花びらを紡ぐように・4
赤茶色の石が敷き詰められた小道を進み、正面にある玄関へと進まず家の裏手に回ってみよう。豊かな葉と芝生が作る緑のアーチをくぐり抜けると、夏に咲く小さな白い花に包まれた庭が家の裏手に広がっているんじゃ。
けっして華やかでも大きくも無いが、漂うのは白い花特有の凛とした気高い空気と香り。
その白い花の庭に位置は番良く面しているのが、練習室。中から聞こえるヴァイオリンの音色に耳を傾けているかのように清らかな花が茂り、壁一面を覆っている。花に彩られた白い木枠のガラス窓が青空へのんびり流れる雲を映し、少し背伸びをして部屋の中を覗けば、仲睦まじくヴァイオリンを弾く二人の姿が見えた。
ちょうど窓の下・・・壁沿いに置かれていたベンチへ妻と二人で腰を下ろし、漂う音色に誘われるまま耳を傾けながら庭や空を眺めて。しばらくの間は時を忘れて音色がもたらす穏やかな世界に浸り、心ゆくまで楽しもう・・・。
『懐かしい曲が聞こえますね。カホコさんと、もう一人はレンさんですわね・・・二人とも嬉しそうですから』
『元々はワシとお前の為にピアノと歌でつくっておったが、ヴァイオリン二本で演奏してくるのはあの二人らしいのう。ヴァイオリンだとまた違った印象じゃな。しかしレンは所見でアレンジしてきたか、さすがじゃな』
『私とあなたが奏でた音楽も、このように温かいものだったのでしょうか? 共に楽しむ事は出来ても自分たちの演奏を聴くことは出来ないですから・・・嬉しいです。先日カホコさんが練習しているのを聞いて、驚いてしまったんです。でも懐かしくて幸せな気持ちになれました、きっと彼女が弾いてくれたからでしょうか?』
『ワシの一番好きな曲を弾いてみたいから教えてくれと言うから、カホコにこの曲を渡したんじゃ。どんな超絶技巧の真っ黒な楽譜がくるかと身構えておったから、初めはきょとんとしておったがのう。レンには以前少し話していたから気づいたじゃろうか・・・』
隣で見つめる妻にそう言ってにっこり微笑めば、まぁ!と僅かに驚いて目を見開き、嬉しそうに頬を綻ばせた。
曲を贈ろうとしている彼らが自分たちのように思えて、懐かしが溢れると同時に励ましたくなったんじゃ。レンの企みがカホコにばれてしまうとワシが怒られてしまうから詳しく話さなかったし、二人だけの答えを導き出して欲しかったのもある。大切な物だから誰にでも渡す譜面ではないし、彼らならとそう信じて託した・・・重なる音色がその答えなのじゃろう。問いかければ返し語り合うように、心に溢れる気持ちを解き放つように、舞い上がる音たちが胸の中へ溢れてくる。
閉じた瞳をゆっくり開き空を眺めて、深呼吸の中に音色を閉じ込めた妻がふわりと振り仰ぐ。
『私も大好きな曲です・・・今でもこれからもずっと。お二人が演奏してくれて、もっと好きになりましたわ。でもあなたは聴いているだけではなく、本当は一緒に混じりたいのではありませんか?』
『ほほう、見抜かれておったか。そういえばお前も先程から、音色に合わせて歌を口ずさんでおるしのう。久しぶりに合わせたくなるな、ワシらの音楽を』
『私たちとあの子たち、二つが混ざったら素敵でしょうね』
『そうじゃな、楽しそうでうずうずするわい。じゃが譜面は一つでも奏者の数だけ違う曲になるように、ワシらだけにしか奏でられない音楽と、レンとカホコだけにしか奏でられない音楽がある。音色が生き生きと輝いているのは、それぞれに物語があるからじゃ。今は新しく咲いた花を・・・生まれた春をもう少しそっと見守りたい気分じゃよ』
ワシたちの曲のようでいて実は違うんじゃ、今聞こえるのはレンとカホコたちの曲。そう言って隣の妻に視線を絡ませ頬と口元を緩めると、見上げる空には青空に漂い流れていく白い雲。空の彼方に甘く締め付ける懐かしい気持ちが込み上げてくるから・・・限られた中で二人だけの時間を少しでも多く作ってやりたいのと同時に、ワシらもこのひと時を大事にしたいと思う。
空が緩やかに解け風がしなやかさを増してくると、誰もが人待ち顔になるものだ。あの花に会えるのは今日だろうか、それとも明日だろうかと、二人を見守り育てるのはこんなにも心躍る気持ちに似ている。かつて自分たちが感じた想いと輝きが背にしている壁の向こうにあるのだから。
この花が咲いて初めて緑は勢いを増し、他のいろんな花も咲き始め、また季節が巡り始める。
ワシと妻の・・・そして若き二人、レンと「カホコの未来も。
『生まれたての春の色・・・レンさんとカホコさんお二人が揃った時に纏う空気や、今奏でられている音色のようですわね。あの子たちの故郷日本には、いろんな種類の桜の木が多くあると、先日お茶の時にカホコさんからお話を聞いたんです、写真も見せて貰いましたわ』
『ほう、桜とな』
『桜の花びらが集まった姿って、赤ちゃんの頬みたいだと思いませんか? ふっくらとして柔らかくて、ほんのり上気していて・・・私たちに温かさをもたらしてくれる春の使者。地面や樹の中でじっくり冬の厳しさを耐えて育て、ようやく生まれた新しい希望の命。辛い時もあるでしょうが、お二人がこれからどう想いや自分たちをを育てていくのか楽しみですわね』
『彼らが春ならワシらはこの庭に溢れる緑じゃろうか、秋の枯れ葉にはまだ早いからのう』
季節を重ねるごとに葉の色を増し、夏も盛りを迎えて庭にあるリンデンバウムの樹の葉も大きく茂り、緑の陰を作ってくれている。雨の日にそっとさしかけてくれる傘のように、強い日差しと熱さから安らぎと優しさをもたらしてくれるように。ワシらも君たちにとってそんな緑でありたいと思うし、花の季節の後に君たちはどんな緑を作り出してくれるのだろうかと楽しみでならない。
『どうやら曲もおちついたようじゃから、そろそろ家の中に入ろうかのう。挨拶に顔を出したついでに、最初から聴かせてもうとしようか』
『そうですわね、聞き始めたのが途中らでしたから残念でしたから。でも・・・』
『? どうした?』
『薄紅色の花たち、ありがとう・・・私たちと同じ春に咲いてくれて』
『・・・・・・・・。ワシの宝物へ、いつもワシを支えてくれる妻へ、そして君たちへ・・・ありがとう』
壁の向こうから聞こえてくる音色に耳をすませれば、音が止んだようじゃな。よいしょと小さく変え声を出して先に立ち上がると、隣にいる妻の前に立ち手を差し伸べた。絡まる視線がどちらともなく緩み、重ねられた手の平を握りしめ立ち上がるのをそっとエスコートして。そのまま手は繋いだまま、のんびり庭を伝い裏手から正面の玄関へと回ってゆく。建物の角を曲がるところで妻がふと立ち止まり、肩越しに振り返って白い花の茂る練習室の窓辺を見つめていた。
昔からずっと大切にしてきた楽譜は、二人の歴史と想いや時間をかけて幾重にも丁寧に重ねられた花びらのように。嬉しい時も辛い時も何かある度に取り出して何度も読み返し、いろんな気持ちを抱いていた自分たちが触れてきたあの一枚は、ワシと妻二人分の思い出が何層にも塗り重ねられていると言ってもいい。
大切な楽譜を託したのは、レンとカホコなら奏でられると・・・奏でて欲しいと願ったから。
レンがカホコへ贈ろうとしている曲も、いつかきっと二人で奏で合う日がこうして来ればいいと思う。
出来るだけ、練習室にいるレンとカホコの邪魔をしないように、玄関の呼び鈴を鳴らさずに自分たちだけで鍵を開けてそっと中に入った。注意深く鍵穴に差し込んで回すと、金属が外れるかちゃりとした音が扉の中に響く。
互いに顔を見合わせ口元に人差し指を宛てて「しーっ!」とニッコリ、堪えていないと今にも笑い出してしまいそうで。まるで無邪気な悪戯をしかける前のようで、楽しさに浮き立ってしまうのを押さえるのに必死なんじゃ。
二人きりにさせてねと追い出されてしまったのか、廊下に寝そべっていたチワワの子犬がパッと顔を上げて反応する。ワシらの姿を見て嬉しそうにしっぽを振り、甲高い声を上げて駆け寄ってきた。主人の帰りが嬉しくてたまらないのか、それともやっと構ってくれる人に会えて堪えていた寂しさが溢れたのか。パタパタしっぽを振って、いつになく甘えてご機嫌だ。
腰を下ろして両手を広げると、ぴょんと胸に飛び込む子犬を抱き上げ頬ずりをする。じゃがしわと髭がくすぐったいらしく、顔を捩って暴れ逃げだそうと必死だ。すり寄ってきながら我が儘な奴じゃわい・・・まったく。隣で膝を付く妻も、ただ今と微笑み子犬の頭を撫でている。
『ただいま、ワルツ。留守番ご苦労さま』
『ほほう・・・カホコに構ってもらえず、一人で寂しかったか。レンが来ているのなら仕方ないのう、二人の邪魔をしてはいかんよ。済まないがもう少しだけ一人で遊んでてくれんかのう。後でゆっくりたっぷり、ワシと遊ぼうな?』
床に放して屈み込み「しーっ!」と口元に人差し指を当てると、初めは不服そうにしていたがやがてくるりと背を向けてリビングへと駆けだしてゆく背を見送りながら、やれやれ・・・と小さな甘えん坊に肩をすくませるしかない。
練習室の扉に耳を当てれば部屋の中から話し声がするのをみると、今は休憩なのだろうか? ならばちょうど良いな。瞳で妻に合図をしてコンコンとノックをすれば、少し驚いたようなカホコの元気な声が聞こえてきて・・・静かに扉を開けば、笑顔を咲かせて駆け寄るカホコと、少し照れたように背後で佇むレンの二人が出迎えてくれる。
大切な物たちに囲まれて生活できるのは、とても嬉しい事じゃ、大きな愛を受け止めて零れる笑顔は、ささやかな幸せを運んでくれるから。こうした暮らしの中にこそ、一番の贅沢があるのかも知れないな。
じゃぁもう一度、あの曲をワシたちに聴かせてくれないだろうか?