花びらを紡ぐように・7
『煮詰まったり何か一つの事に熱中している時に一人にすると、音楽中心で絶対飲まず食わずになるだろう? ちゃんと寝ているかも怪しいぞ、今倒れられたら困るんだ。カホコにも言われた事ないか?』
CDの演奏はホールを使っての生演奏を、空間の響き事閉じ込めるもの。残りを収録するその本番が迫り、夏期休暇を利用してヴィルヘルムの家に泊り込む事が多くなった。最終的な仕上げをする為、練習や演奏を合わせるのに都合が良いのもあるが、そう言ってふくれた彼に半ば強制的に住み込みをさせられたと言っても良いだろう。
個人所有といっても広い屋敷の中にあるスタジオは音響も設備も整っているし資料にも事欠かない。自分一人だと簡素になりがちな食事も用意され、待遇や環境など、至れり尽くせりとはまさにこの事だ。
まだ日本にいた高校時代は、ただ音楽だけの事を考えていれば良かったが、国を離れたり進学して環境が変われば一つの事だけではいかなくなる。音楽の事だけを考えて奏でていられるのは、恵まれた環境だったんだなと改めて思う。本人やご家族の好意に甘えてお世話になっているが、だからこそ結果を出さないと・・・甘えてばかりもいられない。
それに・・・。最近は家に帰っていないから、俺に連絡が取りにくいと香穂子が心配していたのを思い出す。
メールのやり取りが出来るパソコンは自宅に置いてあるし、この家からだと携帯電話の電波は繋がりにくい。例え会えなくても海を隔てていた時には、気軽に通信が出来たお陰で距離を感じずにいられた。しかし夏期休暇を利用して渡欧してきた香穂子が同じ街に・・・すぐ近くにいるのに連絡が取りにくいというのは皮肉な話しだ。
溜息を吐きたい心にふと現われる君はいつも笑っていて、俺の心に温かさと光りを届けてくれる。
俺だけではなく今同じように、君だって慣れない異国の空を見上げているかも知れない。
彼女の気配と存在を強く感じる。会おうと思えば直ぐに会えるじゃないか・・・今だけは。
後でと思っていると予想外の事態に後悔をするかも知れない、だが今は目の前の事に全力を尽くさないと。
夢中になってやればきっと上手くいく、君もそう思うだろう?
互いに夢を叶えようとして、夢中になっている時間があるからこそ幸せなのだから・・・。
練習は昼間のうちに終えて、音出しの出来ない夜にはフランツ家の図書室で机に向かう。壁を囲む本棚には歴史の古い貴重なものから新しいものまで、音楽関係だけでなく幅広い分野を網羅する多くの蔵書。部屋の中央に置かれたダークオークの机も、絵のように空間の一部として溶け込んでいた。机に向かったりこの場で本を読んでいると時間の流れを忘れてしまうのは、俺自身も溶け込んでいるからなのだろうか。
五線譜に走らせていたペンを止めて窓の外を見ると、夕暮れ前だったのにいつの間にか漆黒の闇に包まれていた。窓辺の明かりに照らされて浮かび上がる広い芝生と、黒い布を染め上げるように輝き降る輝く星たち。
机の脇にペンを置き指先で軽く眉間を摘むと、前に手を組み腕を伸ばして大きく伸びをする。
肩越しに振り返り壁にかけられた時計を見れば、いつのまにか時計は夜の10時を過ぎていた。
もうこんな時間か・・・もう少し進めたいが、早く休まないと迷惑がかかってしまうだろうか?
早めに夕食をとった後ですぐこの部屋へきたのだが、随分と集中していたらしい。眉を寄せて時計を眺めながの考えをせかすように、痛いほどの静けさの中で、秒針を刻むクラシックな時計の音だけがやけに大きく響き渡っている。ひとまず休憩をと思い机に置いてあったマグカップに手を伸ばしたものの、中に半分残っていたコーヒーはすっかり冷めて煮詰まり、薄い油膜が張ってしまっている。もう飲めないだろうなと眉を潜めて机の隅に戻すと、小さく息を吐いて椅子の背もたれに寄りかかった。
ありがたい環境なのに、気分が乱れて落ち着かないのは何故なのだろう。
思い通りにならない時に人は苛立ちを覚えると言うが、俺の場合は自分自身に苛立ちを覚えているのかも知れない。完成させたい音楽の事、そして香穂子の事。もう二度と離れていかないように出来れば側に留めて置きたいのに、側にいながら会うこともままならないもどかしさが、苦しさとなって胸を締め付けてくる。この苦しさは俺自身だけでなく・・・・そう思って肩越しに振り返り、部屋の中を一周ぐるりと見渡した。
本人からは想像もつかないがヴィルの家は歴史を遡れば王家にも辿り着くだけあって、閑静な中にあるこの土地でも特に広く、古城や離宮の名残を今に留める邸宅だ。敷地内は静かなのに外側や建物の一部は常に人が溢れて賑やかなのは、彼が言うところによると観光名所だという。
音楽に携わる家としては俺など比べの物にならないほど歴史が長く、多く音楽家を排出している家柄だ。
しかし絵葉書のような外観から一歩中に入ると、見えない歴史や使命などか染み付き、光りの届かない暗闇に行くに連れて重く立ち込めているように思えた。暗闇が息苦しいとは不思議な話しだが、この家にずっといると時折息が詰まって肩が重くなるんだ・・・と困った顔で語っていたヴィルの気持が分かる。
俺ならずっとこの空間に耐えられるかどうか。押しつぶされないように自分を守るのに必死だからこそ、優しい温かさが恋しくて・・・笑顔が見たくて・・・香穂子に会いたい気持が募ると言うのに。
それでも俺は俺だしやりたい夢もあるからと、表面上は笑っていられるのは彼の強さゆえなのか。
守るものや目指すものがあると人は輝き強くなれるという。自分を保ちながらも人を気遣う事も忘れない、香穂子も彼も逆境にあるほどに強く、身の内にある輝きを強めていくように思う・・・眩しいと思えるほどに。
昼間は学長先生の家へ香穂子を訪ね、揃って昼食をとった後で散策がてら二人で外出し、久しぶりのひと時を過ごした。夕食もと進められたが丁重に学長先生と夫人に断って礼を述べ、名残惜しさを隠しながら精一杯の笑顔と元気さで、香穂子に見送られ帰宅したのは夕方を過ぎた頃。
なぜヴィルに渡した楽譜を香穂子が持っていたのかと、彼女へ内緒に贈るために協力してくれるのではなかったのかと・・・。問い詰める為真っ先に彼の部屋を訪ねたが、タイミングを見計らったかのように留守だった。
大学の学生組織の会長でありヴィルは、ヴァカンスが終ってか始まる冬セメスターに向け、学生会主催の新入生の歓迎パーティーや催し物の打ち合わせで出かけたのだという。
意気込んでいただけに肩透かしを食ったような脱力感に襲われ、今に至る。
時間を忘れて作業に没頭していたとしたら、きっと向けられなかったエネルギーの反動だったのだろう。
椅子の背もたれに寄りかかった身体を起こし、闇に溶け込むダークオークの机に広げられた五線譜をかき集めて手に取る。以前書き起こした、俺たちが持っている今完成させようとしている曲と同じものを、新たに書き写したものを。大切な宝物をそっと触れるようにゆっくり手の平で撫でてゆく・・・譜面の向こうにいる君を想いながら。
コンコン・・・。
『・・・どうぞ』
こんな時間に誰だろう?
部屋の扉が数度ノックされてはっと我に返り返事をすると、静かに開いた扉から、現われたのはヴイルヘルムだった。やっと現われたかと眉を潜める俺を気にした様子も無く、もう就寝前だというのに朝のような笑顔で。ボーイのように、手には湯気の立ったマグカップを二つ乗せたシルバートレイを掲げ持っていた。