アドヴェント(advent)・後編

『蓮くん、今平気?』
「あぁ、構わない。それより香穂子、今日本は早朝ではないのか?」


ちょっと待て・・・・。


部屋の壁に掛けられた時計を改めて確認して、驚きに目を見張った。こちらが夜の9:00ということは、日本時間は朝の5:00くらいということになる。サマ-タイムが終わったから、時差は8時間だ。
そんな俺の驚きを気にした風もなく、彼女の声は実に爽やかだった。


『うん! いつも、蓮くんが私に合わせてくれるでしょう? だから今日は頑張って早起きしちゃった。
みんなまだ寝ているから、部屋のベッドの中でこっそりかけているんだよ』


昨晩のうちに電話の子機を、こっそり部屋に持ち込んでおいたのだと。
ちょっとスリリングだよと、受話器の向こうで悪戯が成功した子供のように笑っている。


先ほどから、小声で囁くような会話だったのはそのせいなのかと思った。


『ギリギリ間にあったかな。昼間と夜10:00以降は電話しちゃいけないんでしょう? 大変な国だよね。本当はもう少し早起きして電話したかったんだけど、つい二度寝しちゃったの。ごめんね〜』


香穂子が言っているのは「ルーエ・ツァイト」の事だろう。「静まる時間」という意味で昼の1時〜3時、夜の10:00〜翌朝7時は、大きな物音や会話おろか電話さえも控えなければならないという、静かさを守るれっきとしたドイツの法律なのだ。もちろん昼間の時間は、楽器の音出しも出来ない。救急車やパトカーでさえ、サイレンを鳴らさないのだから。それにうっかりこの時間に電話しようものなら、非常識に思われてしまうだろう。


お互いに電話をする上で、時差とこの法律は大きな障害だ。
会えない代わりに君の声を聞ける、せっかく貴重な機会なのに・・・・・・・・。


「ありがとう、香穂子。すまないな・・・無理をしないでくれ。君に電話をかけるとき、俺の方はいつも昼間なのだから」
『無理なんかしてないよ。空気がひんやり澄んでいて、うっすら空が白み始めてるから、とても綺麗。早起きは三文の得って言うけど、本当だね』


空は綺麗だし、朝一番で蓮くんの声が聞けたし、良いことずくめだよ。
ふふっと笑う彼女の声が耳をくすぐり、甘い痺れをもたらした。


どこまでも前向きなんだな。そんな君がまぶしくて、だからこそ好きなんだと思う。


柔らかく笑う声、労ってくれる声。
優しい温度で包み込み、柔らかく暖めてくれる・・・。
それは遠い距離を超えて空気を震わせ、俺の心の奥にまで届いた君の想い。
君の声を聞いていると、とても心が安らぐ。


「今日はどうしたんだ?」
『んとね、蓮くんの声が聞きたかったっていうのもあるけど、お知らせだったの。飛行機のチケット届いたよ、ありがとう。あと一緒に入ってた楽譜は何かなと思って。手書きみたいだけど、蓮くんが書いたの?』
「あぁ、そうだ。ワルツの二重奏なんだが、俺が編曲した。俺と君と・・・二本のヴァイオリンの為の曲。こちらに来たら、一緒に合わせたいんだ」


驚いたのか息を詰めた気配が伝わって、空白の時間。
ほんの僅かな間だったが、静けさのせいか、とても長いように感じた。
気に入ってくれるだろうか?


『嬉しいっ! 筆跡とか癖の感じで、絶対に蓮くんが書いたと思ったんだ。蓮くんが編曲したってことは、世界にたった一つだけの曲なんだよね。向こうに行くまで頑張って練習するね』


電話口で、香穂子が声を抑えることも忘れて、きゃいきゃいと嬉しそうに喜んでいる。
月森は受話器を握りしめたまま、声の向こう側にいる見えない香穂子に向かって柔らかく微笑んだ。


そう・・・君と奏でるためにアレンジされた、世界にたった一つだけの二重奏。
彼女の為にと、女の音色を思い浮かべながら編曲したから、喜んでもらえてこちらこそ、頑張った甲斐があるとういうものだ。


ついでに伝えてしまおうか。


「実は知人の結婚披露パーティーに招かれて、ワルツを演奏することになったんだ。ちょうど君が滞在中の時に日程が当たっていて、俺と一緒に演奏してもらえないだろうか?」
『バーティーでワルツ? もしかしてその曲を?』


俺もそうだったがやはり香穂子も、なぜ結婚式でワルツなのかと不思議そうにしている。
女性なら知っているかと思ったが、香穂子も知らないらしい。どうやら国によって、だいぶ状況が異なるようだ。


「俺も依頼した友人から聞いただけだから、良くは分からないが。ドイツでは結婚式のパーティーで、新郎新婦が皆の前でワルツを踊るのが慣わしなんだそうだ。ワルツはその時に演奏する」
『うわ〜ワルツか・・・・羨ましいなぁ〜お城の舞踏会みたい、さすがはドイツだね。その二人が踊っているそばで、私と蓮くんが演奏するんでしょう? 凄く素敵!』


うっとりと遠くを見つめる彼女は、きっと目を輝かせて想像に浸っていることだろう。
すっかり香穂子は夢の国に住人だ。一体どんなお城を思い描いているのやら・・・・。
押さえきれずに思わず口元が緩むが、邪魔をするのも忍びなくて、慌てて自分の口元を手で押さえた。
気軽なものだから・・・・と言い出すのを喉元で堪えて飲み込む為に。


香穂子が、依頼してきた俺の友人と同じ反応を取っている事に苦笑しつつも、愛しさが募ってしまうのは、それが香穂子だからだと思う。


あ・・・でも・・・。
不安気にポツリと言葉を漏らすと、嬉しさと楽しさを押さえられずにはしゃいでいた彼女の空気が急に小さく萎んでしまった。


『蓮くんのお友達なのに、私が一緒に行っても良いの?』
「招待状も2枚もらってある、君の分も。だから、心配しなくていい」
『じゃぁ、せっかくだからお言葉に甘えようかな。二人が幸せになってもらえるように、最高の贈り物をしようね』
「そうだな、俺たちで主役の座を奪ってしまわない程度に、頑張ろう」


もう〜蓮くんったら・・・・。と甘えるように口ごもる香穂子が、頬を染めて俯いている姿が目に浮かぶ。
愛らしい表情をこの目で見られず、この腕で抱きしめられないのは残念でならない。
だからせめて、可愛い君の声だけでも聞きたいと、つい願ってしまうんだ。募る愛しさが溢れるままに。


『そっちの様子はどう?』
「今日からクリスマスマーケットが始まって賑やかになったよ。いろいろな店が出ていたり、街角で演奏している人がいたり。香穂子が好きなキャンドルや小物を扱った店、それにクリスマスにしか食べられない甘いお菓子を売っている店もある。早く君と一緒に歩きたい・・・・・」
「さっそく調べてくれたんだ、ありがとう。話を聞くたびに待ちきれなくて、毎日ソワソワしちゃうの。ねぇ、クリスマスツリーも飾ってるの? あ・・・でも蓮くんは、一人じゃやらないか。ちょっと子供っぽいよね・・・ごめん」


照れながら少し残念そうにする香穂子に、クスリと小さく笑って微笑んだ。
そんな事はない。確かに一人ならやらないだろうが、君と一緒なら飾ってみたいと、思ったのだから。


「いや、まだだ。こちらでは24日からクリスマスツリーを飾るのが慣わしだから。マーケットではもみの木やオーナメントを売っている店もたくさんある」
『凄〜い。おもちゃでなくて本物なんでしょ? ねぇ、せっかくだから一緒に飾ろうよ。私本物に飾るの始めてなの。クリスマスマーケットで飾りを選んだりするのも、楽しそうだし! どうかな?』  
「俺から言おうと思っていたが、先に言われてしまったな」


身を乗り出さんばかりにワクワクしている香穂子が、やった〜と嬉しそうに電話向こうではしゃぎ始めた。目の前にいたら、俺に飛びついてきたかもしれない喜びようで、体の代わりに飛び込んできた気持ちと声を、耳と心でしっかり受け止める。
そんなに大声出すと、ご家族に気づかれてしまうぞ。


考えることはお互い同じと言うことか。
俺の中に君がいて、君の中に俺がいる。
君の好きな事や好きな食べ物、考え方が、いつの間にか俺に移って、溶け込んでしまったのかもしれない。


そのお陰で一緒に楽しんだり、笑ったりすることができる。
だからもっと知りたいと思う。離れていた間の分も含めて、君の全てを・・・・。



もうすぐ時計の針は夜の10:00を指そうとしていた。家の中とはいえ、電話を控えなければいけない時間がやってきてしまった。このままもっと君と話していたいのに、無情に過ぎ去る時が、それを許さない。甘く優しい空気に後ろ髪を引かれながらも、受話器を切る心構えをしなくては。


最後に、彼女が来ることが決まって以来、毎回のようにしている確認を改めてした。


「ところで、本当に乗り継ぎのフランクフルトまで迎えに行かなくて良いのか?」
『相変わらずの心配性だね。何度も言っているけど平気だってば・・・私って、そんなに一人じゃ不安?』


いや・・・心配というより、単に俺が待ちきれないだけなのだが・・・・。
むぅっと膨れ出す香穂子に動揺して、みっともないくらいに慌てて取り乱してしまう。
受話器を強く握りしめて、気づけば電話に向かって一歩足を踏み出していて。
君に駆け寄れるものなら、そうしたかった。


「すまない、そういう訳ではないんだ。ただ、フランクフルトから列車でベルリンまで行く方法もあるから。飛行機より少し時間はかかるが、一緒にいられると思って。俺の我が儘みたいなものだから、気にしないでくれ」
『・・・嬉しい、ありがとう。でもちゃんと一人でベルリンまで行くよ。確かに海外一人旅は不安だけど、行き方覚えないと、この先困るでしょう?』


「この先・・・」という彼女の言葉を聞いて思いとどまった。
一度きりではないのだと、これが新たな始まりなのだと、道を照らすように告げている。
それなら彼女がいつでも一人で不自由なく訪れることが出来るように、しっかりサポートするのも俺の役目ではないか。


『交通事情は良く分からないけど、蓮くんの言ってる列車の件は帰りの時にお願いしていいかな? 行きは早く着きたいけど、帰りは少しでも長く一緒にいたいから・・・・』
「分かった。では、テーゲル空港の到着ロビーで待っている。必ず迎えに行くから」
『ウエルカム、なんてプラカード持ってたら、速攻で日本にUターンするからね』
「しないさ、そんなもの必要ない。どんなに人混みの中からでも、すぐ君を捜し出せるから。それに歓迎なら別な方法でさせてもらうよ」


ジョーク混じりに釘を刺した彼女は、どんな熱烈歓迎になるのやらと、悪戯っぽく語りかけてくる。
いろいろ考えていても、いざその時になったら何も考えられなくなってしまうだろう。
溢れる気持ちの赴くままに、とだけ言っておこうか。


『もうすぐ行くから、待っててね』


耳元で甘く囁く、君の声。
電話を切る間際に感じるいつもの辛さや切なさは、今はない。
もうすぐ君に会えるから。
感じた想いは同じなのだと、伝わる呼吸と空気で分かる。


「楽しみにしている。道中気をつけて」
『蓮くん、おやすみ・・・・・・・・』


連られておやすみと言いかけて、少し違うなと眉をひそめた。君には“おはよう”だろうか? 
しかし別れ際におはようは、変かもしれないな。こんな時には何て言って良いのか、迷ってしまう。


テーブルの上に置かれたままのアドヴェンツクランツは、暗い部屋に心地よさを伴いながら、ほの明るく照らしている。空間だけでなく、見るものの心をも照らす、キャンドルの柔らかくて温かな炎。
それは、君が俺の心に灯した想いにも似ていると思った。


あるではないか・・・愛おしさ溢れる甘さと、温かさとくれた君に返す言葉が。
心を照らす温かさと、小さな炎に宿ったこの想いを、言葉に代えて君に伝えよう。
繰り返される切なさではなく、新たに動き出した未来の為に。



「愛しているよ・・・・・香穂子」