遙か遠き君へ・後編

『蓮くん お元気ですか?』


挨拶から切り出されたメールはこちらの様子を伺う内容の他、日々の出来事や最近の日本のこと、通っている音大の事などが細かく書かれていた。語学の授業は英語の他にイタリア語が必修なのだという。恐らく、音楽の表現で良く使われるからだろう。ドイツ語だったら良かったのに、と残念がる様子が伝わって来て、思わず微笑んでしまう。


『・・・だからね、ドイツ語は自分で勉強してるんだよ。それに今更だけど蓮くんのいる国について、私ってば全然知らなかったよ。ドイツの国の事も調べてるんだけど、いろいろ分かると面白いね。蓮くんの事が分かりたいから、もっと知りたいと思う。どこに住んで、どんな物を見て感じているのか・・・。同じ目線で同じ物を見て応援したいから・・・・・・』


いつのまに・・・。
自力でドイツ語やこの国の事まで勉強していたとは。
どんな時も逆境を前向きさで進もうとする強さが、いかにも香穂子らしいと思う。
それに俺を想ってというのがたまらなく嬉しくて、何度も読み返すたびに心に熱いものが込み上げてきた。
どこか一方通行で隔たりのあった互いの距離が、もっと近くなって交わったような気さえしてくる。
本当に実際この場で、同じ物を見たり感じたりする事が出来れば、どんなに楽しいだろうか。
君に見せたいものや一緒に訪れたい場所が、たくさんあるんだ。


『ヴァイオリンも頑張ってるよ。国内の小さいものだけどコンクールに出ることになったんだ。本当は蓮くんに聞きに来て欲しいけど、忙しくて戻って来れないでしょ? その分蓮くんのいるドイツまで音色を届けるからね』


月森は香穂子の成長に驚きと、そして嬉しさを隠せない様子でモニターをじっと見つめていた。


君の自由な翼は、俺のいない所でも大きく羽ばたいているんだな・・・大空へ向かって。
香穂子も頑張っているんだ。自分も頑張らねばならないな、と思う。
こんな所でつまずいたまま、いつまでも悩んで居られないと、心に元気が湧いてくるようだ。
乾いた心に水がゆっくりと染み渡るように。


そうだ、コンクールの本選の日取りは・・・・。


「あ・・・明日!?」


メールで送られた日程とカレンダーを慌てて再度確認して、力の抜けたように溜息を吐いた。
それはまた急な話だ。戻って来いと言われても、時差があるし今からでは確実に間に合わない。
彼女の事だ、きっとぎりぎりまで連絡する決心が付かなかったのだろう。コンクールへ挑む自分自身の決心の為か、俺を心配させないようにする為か・・・。


苦笑して再びメールを読み進めていくと、最後の一文に視線が釘付けになった。
時が止まったように、表情も動きもピタリと固まって。


「追伸  夢の中だけでなく、本物の蓮くんに会いたいです・・・」


先程までの熱さが、冷たい水を浴びたように一気に引いた気がした。
ゆっくりと椅子の背もたれに寄りかかり、俯くようにして目を閉じる。


留学当初は頻繁にやりとりしていた手紙やメールも、今ではぐっと少なくなってしまった。
それでも時折来るメールの他、定期的に送られてくる年賀状や暑中見舞い、クリスマスカードに、まだお互いが
つながっているんだと・・・待っていてくれているんだと。消えかけた炎が勢いを増して、心が熱くなってくる。
送られてくる葉書や手紙も日本の四季を現した季節ごとのものだ。そんな彼女らしいささやかな心遣いが嬉しくて、日本が懐かしくなる心をいつも慰めてくれた。


嬉しさと愛しさが募れば募るほど、同時に心の奥底から込み上げてくる罪悪感や後ろめたさ。
会いに行ってもやれないのに、我ながら何て勝手な言い分なんだと。
はっきり言ってしまえば、わざと日本に帰っていなかった。帰ろうと思えば、数日程度ならいつでも戻ることが出
来たのに、いろいろと自分に理由をつけて・・・・。


まだ何も手に入れていないままで君に会うのが怖くて。
一度帰国してしまえば、再び渡独することが出来なさそうで。
呼び寄せることも出来ないまま、そうするうちに既に3年の月日が経ち、共に過ごした時間よりも離れている時間の方が長くなってしまっている。


本当の事を知ったら、俺を臆病者だと・・・薄情者だと罵るだろうか・・・・・・。
こんなにも君は真っ直ぐに俺を信じて待っていてくれているのに。
なのに俺は・・・君の強さと優しさにずっと甘えていたのかも知れない。


迷いの渦へと入り込みそうな自分を振りきって目を開けると、デスクの横に置かれたフォトフレームを手に取った。懐かしそうに目を細めて眺めながら、愛しい人に触れるようにと大切に表面の埃を撫で払う。
日本を発つ少し前に一緒に取った写真が、二人で選んだフォトフレームに収まっている。きっと香穂子の部屋にも同じものがあるはずだ。


幸せそうに笑っている・・・君も、そして俺も・・・。


「お揃いだね」


雑貨屋を数件回った末にようやくお気に入りを見つけた君は、嬉しそうに微笑んでいたな。
目を閉じれば、今でも昨日のことのように君の笑顔が浮かんでくる。


電話で声を聞くことが出来ても顔を見ることは出来ないから、俺の中の君は日本を発つ前のまま。
同じように君の中でも俺は、昔のままなのだろうなと思う。
きっと、お互いに時が止まってしまっているのかもしれない。


フォトフレームを机の元の位置に戻して、椅子から立ち上がった。
窓辺に歩み寄り、ヴェールを取るようにそっとカーテンを開けると、ガチャリと重い音を立てて木枠の窓を開け放つ。心の火照りを冷ますような夜の冷気が室内に吹き込み、漆黒の空一面に広がる星空が姿を現した。
今にも降り落ちてきそうな満天の星の輝きに、目を細め,る。


“君との約束がある”そう思っただけで力が湧いてくる。
大変な時でも嫌なことがあっても、我慢すれば君に会えると思うと、頑張ってどうにか乗り切る事ができた。
まるで心の指切りのように俺の心と君の心を結ぶ一本の見えない糸は、俺に力を与えてくれる大切な源。
しかしとても脆くて壊れやすいものでもある。


学長先生は鋭い方だと思う。言われたように、ドイツに渡ってから自分の中に生まれ出た欲求を、ことごとく排除してきたのは確かだ。プロへの道、音楽の為をと思っていたことが、逆に自分の首を絞めていたとは。
俺が排除してきた気持ちの殆どを占めていたのは、香穂子の側にいたいというものだ。
それを素直に受け止め、思うままに行動しろと?


今すぐに走り出したい衝動と、本当に良いのだろうかという気持ちが、激しく心の中で交錯する。
ぶつかり合って散らす火花が突き刺さり、痛みさえ覚えて、堪えるように眉を潜めた。


会えない・・・手に入らない時ほど募り焦がれる想い。
ヴァイオリンの弓と弦は二つで一つ。離れていては音色を奏でることができないように。
同じように俺も君も離れてたままでは、お互いに想いを重ねられないのか。
もう、自分の心を誤魔化してねじ伏せるのには、限界が来ている・・・。
それは香穂子も同じなのだろう。前向きで真っ直ぐな彼女は手紙やメールの中でさえ、いつもと同じように弱さを決して見せようとしなかったのに。そんな彼女が・・・。


『会いたい・・・』


メールの最後にポツリと漏らした言葉は、少なからず俺には衝撃だった。
会えない日が、互いの時が止まったままの状態が長く続けば、きっと歪みが生じてしまう。
いや、ここまで来たんだ。そんなことには絶対させない。
二つのものを同時に追い求めて両方手に入れられるほど、自分が器用な人間だとも思えないが・・・・。


窓枠を握りしめる手に力が籠もった。
少し頭を冷やさなければ。
大きく深呼吸して冷たい夜の空気を吸い込むと、火照った頭の中がスッと落ち着いてくるようだ。もう一度深呼吸すると、冷静さが幾分か戻ってくるのを感じた。


明日は休日だ。たまには気晴らしでもするか。
君の音色が届きそうな場所を探して、散策しに行くとしよう。
もう一度見上げて星空をしっかり目に焼き付けると、開け放たれた窓に手を掛ける。


月森の部屋の窓が静かに閉ざされ、再び覆われたカーテンが優しく夜を包み込んでいった。