花びらを紡ぐように・8

二つのマグカップが乗ったシルバートレイを片手を持ち、小脇にブランケットを抱えやってきたのはヴィルヘルムだった。


音の出せない夜になればフランツ家の図書室で過ごす事が多いから、俺の居場所は直ぐに分かったようだ。しかし俺はずっと探していたのにやっと現われたか・・・随分遅い帰宅だな。余りにも時間が経過した為に、初めに持ち合わせていたエネルギーは何処かに消えてしまったようだ。これも無意識の中にある彼の作戦だろうか。溜息が溢れつつも、感情のままに意見をぶつけずに済んで良かったと、少しだけ安堵する自分がいる。


『やぁレン、まだ起きてたのか。ちょうど良かった、お茶を入れたんだけど少し休憩にしないか? しかも、今日は珍しいものを見つけたんだぜ。コーヒーじゃなくてお茶なんだ、しかもオリエンタルなやつ!』
『オリエンタル・・・東洋系という事か、わざわざすまないな』
『太陽の出ている昼間は暑いけど、夜になるとこの部屋は冷えてくるだろう? 風邪を引かないようにほら、ブランケットを持ってきたから使ってくれよな。毛布にしようと思ったけど、ここで寝てくれって勧めるようなものだからやめておいた』


そう言ってドアから静かに歩み寄ってきたヴィルは俺の傍らに佇むと、小脇に抱えてきた濃紺のブランケットを差し出した。軽い素材なのに温かいから、質の良い物だとは一目で分かる。
受け取った濃紺のひざ掛けは毛並みも肌触りも良く、広がる濃紺が、まるで図書室の窓から見える夜空のようだ。

座った膝にかければ心地良い温もりに包まれ、思っていた以上に身体が冷やされていた事に気が付いた。昼夜の気温の変化や古い建物がもたらす環境もあるのだろう、夏だと思って油断していたな・・・気遣いに感謝しなくては。


だが机の上に広げられた譜面たちを見て、一瞬驚きに目を見開いた。すぐに元通りの笑顔に戻ったが、微かな同様を捕らえて眉を寄せる俺に、怖い顔してどうしたんだい?と。肩を竦ませながら、おどけた笑みを見せている。


きっと彼は何かを知っているに違いない・・・。

瞳の奥に隠されたものを探るように、じっと見つめ問い正そうと口を開きかけたところで注意がそれたのは、目の前に置かれたマグカップのせいだろう。中身は温かく昇る白い湯気と、グリーンの色合いが懐かしい日本の緑茶。コーヒーが主流のヨーロッパでは、紅茶を飲むのさえ珍しく、質の良い茶葉を仕入れるのも貴重で高値だ。それが緑茶なら尚更で、こちらに渡ってから随分久しく飲んでいなかったなと思い出した。

一杯の温かい飲み物は人の心を和らげる効果があるらしい。張り詰めて熱くなりかけていた心の糸が、ほっと緩む自分がいる。学長先生やヴィルといい・・・もちろん香穂子も、誰もがここぞと言う時に温かい飲み物を振舞うな。さり気なくそっと気遣う優しさや、言葉のように身体の内に染み込み広がる温かさは彼らの心そのものだ。


いつでも手に届きやすく、それでいて作業の邪魔にならないように。隅へさり気なく置く仕草はカフェのマスターのように流暢だ。ヴィルが背を回り込んで俺の隣にもう一つのマグカップを置くと、話しやすいように椅子を引いて横向きに腰を下ろす。壁を囲む本棚の中央にある大きな机は束の間、深夜のカフェへと姿を変えた。


『緑茶が、ヨーロッパでは珍しいな。この茶葉は一体どうしたんだ?』
『さっきは訪ねてくれたのに出かけていてすまなかったな。帰ったら腹が減って、キッチンへ行ったらいろんな食材の詰まった大きな紙袋があったんだ。家のものに聞いたらレンが学長先生のお宅からもらってきたって言うし。このグリーンティーは一番底に入っていたんだ、まるで宝物だよな〜ここらではあまり手に入らないし。レンには懐かしいだろうと思ってさっそく開けさせてもらったんだ、勝手にすまなかったな』
『いや・・・ありがとう。香穂子の話では今朝方3人で市場に出かけたんだそうだ。忙しくてもちゃんと食事をしろと託されたんだが、今は君の家に世話になっているし。俺が家に戻るまで保管できないから、好きに使って欲しいと託したんだ』
『誰しも考える事は一緒だよな、良く分かるよ。俺もその同盟に入りたい』


腕を組みながら神妙な顔で頷くヴィルだが、音楽に夢中になると俺はそんなに心配だろうか? 
紙袋の一番底には香穂子と学長先生が見つけた、とっておきのものが隠されていると言っていたが・・・なるほど。
二人の楽しい企みは、この茶葉だったのだな。選んで袋に詰める様子まで浮かぶようで、つい緩んでしまう頬を止められない。


しかし、マグカップを手に取って緑の水面に鼻先を寄せれば、微かに漂うアルコールの香りがする。まさかこの中に・・・。
机に肘をかけ、身を乗り出しながら眉を寄せる俺の手元を暫らく眺めていたが、顔を上げてニヤリと悪戯な笑みを浮かべ、好奇心を溢れさていせる。


『・・・緑茶の中からアルコールの香りがする』
『おぉっ、さすがレン! 耳だけじゃなく嗅覚も鋭いな。そうなんだよ!心地良く眠れるように、グリーンティーにブランデーを混ぜてみたんだ。ほら、紅茶でもするだろう?ナイトキャップってやつ。緑茶でもどうかと思って、チャレンジしたんだ』
『緑茶は何もせず、そのまま味わうものなんだ。茶葉の風味を大切にするから。集中して作業しようとしているのに、あえてアルコールを勧めてどうするんだ』
『これくらいじゃ酔わないくせに。硬く冷えた頭じゃいい考えも浮かばないぜ、身体の心から温まらないとな。・・・といのも本当だが、一番は早く寝てゆっくり休んで欲しかったって事。最近は夜も根詰めているみたいだし、あんまり寝てないんじゃないのか?』


笑みがすっと引き締まると、顔を顰めじっと見つめ検分してくる。
俺に何かあったら直ぐに香穂子に言いける、という言葉はきっと本気に違いない・・・譜面の件で良く分かった。

心遣いは嬉しいが、普通の緑茶なら良かったのに・・・このままでは飲めないだろうな。残念だが気持だけ頂こう、そう思って湯気と一緒に漂うアルコールの香りに眉を顰めると、持っていたマグカップは飲まずにテーブルの隅へと戻した。
隣の椅子に座っていたヴィルヘルムが、テーブルと椅子の背もたれ両方で肘を支えながら、譜面が広がる手元を覗き込んでくる。


『譜面を書いているみたいだけど、今度は何を始めたんだ? これって今レンや俺たちが作っている曲たちじゃないか。昼間はカホコに会いに、学長先生の所へ行ったんだろう? もしかして、また新しい企みごとか!?』
『企み・・・とは違うが、秘密の贈り物という事に関しては似たようなものだろう。これは香穂子へ送るCDできたら、同じ曲の譜面も一緒に渡そうと思っている。耳で聞くという形に残るのも良いが、いつかの未来に共に二人で奏でられたら、また新たな楽しみが生まれるなと。学長先生のお宅へお邪魔して、大切にされていた譜面を見せてもらった時に、喜んでいた香穂子を見てそう思った』
『今だけじゃない、何年もずっと遠い先まで見ているんだな。きっとカホコも喜ぶ。贈り物はすぐにきっとレンの心に返ってくる筈さ。優しい温かな気持になる時、それは贈り物が届いた証拠だから』
『手放さずに大切に保管していて、何度も弾き込んでいた香穂子なら、きっと喜んでくれるだろう。それに彼女がが、俺たちと同じ譜面を欲しいと言ったんだ』
『へっ!? どういう事だい?』


机に向かっていた身体を横に向けて座りなおし、隣できょとんと不思議そうにするヴィルに向き直った。
本当に分からないのかと、じっと瞳の奥を探る俺に戸惑いを見せており、だからこそ焦りや苛立ちなど言葉にならない感情が湧き上がってくる。落ち着かなければと一つ呼吸をして、机の上にまとめていた譜面の束をヴィルヘルムに差し出した。


『この譜面に見覚えが無いか? 確か俺が君に渡したものだろう?』
『あっ!それって・・・うわっ本物だ。何処にあったんだ』
『何処にあったと思う? 学長先生のお宅にあったんだ』
『俺もその・・・探していたんだ。きっとジーナを連れて散歩に言った時に忘れたのかな。ありがとう、助かったよ』
『香穂子からの伝言だ。“ヴィルさんありがとう、譜面をお借りできたお陰で思い出に残るひと時が過ごせました”・・・と』
『・・・・な! カ、カホコがそう言ったのか!? うわ〜内緒だって言ったのに』
『彼女は正直で真っ直ぐで、嘘がつけない。俺以上に隠し事が苦手なんだ、残念だったな。まさかと思うが、君が香穂子に譜面を手渡したのか?』
『レン、人を疑うのは良くないぞ。魂が曇ってしまうんだ』
『では、君の魂は曇っていないと言い切れるのか』


次第に声も熱を帯び、諌めるように厳しいものへ変わっていくのが自分でも分かる。
互いに睨み合うだけの時間が宵闇に痛いほどの静けさをもたらし、俺たちに重く圧し掛かる。心臓が苦しさに締め付けられ息苦しささえ感じるようだ。先に沈黙を破ったのはヴィルの方で降参だ・・・そう言って肩を落とし、大きく溜息を吐いた。


『痛いところを突くな、まぁ誤魔化してもいつか分かるし。一つだけ言わせて貰うと、俺には俺の考えがあっての事だ。後ろめたい事はないから、正直に言おう。レンの予想は大当たりだ、香穂子へ譜面を見せて手渡したのは、紛れも無く俺自身だ』
『・・・・・・・・・』


俺が書いたCDに収める予定のもので、この世には俺とヴィルのニ部しか存在しなかったもの。それはヴィルが香穂子へ託していた、二重奏の譜面だった。

俺が引き取る訳にはいかないと一度は香穂子の胸に戻したものの、帰る時に再び彼女が差し出してきた。
今持つべき人たちの所へ帰るのが一番良いのだと。私はまだその場所にいないから、もう少しばんばるねと。
瞳に真っ直ぐに宿した光で俺を振り仰ぎながら、必死で明るい笑みを浮かべて。
やっぱり甘えられないよと言いながらも、最後まで名残惜しそうに譜面を抱き締めていた。



俺たちの気持が嬉しかった、ありがとう・・・その言葉が雫となって心に落ちた時に、心の中で何かが弾けたと思う。
俺は君を振り回してばかりだな、信じてくれるその想いに頼ってばかりで。
だからこそ、これ以上二度と彼女を俺たちの都合で振り回したくないんだ。

喜びに浮き上がり、突き落とされて悲しみの淵に沈む・・・それは心を傷つけているのと変わらない。



ヴィルの言葉を待ちながら、膝の上に置いた両手の拳を強く握り締めた。