光に向かって・6
玄関先で俺を迎えてくれたのは、喜びを詰め込んだびっくり箱・・・渡欧したことを内緒にしていた香穂子だった。だが連絡が取れなかった君を探し回った夏の記憶が蘇り、どうして連絡をくれなかったのかと、気付けば喜びよりも先に厳しく諫めてしまう。どうりで数日前から、メールをしても電話をしても、香穂子に連絡が取れなかったわけだ。
足元で大人しく待っていた二匹のチワワも、香穂子の様子に気付いたらしい。赤い首輪を付けたドルチェが小さく啼きながら鼻先を足にすり寄せ、香穂子を慰めているように見える。そして青い首輪のワルツは俺に向かい挑むように、必死に威嚇しながら吼え立ててくるんだ。まだ子犬だった頃に、俺が香穂子の傍にいると間に割って吼えていたが、彼女を守るように・・・。身体は小さくてもちゃんと守ってくれるんだよと、以前君が言っていたように、どうして悲しませたのか・・・泣かすのは許さないと、そう彼は言いたいのだろうか。
悲しませたかったんじゃない・・・そう想い、一歩を踏み出しかけた時には遅くて。喜びに輝かせていた頬や瞳が悲しそうに潤み、しゅんと俯く顔を零れた髪が隠してしまう。包み込んだ沈黙に飲み込まれないように、握り締めて耐える手の強さは俺だけでなく、前に組んだ手を握り合わせる君も同じ。一つ呼吸をしてからどちらともなく動きかけたその時、廊下の奥から響く声が、玄関先に佇む俺たちに呼びかけてきた。
重い空気を一瞬で払う風の声は、開け放ったリビングのドアから上半身だけ覗かせ、俺たちの様子を伺う学長先生だ。
『どうしたんじゃ、ワルツが珍しく吼えているようじゃが・・・レンが犬の散歩から帰ったのじゃろう? 何かあったのかね?』
『・・・学長先生、ただ今戻りました』
『おぉ、レンお帰り。カホコに会えた嬉しさに抱きしめすぎて、ワルツたちに焼きでも焼かれたかね。二匹はカホコが大好きじゃからのう』
『そ、そうなんです! あの・・・私が蓮くんをびっくりさせたら、ワルツたちまで驚いちゃって・・・ちょっと興奮したんです。すぐにリビングへ行きますから学長先生は戻っていて下さい、大丈夫ですから! ねっ、ワルツもそろそろご飯だからお腹減ったんだよね〜?』
吼えるワルツを抱き上げた香穂子が腕の中であやしながら、リビングの入り口で玄関を覗き込む学長先生に、何でもないんですと笑顔で披露していた。チワワの顔を向け、前足を掲げながら愛らしく。かばってくれたのだと驚きに目を見開く俺に、肩越しで振り返る君が、大人しくなったチワワの顔を向けながら小さく微笑む・・・その気遣いに心の奥が温かく震えるのを感じた。
身を屈めながらこちらへおいでと差し伸べた学長先生の手に、香穂子の足元にいたドルチェが駆け出せば、腕の中にいたワルツも身動ぎ床にひらりと飛び降りて。転がる毛糸玉のような二匹のチワワが、元気良く駆け去っていった。飛びつきじゃれる彼らの頭を撫でながら、緩む微笑みをそのまま俺たちに向け、二人でゆっくり話したい事もあるじゃろう、そう言って微笑む瞳と背中がリビングへ消えてゆく。
胸に手を当てながらほっと吐息を零す香穂子と同じく、訪れた静寂に安堵を覚えれば、慌ただしさに隠れていた感情たちが胸の奥から込み上げてきた。一つ呼吸を置いてから、ごめんねと真っ直ぐふり仰ぐ瞳が涙で潤みかけていて、透明な泉の中に俺がいる・・・謝るべきは俺なのに。
「すまなかった、強く言いすぎた・・・・。君に会えて嬉しい、そう真っ先に伝えたかったのに、心配が先立ってしまった」
「うぅん、蓮くんは悪くないの。黙って来たらびっくりするよね、心配させちゃった私がいけないんだもの」
「君はいつも俺を驚かせてくれる、一つではなく次々に驚きの渦へと。どんな喜びや驚きがあるか、待つ間に想いを馳せるだけで楽しいのに。香穂子のサプライズを、嫌がるわけは無いだろう? ドアが開いた瞬間、会いたいと強く願うあまりに見せた幻ではと思った・・・だが確かにいるんだな。そしてコンクールの国内予備予選通過おめでとう、嬉しい知らせに驚いた」
「蓮くん・・・ありがとう、精一杯頑張るよ。一次予選に行くための予備予選を通過したばかりだから、まだこれから先は長いけど、目指すはファイナリストだよ。緊張するけど、音楽を楽しみたいって思うの」
昼食のダイニングテーブルが整うまでの僅かな間は、支度のある婦人以外、皆がリビングで寛ぎながら待っていたそうだ。本来ならば俺もヴァイオリンを部屋へ置き、香穂子と共にすぐリビングへ行くべきなのだろう。だが去り際に悪戯な笑みを浮かべウインクを残しつつ、ゆっくり話したいこともあるじゃろう・・・と。久しぶりに再開できた俺たちに、二人だけの時間を僅かでも作ってくれた学長先生の心遣いに、今ひとときは甘えさせてもらおうか。
和やかに談笑する学長先生とヴィルヘルムの声や、駆け回る犬たちの賑やかさを遠くで気にする香穂子も、そわそわと落ち着かなそうに肩を揺らしている。もう少しだけ、ここで話していても良いよね?とほんのり赤く染めた頬でねだられたら、求める想いが堰を切って溢れ出しそうだ。
出迎えてくれた香穂子からは背になっているが、視界の隅でリビングの扉を注意深く捕らえながら、緊張に高鳴る鼓動と熱い想いを唇に乗せて・・・。大きな瞳に吸い込まれながら近付く顔が一杯に広がり、やがてふわりと触れるだけのキスが重なった。柔らかに吸い付き一つに溶け合う温もりに、会えない間の寂しさが、ゆっくりと注がれる君の想いで満たされてゆくようだ。
久しぶりの熱い鼓動の高まりが火を付けるから、もっと先を求めたくなる欲を押さえるのに必死。まだ星奏学院に通っていた頃、廊下の覗き窓から見えない練習室の片隅や、帰り際に重ねた甘酸っぱいキスに似ているだろうか。お帰りなさいのキスだねと、照れたようにはにかむ可愛らしさを、俺はどう耐えたらよいのだろう。2人だけの秘密というのは、なぜこんなにも胸が高鳴るのだろう。君も・・・だろうか。
「国際コンクールは初めてなんだろう? 課題曲や自由曲、多くの曲を弾きこなすことは体力的にも精神的にも厳しいだろう。コンクールも上に進んでゆけば、連日の結果に一喜一憂しつつ緊張も続く。その中で自分の最高な曲を奏で続けるのは過酷な道だ。ファイナルの本選に向けて予選が始まる、これからが正念場だな」
「一次予選はね、蓮くんが通っている音大の大講堂でやるんだよ。蓮くんや学長先生にヴァイオリン聞いてもらえるだけで、力が沸いて来るみたい。二次予選は楽友協会の小ホール、その後が大ホールでオーケストラと合わせてのファイナルなんだって。どこまで行けるかわからないけど、でも決めたの」
「決めた・・・?」
「喜びも苦しみも、どんな時も音楽と共にありたい。蓮くんがくれたCDとたった一つの曲、Eterunoが私に勇気をくれたんだよ。コンクールが全てじゃないけど、でも。頑張った証を何か形に残したいなと思ったの」
「香穂子・・・」
香穂子が出場するヨーロッパの国際コンクールは、過去には著名なヴァイオリニストも多く優勝しており、若手ヴァイオリニストの登竜門と言われる大きなものだ。日本の東京を含め、世界八都市で行われた予備予選では、200人以上の参加者から35人が選ばれ、ウイーンで行われる本選に進んだそうだ。もちろん香穂子も通過できたその中の一人。身振り手振りでコンクールの興奮を語る君は、本選に向けて次の課題曲やプログラムを練習する日々らしい。
頑張ったよと語る自信溢れる瞳の輝きが、どれだけ練習を重ねたかを語っており、自分の事のように嬉しく誇らしい。星奏学院で出会った君はヴァイオリンの初心者だったが、数年の間に努力を重ね音楽を磨き、狭き門を超えて海を渡ってきた・・・。こうして僅かに合わない間にも、見違えるほど大きく成長する目覚ましさに驚くばかりだ。
「確か日本で行われた予備予選では、俺が通う音大のヴァイオリン科教授陣や、現地の音楽院の教授達、名を知るヴァイオリニストも審査員だったんだ。日本でコンクールの予選があることは知っていたが、まさか香穂子が出場しているとは知らなかった。先生も、何も仰っていなかったから」
「そうなんだ、蓮くんの先生もいたんだね。テープ審査や会場での演奏では、直接会わなかったから気付かなかったよ」
「世界各地を回る間は暫く休講だったり、学長先生が変わりにレッスンを見て下さったんだ。音大のヴァイオリン科からも、何人かが予備予選を通過したらしい。彼らの場合は、ホールも教授も知っているからこそ、余計に緊張すると言っていたが」
「凄い人たちが参加するんだね、どうしよう〜緊張してきたよっ。まっ、まさか蓮くんやヴィルさんもいるとか!?」
「いや、さすがに俺たちはコンサートがあるから出場はしない」
ほっと胸を撫で下ろした香穂子だが、凄い人たちが参加するんだねと我に返り、食いつくように背伸びをしながら驚きに目を丸くする。緊張するよと不安そうに瞳を揺らし、両手で頬を押さえているが、他の誰もが持っていない君らしい音楽があるだろう? 真摯に瞳を見つめながらそう語ると、光が灯る眼差しでふり仰ぎ力強く頷く。ここまで来ることが出来た自分と、音楽を信じるんだ。世界中の人がちが、君のヴァイオリンを待っていると思うから。
パカニーニやヴェニヤフスキー、ロン・ティボーやチァイコフスキーなど・・・。学長先生は数多くの国際コンクールでも審査員をされており、世にいる多くのヴァイオリニストを見聞きし、審査されてきた。かつては俺もコンクールで縁がある。だが自らの音大も関わり、毎年審査員をしていたこの国際コンクールの審査員を、今年は辞退したと聞き俺だけでなく皆が不思議に思っていたが。そうか・・・香穂子が出場するからだったんだな。
大切に育てたいと仰っていた香穂子のヴァイオリンを、集中的にレッスンし曲を仕上げる。だが演奏面だけでなく、公平な目と耳で審査をしてもらいたいという、厳しい親心があったのだろう。
「このコンクールは、学長先生が初めて優勝タイトルを取った、想い出のコンクールなんですって。プロの道がここから始まったって言ってたよ。私はプロにはならないけど、大切なヴァイオリンは一生弾き続けたいから。蓮くんに追いつけるように、隣にならんでも恥ずかしくないように、もっと音楽の高みを求めるって・・・。求める音楽の道に終わりはないから、歩み続けることを止めちゃいけないんだよね」
「夢を追い求めることを止めたとき、人の成長は止まると・・・俺も以前、学長先生から言われたことがある。夢を抱き続けることは必要だと。見るだけではなく、叶えてゆきたい」
「蓮くんが留学するときに、音楽を志すならヨーロッパへ来るべきだって言ってたよね。上手い人や素敵な演奏する人が、コンクールだけじゃなくて普通の街角にもたくさんいるし、生活の中に音楽が溢れているのが素敵だよね。広い海を目の前に見た興奮に似ているかな、緊張するけど凄くワクワクしているの」
「前向きだな、君は。香穂子ならきっと、音楽をみんなに届けられる・・・俺も信じている」
コンクールまでの月日を指折り数えて気付いた香穂子が、すごい奇跡だよねと驚き興奮している。どうしたのかと問えば、君が海を越えたのが、俺がプロとして初めてコンサートをするのと同じ頃、同じ場所だという偶然。いや・・・これは音楽で結ばれる俺たちにとって、偶然ではなく、きっと大切な意味がある必然だったに違いない。そう思わないか?
一人の時間を寂しさで埋めるのではなく、努力や前向きな明るさで自分の世界を広げる。そんな君だからこそ会う度に輝きが増し、感動に変わる。俺も君にとって刺激を与え成長し合える存在でいたい、君に恥ずかしくないように。
俺と君の夢や目標は、それぞれ違うかも知れない。だが求める音楽と道の先で辿り着く場所は、たった一つだと思うから・・・共に目差そう、光に向かって。
「この後時間はあるか? もし良ければ一緒に練習しないか? 久しぶりに香穂子と合わせたい、君のヴァイオリンが聴きたいんだ」
「お昼ご飯の後に学長先生のレッスンが入っているから、その後でいいかな? 私も蓮くんのヴァイオリンが聴きたいな。もらったCDを毎日聴いているけど、やっぱり生の音には敵わないと思うの。あ! 私たちのお部屋は、お隣同士なんだよね。壁を越えた隣にお互いがいると思うとドキドキするね」
「本当ならば以前渡欧した時のように、俺の部屋が君の部屋・・・というのが願いだったが、学長先生のお宅ではそうもいかないな」
「も、もう〜蓮くんってば、リビングに聞こたら恥ずかしいよ。合宿中はお部屋もベッドも別なの! 寂しいけど、今度は同じ屋根の下にいられるだけ幸せだよ・・・ね?」
真っ赤に頬を染めながら急に声を潜め、きょろきょろと周囲を伺う香穂子は、ぷぅと頬を膨らませ睨んでくる。といっても威嚇の効果はなく、拗ねた可愛らしさが愛しさを増すだけだが、正直に伝えたらもっと拗ねてしまうだろうから秘密にしておこうか。ここは学長先生のお家だから、二人の秘密や仲良しは控えなくちゃ・・・と。メッと諫める愛らしさが理性を揺さぶる、君を抱きしめたいときにはどうすればよいのか。
君はコンクールを控え、俺はコンサートがあるじゃないか、まずは音楽に集中すべきだ。眉を寄せながら真剣に悩み、理性の狭間で耐えていることを知っているのか、気付いていないのか。黙ってしまった俺を心配して、ぐっと顔を寄せた香穂子の吐息が唇と鼻先を掠め、熱く鼓動が火を噴き上げ身体中を駆け巡る。
香穂子がいるだけで、押さえていた何かが簡単に外れてしまうなんてと、苦笑するしかないが・・・駄目だ。このままでは熱さに焼かれてしまう、もう一度君の唇を俺にくれないか。キスをしても、良いだろうか?
ただいまのお迎えキスは、今日だけの特別だよと甘くねだる瞳がそっと閉じられ、少し上向きに差し出された唇へ覆い被さろうとしたその時。まさかのタイミングで聞こえたヴィルヘルムの声に驚き、鼓動も呼吸も動きも止まる。時が止まった一瞬後に、全身の熱さが顔へ昇ったのは俺だけでなく香穂子もなのだろう。慌てて飛び去る香穂子が、熱を冷ますようにパタパタと両手で頬を仰いでいた。
『おーい2人とも、いつまで玄関で立ち話をしているんだい? そろそろ中に入ってこいよな、もうすぐ昼食だよ。レンとカホコが来ないと始まらないんだからな、俺お腹ぺこぺこなの』
『こらヴィルヘルム、ちょっと待たんかい!』
『何だよ学長先生、止めるなってば。あ〜〜ほら、目を離すからワルツとドルチェが逃げちゃったじゃないか・・・って。おっとごめん二人とも。なんだ、そういうことは早く言ってくれよな』
『きゃっ、ヴィルさん! えっと、これは・・・その』
『カホコがレン出迎えてから随分時間が経つから、積もる話もあるかと思ったけど。まさかお帰りのキスが長かったなんて。うんうん、久しぶりだもんな』
『・・・っ! その・・・・違うんだっ、これは!』
『俺の事は気にしなくて良いから。まぁ学長先生あたりは冷やかすだろうから、二人きりの時にそっとな・・・そっと』
『もう! ヴィルさんてば!』
キスをしかけた所を見られたのも照れ臭いが、ずっと長い間キスをしていたから、リビングへゆかず玄関先にいたと思われる方が、もっと恥ずかしい。いやその・・・後もう少し待っていてくれたらと思ったのも、正直な気持ちだが。誤解を解かなくてはと必死で香穂子や俺が慌てるのを、楽しげな笑みを浮かべながら一人で納得しているのは、冗談でからかっているのかそれとも本気なのか。一番冷やかしているのは、君だろう。
『あ〜ほら、学長先生は玄関を覗かずに、さっさとダイニングテーブルに行く! 手伝って欲しいって、奥様が呼んでいるよ。レンとカホコは平気だから、さっ早く早く』
『おいこら、ヴィル。腕を引っ張るでない! 一体どうしたと言うんじゃ・・・』
俺たちの様子が気になり玄関を覗こうとする学長先生を、開け放ったドア口に佇むヴィルヘルムが盾となって押さえているらしい。押し問答する声が少し離れた玄関まで聞こえてきて、ふり仰ぐ香穂子と視線を合わせながら微笑んでしまう。
そんな時、わっと声を上げた足元から待ちきれない二匹のチワワが飛び出し、玄関にいる俺たちの元へ駆け戻ってくる。レンが焼き餅を焼かれないように押さえておいたのにと、眉を寄せながら見つめるのは、香穂子が大好きな、元気の良い二匹の犬たちも。早くと急かすように飛びつき、くるくる脚の周りをはしゃぎ回る彼らに、タイムオーバーだと溜息をつきながら俺たちへ肩を竦めて見せた。
早く来いよなと柔らかに急かす肩越しの笑顔、学長先生と共にリビングへ消えてゆけば、再び訪れた静寂にきゅうっと鳴り響く小さな腹の音。慌ててお腹を押さえ、真っ赤な茹で蛸に染まる香穂子が、お腹空いたねと恥ずかしそうに照れた笑みを浮かべている。そういえば俺も空腹だったな・・・ふわりと漂う温かな食事の香りに誘われ、ヴァイオリンケースを背負い直すと一歩を踏み出した。
さぁ、俺たちも行こうか。しばらくの間は賑やかになりそうだな。
微笑みで差し伸べた手に、ほんのり赤く染まった頬でうんと頷く、嬉しそうな香穂子の手が重ねられた。元から一つであったようにしっとり吸い付き、自然と一つに繋がる柔らかな手の平は、心と眼差しをもごとしっかりと握り締めてくる。この玄関からリビングまでの僅かな間だけでもせめて、この手は離さず繋いでいようか。