみに奥でひっそりと妖しく咲いている秋咲きの白薔薇は、お前さんたちの教授じゃ』
『なぜ学長先生の門下生は、ゲストナー家に住み込み、音楽だけでなく生活の全てを共にするのか・・・分かってきた気がします。この花たちは彼らが育てた心、音楽の上で技術よりも育てるのが難しい感情ですね』


感情の成熟を促す薬はなく、周囲や環境の影響が大きいと言われる。演奏に手を加えなくてはいけないのか、それとも弾き手を変化させなくてはいけないのか・・・。人の外面、つまり音楽は内面の表れだから、この二つは切り離して考えることが出来ないのだと、以前言っていたのを思いだした。

教師は生徒を導きながらも、その成長が生徒自信の内側から起こるのを待たなくてはならない。一緒になって成長させる必要があり、緩やかなベースだが、こうした指導こそが音の母体成長させる方法なのだと穏やかに告げて学長先生は香穂子の花へそっと手を伸ばし、髪を撫でるように優しく触れる。


『レン、お前さんはどんな花が咲くかのう?』
『俺も、花を植えて育てる・・・という事でしょうか。不器用なので、上手く育てられるかは不安ですが、音楽も心も花を咲かせたいと思います。』


すっと立ち上がり腰を伸ばした学長先生が、追うように立ち上がった俺を、真っ直ぐな眼差しでじっと見つめ返す。どこまでも澄んだ静かな泉のような光は、なぜヴァイオリンを弾くのかと・・・大切なことは何かと心の奥へ深く問いかけるように。花が咲くならば香穂子の隣が良い、そう思う心はすっかりお見通しらしい。

二つ寄り添うようにレンの花を植えようか、そう言ってふわりと微笑めば、吹き抜ける秋風も黄金色の葉を揺らす。真っ白い花がさくという君の花も、少しだけ照れて赤く染まっただろうか。風に乗って運ばれる香穂子のヴァイオリンが煌めきの静となり、心と花に注がれてゆく。