十二月の校庭 裸の木々は 死んではいない。 その乾いた樹皮の下を 新しい樹液がめぐり 着々と 春への準備が進められている。 若芽を大事に育てている。 今はただ 黙って春を待つだけ。 乾いた風が 乾いた校庭に吹いて 砂ぼこりと一緒に イチョウの落ち葉を巻き上げる。 イチョウはさわさわと やさしい声でささやく。 (からからいうのはケヤキ かさこそいうのはサクラ) ──春が来ると 黄色いちょうちょが飛ぶよ。 |
──解説── ちょっとお恥ずかしい、中学生の時の作品です。中学二年の冬。冬木、十四歳。どひゃ。そんな時代もあったのね。 当時の作品は、今読み返すと、作品としての価値は、ほとんどありません。 見るべきものがまったくないわけではありませんが、一遍の詩としてまとまった完成度を持っているものは、ほとんどないように思います。 だいたい、当時の私の詩は、『作品』というべきものではなかったのです。思いついたことをそのまま書き流しただけで推敲もしない、走り書きの気ままな日記のようなものでした。 ただ、そんな落書きの中にも、時々はまぐれで『詩』になってたり、この部分は『詩』になってるかなと思える一節があることもあって、これも、そんな一節のひとつです。 本当は、もっと長い詩の一部なのですが、今でもそれなりに詩になってると思えるのは、この部分、それも後半だけかな。前半は、あまり、詩じゃないですね。 今ごろこんなものを引っ張り出してきたのは、たまたま、十二月にふさわしい詩が他に無かったからですが、他に、『冬木』というペンネ−ムの源流があるから、というのもあります。それで、記念の意味で、後半だけじゃなく前半も残してみました。 『冬木』というペンネ−ムを使い始めたのは大人になってからですが、すべての葉を落として木枯らしの中に凛と立つ冬の落葉樹への共感と憧れは、この頃から変わらずに抱いており、中学時代の作品の中には、他にも、冬の落葉樹への想いを『聖なる木々よ 聖なる命よ』などと高らかに歌いあげたものがあるほどです。 というわけで、今回は、冬木の『青春の記念碑』編でした(^_^;) それにしても、14歳の冬木って、授業中も休み時間も、こんなふうに校庭をぼんやり眺めては、詩を作ったり空想にふけったり──。 そんなぼんやりものが、いつのまにやら大人になって、今でもやっぱり、ぼんやりものをやってます(^_^;) というか、年とともにますますぼんやり度が上がってるかも。 『ぼんやり』は死んでも直らない? |
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