光に向かって・5



学長先生の家に住み込んでから数日が経った。俺とヴィルヘルム、学長夫妻の四人揃って朝食をとった後は、ヴァイオリンの個人練習や、コンサートの為に二人で曲を合わせる時間。午後になったら先生のレッスンだが、その前に練習を終え昼食までの間は二匹のチワワを散歩させることになっていた。

散歩が好きな国の犬だから、彼らの行動範囲も予想外に広い。毎日のお気に入りコースが決まっているから、彼らの後をついて行けばよいのだが・・・。二匹の夫婦チワワはいつも一緒なので、散歩の労力も当然二倍になる。元気良く駆け回る二匹を散歩させているのか、それとも俺が連れられているのか。

もしも香穂子がいたら、どちらか分からないと笑われてしまうかも知れないな。子犬の頃は小さなワルツを鞄に入れて運んでいたが、俺も二匹を入れて運べる大きな鞄が欲しいと思わずにいられない。「いい運動だろう? ヴァイオリニストには体力も必要だからな」と、学長先生やヴィルヘルムは息切れして疲労感を露わに帰宅する俺に、笑顔でさらりと励ますだけ。

都合良く大変な役目を押しつけられた感じは否めないが、彼らの足取りはかつて、香穂子が子犬だったワルツを散歩しながら街を散策していたお気に入りのコースらしい。同じ足取りを辿りながら彼女の目線がどんな物を捕らえていたのか、何を感じていたのか。想いを馳せれば楽しい発見の連続だけでなく、犬たちと一緒に駆け回る無邪気な君が、透明な心の手で俺の腕を引いてくれるような気がするんだ。



運河沿いの公園でヴァイオリンを弾く間は河の柵や欄干にリードを繋ぎ、演奏する俺の目が届く範囲で自由にしたり、大人しく日だまりに寄り添い座っている。時には奏でる曲に合わせて動いたり飛び跳ねているから、散歩途中の人たちはそれが楽しいらしく、足を止めてヴァイオリンを弾く人が増えてきたと思う。香穂子にメールで話したら、ヨーロッパの街角で演奏する辻音楽史みたいだねと、はしゃぎながら目を輝かせていたな。

どうやら香穂子の中では、旅をしながらヴァイオリンを弾く辻音楽家の相棒は、可愛い帽子を被った小さな小猿や子犬らしい。きっと子供の頃に読んだ童話の影響か、休日に観光客を相手に弾く辻音楽史のイメージなのか。俺よりも君こそ、自由な空の下という大きなステージで奏でるが似合いそうだ。頬や瞳を緩ませ楽しそうに弾くのだろう、旅をしながら音楽を奏でる・・・か。後は君がいれば完璧だな、二人ならそれも良いかも知れない。



日課である犬の散歩を終えてケストナー家の門を潜り、赤茶色の石が敷き詰められた細い小道を歩いてゆけば、緑に囲まれた玄関が見える。だがゴールが目の前に見えた瞬間、大人しく歩いていたワルツが、何かに気付いたようにぴくりと身体を揺らし、玄関に向かって勢いよく駆けだしてしまった。一匹が走れば自然ともう一匹も追いかけ、リードを持つ俺も走ることになる。ヴァイオリンケースを持っている時には、あまり急ぎたくないんだが・・・それよりもまだ君たちは、俺を走らせるのか。

勘弁してくれと小さな溜息をついても、引かれるリードの勢いが緩むわけがない。溜息を吐きつつ肩にかけたヴァイオリンケースを背負い直す間も、身体は足早に前へと進むだけだ。だが、仲良い二匹がそれぞれ違う方向へ行かないだけ、今日はまだ良い方だろうな。


館の隣には豊かな大木が趣を添えていて、玄関前には訪れる人を温かく迎えるように植えられている花たちが。今は黄金色に輝く葉を少しずつ地面に降らせているが、夏には貴重な木陰となるリンデンバウムが枝を伸ばしている。冬でも輝きと色を失わない広々とした常緑が目に喜びを与える・・・。手入れが行き届いているというだけではなく、暮らす人の心やここで奏でられている音楽を感じ取るから、花や自然も俺たちに何かを伝えようとしてくれているのだと。


だから学長先生先生の家の庭を散策したり、部屋の窓から眺めると、君が奏でるヴァイオリンに包まれるのと同じ安らぎと温もりを感じるのだろうな。大切な音楽、大切な場所・・・音が生まれる心の源。

香穂子が教えてくれた言葉を思い出す度に、庭で花たちの為に音楽を奏でる彼女の姿が目に浮かび、頬を緩めてしまう俺がいた。いつか俺も君のように、大切に育てていたという花たちへヴァイオリンを奏でよう。春になったらきっと、綺麗な花が咲くに違いない。


つるバラの茂る黒いアーチを潜り、手入れの行き届いた前庭を通り過ぎると、辿り着いた玄関扉に前足をかける二匹のチワワが、早く扉を開けろと催促している。いつもとは違い、千切れんばかりに小さな尻尾を振っているから、何か嬉しいことを見つけたのだろうか。俺には分からないが、もうすぐ昼食だから料理の臭いでも嗅ぎつけたのかも知れないな。そう自然に思いながら妙にはしゃぐ彼らの頭を撫でて、扉の脇にある呼び鈴を押した。


「お帰りなさい〜!」
「・・・・・・っ!?」


暫く待った後にドアノブからロックの外れる金属音が聞こえ、重い木の扉がゆっくりと押し開かれて・・・お帰りなさいと優しく耳に染み込む声が聞こえる。日本語であまりにも自然に聞こえた声に、ほっと気分が緩んだその一瞬に俺がどれほど驚いたか、感じた心を切り取れるならば、そのままを君に伝え届けたい。いや、きっと香穂子は俺が驚くのを楽しみにしていたに違いないが。今まで何度も同じ事を想っているのに、何度でも君に驚かされてしまうんだ。


「蓮くん、お帰りなさい! ワルツもドルチェもお帰り〜もうすぐお昼ご飯だよ。外は寒かったでしょう、さっ中に入ろう?」
「・・・・か、香穂子!?」
「ん? 蓮くんどうしたの、目がまん丸だよ。へへっ、びっくりした? どっきりお迎えは大成功だね!」


そう・・・帰宅した俺を玄関で出迎えたのは、香穂子だった。なぜ君がここに? 
君は今、日本にいるはずじゃなかったのか? 今朝だっていつもみたく、お互いの時差を考えたおはようのメールを携帯電話にもらった筈だったのに。という事はあのとき既に日本を離れ、到着していたということだろうか。

驚きに目を見開いたまま玄関に立ちすくむ俺を、どうしたの?と小首を傾げながら、悪戯が成功したような無邪気な笑みで見つめる香穂子。だが目をぱちくりさせて見つめる香穂子が、ふい大きな瞳へ瞳を滲ませるとませると、駆け回る犬たちよりも元気良く懐に飛びついてきた。その足元を喜びはしゃぎくるくると駆け回る二匹のチワワは、玄関を空ける前から彼女の気配に気付いていたんだな。


「・・・っ!」
「蓮くん・・・会いたかった。ふふっ、蓮くんの香りがする・・・この場所が一番安心するの」
「香穂子・・・ただいま。いや、良く来たな・・・だろうか。家に戻った挨拶と渡欧した君を迎える言葉、どちらが先かこんな時には迷うな」


柔らかな身体を受け止めた反動で、よろめきかける身体を強く抱きしめ返せば、離さないと言わんばかりにしがみつく温もりが返してくる。重なる洋服越しに伝えるのは、熱く早く音を立てて駆ける鼓動・・・ずっと耐えていた君の言葉にならない「会いたい」の言葉たち。飛び込む前に鼻腔をくすぐった甘く爽やかな香りへ、待ちきれない想いを重ねたように。

会いたいと切に願った想いが見せる幻ではなく、腕の中で吐息をくすぐる君は、確かに本物だ。森を覆う朝の霧が晴れるように、目覚め立てのぼんやりとした意識が透明に透き通るように。目の前に・・・そして心の中へもはっきりと君の姿が現れ、胸一杯に大きく膨らんでゆく。

どんな驚きも、久しぶりに会えた愛しい想いの前には敵うわけもない。シャツをきゅっと握り締めながら頬を寄せる、香穂子の髪に指先を絡めゆっくりと撫で梳き、詰まらせた言葉の先をただじっと待つしかできないのがもどかしいが。ここに香穂子がいる、今はただそれだけが大切な奇跡なのだから。以前に会ったときよりも、すこし痩せただろうか・・・だが綺麗になったと思う。


視線が熱く絡み合い、顔と唇が自然に近付く。香穂子の唇に重なるまであともう少し、というところでひらりと羽ばたく蝶の君は、足元の声を聞いてへふいにしゃがみ込み、無意識にキスを交わしてしまった。俺だけを見つめて欲しいとそう思うのに、くるくるといろんな物を捕らえたり、小さな声に素早く気付き耳を傾ける優しさは変わらないな。

大きくなったワルツにもあとドルチェにも、会いたかったしねと。そう頬を綻ばせると膝を折ってしゃがみ込み、千切れんばかりに尻尾を振って飛びつくく、青い首輪のチワワを抱き上げ腕の中に抱きしめている。愛おしそうに瞳を緩めながら鼻先を寄せ、くすぐったいよと笑いながら小さな舌を受け止めて・・・。そっとワルツを降ろした後は、赤い首輪のドルチェを抱き上げ、ドイツ語での挨拶と共に頬をすり寄せていた。


楽しそうな笑顔を見つめ目ながら、行き場の無くなった想いをどうすればよいか・・・だが静かに溜息を零し鎮めるしかできないのがもどかしい。やがて視線で語るのが届いたのか、抱き上げた一匹ずつにキスを贈り、手の平ですっぽり隠れてしまう小さな頭を撫でて立ち上がる。そのささやかな仕草さえも、鼓動が跳ねるのに充分で。スカートの裾を直す間にも、揺れる裾にじゃれつく彼らを見つめる眼差しの優しさに、俺まで心が温かくなるようだ。

待たせてごめんねと悪戯な笑顔で微笑むと、風のようにふわりと抱きつく君が、蓮くん拗ねないでと耳に囁きながら届けたのは、頬にチュッと音を立てるキス。そんなに寂しそうだっただろう・・・か、まさか気付いていたなんて。言葉とキスが一瞬にして熱を生み、顔から火を噴き出した俺は、きっと真っ赤な顔をしているのだろう。


「蓮くんお待たせ、ワルツたちにも挨拶がしたかったの。もう〜拗ねないで?ね?」
「香穂子が渡欧するとは聞いていなかったから、突然現れて驚いた。連絡をくれたら、空港まで迎えに行ったのに」
「あのね、蓮くんに会いに来ちゃったの。だって学長先生のお家に、みんなで合宿だなんて楽しそうなんだもの。蓮くんからメールをもらう度に、いいな〜私も学長先生のお家でヴァイオリン弾きたいなって羨ましかったの。でね、私もまぜて欲しくて、しばらくここで音楽の勉強することになったんだよ」
「は・・・!? 来ちゃった、では無いだろう。香穂子、大学はどうしたんだ?」 


ちょこんとふり仰ぐ香穂子は瞳に潤む滴を湛えたまま、「会いにきちゃった」と小さく赤い舌を覗かせ無邪気に微笑む。会いに来たくても、そう簡単に行き来できる距離でもないし、今は長期の休暇でもない。もう数ヶ月すればコンサートのために帰国する・・・もう少しで会えるじゃないか。だがそれに耐えられないほど、君を待たせてしまったのか・・・寂しい想いをさせているのだろうか。

どんなときでも辛さや弱みを見せることはなく、常に俺を気遣い励ましてくれた強さに甘え、君が抱える心の奥に気付けなかったのかも知れない。考えるほど深みにはまり、だが自分と君を信じるしか無くて。キチリと締め付けられる胸の奥が与える痛みに、眉を寄せて耐えるしかなかった。後先考えない行動力は昔からだが、ただ会いたかっただけで、海を越えることはしないはずだ。きっと、何か理由があるに違いない。


ふと頬に感じた柔らかさに我に帰れば、心配そうに瞳を揺らす香穂子が俺の頬を両手で包み込み、背伸びをした唇がそっとキスを届けてくれた。甘く優しく蕩けたキスは唇から温もりを伝え、全身へと広がり俺を内側から包み込んでくれる。心のままを隠さずに伝えてくれるキスは、寂しさや切なさを届けるものではなく、明るさと強さに満ちていて。ふわりと緩む頬と真っ直ぐな眼差しが、目標に進む時と同じ輝きを宿していた。


「なんてね。蓮くんに会いたかったのも本当だけど、ヨーロッパで行われる、ヴァイオリンの国際コンクールの本選に参加するために渡欧したんだよ。国内予選を通過する事が出来たの。だから音大はちょっとお休み。コンクールまではヴァイオリンを学長先生に聞いてもらって、曲を仕上げる合宿をするの。大学の先生もその方が良いって薦めてくれたし」
「国際コンクール・・・ウイーンの楽友協会で行われるものだな。コンクールに出る事は学長先生からも聞いていたが、本選に残った知らせは初耳だ。すごいじゃないか香穂子、おめでとう」
「黙っていてごめんね。国内予選が通過したら知らせようと思っていたんだけど、渡欧が決まったのも急だったの。でもあれ? 蓮くんにお手紙書いたんだけど、ひょっとして届いてないのかな?」
「いや・・・まだ届いていないが」
「えっ、うそー!」


静かな玄関に香穂子が驚く声が響き渡れば、二匹のチワワも一瞬動きを止めて、彼女をじっと見つめていた。突然の渡欧だけでなく、更なるサプライズを携え俺を驚かせてくれた君も、身を乗り出し大きな目を更に見開きふり仰ぐ。
どうして大事なことは、メールや電話で直接連絡しないんだ。夏だってお互いにすれ違い、君に連絡が取れずに俺がどれだけ心配したか、知っているだろう? 


「大事なことだから、気持を込めてお手紙書いたの。でもレッスンが忙しくて電話する時差が取れなかったし。それに可愛いイルカの絵葉書を見つけたから、どうしてもそれを使いたくて。ほら・・・前に二人で水族館に行った時、恋人同士の白イルカを見たでしょう? あの子たちに赤ちゃんができたの、ちっちゃな白イルカさん!」
「白イルカ・・・そうか、懐かしいな。もしかして学長先生の家ではなく、俺の家に送ったのか? 郵便を取りに帰るのは
週に一度くらいなんだ」
「あ! まさにその通りだよ。そうだよね、学長先生の家でレッスンしているから、家に送ってもても届くはずがないよね。学長先生には話していたから、てっきり伝えてくれるかと思ったのに。驚かせようって言ってたのは、本当だったみたい・・・蓮くんごめんね」


しゅんと肩を落とした髪がこぼれ落ち、ヴェールのように覆ってしまう・・・悲しい顔を見せないように。ふわふわと漂い浮かぶ風船が急に萎んでしまうように、喜びや元気を潜めた香穂子に周囲の空気まで色を変えてしまう。言葉の足り無さを深く反省するのは、いつも君を悲しませた後だった。次に続くはずだった言葉も吹き飛び、どうしたら良いかと心の中で慌てるばかり。

とはいえ大きく溜息を吐く俺を、すまなそうに瞳を潤ませる見つめる眼差しに弱くて、結局折れてしまうのは俺の方だが。もう意地を張って君を悲しませることは、したくない。

会えて嬉しいのは俺だって同じだ、悲しませたかったんじゃない。楽しい秘密をわくわくしながら育っている、君を想うだけで笑顔が浮かび心が弾むんだ。心配した事を諫めるよりも、真っ先に伝えるべき言葉があっただろう?