花びらを紡ぐように・6
練習室にあるグランドピアノの下に、裏に伏せられ一枚だけ落ちている楽譜を見つけた。
下宿してこの部屋を使っているのは香穂子だけだと言うから、きっと彼女が練習中に落としたものだろう。
探しているに違いない・・・見つかって良かったと、そう思いながら拾い上げて表を見れば、どこかで見た手書きの譜面だった。
見覚えが有る筈だ、忘れるわけがない。
初めてとなるCD・・・香穂子に贈る為に、俺が自ら編曲して書き下ろした二重奏の譜面だったのだから。
思考も意識も何もかも全ての時間が一瞬止まり、早鐘を打ち出す鼓動と共に、背中へ噴き出しじんわり流れる冷たい汗。俺が忘れた物だろうかと記憶の糸を辿ったが、この家には持ってきていないし、きちんと部屋に保管してある。ではこの譜面は二部あるはずだから、もう一つのものだろう。
それを裏付けるかのように、今手に持っている譜面はところどころに書き込みの跡が見受けられた。
一つは香穂子のもの・・・もう一つは伴奏や合奏の相手を頼んだヴィルヘルムのものだと分かる。
なぜヴィルに渡した譜面が香穂子の手元にあるのかという経緯も気になるが、俺が密かに進めている事を一体彼女はどこまで知っているのか、何をしようとしていたのか・・・。点と点が一つの線で繋がったその行き先、彼女の想いと真相を確かめなくては。合奏をしようと持ちかける曲がCDに納める物と同じ事が多かったのも、ここ最近嬉しそうにはしゃいでいたのもこれで納得がいく。
この一枚だけだろうか? 一つの楽曲で数枚有る楽譜のうちの一枚だから、もしかしたら他にも有るかも知れない。綺麗に整えられた練習室をぐるりと見渡せば、近くの壁添いに置かれた棚のガラスにふと視線が吸い寄せられた。映った自分の顔があまりにも焦っているのに愕然としたからだ。
後ろめたい事ではないのに、何故俺はこんなにも、必死になって隠そうとしているのだろうか。
秘密にするのと隠すことは似ているようで違う。見つかったと焦る気持を隠そうとするのが、弱いのだというのに。
生まれる矛盾が心を締め付け、息が詰まる苦しさに眉をひそめ、空いた手の拳を強く握りしめながら耐える。
心の中で自分に問いかけながら、じっと譜面を見つめどうするかを考えていた。
譜面を持ったまま暫くグランドピアノの側に佇んでいると、開け放たれたドアを数度ノックする音でハッと我に返った。振り返ればエプロンを着けたままの香穂子が入り口に立っており、後ろ手に組みながら笑顔で俺の名を呼んでいる。キッチンからそのままやってきた彼女は、料理の香りや温かさも一緒に連れてきたようで、堅く締め付けられていた心が不思議と柔らかく緩んでいくのが分かる。
「・・・香穂子」
「蓮くん、ここにいたんだね。お昼ご飯の用意が出来たから呼びに来たの! ちょっと休憩にしよう?」
「すまないな・・・。そうか、もうそんな時間だったんだな」
「音楽のこと考えていると、いつの間にか時間が経っちゃうよね。あっ・・・キッチンの良い香りが練習室まで届いてくる・・・蓮くんお腹減ったでしょう? 待たせてごめんね、私もお腹減っちゃった〜ねぇ早く行こう?」
嬉しいのだと伝えてくる眩しい笑顔を見たら、もう何も言えなくて。訪ねようとしていた言葉をぐっと喉元飲み込み、出しかけた譜面もさりげなく背中へと隠してしまった。待ち時間に曲想を練っていると思った香穂子は、俺を見るなりきょとんと小首を傾げたものの、深くは追求せずに赤い髪を揺らしながら軽やかな足取りで駆け寄ってくる。しかも目の前で振り仰ぐと何かを思い出したのか、突然恥ずかしそうに頬を赤く染めて俯いてしまった。
前に組んだ手をもじもじと弄ったり、エプロンの裾を握りしめたり・・・。
すまない、どうして君は照れているのか教えてくれないか?
「何かこういやりとりって、一緒に住んでいるみたいで照れ臭いよね。去年のクリスマスに初めて蓮くんの所に来た時を思いだし出しちゃったの。蓮くんのお家に帰ってきたみたいで、安心するっていうか・・・」
「今日は帰らなくてはいけないのが残念だな。全ての予定が片付くまでもう少しだ、そうしたら君を迎えに行ける」
「もうすぐだね〜。私が早く来ちゃたせいもあるんだけど、気づいたら長いようであっという間だった。早く約束の日になって、残りの夏休みを一緒に過ごしたいな」
ね?と相づちを打つように小首を傾けると、肩からさらりと零れた髪に目を奪われ隙に、俺をすり抜け大きな窓際へと跳ねるように歩み寄っていく。グランドピアノの近くにある窓の前に立ち、くるりと振り向けばスカートの裾が花のようにふわりと広がった。
白い木枠の窓を背にして振り返る彼女は、溢れる光と清らかな空気の中に溶けこんでいるように見える。
ともすれば、このひと時が夢ではないかと思えるほどに・・・。
不安がふと込み上げる度に、ここにいるのだと心ごと君を強く抱きしめたくなる。
離したくないからこそ確かめたくて、困らせると分かっていても問わずにはいられないんだ。
「ねぇ曲作りは順調なの? 蓮くんとヴィルさんがどんな音楽を作るのか楽しみだな。今はあまり詳しく教えてもらえないけど、完成したらちゃんと教えてね? 真っ先に聞かせて欲しいな〜」
「あぁ・・・もちろん。いろいろと考えなければならない部分はあるが、良い物を作ってみせる。香穂子も最近は特に楽しそうだな」
「私? うん、楽しいよ! とっても充実しているの。頑張る目標って言うか、楽しみをまた一つ見つけたから。でも蓮くんにはまだ内緒ね。お互いに内緒っていうのも変だけど、悪い物じゃなくて胸が期待にワクワクしてくるの」
香穂子が楽しいと言っているのは、恐らく俺が拾った譜面に関係あるのだろうと、確証は無いけれどそんな予感がする。真っ直ぐ向けられる輝きに満ちた瞳を受け止め微笑みを返しながら、ゆっくりと窓辺に立つ彼女の元へと歩み寄れば、フローリングの床に僅かな緊張感が漂う堅い足音がコツンと響き渡った。
「さっき香穂子が来る前に譜面を拾ったんだ。一枚だけだが落ちていたぞ・・・君のじゃないのか?」
「見つけてくれたの? 蓮くんありがとう! 実は午前中にね、うっかり楽譜の束を床に落としてばらまいちゃったの。きっと拾いきれていなかったんだね、本当に良かった」
落ちていたぞ・・・そう言って背に隠し持っていた一枚の譜面を差し出すと、両手を差し出した香穂子がありがとうと受け取った。しかし譜面を見るなり一瞬にして驚きに目を見開き、そわそわと慌て出してしまう。なるべく動揺を悟られまいとしているが、表情が豊かゆえに焦る鼓動が手に取るように聞こえてくる。譜面を握りしめて凝視する香穂子と見守る俺の二つ分、早駆けする鼓動はいつしか一つに重なり、さらに大きな波を生み出した。
「こ・・・これ、どこに落ちてたの?」
「グランドピアノの下に一枚だけ落ちていた。これは俺の・・・というより正確には俺がヴィルヘルムに手渡した譜面なんだが、なぜそれが香穂子の所にあるんだ?」
「それは・・・その・・・えっと・・・・・・。あっ! この間、犬のジーナを連れて遊びに来た時に忘れちゃったみたいなの。ほら、蓮くんも後から来たでしょう? 蓮くんが書いたってすぐに分かったから、手放せなくて・・・ごめんね」
「じゃぁ俺から返しておこう、この後に演奏を合わせる予定があるんだ。これ一枚だけか?」
「え、返しちゃうの!? ・・・って、何でもないから気にしないで・・・」
嘘をつけない香穂子は、隠そうとする程に言葉尻をごにょごにょと濁し、視線を逸らす仕草が本当は違うのだと告げている。俺から返すとの言葉にはっと顔を上げて、切なげな瞳が伝えてくる無言の訴え。
香穂子の中で、迷い葛藤しているのだろう。事実を問うている俺でさえ、早すぎだかと・・・聞くのでは無かったと苦しい後悔に襲われているのだから。
時には知らぬ振りをした方が良い時だってある、例えば学長先生から伺った思い出話にもあるように。相手が心の底から楽しんでいるのなら尚のことお互いに水を差しかねない・・・まさに今がそうなのだ。
やがて名残惜しそうに譜面を見つめていた肩を落とし、持っていた譜面を俺に差し出してきた。
苦しさに耐えて一生懸命浮かべた笑顔が、どこまでもひたむきな輝きを宿しているからこそ、痛々しいと思うのはきっと俺が感じる罪悪感からなのか。
「ごめんね、やっぱり蓮くんには隠せないよ。内緒にしようと思ったけど、ここまで見つかったのを無理に誤魔化して苦しさが続くなら、正直に話した方がずっといいもの。えっとね・・・実はまだあるの・・・嘘ついてごめんなさい」
「・・・・・・・・・」
やはり・・・予想通りだったな。
だが言葉には出さずに、差し出された譜面を一枚だけ受け取った。託したものの唇を重ねた時のように、僅かの間は離れる事が出来ず、互いに譜面を端と端で握りしめ合ったたまま。元はといえば俺が原因なのだから、隠している事があるのは俺だって同じなのに、どうして彼女を責められるだろうか。楽しく喜んで欲しいと願った事が、逆に辛く悲しい想いをさせしまう・・・俺は君の為にどうしたらいい?
想いを振り切るようにパッと手を離した香穂子が、壁にあるダークオークの木目が艶光る戸棚に駆け寄り、引き出しから譜面の束を取り出した。大切そうに腕の中に抱きしめながら戻ってきた彼女が、どれも懐かしくて大切な思い出の曲ばかりだよねと、そう言って少し遠くを見るように瞳と頬を緩めている。
俺にとってだけでなく、君にとっても同じく大切な曲だった・・・。
込み上げる嬉しさと安堵感が温かさとなって満ち広がり、脳裏に蘇る君と奏でた音色の数々が鮮やかな記憶と共に蘇ってくる・・・感じた光や風、浮き上がる高揚感と共に。楽しそうにヴァイオリンを奏で、譜面を手放せなかった香穂子の気持ちが、未来へと一筋の希望の光をくれるから。
本当は嬉しくて仕方無いのに、素直に言えない自分自身の状況と不器用さがもどかしい。
互いに時間を忘れて佇み、見つめ合う瞳と微笑みで暫し思い出に浸り、心の中で二人の音色を響かせてゆく。
「ヴィルが君に譜面を渡したんだな・・・どういう理由があったのか、差し障りなければ教えてくれないか?」
「こっそり練習すれば蓮くんが喜ぶって言ってたの。蓮くんにプレゼントを贈る協力をして欲しいって、この譜面をもらったの。本当は言いたくてウズウズしてたんだよ、でも当日まで内緒だって言われてたから黙ってた・・・」
「譜面を託された以外に、他に何か聞いているか?」
抱えた楽譜の束を名残惜しそうにじっと見つめ、ふるふると黙って首を振る。一つ呼吸をして俺へと手渡し託す瞳が、大切な人や物と引き離される子供のように寂しげな光を湛えていた。喜びや楽しみ、生き甲斐といった感情の全てを奪い、心に穴を空けているのは他でもない。強引に取り上げているのは俺ではないのか。
「大切な舞台の為に、一緒に曲を作っているって事しか聞いてないよないよ。二人と先生たち以外は大学の仲間も知らない内緒の計画なんだって。蓮くんと同じで詳しいことは私にも教えてくれなかったよ。この果物はまだ食べられないから、甘く熟すまで蓮くんを待ってて欲しいって。その方が後の楽しみが大きいからって言ってた」
「そうだったのか・・・彼なりに何か考えがあったのだろうか。最初に約束をしていたんだ、俺が香穂子を悲しませたら、好きなように行動させて貰うと。君が一足早く来た時点で彼の計画は発動していたのかも知れないな」
「蓮くんと一緒に、同じ大切な曲たちを弾けるのが嬉しかった。本当はね、蓮くんと音楽が作れるヴィルさんが羨ましかったんだよ。だから頑張らなくちゃって今まで以上に思えて、いっぱい練習してるの。理由は知らないけど、将来がかかっているんだって事は頑張ってる蓮くんを見ていれは分かるもの。一緒に音を重ねられる喜びもあるけれど、だからこそ私も追いつきたい・・・追いかけたいの」
ひたむきな光が俺を射抜き、反らせぬ瞳の奥で熱さに変わる。
小さな灯はやがて炎となって全身を駆けめぐり、心を焦がしてゆくのだ。
光に包まれた静寂の中で言葉無くただ見つめ合う・・・長いようで短い時間を引き戻したのは、開け放たれたドアを叩くノックの音だった。俺も香穂子もハッと我に返って振り向けば、練習室の入り口に佇む学長先生がいた。
遊び相手をしていた子犬を抱きかかえたまま、香穂子を見つけて嬉しそうに飛び出そうともがくのを押さえ込みながら。一体いつからそこにいらしたのだろうか?
俺たちの会話は日本語だから全てを聞き取れているとは思えないが、勘の良い方だから何かあったのかは雰囲気で気づくだろう。見られてはいけない人に見られたと、彼女が感じていた焦りを今度は俺が味わう番となった。
いつからそちらに、どこまで聞いていたのか・・・・と。直接聞いては余計に気まずくなるだけだ。
『取り込み中の所を、邪魔して悪いのう』
『いえっ、その・・・こちらこそ気づかずにすみませんでした』
『どうしたんだね二人とも、昼飯の用意が出来ているから早く来なさい。カホコがレンを呼びに行ったきり、ちっとも戻ってこんからワシが迎えに来たんじゃ。積もる話は後でゆっくり、扉を閉めてからしたらどうじゃ』
『ごめんなさい、今戻ろうと思ってたんです。私、奥様のお手伝いしなくちゃ! すぐに行きますから〜』
何か問うかと身構えていたが学長先生は何も言わず、静かに扉を閉めドアの向こうに消えていった。あの方の事だから、もしかしたら去ったと見せかけてまだいそうな気がするが。逆に何も問われない方が、余計に気まずく苦しいのは何故だろう。食事の席にでも一言告げておこうか・・・嘘はつけないと、そう思うのは俺も香穂子と同じだなと心の中で苦笑が込み上げた。
気配が消えたのを確認し互いに顔を見合わせ、二人で吐く安堵の溜息をホッと一つ。
「でも邪魔はしたくないから返すね、ごめんなさい。私ってば我が儘ばかりだな〜この夏は蓮くんを振り回してばかりだよ・・・。ヴィルさんのせいじゃないから、怒らないであげてね? 私のせいで事で仲間割れして、せっかくの音楽が壊れたら悲しいもの」
「香穂子、俺は別に・・・」
「ねぇ蓮くん、その楽譜・・・私も欲しいな」
「えっ?」
「あっ・・・何でもないの、今のは独り言! いっけない〜私もうキッチンへ戻らなくちゃ。ほら蓮くんも、お料理が冷めないうちに早くダイニングテーブルへ来てね。みんなを待たせちゃ悪いし、あんまり遅いと心配しちゃうよね」
「香穂子、待ってくれ」
「・・・きゃっ!」
背を向けて表情を隠し、駆け出そうとした香穂子の腕を掴んで引き寄せた。
このまま行かせてはいけないと、脳裏で告げてくるもう一つの声に押され半ば無意識で。駆け出す勢いと引き戻される、二つの力に揺さぶられてよろめく身体は、まるで戸惑い揺れる俺たちの心のように。反動で俺の胸に飛び込む華奢な身体を片手で抱きしめ、そのまま腕は離さず更に深く押しつけるように閉じ込めた。
「突然すまない、大丈夫か?」
「う、うん・・・大丈夫。ありがとう」
聞き逃してしまいそうな呟きだったが、独り言なのではなく、確かに俺の耳に届いた心からの願い。
今は目先の事だけを考えてはいけない、どんな些細なことでも崩れるのは一瞬なのだから。
再び築き上げるには数倍以上の時間がかかるし、元通りに戻らないかも知れない。
元は俺の楽譜だが・・・だからこそ、香穂子から受け取った楽譜たちは彼女の心でもあったのだ。
そして奪った分だけ自分の中からも欠け落ちてゆく・・・駄目だと見えない悲鳴をあげながら。
大きな瞳の奥に届けるように見つめ、すまなかったとの気持を唇に託して、触れるだけのキスをそっと重ねた。
触れるだけだけどもしっかりと、長い時間をかけて。硬さが取れて柔らかさを取り戻した身体を離し、優しく微笑みを注げば赤い唇から零れる甘い溜息が、花びらのようにひらりと俺の中に舞い落ちる。
再び彼女の手に受け取ったばかりの楽譜を託せば、俺を楽譜を交互に見つめて驚き戸惑う。信じられないと言わんばかりに見開く瞳の端には零れれる寸前の、うっすらと光る滴の跡があった。
危うく泣かせてしまう所だったな。誰もいない場所で人知れず、君はいつも耐えた涙を流すから。
そっと両手で頬を包み、柔らかさを手の平に馴染ませてから親指で目尻の滴を拭う。すると知らぬうちに涙が滲んでいた事に自分で驚き、恥ずかしさのあまりなのか火を噴き出さんばかりに顔が赤く染まっていった。
いろんな表情を見せるどの君の全部好きだけど、どうか心を静めて欲しい。俺の一番大好きな、君の笑顔を見せてくれないか?
「俺が書いた楽譜だが俺のじゃない。ヴィルが君に預けたのなら、何か考えがあるんだろう。俺が勝手に君から取り上げることは出来ないと思ったんだ」
「蓮くん、私が持ってて・・・良いの? 例えこれを返しても、私の中にしっかり刻まれたから大丈夫だよ?」
「香穂子・・・俺も楽しかった。君と奏でる音色と時間は何にも変えられない特別なものだ。少し迷っていたが、君のお陰で答えが見つかったようだ、ありがとう」
「蓮くん、怒ってないの? また一緒に合奏してくれる?」
「あぁ・・・驚いたが怒ってはいない、俺こそすまなかったな。これはいずれ持ち主に返さなくてはならないだろうから、いつか君の為に同じ楽譜を用意しておこう」
手の中でうん!と頷く頬の熱が高まり、潤んだ瞳とくしゃりと歪みかげた顔が、一瞬の幻であったかのように笑顔に変わった。抱えた腕の楽譜をぎゅっと抱きしめながら、真っ直ぐ伝える瞳と言葉が俺の心を震わせてゆく。
「もっともっと頑張るね、高く飛んでゆく蓮くんに追いつけるように。隣で寄りかかっても、私が支えられるように」
頬を包んでいた手を離し、香穂子・・・と吐息で名前を呼びかけて。
背をかき抱くように抱きしめると答えのように胸に顔を埋め、同じ言葉を何度も呪文のように響かせながら。
気づいていないのだろうか? いつも一生懸命頑張っている君は、いつでも俺を支えてくれているんだ。
どんな事があっても信じ、丸ごと受け止めてくれるのは君だけだから。
温かさや嬉しさ、喜びや愛しさだけでなく。喧嘩をした事も、いつかの過去に感じた切なさや悲しみも、香穂子だったから俺も心の真ん中で受け止める事が出来たんだ。そして成長することが出来た、音楽も俺自身も。
演奏家として一つの道に徹し常に努力をするのは大切だが、何かが欠落したり大切なものを否定していては、優れたヴァイオリニストとは言えない。香穂子を呼び寄せようか悩んでいる時に学長先生からも教えて貰ったし、何よりも一番最初に君が教えてくれた・・・だから今の俺がいる。
時が流れて今なら素直に言える・・・ありがとうと。
俺のヴァイオリンに乗せた曲で贈りたいのは、君だけに向ける愛しい想い。
受け止めた君も一緒に楽しんでくれたら、これ以上に幸せな事はないと思う。
そう・・・問いただすのは君じゃない。
素直な香穂子に楽譜を託した、ヴィルなんだ。一体何を考えているんだ?
怒っては駄目と言ったけど、泣いた原因の一端は彼にもあるのだから、そればかりは事と次第によっては約束できないと。抱きしめる背をあやしながら、触れ合う心の中に直接届けた。