花びらを紡ぐように・9

趣向を凝らした装丁の厚い蔵書が無数に並ぶ、天井から床まである本棚は壁の一部となって部屋を囲んでいる。木枠に縁取られたガラス扉の中に納まる様子は、まるで一枚の絵画のようだ。

本や調度類が数世紀にも及ぶ歴史を刻んでいるにも関わらず、違和感を全く感じないのは、どこか緩やかに流れる時の流れのせいだろうか。木目の机だけでなくゆったり本を読む為のソファーや、簡単なパーティーも開けそうな円卓。棚を飾る花やキャンドルたちなど・・・・新しいものと歴史あるもの、自然のものが上手く混ざり合う空間。
古い歴史の香りが不思議な力で、新たな息吹を取り戻しているように感じる。


隣り合った椅子を傾け向かい合った月森とヴィルヘルムが、痛さとなって突き刺さる張り詰めた静寂の中で、互いに睨みすえた視線を反らせぬまま息を潜めている。

もうどれくらいの間こうしているのか、流れる時間の感覚が掴めない。
止まった時の中で唯一動いているのは、視界の端に遠く見える棚を、ほのかに照らして揺らめいているキャンドルの炎だけ。膝の上で握り締める拳の中で、汗が薄っすらと滲み始めていた。



どちらが先に動くかと互いに伺っていたものの、先に流れを作ったのはヴィルヘルムだった。


『はーっ、睨めっこはもうお終い』
『・・・俺のいないところで、香穂子と何の相談をしていたんだ。まさか君が犬を連れて学長先生のお宅へ散歩しにきた時か? 彼女は何処まで知っている』
『レンがカホコに伝えているように、一緒に曲を作っている事しか伝えていない』


脱力して大きく息を吐いたヴィルが、癖のあるブロンドの前髪を掻き揚げ額を抑えた。緊張したら喉が渇いたとそう言ってマグカップを手に取ると、アルコールを入れたという緑茶を一口飲み、椅子の背もたれに寄り掛かる。ほっと零した溜息は先ほどとは違う小さな安らぎから来るものだろう。
マグカップをテーブルに戻す音が広い区間に吸い込まれると、再び上体を起こして俺に向き直った。


『レンはカホコに内緒で計画した秘密の曲たちを贈る。カホコもレンに秘密で曲を贈る。それが偶然同じだった! 驚く二人は感動の仲でデュオする・・・筈だったのに。俺からも二人へプレゼントがしたかったんだ。あ〜あ、秘密の企み失敗か。レンが気付いたって事は、カホコが譜面を片付け忘れちゃったのか?』
『人事だと思って楽しんでいるのか?』
『あぁ、楽しいよ。煮詰まって周りが見えなかったレンは楽しくなったのかい?』
『・・・・・っ! 余計な事はしないでくれ』
『レン・・・・・・・』


言いたい事はこんなんことじゃない、ヴィルが俺や香穂子を心配していると分かっている・・・なのに。
我を忘れて椅子から立ち上がり、思わず感情的に・・・静かに吐き捨てた。挑むように強い光りを湛えて俺を睨み据えた、ヴィルのブルーグリーンの瞳が、切なげな揺らめきに変わった瞬間に苦さが押し寄せたが、一度堰を切った熱さが押し寄せ押さえ切れない。だが受け止める彼は、まっすぐ見つけたままどこまでも静かだった。


『俺は正直、君たちにこっそり内緒で録音の当日、カホコに俺の役目を引き渡すつもりだった・・・ヴァイオリン二重奏の相手を。レンだって本当は贈るだけじゃなくて願っているんだろう? そうしたら俺は君たちのピアノ伴奏に専念できる。アレンジだって出来ているんだ』
『どんなに願っても俺が・・・俺たちだけが決める事じゃない。レーベルのプロデューサーが決めることだ』
『曲作りに煮詰まって悩んでいたのは知っていたよ。自分との戦いだから俺一人じゃどうにも出来ないけれど、状況を変えられるとしたら彼女だけだと思った。カホコと奏でて答えは出たかい?』
『・・・・・・・・・・・・・』
『答えはもう、レンの中にあるんだろ、だから現実と理想の狭間で悩むんだろうな。レンが理想を求めて形にしようとしているように、俺にも形にしたい音楽がある。みんなで作る音楽を・・・そのために動いただけだ』


机の上にあった書きかけの五線譜を一枚取ると、緩む瞳のままじっと見つめている。どこか遠くを見ているのは、彼の理想とする脳裏に響く音色に耳を澄ませているのだろうか。ヴィルの音楽の中には、俺がいて香穂子がいる。
本当にそうなれれば良いと俺だって心から願っているけれども、今だって彼女を悲しませてしまったのだから思うほどに現実は遠い。

喜んで欲ししくて内緒で驚かそうというのは難しいな、タイミングを誤れば相手を不快にさせてしまう。


ほら聞こえてこないか?と、そう言ってヴィルは、立ち上がったままの俺を振り仰ぎ譜面を渡してきた。
黙って譜面を受け取り静かに腰を下ろすと、自分自身に向き合うように中から語りかけ来る声に耳を澄ませる。


『プロになるって、確かに好きなだけじゃ弾いていられないよな。だけど少なくとも今関わっている人たちは、皆レンの音楽だ大好きだ・・・だからレンを見つけてくれた。 夢が叶うか叶わないより、叶えようとして夢中になっている時間が幸せなんだと教えてくれるんだ。カホコだってそうだろう? 譜面を見せたら俺が何も言わなくても一発で、レンが書いたと分かったよ。音符の一つ一つに触れて想いを拾っていた・・・』
『それで香穂子に譜面を渡したのか。CDに収める同じ曲ばかりを一緒に合奏したいと言ってきたのが、偶然にしては出来過ぎていると思った』
『余りにも嬉しそうだったし、大事に抱えて離さなかったから渡したんだ。これを演奏すればレンが喜ぶってね。先生じきじきのレッスンでも、その譜面でやらせてほしいって頼んだそうだ。渡欧してからの頑張りと上達振りには目を見張るって驚いてたよ。想いを動かすのは何なのか・・・レンならもう知っているだろう?』


学長先生の家にホームステイしてからは、一日の大半を練習に費やしている事も知っている。
音楽へ真摯に挑むだけでなく、密かな楽しみを見つけたと表情いっぱいに語っていた溢れる笑顔が眩しくて。
譜面の中から一緒に奏でる曲を選ぶ様子や、ヴァイオリンを弾く姿がとても楽しそうだったら・・・。
向けられる笑顔と想いが、俺だけに真っ直ぐ届いて来ただけに、自分自身が許せなかった


『俺が、君たちの企みに気付かなければ良かったのか? そうすれば香穂子が傷つかずに済んだのか? 譜面は持っていて欲しいと言ったが、返してきたのは彼女の意思だ』
『レン、俺はただ・・・・・・・』



落ちていた譜面を見て見ぬ振りをしていれば良かったのかと、今は後悔だけが心に占める。起きてしまった事を今更あれこれ考えいても前に進めないと分かっているのに、後から悔いるとは良く言ったものだ。俺は学長先生と違ってそっと見守る事が出来なかったらしい。隠し事や嘘が苦手な性格も災いしたが、香穂子を信じ切れていなかったのではと一番の後悔はそこにある。深く想う程に側にいて欲しくて、見えない心が知りたい・・・彼女の全てをこの手に取りたいと願ってしまう。


香穂子と音色を重ねた僅かな時間は、俺にとっても意味のある大切な時間だった。楽しかったと彼女が言っていたように、俺も心からそう思う。ずっとこのまま奏でていたいと、どんなにか願った事か。だが結果的に俺の・・・いや、俺たちのせいで純粋な想いを振り回したんだ。喜びから悲しみの底へと---------。


真っ直ぐで正直な彼女は、きっと自分を責めている。責められるべきは俺なのに。
ヴィルに感情をぶつけて何の意味があるんだ? ただの八つ当たりじゃないか。

楽しみや生きがい、希望の光りを全て奪ったのも同じ目を閉じると浮かぶの去り際の香穂子の顔。
ぎゅっと譜面を抱き締め、涙を一生懸命堪えて笑顔を浮かべる君が、鮮やかに浮かんで離れない・・・胸を強く締め付けながら。本当に俺のやろうとしている事は、俺たちにとって太切な事なんだろうか。君に喜んでもらえるのだろうかと、空を覆う雨雲のように不安が押し寄せてくる。



机に散らばった譜面や筆記用具をまとめて片付けると、再び椅子から立ち上がった。静かに椅子を動かしたつもりだったのにカタンという音がやけに大きく響き渡り、無意識にも心の波を伝えているようだ。

もしや、不快な想いをさせてしまっただろうか・・・。
立ち去ろうと背を向け踏み出した一歩を引き戻して一つ呼吸をすると、見上げるヴィルに向き合った。
苦い言葉を投げたにも関わらず、自分よりも俺が心配なのだと伝える瞳に、真摯な想いを届けるように。


『すまない、少し熱くなり過ぎた・・・失言だった。君の心遣いには感謝している』
『レン、もう部屋に戻るのかい?』
『あぁ・・・今夜は頭を冷やそうと思う、遅くまで起きていては迷惑をかけるし。帰り際に香穂子がヴィルへと礼を言っていた、ありがとう、楽しかったと。偽りの無い心からの彼女の言葉だと思う・・・俺からも礼を言う』
『今は目の前の事に全力を尽くして夢中になってやれば、きっと上手くいく。頑張るのも大切だけど、楽しめたらもっといいよな。夢中になって真剣に楽しんでいる姿や結果を見て、頑張っているなと思ってくれる。きっとカホコも』
『そうだな・・・・・・』


だと、いいのだが。彼女は、俺を許してくれるだろうか?

最後までは言葉に出来ず力なく笑みを浮かべた俺に、ヴィルが口を付けていなかった俺のマグカップを差し出していた。そういえば、入れてくれたお茶をまだ飲んでいなかったな。


すまない・・・とそう言って立ったままマグカップを受け取ると、すっかり冷えてしまった中身に唇を寄せる。緑茶の爽やかなに混じったブランデーの香りが鼻を突くが、眉を顰めながらも覚悟を決めて飲み下す。

だが、想像していたよりも悪くは無い。
意外な組み合わせの緑茶のように、俺たちの音楽も最後は、良い結果に収まるだろうか。


「・・・・っ!」


唯一の誤算は緑茶に含まれたアルコールの分量だろう。
疲れているのか急激に熱さが募り、難しい考えも悩みも、遠く夢の中に霞むほど意識が朦朧としてきた。
ブランデーは数滴と言っていたが、かなりの量を入れたのが分かる・・・まさか俺だけなのか?


『今日は何も考えず、ゆっくり休んでくれ。明日になればまた日は昇る』


回った酔いで一瞬よろめきかけた身体を椅子の背もたれで支えながら、問い詰めようとヴィルを睨む。
だが気にした様子もなくそう言って、穏やかな笑みを湛えるだけだった。