芳賀日本赤十字病院問題T

3,「芳賀日赤」へ妨害と移転阻止問題
                                       (寄稿:真岡市をよくする会)
 (1)地域総合病院よりもゴミ

    地域中核病院である芳賀日本赤十字病院への嫌がらせは、十数年前から日本各地で
   で起きた地域医療問題と同時期に起こっていた。
    この問題が、表面化してきたのは福田市長1期目の後半からである。 福田市長自身 
   が病院経営者であるため、起こるべくして起きたものである。 
    当時の芳賀日赤は、3棟中2棟の電灯が消えると言う破綻寸前にまで追い込まれた。し
   かし、丁度市長選があり、対立候補が地域医療問題として芳賀日赤問題を取りあげたた
   め、福田市長は選挙には勝ったが芳賀日赤を潰すまでには至らなかった。
    選挙中には、各報道機関が大々的な報道を流したため、選挙後には県の仲介で自治 
   医大が援助することになり、かろうじて延命した。

    このような経過の中、芳賀日赤建設予定地模索中に、現ゴミ処理場が先に決定されて
   しまい、芳賀日赤移転は妨害に遭う。
    芳賀日赤は、足利・大田原の両日赤移転問題と深い繋がりがあったため、芳賀日赤も
   移転の準備をが迫られていたはずである。 

    誰が見ても、今のゴミ処理場予定地より芳賀日赤の方が理にかなっていることは言うま
   でもない場所である。 金におぼれた権力者のなれの果てを見たような気がする。

 (2)芳賀日赤排除の論理

    芳賀日赤排除については、多くの人間が加わっていたものと思われる。 当時の福田 
   市長を始め複数の営利を目的とした人間が関わり、自己利益誘導に走ったのが真実で 
   あろう。
    平成15年頃より、新医師研修医制度の法改正があり、その結果大学内に残る研修医
   が極端に減少しはじめ、地方病院は大学医局からの派遣者数が激減。 それを利用し、
   芳賀日赤の医療を困難にしていった。
    その上、当時から地域医療中核病院構想が全国的に進められていた。 芳賀地区の 
   中核病院の認定を得ることが、医療機関として絶大な安定性を増すことは誰にもわかる 
   話である。
    そのような中で、病院問題は一時棚上げにして、ゴミ処理場を病院予定地候補地に持 
   ち込んだのである。 しかも、そのゴミ処理場建設に贈収賄疑惑と言うおまけまで付き、 
   裏金疑惑の見本みたいなものである。
    特にゴミ処理場建設問題が上がると、中核病院よりゴミという、市行政の一貫した方針
   として、強引にゴミへ傾いていったのも事実である。 議会からも問題提起すらないと言う
   普通の常識人では考えられない事である。 市当局も議会も人命救助よりゴミという結論
   を出したようである。
    芳賀日赤排除による利益獲得以外に理由は何もなかったのが真実であろう。

         「医は金術」が彼らの目的のようだ

   だが残念ながら、福田市長一期目時点では、芳賀日赤廃院は果たせなかった。

 (3)芳賀日赤を大田原・足利日赤のように新規移転を

    栃木県には、日本赤十字病院が3カ所あり、日本赤十字社に編入された時期や経過も
   全く同じであります。しかし、今や足利も大田原も地域中核病院の役割を果たすべく、新 
   規移転を果たし、救急医療体制を整え、同時に救急ヘリコプターの利用も可能な状態を 
   整いました。
    芳賀日赤も、一日も早く地域中核病院を目指さなければならないが、地域自治体のバッ
   クアップどころか自治体がゴミに目がいってしまうと言う本末転倒の状況になっている。
    地方の中核病院は、地域住民の健康管理のために地方自治体がそれなりの支援をす
   ることが当たり前である。 特に高齢化社会に向かってきている今、一刻も早い整備が必
   要である。

 (参考:芳賀日赤病院の生い立ちと経過)

   芳賀日本赤十字病院は、(株)芳賀病院から戦後移行したものである。当然本社は日本
  赤十字である。
   大正7年に、当時の真岡町の有力者久保久四郎・樋口貞四郎両名に町医者で郡会義員
  の佐々木傳の3名で設立委員会設置し、株主3名の株式会社でスタートした。 初代院長 
  には、佐々木傳の学校の後輩を教授推薦により室田松太郎(東京帝国大学医学部卒)氏
  を迎えた。 その室田院長が、芳賀日赤の初代院長でもある。 
   特にこの計画には、総合病院を芳賀のへそ(中心地)とする役割を持たせていたいたた 
  め、人材確保のために久保氏が佐々木氏に郡会議員を譲り、芳賀の発展のために三者 
  共に小異を捨て大道に着いた経緯ある。

   明治・大正時代の芳賀地域は、鬼怒川にも橋が無く陸の孤島のような地域であった。そ 
  の為、総合病院もなく伝染病や生活習慣病などに無防備だった。 そこに東京の医学校出
  身の医師佐々木傳がきた。 その佐々木氏が郡会議員受け、地域活性化の為の方法とし
  て総合病院の設置計画だけでなく、地域婦人の教養を高めるため女学校誘致をも目指し 
  た。
  その結果、芳賀病院(芳賀日赤の前身)と真岡実科女学校(真岡女子校の前身)が生まれ
  た。

   「株式会社芳賀病院」は、大正12年の関東大震災時や終戦間近の東京大空襲時にも多
  くの被災者受け入れ、地域だけでなく北関東全域でその役割を担ってきた事実も忘れては
  ならない。

   室田院長は、昭和27年まで長い間この地を守り続けてき、昭和21年の日本赤十字社へ
  の移行時に、芳賀日本赤十字社の初代院長も務めた。
   その後、何代かの院長を経て、6年前に自治医大の応援が得られ現在に至っている。


トップへ
トップへ
戻る
戻る



芳賀日本赤十字病院問題U(病院より大事なゴミ焼却炉)
芳賀日本赤十字病院問題U(病院より大事なゴミ焼却炉)