春の夕暮れの庭に、ネズミモチの花の重苦しい匂いが垂れ込めている。
しだいに夕日が薄れてゆく庭の隅、白い小花がひっそりと散りしくネズミモチの下の薄闇に、少女がしゃがみこんで、小さな赤いシャベルで、地面に穴を掘っている。うつむいた顔は落ちかかる髪に隠され、白く細いうなじだけが、左右に分かれた黒髪の間から覗いている。シャベルが土を掻く動きにつれて、おかっぱに切りそろえた毛先が揺れる。湿った黒土の匂いが立ち昇る。
少女は、墓穴を掘っているのだ。
少女の名はハルカ。
ハルカは猫を飼っていた。 ハルカの猫はルシーダと言って、しなやかな漆黒の毛皮と星のように輝く青い瞳を持つ雌猫だった。
黒猫の目は、普通、黄色い。あんな美しい青い目をした黒猫は、本当に珍しく、特別な存在なのだ。
それも当然だ。ルシーダは、ただの猫ではない。宇宙から来た猫なのだから。
ハルカの母親は猫が嫌いだったから、ハルカは、それまで、いくら頼んでも猫を飼わせてもらえなかった。
捨て猫を拾ったときも、もう一度捨てに行かされた。
でも、ルシーダは大丈夫だった。なぜなら、ルシーダの姿は、ハルカ以外の人の目には見えなかったから。
ルシーダはただの猫じゃなく、宇宙から来たエスパー猫だから、人の目から姿を隠すのなんか簡単だ。ルシーダの存在を知っているのは、ハルカただひとり。ハルカは、猫の姿をした宇宙人に協力者として選ばれた、特別な地球人なのだ。
ルシーダは、最初、普通の捨て猫のようなふりをして、ハルカの前に現れた。
けれど、ハルカは、ルシーダが普通の猫ではないことを、そして、自分たちの出会いがルシーダによって計画されたものであることを、最初から知っていた。
ハルカはルシーダを上着の下に隠して自分の部屋に連れてきた。普通の猫なら長く隠しおおせられるわけはないけれど、ルシーダなら大丈夫だと分かっていた。ルシーダは誰にも見えないし、鳴き声を立てないし、餌も食べない。おしっこもしない。
嬉しかった。ずっと欲しかった猫が飼える事も、自分だけの秘密の友達が出来たことも。
ルシーダは、人間の言葉で自己紹介し、ハルカと友達になった。いつもハルカの部屋にいて、学校から帰ると、勤めに出ている母の代わりに、その日の出来事を聞いてくれた。普通の猫のように甘えてみせることもあれば、人間の友達のように語り合い、ハルカの悩みを聞いて慰めたり励ましたりしてくれることもあった。
宇宙から来たひとりぽっちの猫と、人と打ち解けることが苦手な孤独な少女。自分たちは良い友達になれたのだと思っていた。
けれど、いつしか、ルシーダは、危険な兆候を見せ始めた。
ルシーダは、ハルカが学校に行っている間に、両親の本棚から難しい本を出して読んでいたらしい。ハルカが寝ている間に教科書を読んでいることもある。きっと、地球と地球人について調べているのだ。ハルカと親しくしているのも、地球人のことを知るためなのかもしれない。そして、もしかすると、それらはすべて、やがて地球を侵略するための準備なのかもしれない。
ルシーダには、一緒に地球にやってきた仲間もいるらしい。ハルカにはそのことを一言も言わなかったけれど、ある日、ハルカは、ルシーダが密かに仲間たちと連絡を取っているらしい場面を偶然に覗き見た。通信機らしいものは見当たらなかったが、きっと、極小型の通信機を身体のどこかに隠しているのだろう。仲間たちと交信しているときのルシーダは、いつもと違う、冷たくて怖い顔をしていた。
ルシーダは、密かに力を蓄えている。世界各国に潜入した仲間たちと隠れて連絡を取り合って、地球上での勢力を人知れず伸ばしているのかもしれない。どこかで既に侵略のための行動が起こされようとしているのかもしれない。
ある夜、眠っていたハルカが何か危険な気配を感じてふと目を覚ますと、ルシーダがじっとハルカの顔を覗き込んでいたこともある。それは、友の寝顔を眺める優しい顔ではなく、あきらかに冷たい、無機質で無感動な眼差しだった。いつもは美しい青い目が、闇の中で、無気味な燐光を放っていた。
そしてルシーダは、ハルカに地球侵略への協力を強要しはじめた。
手始めは、小さなことばかり。十二歳の少女にたやすく実行できるような、ささやかな――けれど、ハルカの平穏な日常を壊してしまうには十分に危険な。
でも、ハルカは、ルシーダの言うなりになる気はなかった。たとえ脅されても、あるいは地球征服後の特別の地位という報酬を約束されても。
ルシーダは、ただの夢なのだ。自分の空想の中の存在なのだ。ハルカはそのことを、最初からちゃんと知っていた。
この夢は、危険だ。いつか、私を食う。私の夢が、私の現実を食い荒らす。
危険な夢が、これ以上、大きくならないうちに。これ以上、邪悪な力を蓄えないうちに。
私は、ルシーダと決別しなければならない。ルシーダを消さなければならない。私より強くなったルシーダに消される前に。
ルシーダが自分の空想の友達であるのなら、ルシーダを消すのは簡単だ。空想することをやめればいい。
けれど、もう血肉をそなえるまでに育ってしまった空想は、そんなに簡単にかき消せない。
それなら、空想の物語の中で、ルシーダに消えてもらえばいいのだ。どこかにいなくなるなり、死ぬなり……。
駄目だ。いなくなっただけなら、また戻ってきてしまうかもしれない。ルシーダという夢は、それほど確固とした存在にまで育ってしまっている。
やはり、ルシーダは、空想の中で死ぬしかないのだ。
前に、飼っていた鳥が死んだことがある。学校から帰ってきたら、冷たくなっていた。
ルシーダも、きっと、そんなふうに死ぬのだ。私は、ルシーダのなきがらを発見して涙を流し、かつて小鳥を埋めたように、庭の片隅に、心を込めてルシーダを埋葬する。誰も知らないルシーダの墓に、墓標はいらない。ただ、白い花を……。
そうして、ハルカは、ルシーダを庭に埋めた。
それは、三日前のこと。
庭の隅の暗がりには、やはりネズミモチの花の香が満ちていた。罪を秘めた魂の無言の呻きのような、胸苦しく、生々しい、訳もなく心をざわつかせる不穏な匂い。そして、湿った土の感触。
夕暮れの庭で、ハルカは、可愛がっていた猫のルシーダのために涙と花と懺悔を手向け、部屋に戻った。
けれど、その夜、夢の中で、ルシーダは、昨日までと寸分たがわぬ姿で墓から蘇えった。
――猫には九つの命があるのよ、知らないの?
なんでもないことのように言い放って、ルシーダが嗤った。
それから、ルシーダは、素知らぬ顔でただの猫のように振舞いつづけ、気取った足取りで我が物顔にハルカの部屋を歩きまわり、尻尾を舐めたり顔を洗ったり、これみよがしにあくびをしたりしていた。
そんなルシーダをなるべく見ないようにしながらうっかり目の端に捉えるたびに、ハルカは自分の罪に怯えた。
そして、今日。
ハルカは、再び、ルシーダを葬った。今度こそ、間違いなく。
ハルカは、無邪気そうに尻尾をくねらせてたんすの上を歩くルシーダを捕らえ、素早く上着にくるんで、首を絞めたのだ。
前のようなやり方では、何度殺してもルシーダは蘇える。そして、九回目に達する前に、向うから何か手を打ってくるだろう。
やはり、自分の手で殺さなくては駄目なのだ――。
ルシーダは、驚愕に目を見開いて、上着の中でもがきながら息絶えた。
――今度は、もう、生き返らない。なぜなら、私は完全にルシーダと決別したから。
ハルカは、しだいに暗くなってゆく庭で、穴を掘る。
三日前に一度掘った場所だから、掘り返すのは簡単だ。
三日前と同じ、春の夕暮れ。頭上でネズミモチが香る。秘めやかな懊悩の匂い。心が疼く。魂が罪に呻く。
からっぽの穴の底にネズミモチの白い花を一掴み投げ込んで、穴に土をかけた。
からっぽの、それは、夢の墓。
黒猫の形をした危険な夢の記憶は、いつまでも、この庭の隅に眠り続ける。
そして少女は、やがてこの庭を出て、広い世界へ歩き出すのだ。
墓に背を向けて立ち去る少女を、ネズミモチの香が包む。重たく湿ったその香りは、少女がまだ知らない愛という名の罪の匂い、人生の苦悩の匂いに、とても似ている。
(『星の猫ルシーダ』・完)
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