光に向かって・2



この音色を君に届けたい・・・。

瞳を閉じて心の目を開けば、作りだす音楽の世界の中に、君はいつでも鮮やかな色彩で浮かび上がる。今もほら・・・ベンチよりも大好きな、柔らかい芝生の上に座っているだろう? 表情はくるくると豊かに変わり、真っ直ぐ見つめる大きな瞳は、ひたむきで純粋な心のままを映し出し、どの泉よりも透明に澄み渡る。

音で会話をするイルカのように、音楽も心の会話だよねと言ったのは、香穂子・・・君だったな。水族館の白イルカを眺めながら、ヴァイオリンを弾いたらイルカと話が出来るかなと、楽しげに瞳を輝かせている君から、俺はひとときも目が離せなかったけれど。だがこうして君を想い浮かべながら大切に奏でる音楽も、電話や手紙のように心を届けてくれる会話に違いない。

想いを集めた煌めきの欠片は弦に乗り、ヴァイオリンの音色となって、目の前に座りじっと耳を傾ける香穂子へと降り注ぐ。受け止めながら微笑む君も、心地良いと感じてくれているのだろうか。

どんなに遠く離れていても、ヴァイオリンを弾けば香穂子の存在を近くに感じられるのは、届けたい相手の事を日常のどのひと時よりも、君の事を深く強く考えるからだと思う。思うほどに君が俺の中で大きく膨らみ、重なり合う音色のように一つに溶け合うんだ。だから、ただ一人孤独に練習するのとは違い、演奏している俺までこんなにも、温かく優しい気持ちになれるのだろうな。


笑顔の香穂子が心で歌う声に合わせ、音楽大学の構内に多く佇む菩提樹の樹も、葉を黄金色に輝かせ秋風に舞い踊らせている。ヴァイオリン科の学生が多く集う講義棟裏の樹もそうだが、リンデンバウムは恋人達を結ぶ愛の樹と言われているらしいから、きっと俺たちを繋いでくれているのだろう。ベートーベンのロマンス二番。甘く優しいメロディーは遠い地へのあこがれを歌うように。翼を得て羽ばたく音が、俺のあこがれである君の元へ届くように、心を込めて奏でよう。



弓が最後の一音を弾き終わると、優しい余韻の中で香穂子が満面の笑みの拍手を送ってくれた。温かく染み渡るホールを埋め尽くす大歓声と同じくらい、俺に大きな力をくれる大切なたった一人の拍手。だが、音の世界から現実へと引き戻されると、香穂子の姿は次第に霞み始め、拍手をする穏やかな老紳士へと重なるように変わっていった。


『ブラボー。レン、良い演奏だったね。それに優しい顔をしておったぞ、レッスンでは、なかなか見ることの出来ない姿じゃな。ベートーベンのロマンス二番・・・カホコに音色を届けていたんじゃろう』
『か・・・学長先生、いつからそこにいらしたんですか?』
『演奏が始まってすぐくらいだろうかのう、最初から聞けずに残念じゃ。もうすぐお前さんのレッスンだから、迎えに来たんじゃよ』
『・・・っ、すみません。もうそんな時間でしたか!?』
『いやいや、まだ時間は充分にあるから慌てずとも良いぞ。講義棟にあるワシの部屋へ戻る途中に、偶然通りかかったんじゃよ。行き先が同じなら一緒に行こうと思ってな。練習室を使うことの多いレンが、外で演奏するのは珍しいのう』


霞んだ焦点が視界を取り戻した頃ようやく我に返り、楽器を降ろして佇む俺の元へ、笑みを浮かべる目の皺を深く刻ませながら、拍手をする学長先生がゆっくりと歩み寄ってきた。 音楽と現実の境目を深く漂うあまり、なぜ香穂子がいなくなったのか・・・いつの間に学長先生がいたのかと、沸き上がる疑問さえも、心地良さの中に消えてしまう心地がする。心へ確かに残る温かさと君の香りが、繋がりの証を教えてくれるから、夢から覚めた切なさを優しく包み込んでくれるんだ。


足元のヴァイオリンケースに楽器を置くと、落ち葉を踏みしめながらやって来た学長先生が目の前に佇み、じっと俺を見つめてくる。心の奥まで見透かされているようで、呼吸も身動きも取れない一瞬が過ぎると、ふわり笑みを浮かべ楽しそうに頬を綻ばせてしまう。俺の演奏に、何か気になる事でもあったのだろうか・・・。授業でのレッスンが終わった後に、特別に学長先生からレッスンを受けることになっていたが、心構えもなく一足早くやってきた緊張に鼓動が走り出した。


『久しぶりにレンのヴァイオリンを聞いたが、また音が変わったな』
『俺の音が・・・ですか?』
『心が成長すると音色も変わるんじゃよ。壁を乗り越えたときや自分の殻を破ったとき、あるいは新しい一歩を踏み出したときなど・・・。カホコからは良い返事をもらえたんじゃろう? お前さんは正直じゃからヴァイオリンが全てを語っておる』
『そ、そうでしたか・・・気付きませんでした。俺の音が変わったのだとしたら、香穂子のお陰だと思います。』
『アンコールの一曲だけだが一緒のステージに立つのだと、ワシにもカホコから電話をもらったんじゃよ。カホコも頑張っておるようじゃな、今度大きなコンクールに出るのだと張り切っておったわい。感じた力強さと同じ物を、レンのヴァイオリンからも感じたんじゃ』
『香穂子も、音楽が好きだと・・・ヴァイオリンを愛しているのだと、そう言っていました。自分には音楽があるという気持が支えてくれるように、香穂子の言葉が嬉しかった。力強くなれたのは、彼女と俺の音楽が繋がっていると感じるからなのでしょうね』


ワシもお前さんたちと一緒に日本へ行きたかったと残念そうな学長は、寂しい想いばかりもしておれんと頬を綻ばせ、香穂子の近況を語り嬉しそうに語っていた。そうだな、会えない寂しさを抱えるだけでなく、いつか道が交わるための、前に進む力に変えなくては。少し話したいことがあるから、一緒にいても良いかという問いに快く返事を返すと、ヴァイオリンケースに楽器を片付け荷物をまとめ、風に背を押されながら肩を並べ、遠くに見える講義棟に向けてゆっくりと歩き出す。

右腕の時計を見ると確かにまだレッスンには少しだけ早かったが、気分転換と心の栄養補給は済んだから大丈夫だ。それにレッスン以外にも、学長先生との会話一つや過ごす時間の中にも、音楽に必要な大切なものがたくさん溢れているから。

少しずつ日が暮れかける午後の緑地を、静かな心地で歩くと自分自身が見えてくる。邪魔をしてすまなかったと眉を寄せる学長先生は、練習だけでなく香穂子との音楽での語らい・・・二つに対して告げていたのだと気づき、見抜かれていた照れ臭さに頬が熱くなるのを感じた。



『学長先生も、ご夫妻でクリスマスに行う日本の公演に来日するのならば、またすぐに会えるじゃないですか』
『そうじゃな、季節が過ぎ去るのは早い。ついこの間まで夏のバカンスだと思っておったのに、あっという間にクリスマスがやってくる・・・二人の演奏が楽しみじゃな。レンも、本番にむけてやらねばならないことがたくさんじゃろう。これからは学生としてではなく、音楽家としてどう生きてゆくかが大きな問題じゃな』
『はい。大学でもソリストとして本番に向けた練習や楽譜の解釈、演奏方法や表現を追求しています。そして自分の内面世界も知り、自信を持って舞台で表現する・・・。ソリストとしての可能性に挑戦していきたい。学業と仕事の両立は難しいかも知れませんが、これからも練習や訓練を続け、信じて待ってくれている人のためにも、強い気持ちを持ち付けたい』


ヨーロッパの音大を出たりコンクールで良い成績を収めても、すぐにたくさんコンサートがあるわけでもない。卒業後は生活のために試行錯誤しなくてはならなくなるから、純粋に音楽に集中できるのは、音大での生活がが最後だろうな。門下生にはコンサート活動を頻繁にする者もいるが、皆自分で広告やアピールできる資料を、事務所やコンサートホールに送るなどして、積極的に動いているそうだ。大きなコンサートを行い、CDも発売できた俺は、恵まれている方だと思う。

現実に甘んじることなく、少しずつこれからの道が開かれるように、俺も彼らのように自分から動かなくてはいけないな。




相手の話を聞きながら自分をも見つめ、周りの景色が見れるように、ゆっくり歩いた構内の緑地を抜ければ、やがて森が開け小道が途切れる。辿り着いたツタの絡まる最も古い石造りの建物が、ヴァイオリン科の学生が講義を受けたりレッスンを受ける講義棟だ。日だまりだった緑地から一歩建物に入れば、かつては皇帝の離宮だった建物をそのまま残すこの場所は、音楽大学の中でも歴史が止まったかのように、緑も空気も独特な静けさに包まれている。

薄暗く冷えた回廊は苦手じゃと肩を竦める学長先生は、背中越しに俺へと語りながら中庭へと一歩先に歩み出していった。正面入り口の真裏に位置する学長先生の部屋に行くには、回廊を半周するよりも近いだろう。それに俺も、灯りが少ないあの暗く響く長い回廊はどうも苦手だ。怖いものがが苦手な香穂子は、冬にこの大学へ見学に来たとき、昼間でも暗いあの回廊を一人で歩くのを嫌がっていたな。そう想い出を語りながら肩を並べると、香穂子の名前に慈しみ溢れる笑みを零し、頬と瞳が日だまりに溶けてゆく。

君の力はたとえこの場にいなくても、温かな気持にさせてくれるんだ。


『一つの音楽を作り上げるのには、長い時間が掛かります。だが次に日本へ帰るのはコンサートの直前になってしまいます・・・それまでに香穂子とじっくり合わせ、曲を作り上げたかったのですが、距離の遠さがもどかしいです』
『プロになれば、多くあることじゃ。ソリストでもアンサンブルに携わることも、これから先にあるじゃろう。全員が空いている日を見つけ出すだけでも一苦労じゃから、リハの日程まで充分に取れるかどうか、ヒヤヒヤものじゃったよ』
『それぞれの技量や、集中力が試されるわけですね。香穂子だけでなく近くにいる筈のヴィルヘルムとも、伴奏を合わせるだけで、お互いの調整が難航しています』
『練習をするために国から国へととんぼ返りしたり、誰かの本番が終わるのを待ってから、夜中に練習などもある.。今は移動手段も豊富になったし、速度も速くなったからありがたいのう。昔はそれこそ何ヶ月も家を空けていたから、妻には寂しい想いもさせてしまった』


煌めく水飛沫を眩しそうに見つめる横顔は、どこか遠く懐かしそうに皺に刻まれた目を細めていた。音楽家としての貴重な話にじっと耳を傾ける俺に気付くと、結婚してからの方が寂しさとの戦いだったと、視線を戻して微笑みを浮かべる。音楽に関わり続けたい想いに対応できる能力と忍耐が、自分だけではなく伴侶にもあれば、結婚生活は幸せに導かれてゆくだろう。そう真摯な眼差しで語りながら、瞳から心へ語りかけるように。

今俺と香穂子が離れながらも絆と想いを深めているのは、無駄ではないんだな。経験から来る一言は確かな重があり、先を照らす光となる。穏やかな瞳が、静かに熱い滴を心に注いでくれた。道が交わった先でも、音楽活動で寂しい想いをさせてしまうかも知れないが、耐えている今があるから、この先に幸せが待っている・・・そう信じたい。


『ところで学長先生、俺に話とはどんな事だったんですか?』
『おぉそうじゃった、大事な話があったんじゃよ。レン・・・暫くワシの家に住み込まんかね?』
『・・・は? 学長先生の家に?』
『今あったスケジュール云々の話にも関係するが、ヴィルの奴は合宿だと喜んでおったぞ。今回のコンサートが落ち着くまでの間だけで構わんよ。いつでも好きなときに練習できるし、二人とも合わせやすいじゃろう。時間の許す限り、ワシもお前さん達の演奏も聴けるしのう。何よりも音楽のことだけを考えて、演奏に集中できると思うんじゃ』
『夏のバカンスで学長先生の家にお世話になった香穂子も、一度は住み込んだ方がいいと、俺に熱く語ってくれました。学長先生の音楽はレッスン室だけで学べるものではなく、生活の全てから心で感じ取り、音にするのだと・・・』


世界で活躍する演奏家の多くには、かつて学長先生の元で学んだヴァイオリニストも多く、弟子は必ず住み込んで音楽を学ぶという独自の方針があるらしい。ヴィルヘルムの兄夫婦も、かつては学長先生の家に住み込んでいたのだと、以前に学長先生の家を共に訪ねたヴィルヘルムが、羨ましそうに教えてくれたのを思い出す。

CDを収録するとき少し彼の家に世話になったから、共同生活は初めてではないが・・・一体どうなるだろうか。
同じ家に住み込むのなら、慌ただしい互いのスケジュールを気にすることなく、伴奏や二重奏を合わせられるからありがたい。それにコンサートや試験前の大切なときに、音楽だけに集中できる環境は確かに嬉しいし。


香穂子が住み込む事になったいきさつは、元を正せば俺たちの喧嘩が原因だったな。だがそこで過ごした日々に、彼女が得たものがどんなに大きかったかは、真っ直ぐな瞳や心に宿した決意の光や、輝きを増した演奏を聞けばすぐに分かった。ヴァイオリンの技術や音楽の知識だけでなく、庭で育てる花や料理、この国や街の暮らしについてなども・・・。
数倍にも知識を深め、嬉しそうに語る姿を眩しく誇りに思いながら、少しだけ羨ましいと感じることがあったのは確かだ。

ただ奏でるだけの音には意味が無く、音にも命が宿るからこそ人へと伝わり、想いが大きく育ち膨らんでゆく。
温かな心の触れ合いが生み出す優しく強い音色・・・音楽は心で奏でるのだと。


『学長先生、しばらくの間よろしくお願いします』
『おぉそうか、受けてくれるのかね。さっそくヴィルヘルムにも報告せんとな、言い出したあやつも喜ぶじゃろうな』
『・・・やはり、ヴィルヘルムの発案でしたか。学長先生は、また彼の企みに協力するんですね』
『まぁ本音を言うと、レンがワシの家にくれば、様子が気になるカホコが頻繁に電話や手紙をくれると思ったんじゃよ。悪い話ではないじゃろう? レンは料理が苦手だから、音楽が忙しくなると食生活が心配なのだと言っておったぞ』
『体調管理もヴァイオリニストの勤めですから、食事にも気を遣っているのですが・・・どうも香穂子を心配させてしまいます。近くに住んでいたら、毎日ご飯を作りに行くのに・・・と』
『そのときはぜひ、俺の所へ来てくれと言うのじゃぞ。ワシもカホコの手料理が恋しくてのう、寂しさというか、なかなか子離れが出来んわい。賑やかになるのう。これでカホコが、私も行きたい!と渡欧の気分になれば、万々歳じゃ』
『やはり、それが狙いでしたか』


音楽大学では学長先生から直接指導を受けるクラスが無いため、素晴らしいソリストである学長先生の音楽を、生で学べる貴重な機会は魅力的だ。住み込んで音楽を学べと言うことは、香穂子と同じく弟子として見てくれているのだと、そう思って良いのだろうか。あぁ、それに・・・俺が学長先生の家に住み込んだら、羨ましいと頬を膨らませて拗ねる香穂子が、毎日のように電話をしてくるかも知れない。どんな反応をするか、俺の音楽もどう変わるのか・・・楽しみだな。


香穂子が第二の我が家と親しみを込めている、学長先生のケストナー家に住み込めば、興味津々な香穂子へいろいろと話題を届けることも出来そうだ。彼女が暮らしていた部屋は今でもずっと、香穂子だけの部屋として大切に管理されれている層だから、ワルツを連れて彼女が暮らした奇跡と音楽の源を辿るのも、良いかも知れない。


階段を上った廊下の先にある、ダークオークの重厚な扉を開けた学長先生が、さぁどうぞと俺を招く。レッスンを始めようか、そう語る眼差しは穏やかな老紳士から、凜と厳しい光を宿した音楽家のそれへと変わっていた。