花びらを紡ぐように・2

まだ午後の時間も早いし、この後は何の予定も入っていなかったな。


夏期休業の間も休まず行われるレッスンを終えて、大学から家路へ向かう道すがら、香穂子に会いに行こうと突然思い立って学長先生の家を訪ねた。こうも気軽に会いに行けるのは、彼女が休暇を利用して渡欧している夏休みの間だけなのだと。どんなに自分へ言い聞かせても、この日常がずっと続くのではと思えてならない。

すっかり見慣れた菩提樹の並木道は、広い緑の木陰が夏の眩しい日差しと熱さを遮ってくれる。
束の間の涼しさを与えてくれる緑が途切れると、一瞬白く弾けた太陽の輝きに目を瞑り、視界を遮る為に手の平で目の前を覆う。肌を焼く熱さが襲いかかり気だるさが込み上げるが、湿気が無いだけまだ過ごし易い方だ。
冬の間は太陽をあれ程欲していたのに、いざ夏の盛りになると涼しさを求めて木陰が恋しくなるのだから、勝手なものだと苦笑せずにいられない。


門を潜り芝生の茂る前庭を通り抜けると、暑さも忘れる程の溢れた緑と整えられた美しい庭。
いつ来ても心が安らぐなと見渡せば、微かにそよぐ風に乗って、家の一室からヴァイオリンの音色が聞こえてきた。耳に馴染み、水のようにすっと染み渡る、彩り溢れた音色は香穂子のものだ。


今はレッスンか、もしくは練習中なのだろうか?
迷惑なようなら帰ろうかと思ったが、ここまで来たんだ。せめて一目会って声を交わしてからと思い、チャイムを鳴らせば、出迎えてくれたのは香穂子本人だった。


「連絡しないで突然すまなかったな。レッスンの帰りに時間が出来たから、君に会いたいと思ったんだ。今は練習中か? 迷惑・・・だったろうか? 言声を交わして帰ろうと思ったんだが・・・」
「せっかく来たんだし、ゆっくりしてってよ。今は学長先生も奥様も出かけていて、ヴァイオリンを弾きながら留守番をしていたの。ヴァイオリンもあるなんて素敵! 私ね、蓮くんヴァイオリンが聞きたいな〜。あっそうだ、一緒に合奏もしようよ」


俺のヴァイオリンケースに気づいて嬉しそうな香穂子に、楽器を持っていてちょうど良かったなと。手を引かれて家の中へと誘われながら、緩む頬が止められなかった。練習室の前まで来ると子犬が賑やかに吠え立てて駆け寄ってくるが、二人だけにさせてね?と、頭を優しく撫でた香穂子に扉の前で閉め出されてしまう。
ダークオークの木目が艶光る広い床に、グランドピアノが一台と譜面代。大きな窓から差し込む光が部屋の奥まで明るく照らし、クリーム色の壁紙が優しい印象を与えてくれる。

この家はどの部屋も自然の明かりが満遍なく取り込める大きな窓があって、光に溢れているな。
生み出される音色も、温かくて光に満ちた物なのだろう。





ここ数日の香穂子は、瞳も笑顔も奏でる音色もいつになく、生き生きとして楽しそうだ。
良い事があったのかと訪ねても、急に慌てて頬を染めながら別に何もないと、俺が一緒だから嬉しいのだと笑うだけで。誤魔化そうとするからあえて聞かないけれど、こんな時の彼女はきっと何かを企んでいるに違いない。

つい先程も部屋に入るなり、あっ!と声を上げてピアノに駆け寄った香穂子は、閉じた蓋の上に広げていた紙を慌ててかき集めた。手伝おうかと歩み寄るが、来ちゃ駄目と言われて一歩出した足を踏み止めて。眉を潜めて見つめれば、何でも無いのと笑みを浮かべて、鞄の中へいそいそと片付け始めてしまった。

何かに期待を胸一杯に膨らませ、目標に向かって真っ直ぐ進む時の輝きを秘めつつも、どこか大きな悪戯をしかける前の押さえた興奮さえも感じる。


「やっぱり一人よりも、二人でヴァイオリンを弾くって楽しいよね。じゃぁね、次はこの曲がいいな」
「以前にも増して、合奏しようと持ちかけることが多くなったように思うんだが・・・」
「え!?変かな? えっとね・・・一人で弾くのはいつでも出来るでしょう? こうして蓮くんと一緒に合奏できる機会は少ないから、貴重な時間を大切にしたいなって、この間ふと思ったの。今はね、合奏強化月間なんだよ?」
「そうなのか・・・いや、急にどうしたのかと不思議に思っただけなんだ。俺も君と音色を重ねられるのは嬉しい」


香穂子の言い分も別に不思議ではないし、俺としても望んで止まない願いなのだが。
こちらの事情を知ったかのように、俺が贈ろうとしている楽曲ばかりをリクエストに上げてくるんだ。

俺だけでなく君にも大切な曲たちが音色と共に語るのは、互いに抱く記憶や想いが同じ嬉しさ。
まるで同時に開いたカードが、一緒に揃った時の喜びにも似ている・・・が、これは偶然なのだろうか?


巻き込まれるのも楽しいし、それでも良いかと思う。完成に想いを馳せて胸を高鳴らせる楽しさを、今では俺も知っているから。恋人同士で秘密は良くないけれども、無邪気で害が無いものだと・・・むしろ良い事かも知れないと分かるのは、心が楽しさに共鳴して自然と浮き立ち弾むからなのだと思う。
プレゼントの箱を開けたら、ポンと飛び出すのはびっくり箱。そんな期待が膨らんでくる。




ヴァイオリンの手を止めた香穂子が、窓辺の棚に置いたケースに楽器を戻すと、次に取ったのは譜面の束で。
次は何にしようかなと楽しげに譜面を選ぶ様子は、まるでどちらの甘いデザートを食べようかと迷っている姿に似ている。終いには両方食べたいと言い出すのだから、迷う必要もないのにとつい頬が緩んでしまうんだ。

譜面の束を捲っていた手をふと止めると目を輝かせ、見つけた譜面を持って駆け寄ってきた。
どうやら気になる何かを見つけたらしい。


「この楽譜なんだけど、私の知らないメロディーなの。ねぇ蓮くん、何の曲か知ってる?」


教えて?と小首を傾げながら俺の目の前に差し出されたのは、五線譜までもが手書きの一枚の楽譜で、二重奏ではなくメロディーラインだけが書かれた物。そして香穂子が持っていたものはどうやら同じ曲らしく、ピアノ用にアレンジしたものだった。どちらも曲のタイトルが無く、楽曲の一部を切り取ったようにも見える。
香穂子が悩むのも無理はない。記憶の引き出しを探っても、俺だって何の楽曲なのか分からないのだから。

ただ一つ確かなのは、弾き込んである古いものだが、持ち主にとって大切な曲に違いないと。
一目で想いを感じるくらいに、丁寧に心を込めて保管されているのが分かった。
初めて見るはずなのに、以前どこかで知っているような気がするのは何故だろう?


「いや・・・俺も初めて見る楽曲だな。何かの楽曲の一部だろうか? もしかしたら、誰か個人がオリジナルで作曲したものかも知れないな」
「蓮くんが分からないなら、私にはお手上げだね。練習しようと思ったけど、タイトルも作曲者も分からないでしょう? 背景も分からないし、どう歌って弾こうか悩んでたの」
「どちらも手書きだな・・・丁寧な仕事をしている。この楽譜はどうしたんだ?」
「新しい曲を弾いてみたくて、学長先生に聞いてみたの。先生の好きな曲や大切な曲があったら、教えて頂けますかって。私ね、学長先生のヴァイオリンやピアノが大好き。聞いているとね、温かくて優しい気持ちになれるんだよ。だからこの音色の元は何なのかなって、どんな曲なのか知りたかったの」
「そうしたら、この楽譜を貸してくれたのか?」
「うん! 世界で一番大好きな曲だって言ってた。この楽譜は先生にとって、奥さんと同じくらいに大切な宝物なんだよ。凄いね〜どんな人が作った曲なんだろう」


不思議そうに眉を寄せて悩む香穂子と一緒に、額を寄せ合わせながら二種類の楽譜を眺めていた。
メロディーを聴いた記憶がないのに、俺がこの曲を知っていると思うのは何故なのか。


「・・・・・! そうか、思い出した」
「え、蓮くんしってるの!?」


答えをせがむように身を乗り出す香穂子に微笑みを向けて、深く頷いた。
学長先生が仰ったという、世界で一番好きな曲。
そして手書きの五線譜と楽譜、心に流れるメロディーは、どこまでも温かく優しく・・・。


あぁそうか、この楽譜だったんだな・・・。

記憶の中の点と点が結びつき、一つの線になる。
線は弦となって譜面に刻まれた音を音色を奏で、脳裏へ蘇らせていった。