花びらを紡ぐように・5

学長先生の家にホームステイをしている香穂子は、平日の日中にヴァイオリンのレッスンや音楽についての講義を個人的に受け、合間に夫人を手伝いながら料理や家庭の事を教わっている。

そんな彼女にとっての休日は、土曜日の午後と日曜日だ。土曜日の朝から昼までは三人で過ごす時間らしく、家でくつろぎながら話をしたり、演奏をしたり・・・時には夫妻に一緒について行き教会の礼拝に出かけたり、散策や買い物へ出かけるのだという。いつもいろんな場所へ連れて行ってもらえるから、休みの日が楽しみなのだと。俺が音楽活動で彼女を引き取れない間に、寂しい思いをさせているのではと心配だったが、会う度に夢中で語る様子から、どうやら充実した夏休みを過ごしているらしい。


今度野外のサマーコンサートに連れて行ってもらえるから、蓮くんも一緒に行こうよと嬉しそうにはしゃぎ出す。
音楽やレッスンを受けているヴァイオリンの事、そして最近出かけた場所や新しく覚えた料理の話まで。身振り手振りを交えながら・・・真っ直ぐ見つめる瞳は輝き話は夢や希望を交えて止まることが無い。


やはり持つべきものは良い師匠と環境なんだねと香穂子がしみじみ語っていたように、夏休みを利用して渡欧してから彼女のヴァイオリンは、いっそう深みと輝きが増したように思う。

良かったと、心の底からそう思う。もちろん心の奥に隠している見えない思いは、浮かべる笑顔と同じだとは限らないが・・・楽しいと感じているのは本当だと伝わってくる。

周囲の反対を押し切ってあの時香穂子を連れて帰っていたら、間違いなく誰もいない家の中で、俺を一人寂しく待ち続けていただろう。多くの刺激に溢れる世界に触れながらその豊かな心で受け止めて、広い空へ自由に羽ばたいてこそ彼女の輝きがあるのだから。俺の我が儘で、閉じ込めてはいけなかったんだ。


初めは長いと思えたが、過ぎ去ってみれば一ヶ月などあっという間のものだ。
第二の我が家なのだとすっかり馴染んでいるようだが、やっと俺の家に来れる日が来たら、優しい君はもう少しここにいたいのだと・・・逆に離れがたくて泣いてしまうかも知れないな。

さすがに我慢にも限度があるからこれ以上は無理だし、今度は俺が引き離す役目になってしまうが、果たして俺も君も大丈夫だろうか。つい最近まで思いもしなかった事がふと浮かぶようになったのは、彼女を迎えに行く約束の日が近づいているからなのだろう。

こうして休みの度に学長先生の家を訪ねるのも、あともう少しだと思えば名残惜しくもあり、同時に嬉しさも込み上げ頬が自然に緩んでしまう自分がいる。





「・・・・・・・・・・?」


誰もいないのか? 留守なのだろうか?


夏の強い太陽が、容赦なく照りつける土曜日の午後。日本に比べて湿度が低い為過ごしやすいが、それでもうだる熱さには変わりなく、一日の中で一番涼しい日陰が恋しい時間帯だった。玄関の前庭に溢れる緑や豊かに茂るリンデンバウムの葉のお陰で、扉の前に佇めば心地よい爽やかな風が吹き抜けており、ようやくほっと一息つきがつける。ポケットから取り出したハンカチで額の汗を拭いながら呼び鈴を押すが、何度押しても中から人が出てくる気配が無かった。


今日は午後からなら予定が空いている聞いていたら、こうして香穂子に会いに来たのだが・・・。
どこですれ違ってしまったのだろう? それとも午前中の外出からまだ戻っていないのだろうか?
とはいっても午後というだけで細かい時間は約束していなかったし、単に俺が待ちきれずに早く家をでてしまったせいもあるんだろうな。

この暑さの中をまた出直すのかという思うと一気に体が重くなるが、ここで待っていても仕方がない。


小さく溜息を吐いて玄関に背を向けると前庭を抜け、茶色い石が敷き詰められた小道を辿ってゆく。
夏の厳しい暑さよりも香穂子に会えなかった方が精神的な疲労感に現れているようで。行きよりも僅かに重くなった自分の足取りに、苦笑を感じずにはいられない。


「・・・・・・? 車のエンジン音が聞こえる」


つるバラのアーチを潜った所で立ち止まると、駐車スペースへと滑り込んできたのは見覚えのある一台の黒いBMW。学長先生の車だと気づき足早に近づくと、真っ先に開いた後部座席のドアから姿を表したのは、肩に籐で編んだ大きな手提げ鞄をかけた赤い髪の少女・・・香穂子だった。


香穂子と呼びかけると、弾かれたように髪を跳ねさせて振り返り、俺の名前を呼びながら大きく手を振って。
一度中へ屈んで座席に置いてあった紙袋を抱え持つと、袋の中身を零さないようにと気を遣いながら、嬉しさ溢れる笑顔で駆け寄ってくる。手提げの淵からちょこんと顔を覗かせているのは、チワワの子犬だ。


「蓮くん来てたんだ! ごめんね、暑い中来てくれたのに外で待たせちゃった?」
「いや、今来た所だ。午前中は三人で出かけると聞いていたし、誰もいないようだから、この辺りのカフェで時間を潰してもう一度出直そうかと思っていた。引き返したらちょうど、香穂子たちが帰ってきたんだ」
「学長先生や奥様と一緒に、今日はちょっと遠くの市場へお買い物へ行っていたの。いろいろ歩き回ったり、道が混んでたりで遅くなっちゃって・・・。ねぇせっかく来たんだからお家に上がって? 冷たい飲み物出すから。私たちこれからお昼ご飯なの、蓮くんも一緒に食べるでしょう? 私も腕を振るってお料理手伝うね」
「良いのか?」
「うん! 蓮くんが来るから、美味しそうなお肉を仕入れて来たんだよ。それとね学長先生と奥様と私から、蓮くんにお土産があるの。料理の苦手な蓮くんでも、そのまま食べれる美味しい果物を沢山選んだから。荷物になって申し訳ないけど、貰ってくれると嬉しいな。夏バテしないように、しっかり栄養補給してね」
「ヴァイオリンを弾くのにも身体が資本だからな。ありがとう、後でお二人にもお礼を言っておこう。香穂子の手料理が食べれるのは嬉しい、それだけでも来た甲斐がある」


重いだろう?俺が持つから・・・そう言って、重そうに両手で抱えていた紙袋を受け取った。紙袋の中から覗く太陽のように鮮やかな果物立ちから、柑橘系特有の爽やかな香りがふわりと包み、暑さを和らげてくれる。
頑張って作るから楽しみにしててねと、頬を赤く染めて見上げる香穂子の笑顔が愛しくて・・・降り注ぐ太陽よりも眩しく思えた。


俺が香穂にくっつくと、いつもは騒がしく吠え立てるチワワの子犬が、やけに大人しく静かだ。
肩にかけられた鞄へじっと視線を注ぐ意図に気づいた香穂子が、クスリと小さく笑いそっと広げてみてせてくれる。するとじっと座り我慢強く俺たちを見上げている、珍しく健気な姿があった。


「普段はやんちゃだけど、食べ物が絡むとお行儀が良くなるの。良い子にしてないと、ご飯食べられないんだもんね〜ワルツ? 身体はちいちゃくても、食いしん坊さんなんだよ。特にお肉が大好きだから、頑張ってるの」
「よく躾けてあるんだな。子供と犬の教育はドイツ人に任せろと言われるくらいに、厳しくしっかりしていると聞いたことがある」
「厳しいのは学長先生と奥様なんだよ、優しそうに見えてけっこう怒ると怖いの。目をうるうるさせながら泣きついてくるんだけど、メッ!て叱っても最後には私が我慢できなくて。ついこの子を抱きしめちゃう・・・駄目だよね」


眉を寄せて困った笑みを浮かべながらも、愛おしそうに小さな頭を撫でている香穂子の瞳は、どこまでも温かくて優しさに満ちている。やがて荷物をまとめた学長先生と奥様が、車を降りて俺たちの所へとやってきた。お二人に挨拶をして、香穂子から託されたばかりの土産の礼を言うと、一番下に潜んでおるのはワシが選んだとっておきスペシャルじゃと、学長先生が皺を深めてにやりと意味深な笑みを浮かべる。

まさか何か悪戯が仕掛けられているのではと疑い、反射的に紙袋の底を凝視する俺に笑いを隠せないようで。
そんなに眺めては穴が空いて中身が零れてしまうぞと、逆に宥められる始末。中身が何かを知っている香穂子まで、心配しないで?と可笑しそうに笑いを堪えているじゃないか。込み上げる暑さが顔に集まり火を噴き出しそうだ。

からかいすぎでは駄目だと二人を軽く諫める夫人が、ごめんなさいねと俺に微笑み、お帰りなさいと・・・そう出迎えてくれる言葉が心にストンと染み込んでいくのを感じた。


少し前までは初めましてだったのに、いつの間にか訪ねる度にそう呼ばれるようになっていた。
自分の家ではないのに不思議な気もするが、何故か温かくて本当に帰ってきたようで、心がほっと安らぐ・・・。
そう、この家は親しい者たちを「いらっしゃい」ではなく、「お帰りなさい」と出迎えてくれるんだ。

夫人の言葉に続くように、学長先生が・・・そして最後に香穂子が二人に習って、同じ言葉を投げかけてくれる。



「蓮くん、お帰りなさい」
「ただいま、香穂子」



笑顔で真っ直ぐ見上げるこの温かい言葉が、いつか本物になったらいいと願わずにはいられない。一瞬の夢は強く未来への希望や憧れを抱かせてくれるから。音楽のようにさざ波のように、静かに空気を振るわせて俺の胸に真っ直ぐ伝わる君の声。そして見守ってくれている人たちの声が、木の葉のように一枚一枚降り積もってゆく・・・。


どこか懐かしい温かさに心の底から安らぎ、俺はいつだって守って貰っていたんだな。






香穂子が食事の用意を手伝っている間は俺は特にする事が無く、好きな部屋で時間を潰すしかない。ちょっと待っててねと申し訳なさそうな彼女に待っているからと微笑みで伝えれば、頬を赤らめいそいそとキッチンへと駆けだしてゆく。学長先生からチェスの相手を・・・と誘いがあったが丁重に断った。さすが年の功だけあって知恵の巡りや巧みさには適わず、また負けるか長期戦になると予想が付くからだ。この相手がヴィルならば、売り言葉に買い言葉で煽ってくるから結局勝負を買ってしまうのだが、あっさり引いてくれるのが有り難い。


さて談話室で蔵書の本を読ませて貰うか、それとも・・・。


リビングのソファーに座って子犬の相手をしている学長先生に許可をもらい、脚が向いたのは練習室だった。
お昼をご馳走してもらうお礼に何かできたらと・・・俺が出来ることを考え、音楽でお礼をしようと思いついた。
この家に来るのならば、楽器を持ってくれば良かったな。
生憎ヴァイオリンは置いてきてしまっているから、ピアノで良いだろうか?
ドアを開け放てば家の奥まで聞こえるから、きっとキッチンにいる香穂子にも届くだろう。


練習室にはヴァイオリンを奏でている香穂子の姿だけでなく、いろんな音がこの空間に染み込み、音が溢れているように感じる。どれも優しく心地良いな・・・・包まれながら生み出す音色もまた同じように奏でられ、見えない音たちと響き会うのだろう。窓から差し込む日差しがスポットライトのように照らすグランドピアノに、そう思いながらゆっくり歩み寄りそっと蓋を開けた。鍵盤に指を乗せれば、調律されたCの音色が一つ響き、空間に溶けこんでゆく。

音色の堅さや柔らかさ、甘さといった響きはピアノによって全く違う。楽器の個性にもよるが、この家のピアノは主の好みな音色なんだろうな。音楽大学にある、楽長先生の研究室にあるピアノと同じ響きがする。


「・・・・!? ピアノの下に何か落ちている。紙? 譜面だろうか?」



椅子を引いて腰掛け、足下のペダルに何気なく視線を移すと足の先・・・ちょうどグランドピアノの真ん中辺り。
フローリングの床の上に、真っ白い一枚の紙が落ちているのが見えた。裏側に伏せられている所や浮き出た模様から察すると、どうやら楽譜のようだ。飛ばされたか落ちた時に、きっと一枚だけ零れてしまったのだろう。

この練習室を頻繁に使うのは香穂子だけと聞いているから、きっと彼女の持ち物かもしれない。
ならば探しているだろうから、早く届けなくては。


椅子から降りて身を屈め、グランドピアノの下に這って腕を伸ばす。落ちていた楽譜を拾い上げて再び這い出ると、丁寧に誇りを払いつつその場へ立ち上がった。どんな曲を練習しているのだろうかと彼女のヴァイオリンが気になるのも確かで、僅かに胸を踊らせながら表に返すと・・・・現れたのは見覚えのある手書きの譜面。


「これは・・・・・・俺が書いた譜面・・・か?」


まさかそんな、何故これが香穂子の手元にあるんだ?
驚きに目を見開き、一瞬息が詰まる。
CDに納める為に俺が編曲して書き下ろした二重奏の譜面の一部、しかもコピーしたものではなく原本だった。