光に向かって・3



プロのヴァイオリニストとして、初めて数カ国を渡って行う大きなコンサートまでの間、ヴァイオリンに集中し、さらに学長先生の元で学ぶ為に暫く住み込むことになった。大学での講義やレッスン、収録やコンサートなどの予定がようやく落ち着いた週末に、大きな荷物とヴァイオリンケースを持ってケストナー家を訪れれば、元気の良い二匹のチワワと婦人が「お帰りなさい」と笑顔で俺を出迎えてくれた。

指定された時間通りに訪ねたものの、学長先生は庭でペンキ塗りの真っ最中だったらしい。約束の時間なのにとすまなそうな婦人に通されたリビングで、ご覧なさいなと示された窓越しには、緑の奥でペンキバケツと刷毛を手にしゃがみ込む背中が見えた。香穂子が住んでいた夏以来、久しぶりに俺やヴィルヘルムという下宿人が来るから張り切っているのだと、微笑む婦人に焼き立てのスコーンと紅茶を振る舞われ、ひとまず荷物を置き寛ぐひととき。

落ち着いたアンティーク家具とフローリングの床、それと対照的な白壁と窓の白い木枠が照らすリビング。まるでフォトフレームのような窓の外には、爽やかに澄み渡る秋空は晩秋になるにつれて、少しずつグレーのくすんだ色合いを深めてくる空が広がっていた。だが寂しさよりも、どこか郷愁を誘う色合いは落ち着くし、心が安らぐのは何故だろう。そう・・・例えるならば、午後を寛ぐ紅茶の色。


ダークオークの暖炉上には、シルバーのキャンドルスタンドが二つ対に置かれていて、壁や棚にはフォトフレームに収まるたくさんの写真たちが飾られていた。日本の実家もリビングに家族の写真を飾っていたな・・・そう懐かく想い出し、ソファーから立ち上がると、絨毯を静かに歩きながらゆっくり暖炉へと近付いてゆく。

暖炉の火箸が手に届く距離に置かれた樹の椅子。そしてソファーが囲む中央に置かれた小さな円卓には、色鮮やかな庭の花が花瓶に生けられ、写真の中にいる彼らに息吹を与えているようだ。この場所で寛ぎながら香穂子も、学長先生や婦人に囲まれヴァイオリンを奏でていたのだろうか。

暖炉の近くにあるコーナーテーブルには、歴史を伝えるセピア色や白黒の写真があり、ひときわ立派な額に大切に飾られているのは、セピア色に褪せた二人の婚礼写真だった。他にも歴代の音楽家たちや若かりし学長先生と婦人、そして今ではプロの音楽家として世界に名を馳せている、ケストナー家の小さな子供達まで映し出している。静かに語りかけてくる彼ら写真の数だけ、この家には音楽が刻まれているんだな。


飾られたフォトフレームを追いながら一歩、また一歩と少しずつ移動してゆくと、日当たり良い窓辺に飾られた新しいフレームに視線が吸い寄せられる。光を集めるクリスタルのフレームに収まっていたのは、ヴァイオリンを抱える笑顔の香穂子だったから。彼女を両側から挟むように学長先生と婦人が寄り添い、まだ小さいチワワの子犬だったワルツが学長先生の腕に抱きかかえられていた。夏の間に香穂子がこの家で、ホームステイをしながら音楽を学んでいた頃の記念写真だな。


些細なことから電話越しに口論となり、お互いの意地から謝るきっかけを掴めないうちに慌ただしさに呑まれ、夏を迎えたあの頃が遠い昔のように思えてくる。俺に謝ろうとした香穂子が、悩んだ末に俺に内緒で学長先生の家に世話になり、連絡が取れなくなっていた彼女を必死に探していたな。俺には音楽がある・・・そう言い聞かせてはいても、彼女の存在無くしては俺の音楽に意味は無くて。失うかもしれない危機に改めて、心にある大切な存在と愛しい想いに気付いたんだ。

俺がCDの収録をしていた時期と香穂子の渡欧が重なったことから、見つかった後も学長先生の家で生活を続け、空いた時間を見つけて俺過ごす・・・だが、例え一つ屋根の下にいられなくとも、近くにいる事の出来る幸せが何よりも嬉しかった。


滞在は一ヶ月足らずだったが、得たものがどれだけ大きくその後の支えになったかは、奏でるヴァイオリンだけでなくこの一枚が教えてくれる。集う皆の笑顔が同じ幸せに溢れていて、溶け合う空気は調和の取れたアンサンブルのように一つになり、心の繋がりの深さが伝える音楽と家族の絵。そこにあるのは紛れもなく心を一つに溶け合わせた家族写真だと思う。写真を照らす柔らかな日だまりに似た、優しく溶け込む温かさが溢れているようだ。


ここを訪ねる前夜に事のいきさつを香穂子へメールをしたら、翌朝すぐに驚きと興奮の返事が電話で返ってきた。これで蓮くんも家族だね、おめでとうと喜ぶ笑顔の声。だが夏の日を懐かしく思い出し、自分もそちらへ行きたいと羨みながら、拗ねて頬を膨らます香穂子が可愛らしくて、つい頬をが緩んだのは電話越しでの秘密だ。君が来るのを待っていると・・・最高の演奏を奏でる為にここで頑張ると真摯に誓うと、俺の想いが伝わったのか、甘い吐息を零す微笑みを電話越しに咲かせてくれた。

学長先生の家に暮らしながら音楽を学ぶのは、音楽以外に家族の一員としてやることがたくさんあるらしい。見たり体験したり感じる全てが心の豊かさに変わり、いつしか自分の音楽なるから、蓮くんの音楽が今よりもっと素敵になると思うのと。

家族というのは、この家を訪ねるたびに学長先生や婦人が「おかえりなさい」と出迎えてくれるように、異国での心の故郷を手に入れた事。そして、もう弟子を取らないと言った名ヴァイオリニストが門下生として、認めてくれたことの二つを意味しているのだろう。一歩先を歩む彼女からのおめでとうが、嬉しくくすぐったくて、俺も頑張らねばと力が沸いてくるようだ。


香穂子が自分の道と音を見つけたように、俺はどんな音楽を見つけるのだろう。コンサートまでの期間は残り少ないが、新しく見つけた俺の音で最高の音楽を奏で、君に想いの全てを伝えたい。

今はまだ夜が明けたばかりの小さな光だが、真っ直ぐ求める先に、俺たちの道が交わると・・・君も同じように感じてくれているのだと、信じている。香穂子が笑いかけるフォトフレームに手を伸ばし、愛しい想いと誓いを込めて見つめると、写真の中で瞳と頬が眩しく綻び、元気良く頷く声が心に響いた。




「・・・! このチワワたちは、確かワルツと・・・」


手元に引き寄せたフォトフレームに魅入りる俺を、現実に引き戻したのは、甲高く元気な犬の鳴き声だった。我に返って肩越しに振り返れば、色違いの首輪をはめた二頭のチワワが勢い良くリビングに駆け込み、俺の足元へくるくるとじゃれついてくる。やがて前足で必死に飛びつきよじ登ろうとする、彼らの歓迎に少しだけ困っていると、首に巻いたタオルで汗を拭き取りながら、彼らの後を追ってきた学長先生が、片手で一匹ずつ器用に抱きかかえて引き離してくれた。


『レン、待たせたな。予定ではもっと早くペンキ塗りが終わるはずだったんじゃが、約束の時間に遅れてすまなかったのう』
『・・・学長先生』
『ほれほれワルツにドルチェ。嬉しいのは分かるが、熱烈な歓迎はほどほどにせんと、レンが困っておるぞい』
『ドルチェ? この相方のチワワですか?』
『アルバムでは見せていたかな、市内にある犬の施設から引き取ってきた、ワルツの奥さんじゃよ。レンは会うのが初めてじゃったかのう。女の子だから特に懐いておるわい・・・ほら、ワルツが焼き餅焼いておるぞ。カホコに相談したら、甘くて可愛い女の子に育って欲しいから、ドルチェと名付けてくれたんじゃ。どちらも音楽繋がりで、良い名前じゃろう?』


楽しげに踊るように飛びつく彼らの歓迎に少しだけ困っていると、首に巻いたタオルで汗を拭き取りながら、彼らの後を追ってきた学長先生が、片手で一匹ずつ器用に抱きかかえて引き離すと、解放された安堵の溜息が溢れてた。だがどうも憎めない無邪気さは、まるで真っ直ぐ駆ける勢いのまま、懐に飛び込んでくる香穂子みたいだな。彼女が名前を付けたと聞き、急に愛しさが沸き上がる。

二匹並ぶと見分けが付かないが、首輪の色が青がワルツで赤がドルチェなのだと。それぞれ犬を持ち上げて示しながら、自己紹介をしてくれた。俺が香穂子に近付くと、必死に唸って吼えていた子犬の頃とは大違いだな。仲良い二匹がじゃれる姿を香穂子が見たら、きっと喜ぶに違いない。


『ヴィルヘルムは実家で急に来客があって、演奏することになったらしい。今日は遅くなりそうだから明日の午後にこちらへ来るそうじゃ。今晩は一人で寂しかろうが、練習室も図書室も、レンが好きに使い放題じゃぞ』
『別に、寂しくはないですが・・・』
『相変わらず厳しいのう、まぁそう言わずに。ヴィルも楽しみにしていたから、明日はその分まで勢い良くやってくるじゃろうな。ゆっくりできる今のうちに、一人の時間を楽しんだり寛いでおくことじゃな。ではさっそく部屋を案内しよう、こちらじゃ』


持っていた写真が香穂子と学長先生夫妻のものだと気付くと、ワシら夫婦の宝物じゃと自慢げに胸を張り、隣に寄り添い首を伸ばして共に眺めながら瞳を緩ませている。会いたくなったのかね?と悪戯に微笑まれ、眼差しに心の奥まで見透かされているようで、顔から火が噴いてしまいそうだ。そうですね、会いたいです・・・と素直に返事をすれば、ワシもじゃよと困ったふうに眉根を寄せられてしまったけれど。


抱きかかえていた二頭の子犬を、お前たち重くなったのうとしみじみ語りながら床へ放つと、一つにじゃれ合う固まりとなってリビングの外へ駆け出してゆく。いつでも共にいられる夫婦犬が少しだけ羨ましく感じ、だが離れている俺たちの変わりに、いつでも中睦まじくいて欲しいと願わずにいられない。きっと香穂子も同じように願っているから、音楽にちなんだ名前を付けて、海を越えた日本からも大切に慈しんでいるのだろう。


『そうじゃ、これからあの二頭の散歩や世話するはレンの仕事にしようかの。カホコの分身だと思えて可愛さが増したんじゃないのかね、きっとワルツを育てていたカホコモ喜ぶわい』
『・・・は!? 俺が、チワワを二頭とも世話をするんですか?』


賑やかなチワワたちを見送ると、肩越しに振り返りながら爽やかに告げた言葉に、驚き目を見開く俺へ皺に刻まれた笑顔の瞳がにっこりと注がれたら、反論できず固まるしかない。音楽に集中するために、ここへ来たんじゃなかったのか? だが、生活の全てが音楽になるのだと言った香穂子の言葉が蘇り、問いかけた言葉を喉元で押しとどめた。散歩の他には、何が待っているのだろう・・・料理だけは苦手だから勘弁して欲しいのだが。


写真立てに飾られている、この家で学んだ数多くの音楽家たちも、香穂子と同じような生活をしながら音楽を学んだのだろうか。溜息を零していると先を歩く学長先生が振り返り、どうしたのかね?と不思議そうに小首を傾げられ、慌てて鞄とヴァイオリンケースを背負い後を追った。