光に向かって・4



リビングやキッチン、パスルームや地下の食糧倉庫などを巡った後は、練習室や図書室も・・・一つ一つ、家のどこにどんな部屋があるか説明を受けながら、一階から二階へと巡ってゆく。シャワーや食事の時間、門限やケストナー家のしきたりといった約束事や、週末にはティータイムに音楽会をするのだという事まで。細かく説明される言葉たちを、記憶のメモ帳に刻み込む俺を、邪魔するかのように足元へじゃれつくのは、学長先生や俺の後を興味津々に付いてくるワルツとドルチェ。

歩く足の間を通り抜けたり、時には飛びついたり、開いた扉の隙間から潜り込んでは、ゆく先々で無邪気転がる彼らに、学長先生も少し苦笑顔だ。二匹の夫婦チワワまでもが一緒についてくる光景を、香穂子が見たらきっと頬を綻ばせて喜びそうだな。

どこへゆくにも何をするにも一緒なのだと、足元の彼らを見つめる眼差しは慈しみに溢れていて。大切なものが笑顔でいてくれるのは嬉しいと、温もりを注いでいた。引き取った時には元気が無かったワルツが幸せなのも、誠心誠意込めて育ててくれた香穂子のお陰だと・・・。俺と香穂子は海を越えて離れているが、せめてこの二匹には、いつでも傍に寄り添い支え合って欲しいと思う。彼女もきっと同じ想いでいるだろうから、今度彼らの写真を送ろうか。


『荷物の整理が終わったら、ヴァイオリンを弾いても良いでしょうか。あと、図書室の本をお借りしたいのですが・・・。大学図書館以上に、音楽関係の貴重な蔵書が多いので、この機会に読んでおきたいんです』
『どこでも好きな場所でヴァイオリンを弾いてかまわんよ。だが夜は音出しを控えるように。この国には静かな時間を守る法律がある事は、レンも知っておると思うがのう。街中はそれほど厳しくはないが、郊外になるとやっかいでのう』
『静まる時間、ルーエ・ツァイト。昼の13時から15時と、夜の22時以降は生活の音も控えるんでしたよね。香穂子も時差を超えて電話をすると思うので、気を付けるようにと伝えておきます』
『一階にある練習室は防音だから、遅い時間にはそちらを使うように、ピアノがある部屋は、他にリビングがあるから、ヴィルと喧嘩せんよう仲良く使ってくれ。図書室はいつでも使って構わんよ。そういえば香穂子は図書室でお茶を飲んだり、練習するのが好きだったのう。アンティークな長ソファーと古城のような雰囲気がお気に入りで、お姫様になった気分だと言っておったわい』


一階を巡り終わると、階段を上り二階の客間へ。しばらくの間はここがレンの部屋じゃよと、肩越しに振り返りそう言った学長は、静かにドアを開くと先に部屋へ踏み入れ、正面の窓へと真っ直ぐに向かう。覆っていたレースのカーテンをそっと除け、白い木枠の窓を開けると透明な秋風が通り抜けた。新しい主の歓迎だろうか、差し込む光が部屋に溢れ、命が吹き込まれたように止まっていた時が流れ出す。


与えられた客間の一室は、かつて何人もの門下生がこの家で音楽を学ぶために暮らしていたそうだ。香穂子と同じように、リビングの写真へ飾られていた誰かも、以前に使っていたのだろう。部屋の中に譜面代も用意されているのは、音楽を学ぶ家ならではだな。広めのベッドの他には、深い飴色に艶めく収納用のチェストなど、古き良きヨーロッパの暮らしを伝えるアンティークの家具たち・・・。

香穂子にメールを送るときに必要じゃろう?と悪戯な瞳が笑みを浮かべ、クラシカルなデザインの机には、パソコンが使えるように回線も整えられている事も教えてくれる。ノートパソコンを持ち込めば良かったな、香穂子にメールを送ることが出来るのがありがたい。


リビングの窓は木枠の窓がフレームとなり、庭の緑や花を写真のように切り取っていたが、二階の部屋から見えるのは広がる空と背の高い緑のコントラスト。俺が暮らす家は街中だから、窓の外には石造りの建物が多くあるけれど、同じ市内でもほんの少し場所が変わるだけで景色も変わるんだな。窓を開けると庭の景色が綺麗に見えるのだと、光を背負いながら誘う声に導かれ、足元に鞄とヴァイオリンケースを置くと窓辺に肩を並べた。


『ところでレン、隣は誰の部屋だと思うかね?』
『隣の部屋? 学長先生夫妻の寝室は廊下の突き当たりですし、この並びなら同じ客間でしょうか。ヴィルヘルムが使う部屋・・・でしょうか』
『ちと惜しかったのう、ヴィルの部屋は同じ客間でも少し離してある。今回は特別サービスじゃ』
『特別、サービス?』


一体何が言いたいのだろうか。顔を寄せながら声を潜める質問の意図が掴めず、遠回しなじれったさに眉を寄せるしかできない。二人しかいないのだから、普通に話しても誰に聞かれる訳ではないのに、あえて声を潜め内緒話をするのは、嬉しい興奮を抑えるために違いない。何か楽しい悪戯を思いついたような、俺が驚くのを楽しみに待つような・・・香穂子と同じこの笑顔を見れば分かる。期待に高まる鼓動が、この先に待つ嬉しい知らを言葉無く伝えてくれるんだ。


開け放っていた窓を閉めると踵を返し、答え合わせじゃと頬を綻ばせながら、颯爽と歩き出す背中を慌てて追い部屋を出る。一つ右隣の部屋の前に立ち止まると、心が駆けだしそうに高鳴るこの感覚は、香穂子に会う前と似ている・・・ということはまさか!? 


『レンが使う部屋の隣は、夏にカホコが使っていた部屋なんじゃよ』
『・・・っ、香穂子の部屋。ここが・・・』


眼差しで真っ直ぐ問う俺を見つめ返し、今日は特別に内緒だぞと立てた人差し指を唇に当てて。扉をノックすると瞳で語りかけながら、静かに扉を押し開いた。学長先生が浮かべる無邪気な笑顔に、鼓動が高鳴り気持ばかりが焦ってしまう・・・ひょっとしたら扉の向こうに、香穂子がいるのではと思えてくるんだ。君は俺を驚かせるのが得意だから、部屋の扉の向こう側で、わくわくしながら待っているのかも知れない。開いた瞬間に僅かな隙間をもすり抜け、子犬のように駆け寄り飛びついてくるような気がする。

心に浮かんだ無邪気な姿はやがて強い願いに変わり、光溢れる扉の先を祈る想いで見つめずにはいられない。だが日差しの中に彼女の姿はなく、頭では理解しているはずなのに、現実に落ち込む自分に気付き、溢れる苦笑が小さな溜息に変わった。心の声が聞こえてしまったのだろうか、名前を呼ばれふと我に返ると、良く部屋の中を見渡してごらん・・・そう言った学長先生が穏やかな微笑みを浮かべている。彼女は確かに今でもここにいるから、探して欲しいと。


『この部屋だけはこれから先もずっと、カホコのものじゃ。いつ彼女がこの家に戻ってきても良いように、暮らしていたそのままの姿を留めてある』
『特別サービスというのは、香穂子の部屋だったからなんですね。彼女はここにいませんが、今でも暮らしているような温もりを感じます。だがもしも同じ屋根の下に暮らしてても、部屋は隣になったのでしょうか』
『さて、それはどうかのう。こっそりカホコ部屋を二人で見たのは、妻には内緒じゃぞ。これ以降は、むやみにレディーの部屋へ入ってはいかんからのう。ワシだって入った事はないんじゃ』


香穂子は日本にいるのに、なぜここにいるというのだろう。ひょっとして秘密のサプライズがあるのではと、微かに期待しながらも、そんなはずはないと心に言い聞かせて。だが言葉の意味を不思議に思いながら一歩踏み出す俺の心に囁き、記憶の扉をノックしたのは、机の上に置かれた籐製の大きめのバック。まだ小さな子犬のチワワを鞄に入れて散歩をしたり、俺の家までやって来たな・・・どうりで見覚えがある筈だ。


『子犬だったワルツはカホコの鞄に入るのが大好きじゃった。帰国するときも、カホコの鞄に入れば一緒に連れて行ってもらえると思い、何度も鞄に隠れたり潜り込もうとしておったよ。大きくなってしまったから、もうその鞄には入らないが、いまでも隙あらば中に入ろうとするんじゃ』
『疲れて動かなくなった子犬を運べるように、学長先生夫妻がプレゼントしたんでしたよね。彼女を迎えに行った時に、食事の席で披露したのを覚えています。犬の散歩をしながら俺の家にやって来た時には、必ずその鞄にワルツが収まっていました。俺を人見知りする犬を大人しくさせようと、随分苦労していましたが』
『ベッドの枕カバーや熊の縫いぐるみ、棚にある小物のいくつかはカホコがレンと散策したとき、一緒に買い求めた物じゃろう? 持ち帰らずに自分の分身たちあえて残していったのは、お前さんと離れたくない願い・・・いつかまた来るのだという強い気持ちの現れじゃよ』


夏のバカンスに香穂子が滞在したときのまま、時間を留める部屋に心のアルバムが開き、二人で過ごした懐かしい日々が蘇る。今なお暮らしているかのような命の鼓動と温かさ。この部屋に染み込むのは、彼女が刻んだたくさんの想いや、どんな困難にも負けない真っ直ぐな意志、そしていくつもの涙まで・・・。


いつでも香穂子が第二の我が家へ帰ってこれるように、ベッドリネンや部屋を常に整え、窓を開けて風を通し光を満たしているのだと。遠く懐かしそうに愛しい眼差しを緩める学長先生が、引き寄せられるようにゆっくりと奥へと歩んでゆく。先生の眼差しにも香穂子の姿が映り、奏でるヴァイオリンの音色が聞こえているのかも知れないな。

大切に想われているんだな、君は。香穂子の努力と素直さが作り出した音楽と家族の絆。ここで生まれたその温かさが、透明な殻を破り大きな翼を得て羽ばたくようになった、香穂子のヴァイオリンになったのだろう。俺の音も変わるだろうか、君のように大切な何かを見つけられるだろうか。


香穂子の音楽が生まれる源、瞳を閉じ心の波長を重ねれば、熱いものが身体の奥底から沸き上がってくるようだ。俺の中で君の想いが一つに溶け合い、愛しさに変わる・・・この気持を弦に乗せたら、どこまでも遠く海を越え君の心へ届けよう。