花びらを紡ぐように・3

真っ白い紙に引かれた一本一本手書きの五線譜は、音符が書き込みやすいようにとやや広めだが、間隔には寸部の狂いもない。紙一枚といえども、これだけの仕事をするのにどれだけの根気が要っただろうか。

そして五線譜の上に踊るのは、不揃いだけども丁寧に書かれた、大きめな粒の音符たち。描かれた一つ一つの音に込められた想いが宿るからなのか、どこか笑顔の絶えない愛嬌が溢れているように思えた。


香穂子に贈る為の曲を作り上げ、自信と期待の中で僅かに不安を抱えていたあの時。
譜面を見せた学長先生から伺った話の通りだな・・・そっと包んで俺の背中を押してくれた。
これは恐らく学長先生の奥様が贈ったという曲に違いない。


隣に佇む香穂子は、手にもっていた楽譜をじっと見つめたままの俺を、語りかけることなく見守ってくれている。
何かを知っていると分かるなりパッと瞳を輝かせていたのに、敏感な彼女は気を遣ってくれているのだろうか。
見てご覧?と手書きの五線譜を差し出せば、いそいそと肩を寄せてきて、寄りかかるように首を巡らせ覗き込んできた。

譜面に注いでいた微笑みのまま口元を緩めて香穂子に向ければ、振り仰いだ視線が間近に絡んだ。照れたのかほんのり頬が赤く染まるが、照れ隠しに俯き再び楽譜へを視線を向けてしまう。
心の中へ、煌めく音を響かせるように。


「恐らくこの楽譜は、学長先生の奥様が学長先生宛てに贈ったものだろう。まだヴァイオリニスととして駆け出しの若い頃に、生活も世の中も不安定な時代だったと・・・以前そんな話を伺ったことがある」
「うわー素敵! どうりで温かいなって思ったの、書かれた譜面も音楽も全部が。ねっねっ蓮くん、その話私にも聞かせて?」
「香穂子は譜面を受け取った時に、何も聞いていないのか?」
「うん・・・大好きで大切な曲としか教えてくれなかったの。 どうしてだろう? 照れくさかったのかな? それともいつもの秘密だよっていうやつ?」


人差し指を顎に当てながら考え込んでいるが、彼女がいう事も正解の中の一つだろう。あえて香穂子に伝えなかったのは俺を配慮しての事か、それとも何かを気づいて欲しかったのか。


話すと少し長くなるし立ち話もなんだからと。そういって窓辺を見れば、明るく透明な日差しが降り注ぐ窓の下にに置かれていたのは木目の椅子が二つ。座らないかと誘えば、じゃぁちょっと休憩しようねと嬉しそうに頷き、身軽に駆けだしてしまう。先にちょこんと椅子に座った香穂子は、早くと急かすように隣へ並んだ椅子をポンポン叩きながら俺を手招いている。物語の続きを聞きたくて溜まらない子供のようだなと、歩み寄りながら頬が自然に緩まずにはいられない。


まずは換気の為に窓を開け放てば、緑の向こうに高く澄み渡る青空が広がっていて、すがすがしい空気の道が、光を描くように通り抜けるのが見えた。吹き抜ける風が語りかけながら髪をなぶってゆき、大きく息を吸い込めば身体の中から透明に透き通る感じがする。俺と同じく瞳を閉じて美味しそうに、胸一杯深呼吸する香穂子の隣へゆっくりと腰を下ろした。


「俺も学長先生から伺った昔話だから、全てを知っている訳ではないが・・・。影に日向にと支え音楽を手伝いながら、ピアノやヴァイオリンを奏でる側で、耳を傾けていたそうだ。時折楽しそうに曲に合わせて歌いながら。心のままに口ずさむ名もないメロディーが好きだったと、懐かしそうに話していた」
「あ、それ今の光景と一緒だよ! 休日の午後とかに、小さな演奏会になるの。そっか〜昔からずっとだったんだね。きっと今のままを若くしたような感じなのかな、仲良さそうな光景が目に浮かぶよね。いいな〜羨ましい、私もあんな風に年を重ねたいな」


うっとりと楽譜を見つめ、目を細めながら想いを馳せる君の瞳に映るのは、二人の懐かしい光景なのかそれとも理想としている未来の自分の姿なのか・・・。ね?と小首を傾げて相づちを求める香穂子に、隣に俺がいる事を願いつつ、そうだなと呟けば微笑みが花咲く笑顔に変わる。


ホームステイをして生活を共にしているから、いつも身近に二人の様子を感じている香穂子。
あの二人は万年新婚夫婦だよねと身を乗り出す瞳に何故だと問えば、散歩に行く時にもしっかり手を繋いで行くんだよと、楽しそうにはしゃぎ出した。

年を重ねても変わらず手を繋いでいられて、笑顔と音楽が絶えない家なら幸せに違いない・・・俺もそう思う。


「誕生日か記念日か・・・何のきっかけかは伺わなかったが、いつも口ずさむ歌が好きだと話したら、暫く経った頃にこの楽譜が贈られたそうだ。夫人は楽器を奏でたり、音楽の知識に深いという訳で無かったらしい。どうやって自分の歌声を形にしたと思う?」


興味津々に身を乗り出し聞き入る香穂子に瞳を緩め、僅かに身を傾け額を寄せた。
訪ねた質問は、以前俺が学長先生に受けた同じもの。
俺はすぐに分からなかったが、同じ女性であり、近い感性を持つ君ならどう答えるだろうか・・・。

俺が曲を贈ったら・・・・質問の答えを通して、香穂子の気持ちが知りたかったのかも知れない。
突然質問を振られて戸惑いながらも、眉を寄せて考えている。


「う〜ん・・・もし私なら、ピアノの音で確かめるかな。音を鳴らすだけなら指一本でも出来るでしょう? 何の音か分からないなら、とりあえずドの音から順番に鳴らしていけば、いつからピッタリな音に巡り会えると思うの」
「凄いな、その通りだ。俺は答えられなかったんだが、香穂子はすぐに分かったんだな。学長先生の留守を見計らいピアノの前に座って音符という形に残していったそうだ。自分の歌声とピアノを一音ずつ鳴らして照らし合わせ、歌いながらゆっくりと手拍子をしてリズムを取っていたらしい」
「え、正解なの? やったー! クイズのご褒美は、蓮くんのキスがいいな」


正解に嬉しさを隠しきれない香穂子は無邪気に手を叩いて喜び、人差し指を立てて目の前の見えない鍵盤を一つずつ押してゆく。声を出して歌いながら手拍子をして、その場にいたかのように俺たちの知らない記憶を再現していた。楽しげに揺らす肩が俺の方へ傾いたのを腕に捕らえ抱き寄せると、驚きに目を見開く柔らかい唇へ触れるだけの優しいキスを重ねた。


「正解の、ご褒美。香穂子のお望み通りに・・・」
「へへっ・・・嬉しいな、蓮くんありがとう」


キスをが欲しいと望んだ筈なのに、いざ口づけを受けると、みるみるうちに真っ赤に頬を染め照れてしまう。
視線を逸らして僅かに俯き、組んだ両手をもじもじといじる、そんな君が愛らしくて。高鳴る鼓動と衝動のまま引き寄せ、今度はご褒美ではない心からのキスをもう一度贈った。もっとクイズが欲しいなと、はにかんで頬を染めながら甘くねだるけれども、俺が止まらなくなりそうだから残念だけどもうお終いだ。


「ねぇ、学長先生のお話にしてはずいぶん詳しいけど、まるで見てたみたいだよね。ひょっとして奥様が内緒にしてたのに、またいつも見たいにこっそり覗き見しちゃったの?」
「鋭いな、たまたま偶然だったそうだ。最初は一人で音楽を楽しんでいるのだと思ったらしい。内緒だと気づき、でも楽しそうなので触れずにいたそうだが。楽譜を手渡されて初めて、本当の答えを知ったと言っていた」
「嬉しかったろうね・・・それまでの点と点が一つの線で結びついた瞬間、私だったら嬉しくて泣いちゃうかも。こっそりピアノを弾いている姿を見たときも、そのまま駆け寄るのをくっと堪えるのが一生懸命だったと思うの」
「その・・・君が曲を貰う立場だったら・・・という事か?」
「うん! 最初に一度ヴァイオリンで弾いてみたら、奥様が驚いてたんだけど、すぐに幸せそうな・・・懐かしそうな瞳でじっと見つめながら聞いてくれたの。学長先生だけでなく、奥様にとっても大切な思い出の曲なんだね」


そう言って香穂子は持っていた譜面を、大切そうに胸に抱きしめた。
穏やかな愛しさが溢れる表情は、彼女の心の中へ曲に込められた想いが流れ込んでいるのだろうか。
君を通して熱さが流れ込んでくるから、この一瞬ごと刻み込みたくて、もっと眺めていたかったけれども。
あまり強く抱きしめると、お借りした大切な譜面が曲がってしまうぞ。


見つめる俺の言葉が伝わったのか、手を離すと座った膝の上に譜面を置き、壊れ物にそっと触れるように丁寧に撫で始める。俺が持っている夫人が作った譜面と、香穂子が持っているピアノ伴奏付きの譜面は、書き手は違うと分かるのに、元から一つであったと感じる。

使い込まれた跡が一緒だし、何よりも心隣同士並べると、心の中でぴたりと欠片が重なり合ったから。


「香穂子が持っていたもう一つの楽譜は、奥様が書いた手書きのメロディーとピアノ伴奏が書かれているな。こちらも手書きだが、筆跡に見覚えがある・・・これは学長先生が書いた譜面だ。受け取った曲のために伴奏を作曲したんだろう・・・優しい曲だ」
「凄いね、二つ揃って音楽のラブレターだよ。どうしよう・・・私、心の奥がジーンと熱くなって涙が出そうなの。大切に保管されているけど、使い込んでいる跡があるのは、この楽譜で二人が合奏をしたからなんだね」
「楽器が弾けなくてもちゃんと一緒に音楽が出来る・・・音を重ねられるというのは素敵だな」


言葉の通りに溢れた涙を堪えている香穂子が、くすんと鼻をすすって目尻に浮かんだ涙を人差し指で拭っている。香穂子・・・と優しく呼びかけて、振り向いた頬を両手で包み込み、緩めた瞳のまま微笑みを注ぐ。
純粋な煌めきがもたらした濡れる瞳の滴を指先でそっと拭えば、くすぐったそうに手の中で小さく笑った。




譜面に刻まれたメロディーからも感じる、透明で愛らしい歌声が脳裏に響き伝わり。
温かく優しい学長先生のピアノが重なれば、互いに手を取り支え合い、包み込む優しいハーモニー。

二人が歩む道と想いを紡ぐ譜面が、二人の全てを物語ってくれている。
芸術を通して自分自身を表現し、想いを打ち明けようと躍起になるだけでは駄目なんだ。
技術だけじゃない、なぜ音を奏でるのかという音楽の本当の意味を、この譜面たちが教えてくれた。



そうだ俺も曲だけでなく、譜面も添えて君に贈ろう。
君だけに捧げる世界でたった一つ曲を、いつまでも共に奏でられるように・・・。

君と重ねる音楽は、どんな音がするだろうか?
奏でたい・・・聴いてみたい。



「写真とか手紙って、貰うと凄く嬉しいの。例えば蓮くんが撮ってくれた写真は、レンズの向こうで私を見てくれている・・・蓮くんが私をこう見ているんだって分かるし。もらった手紙もね、読み返すのが照れくさいけど今でもずっと大切にとってあるんだよ。だから私たちの音楽も、消えないように形に残せたら素敵だろうなって思うの」
「音楽や言葉は花火みたいにい一瞬のものだ。だが心の中には消えずに、ずっといつまでも鮮やかに刻まれている・・・君が好きだという、目に見えない想いも。記憶と思いでの中だけでなく、身に見えて存在を感じ取れる確かな物として残したい・・・届けたいと、そう思う気持ちは俺にも良く分かる」
「今ね、凄くヴァイオリンが弾きたい気分! ねぇ蓮くん、この曲ヴァイオリン二本で弾けるかな? 蓮くんのピアノ伴奏も素敵だけど、大好きはヴァイオリンで一緒に合奏がしたいの・・・どうかな?」
「あぁ・・・大丈夫だ。即興で申し訳ないが、ピアノの伴奏譜からアレンジするから。ではさっそくやってみるか?」
「うん! あ、ちょっとまってね。今楽器用意するから」


飛ぶように椅子から立ち上がった香穂子は、ひらりと身を翻して開け放っていた窓を閉めると、ヴァイオリンを置いた楽器ケースへと駆け寄っていく。まだ時間は充分あるし、急がなくても良いのに部屋の中をいそいそと駆け出すのは、楽しみと興奮が押さえきれない証拠だ。時間がもったいない、早く奏でたいと言わんばかりに。

だが・・・ヴァイオリンも良いが急ぐあまりに、肝心の譜面を椅子の上に忘れているじゃないか。
心の中で苦笑をしつつ二枚の楽譜を持って、俺もヴァイオリンを用意すべく彼女の元へ向かった。






香穂子が夫人が歌ったメロディーを。
そして俺が学長先生が後に書き添えた伴奏から音を拾い、彼女の音色に重ねて添えてゆく。

奏でるヴァイオリンの音色に想いを込めて、一つ一つを重ねるのは丁寧に紡いだ花びらのように。
蘇るのは君と歩んだ思い出と、目の前に広がる見た事が無いけれど、どこか懐かしく温かな光景・・・そして今新しく重ねるひと時を。


互いに向かい合う重心と瞳、弦を滑る弓は二人だけに交わされる心の会話。
一枚一枚花びらが重なれば、やがて彩り溢れた一輪の花が俺たちの中に咲く。
花を咲かせるのは俺と君だけど、いろいろな人たちの想いや時間が、重なり込められているんだ。



目で見て、耳で聞き心と体の全てで感じ、一つに重なった時に生まれる浮き立つ高揚感。
そう・・・この音、この感覚。君と一緒だからこそ羽踊る心と駆けめぐる温もり・・・歌い出す音楽。


求めていたものがここにある--------。