『〈森の民〉の物語』番外編

テル・トールマンの手記


☆この作品は、連作短編集『森と荒地の物語』中の『〈森の民>の物語』の、お遊び番外編です。
☆『語り部キャラクター「テル」を共有して、自分の持ちネタ小説にゲスト・キャラクターとして登場させ、作品紹介を兼ねた番外編を書いて遊ぼう』という趣旨の競作企画『テルの物語』(企画終了済)の参加作品です。
☆本編の裏設定紹介的な内容ですが、本編未読でも、一種の異世界召喚モノとして読める……と思います。
☆『主人公「テル」は出現時は裸である』という、企画の初期段階での設定(その後、廃止済み)を自主的に採用しています。



 髭を引っ張られて目が覚めた。
 ぼんやりと薄目を開けると、目の前にでかでかと、ぬいぐるみの顔があった。顔面部分に毛がなく、バラ色の頬の人間の幼児の顔をした、擬人化されたタイプのぬいぐるみである。しかし、なんとまあ精巧な造形だ、柔らかそうな肌やキラキラと輝くつぶらな瞳など、まるで生きているようだ……と、思った瞬間、その『ぬいぐるみ』が、ぱちくりと瞬きをし、言葉を発した――幼児らしく舌足らずではあるが、明らかに人語を。
「おっきチたヨ」
 私は困惑して目を瞬いた。
 と、『ぬいぐるみ』を押しのけるように何人もの愛らしい子供の顔が四方八方から私の視界に割り込んできて、押し合いへし合いしながら、いっせいにさざめきはじめた。
「おきた?」
「おきたね」
「おじさん、だぁれ?」

 それが、私の、この世界での最初の記憶だ。

 私は素っ裸で、森の中の空き地に大の字になって、ぐうすか寝ていたらしい。自分がどういう状況でその場所にいたのか私自身は全く覚えていないのだが、私を見つけた子供たちは、そう言っていた。
 気付いた時には、そこは清々しい森の中で、私は地べたに仰向けにひっくりかえっており、可愛らしい子供たちの集団に取り囲まれて、顔を上から覗きこまれていたのだ。
 肘をついて半身を起こす私を物珍しげに見守る子供たちは、みな、天使のように美しく愛らしい顔立ちで、年齢的にはよちよち歩きの幼児から十歳ばかりまでと見えたが、そのわりに、全体的に妙に背丈が小さいような気がした。
 その中で、年長と思える子供たちは、素朴な風合いの風変わりな衣服を着ていたが、幼いほうの数人は、頭の先から足の先まで一体となってすっぽり覆う、動物の着ぐるみ風のフード付きカバーオールのようなものを着ていて――と、その時はそう思った――、それが、私が最初に目にした子供を寝ぼけ眼にぬいぐるみと見間違えた原因だった。
 カバーオールのようなものは、どう見ても本物の毛皮で出来ており、ころころとした幼児が全身を毛皮に包まれたその姿はそれこそ動くぬいぐるみさながら、つぶらな瞳を更にまんまるにして小首を傾げ、指を咥えながらきょとんと私を見上げる仕草など大層微笑ましく、思わず抱きあげたくなるような愛らしさであるが、よく見れば、あまりにも自然に全身をすっぽりと覆うそれはとても衣服とは思えず、カバーオールを着た子供というよりもむしろ絵本に出てくる擬人化された動物のようで、私はまたもや困惑した。
 中には尻尾のある子もいて、(これはきっと、ものすごく出来の良い毛皮製の着ぐるみで、今日はこのへんで子供の仮装大会でもあるのだろう、年長勢の風変わりな衣装から見て、森の小人さんと動物たちにでも扮しているのだろう)と無理やり自分を納得させようとした私の努力は、その尻尾が、ぴこぴこと元気よく動いていることで無駄になった。

 私の困惑などおかまいなしに、子供たち――毛皮のあるのも含めて――は、私の周囲で口々に騒ぎ立てる。

「おじさん、なんでこんなとこで寝てるの?」
「なんで裸んぼうなの?」
「おじさん、外の人?」
「あたりまえだろ、こんなに背が高いんだから。『外の大きい人』に決まってるよ!」
「外の大きい人!」
「ショトのオッチイしと!」
「はじめて見た!」
「外の人は大きいね!」
「オッチイね!」
「おじさん、なんでお顔に毛が生えてるの?」
「外の人だからだよね! ぼく知ってるよ! 外の人は男の人だけお顔に毛が生えるんだよね!」
「へんなの!」
「へーんなの!」

 その時、私の腹が盛大に鳴った。

「……おじさん、お腹空いてるの?」

 確かに、そういえば腹が空いていた。気がつくと、目が回るほど空いていた。
 情けない気持ちで頷くと、子供たちは俄然勢いこんで、我勝ちに声を張り上げた。

「だったら、うちのセレタにおいでよ!」
「そうだよ、一緒においでよ!」
「おいしいお粥があるよ」
「お菓子もあるよ」
「木の実もあるよ」
「ほら、立って!」
「ね、こっちだよ」
「さあ、行こう!」

 こうして私は、訳もわからぬまま、愛らしくも奇妙な子供たちに寄ってたかって腕を引かれ尻を押されて――立ち上がってみると、子供たちは、せいぜい私の腰のあたりまでしか背がなかったのだ――、彼らの居住地〈セレタ〉に連れてこられたのである。

 絵本の中から抜けだしてきたかのようなこの子供たちは、私がいま世話になっている〈森の民〉の子供たちで、毛皮のある子も含めて別に仮装をしていたわけではなく、〈森の民〉は、幼いうちは毛皮があって尻尾が生えている、そういう種族なのである。幼児期を脱する頃には被毛が抜け落ちて普通の『人間』の姿になるので、私の前に現れた子供たちの集団には、毛皮のあるものとないものが混ざっていたのだ。

 私には、彼らの言葉が理解できた。
 自分でも彼らの言葉を話すことができた。
 だが、私の本来の言語は、彼らのものとは違うらしい。
 彼らと会話を交わす時、私は特に意識せずとも当たり前のように彼らの言語を話しているが、文字を書く時には、今度はごく自然に自分の本来の言語を操って頭の中に文章を組み立ている。不思議なことだ。
 今、書いているこの手記も、私の本来の――と思われる――言語で書いている。なぜなら、〈森の民〉の言葉は、文字で書き表すことができないからだ。彼らは、高度な文化を持った種族であるが、文字は持っていないのだ。だから、文字を書こうとする時、私は自然と、脳内で操る言語を自分の本来の言語に切り替えることになるらしい。

 今、こうして手記を書いている手元を、周囲に集まった〈森の民〉の子供や女たちが、興味津々で覗きこんでいる。彼らは、私が何か目新しい手仕事を始めたと思っているらしい。
 私が今使っているペンは、拾った鳥の羽を削って作ったもので、インクは彼らが染色に使う花の汁、それで、薄く剥がした樹皮の裏に字を書いている。彼らが繊維を取るために剥がした樹皮の裏側が白くて滑らかそうだったので、試しに譲り受けてみたところ、目論見通り、書き物にそこそこ適していたのだ。
 文字を持たない彼らの目には、私の文字は、見慣れぬ装飾紋様のように映っているのだろう。どうして一色しか使わないのか、そこで色を変えればもっと綺麗なのに、そこに花模様を描き加えてはどうかなどと、横から賑やかに口を出してくる。
 いくら滑らかとはいえ樹皮のことで、紙のようにはペンが走るわけもなく、小刻みに線を描き足してゆく作業は、たしかに、文字を書くというより工芸品の絵付けに近いかもしれない。
 手作りの粗末なペンはすぐに痛み、そのたびに先を削り直したり新しいものに取りかえたりしていて、筆記は遅々として進まないが、なに、急ぐ必要は何もない。日々、少しずつ書き進めてゆこう。


 私の名は、テル・トールマン。
 といっても、覚えていたのは『テル』という名前だけだった。
 『トールマン』というのは、この手記を記すにあたって、署名が『テル』だけでは座りが悪いような気がして自分で付けた仮の姓だ。彼らが私を指して言う『背高《せいたか》さん』という通称を、自分の本来の言語――と思われるもの――に置き換えてみた。
 私には、ここに来る前――森の中でふいに目を覚ましてぬいぐるみのような子供たちを目にする前の記憶がない。
 だが私は、こことは違う一つの世界の文化について、つぶさに知っている。『ぬいぐるみ』や『絵本』、『ペン』といった、ここにはない事物を知っている。ここにいる〈森の民〉たちとは違う、生まれた時から赤裸で尻尾のない種族を、その社会を知っている。私はおそらく、その種族に属しているのだろう。
 が、ひとつの世界について間違いなく知っているにもかかわらず、私には、自分がその中で暮らしていたという記憶がない。その世界の『人間』というものがどんな姿で、どんな服を着て、どんな宗教を持ち、どんな道具を使い、何を食べていたかなどは間違いなく知っているが、自分がどういうものだったか、その世界の中でどのように存在して何をしていたかという記憶が、全くないのだ。
 ただ、『テル』という名前だけを覚えていた。
 そうして、自分が数多の世界を旅する『旅人』であることだけを知っていた。
 語るべき物語を求めて世界を渡る、旅人であることを。

 何一つ持たず、記憶さえ持たない丸裸で倒れていた見知らぬ男を、子供たちは何疑うこともなく自分たちの里に導き、大人たちは驚きながらも当然の事のように受け入れて、衣服を与え、食物を与え、世話を焼き、私は里《セレタ》の客人となった。そうして今、この、素朴で温和な人々と、美しい森の中で、穏やかな、けれど私にとっては驚きに満ちた日々を送っている。
 私は、この体験を、誰かに語らなければならないのだと思う。目の前にいる〈森の民〉ではない、物語の『外』にいる誰かに。それが、私の使命、私の存在意義なのだ。
 私は自分が、自分を主人公とした物語の語り手であることを、なぜだか知っている。
 だから私は、この世界のことを、この里での生活を、こうして手記に残す。
 この物語が、伝えるべき『誰か』に伝わることを信じて。
 何しろ粗雑な手作りのペンで樹皮に書き付けたもののことで、曲線などまともに引けないため、ひどい金釘流の乱筆だが、ご寛恕願いたい。


 まずは、この手記を読むのが〈森の民〉のことを何も知らぬ人であると仮定して、私を迎え入れてくれた、彼ら〈森の民〉のことを説明しようと思う。

 〈森の民〉は、彼ら自身が名乗っているその名の通り、この森に住む人々である。
 小柄な種族で、大人でも、せいぜい私の胸の下あたりまでしか身長がない。彼らが私を『背高さん』と呼ぶ所以である。
 もっとも私はどうやら別の世界から来たものであるらしいから、彼らが小さいのではなく私がこの世界では巨人であるという可能性も考えられるわけだが、おそらく、そうではなさそうだ。この世界には彼らの他に、彼らが知るかぎりでも幾つかの別の種族が生活しており、彼ら以外の種族はみな、おおよそ私に近い身長があるらしいのだ。
 彼らは、それら、自分たち以外の種族を総称して、『外の世界の大きい人たち』と呼んでいる。つまり、この世界においても、〈森の民〉は特に小柄な種族であるということだ。

 彼らは骨格が華奢で身が軽く、非常に敏捷である。身体が柔らかくバランス感覚が良いので、まるで軽業のような動きをやすやすとしてのける。そんな彼らには、私は非常に鈍重で不器用に見えるらしい。

 彼らの、もっと大きな身体的特徴は、先ほど説明した通り、幼児期には『産毛』と呼ばれるふんわりと柔らかな被毛に全身を覆われていて、長さも見た目も断尾前の仔羊のそれに似た尻尾があることだろう。
 この『産毛』は、前述のとおり、多少の個人差はあるが生まれて四〜五年ほどで抜け落ち、私の知る『人間』の姿になるものらしい。が、中には成人後も、耳や背筋など身体の一部に被毛が残るものもいて、ちょっとした愛すべき個性とみなされているようだ。
 尻尾のほうはもう少し早く、よちよち歩きを脱する頃には自然に取れるのが一般的だそうだ。

 赤ん坊の毛皮の色は、大人の〈森の民>の髪の色同様、様々な色調の茶色から金色にかけての濃淡であることが多いが、稀には、銀に近い灰色や、純白であることもあるそうだ。
 面白いのは、生まれてきた時の産毛の色が必ずしも成人後の髪の色と同じとは限らない点で、産毛が抜ける時に頭部の毛も全部抜け替わるらしい。特に銀や白の毛皮の赤ん坊は、産毛が抜けると普通の茶色や金髪に変わることが多いそうだ。中には、生まれた時は純白だったのに一転して黒髪になる子供までいるという。黒髪もまた、彼らの中では非常に珍しいようだ。

 そして、〈森の民〉は、大変美しい種族である。
 もこもこの毛皮に包まれた幼児期の、ぬいぐるみさながらの愛らしさは言うまでもないが、産毛が抜けて、私の知る『人間』の姿になったものたちは男女問わず軒並み非常な美貌で、わけても若い娘たちときたら、誰もかれもが『花のような』という形容にぴったりの可憐さである。
 美貌といっても、彫りの深い鋭角的な美貌ではない。どちらかというと彫りは浅く、なだらかな造作なのだが、その柔和で穏やかな顔立ちが非常に優美で、清純素朴な美しさを湛えているのである。

 彼らは、見た目上の男女の性差が少ない種族でもある。
 身長も男女でさほど変わらないし、男女共にほっそりとしたものが多く、体格の差もあまり目立たない。そして、顔立ちも一様に優美で少女めいている。しかも、成人男性でも髭が生えない体質のため、彼らの言う『外の世界の人たち』には、彼らの男女の別が服装や持ち物――衣類に描かれる紋様が男女で異なり、また、男性は弓矢を持ち籠手を嵌めている――でしか見分けられなかったりもするらしい。私にも、その気持ちは良く分かる。

 柔和な美貌に加えて男性に髭がないせいもあって、彼らは、全体的に若く見える。特に女性の場合、私の目には、何人もの子供を持つ女性でも、ほぼ一様に、美しい少女のように見える。
 が、実は、彼らはみな若く『見える』だけではなく、実際に、彼らの中には、あまり年をとったものがいないらしい。
 老境に達するまで生き残るものが、そもそも非常に少ないらしいのだ。
 彼らは、成長速度は私の知る『人間』に比べてやや遅いようなのだが、だからといって長命ではなく、むしろ、平均してわりと短命であるらしい。
 その多くは、数人の子供を産んだ後は、受粉を終えた花が散るように、さほど年を取らないうちに、特に病気をするでもなく、ある日突然に穏やかな自然死を迎えるという。彼らにとっては、それは自然な、当たり前のことで、特に悲しむべきことではないのだそうだ。
 だから、彼らの里には、老人というほど老いたものが、そもそも非常に少ないのである。それで、ごく少数の老人たちは、セレタの知恵袋として非常に尊重され、尊敬されている。

 〈森の民〉は、善良で平和的な人々である。温和で寛容、おおらかで愛情深く争いを嫌い、過剰な欲を持たず、思いやりに溢れ、およそ邪心を持たない清らかな心の持ち主ばかりに見える。まるで、嫉妬や強欲などの悪徳は、ここには一切存在しないかのようだ。
 子供同士のたあいのない喧嘩は別として、彼らが諍っているのを、私は一度も見たことがない。何かを奪い合っているのも見かけないし、人の悪口を言うのも聞いたことがない。私がよそ者だから私の前では取り繕っているというわけでもなさそうだ。
 外界との接触をほとんど持たずに森の奥深くで暮らす一族であるから閉鎖的といえば閉鎖的で、外界への警戒心は強いが、一方で好奇心も強く、柔軟で、基本的に人懐こく、私のような得体のしれぬ外来者を温かく迎え入れる懐の深さを持っている。

 彼らの森に外界のものが立ち入ることはまずないそうだが、彼らは、外界の一部種族と細々と交易を行い、接触を持っている。
 交易といっても、物々交換であるらしい。
 〈森の民〉は貨幣というものを持たないし、外の種族がどうだかは知らないが、もし彼らに貨幣があったとして、〈森の民〉がそれを貰っても森の中では使い道がないのだから、意味がないだろう。

 交易の場は森の外れの決められた場所で、春と秋に、セレタの男たちの中から選ばれた交易使節団がそこに商品を運び出し、友好の儀式と共に互いの産物を交換する。
 〈森の民〉は、森でとれた薬草や香草、木の実や干し果実に干しキノコ、果実酒、毛皮、手工芸品などを提供し、見返りには主に塩や穀物、乳製品、鍛冶製品を受け取るという。
 彼らは鍛冶や畜産をしないし、穀物を作らないのだ。

 彼らが、農耕というものを知らぬわけではなく、しかも入手しようと思えば穀物の種も農具も容易に手に入るのにもかかわらず畑作を一切しないのは、森の地面を耕すことが禁忌に当たるかららしい。森の木を伐って地面を耕すことは森を傷つけることになるし、そこで自分たちの都合に合わせた作物を作るなどということは、森への不敬に当たるのだそうだ。
 自分たちは森の与えるものを受け取って生きるのであると、彼らは言っている。十分な敬意をもって接すれば森は必ず必要なだけのものを与えてくれるのだから、森に自分たちの都合を押し付けたり、余分なものを望んではいけないと。
 また、畜産も、彼らにとっては、森の秩序に反することであるらしい。
 だが、それはあくまで、『この森の中では』ということであって、他の種族が他所の土地で農耕や牧畜をすることには全く異議はなく、正当な交易で得た穀物や乳製品を口にすることは、別に禁忌でも何でもないのだそうだ。
 彼らは普段、草木の根のでんぷんや木の実の粉を粥や堅焼きにしたものを主食としているが――これは残念ながら私の口にはあまり合わない――、祭りや祝い事などの際には交易で手に入れた穀物で創意工夫に溢れた麺麭や菓子――ハチミツや甘い樹液が味付けに用いられる――を焼くし、それらを保存食や携帯食としても利用している。
 他に、彼らは、狩りの獲物をはじめ、果実、木の実、キノコ、野生の芋、昆虫などの採集物を調理したり、そのままで食べる。燻製や干物、果実酒など、さまざまな加工食品も作るし、特別な機会には手の込んだ料理を作ることもあるが、新鮮な材料が手に入る季節には、肉ならそのまま焼いたり、果実なら生食など、シンプルな食べ方が主に好まれる。昆虫などは、子供たちがそこらにいるのを手で捕まえて、そのまま口に運んだりもしているので、最初はぎょっとしたものだ。が、調理した昆虫は意外なほど美味なので、今では私も、暇さえあれば好物の昆虫の採集に精を出している。

 彼らの暮らしは素朴で質素である。が、慎ましい調和の美と清らかで健やかな喜びに満ちている。

 『セレタ』と呼ばれる彼らの里は、ひとつの大きな家族である。母系制の大家族が、そのままひとつの集落になっているのだ。
 セレタにいる男性は、すべて、セレタの女性たちの男兄弟である。ここで『おじいさん』といえば祖母の配偶者ではなく祖母の兄弟だし、『おじさん』というのも、おばの配偶者や父の兄弟ではなく、母の兄弟や従兄弟など、すべて母系の血縁だ。
 が、彼らはそういう厳密な関係性を全く気にせず、年の近い相手はいとこだろうとまたいとこだろうともっと遠い関係だろうと関係なく兄とか姉とか弟、妹と呼び習わし、世代が上のものは年齢に応じて『おじさん』『おばさん』『おじいさん』『おばあさん』ですませているので、実際の関係は、少しでも遠くなるとほとんどわからなくなっている。いずれにしても血縁には違いないので、それで十分であるらしい。

 森の中には、そのような里が、ほどほどの距離を保って幾つも散在しているという。

 同じセレタのものはみな血縁なので、婚姻は、他のセレタとの間で行われる。
 母系社会だが、婚姻は入婿制ではなく、『恋の季節』と呼ばれる繁殖期を迎えた男女それぞれが自分のセレタを出て森に分け入り、そこで巡りあった相手としばらく森に仮住まいして女性が子を宿した後、またそれぞれに自分のセレタに戻るのである。
 この『恋の季節』は、全員が毎年迎えるというものではなく、迎えるものは各セレタにつき年に数人で、迎える時期も、おおよそ初夏の頃と決まっているが多少の幅があり、全員が一斉にというわけではない。そんなわけで、各セレタから同時期に森に出てきている男女は、森の定めた運命の一対であるのだという。
 彼らが共に過ごす期間は短いが、ひとたび『恋の季節』を共にした二人の絆は、一生のものになる。自分のセレタに戻った女性が子供を産むと、父親である男は、狩りの獲物や自分のセレタの特産物などの贈り物を携えて女性側のセレタを折々に訪ねるのだ。その関係は、どちらかが死ぬまで続く。
 彼らは、そうした『恋の季節』を、一生のうちに何度か迎えるらしい。その都度森へ行っては、そのたびに出会った別の相手と一時的な蜜月を送り、子を成すという。そして、そうした相手の全員と、その後も続く強い絆を保ち続ける。
 その際、一人の男が同じセレタの女性二人と絆を結ぶことは、通常はないという。その逆も同様で、『恋人』は一つのセレタには一人しかいないものだそうだ。どういう仕組みでか、そのような成り行きになるらしい。これもおそらく、この森ではいろいろなことがそうであるように、森の計らい、導きであるのだろう。
 このようして他のセレタに『恋人』や子を持つ男性が単独で女性を訪問することが、セレタ間のほぼ唯一の行き来であり、それ以外にはセレタ間の交流はないらしい。なので、男性には他のセレタを訪ねる機会があるが、女性たちは『恋の季節』以外には自分のセレタの周辺を出ることもなく、結果、一度も他のセレタを見ることなく一生を終えるのが普通だという。

 セレタは、夏と冬とで、その姿を変える。
 彼らは、夏は地上で――半ばは樹上で――、冬場は主に地下で暮らしているのだ。

 セレタの『夏の家』は、大きな母屋を取り囲むように個人あるいは数人用の小さな『寝小屋』が散在する形である。
 寝小屋の多くは、樹上に設けられている。私は体重が重いため――言っておくが決して太っているわけではなく、〈森の民〉に比べて重いというだけである――樹上の寝小屋に登ったことがないが、下から見上げると、巨大な鳥の巣のようである。下からでは木の葉に隠れてよくわからないが、簡単な屋根や壁もあるそうだ。小屋に出入りするためには縄梯子を垂らしてあるが、身の軽い子供や若者は、縄に構わずするすると木に登り、降りる時も、縄を伝わず飛び降りることが多い。縄は小屋の入り口以外にもあちこちの枝から垂らしてあって、それにぶらさがって枝伝いに互いの小屋を訪ね合ったりすることもでき、夏場のセレタで樹上を見上げれば、子供たち若者たちが猿か小鳥のように枝から枝へと身軽に渡る姿がひっきりなしに見られる。
 年をとったもの、たまたま木登りが苦手なもの、そうでなくとも樹上より地上を好むものは、地面に個別の、または数人共同の寝小屋を建てており、私もそうした寝小屋を一つ与えられている。私は身体が大きいので、彼らはわざわざ私用に、一回り大きな小屋を建ててくれたのだ。それでも小屋の中で立ち上がることは出来ないが、彼ら自身の寝小屋の天井も、通常は、座ったり寝そべったりする高さしかない。日中のほとんどを戸外で過ごし、炊事も食事も母屋で済まして、寝小屋は寝るだけの場所なので、それで十分なのだ。
 これらの寝小屋は、一夏だけ使われ、翌年はまた新しく作られる。

 彼らは基本的には木を伐らない。そういう文化なのである。木の種類や季節によっては、若木を間引くことや枝葉や樹皮を採取することがあるが、大きく育った木を根本から伐り倒すのは、ごく限られた特別な機会のみである。なので、彼らの一夏用の寝小屋は、主に、束ねた細枝や葉、草を編んだ筵などで作られる。
 恒久的な建物である母屋には特別な機会に伐った木も使われているが、太い丸太や板を使っているのは柱などの基本構造だけで、屋根は樹皮と乾燥した草で葺き、壁は編んだ細枝で出来ている。そういうと掘建て小屋を想像するかもしれないが、造りは精緻で、風雨にも耐えうる堂々とした館であり、見た目にも、やわらかな丸みを帯びた屋根がどことなく可愛らしい。
 巨大な平屋建ての母屋には、共同の炊事場と、雨天時には様々な手仕事の共同作業場にもなる大食堂兼集会場、世話の必要な病人や長老格のものたちの居室、セレタの財産を収める物置き部屋、半地下式の食料貯蔵庫などがある。炊事場や食堂には巨大な一枚板のテーブルや切り株の椅子など、立派な木製の家具もある。細枝を編んだ、籐細工のような家具も使われている。
 また、隣接する別棟として、湯屋や、赤ん坊を共同で保育する『赤ちゃん部屋』がある。
 その他に、セレタの中には、燻製小屋や、染色や皮なめしなど各種の作業小屋が点在していて、これらもある程度恒久的な建物らしい。

 『冬の家』は、地下にある。セレタの地下に巨大な洞穴があって、冬場は皆でぬくぬくとそこに篭もるのだ。
 これは、木の根の下に自然にできた空洞に幾年にも渡って手を加えてきたものだそうで、食料貯蔵庫を含む幾つかの室が通路で繋げられており、各室ごとに一箇所から数カ所、通風と採光を兼ねて、地上に通じる細い穴が掘ってある。この通風孔は、雪や落ち葉が直接降り込まないように、垂直の縦穴ではなく斜めになっており、その地上の開口部は、草葺の屋根をさしかけて雪で埋まらないようにしてある。だから居室に直射日光が差しこむことはないが、少なくとも真っ暗闇ではなく、日中は目が慣れれば周囲がぼんやり見える程度の明かりはあるので、細かい手作業等は無理でもたいていの用は貴重な蝋燭を灯さずとも足せる。
 皆が集う主室には灯火も置かれ、暖房と調理用を兼ねた暖炉があって、地上に通じる煙突が設けてある。この室は天井も高く、私でも頭がつかえないのがありがたかった。

 彼らはその『冬の家』で、冬の間の大半の時間を、のんびり眠ってすごす。といって、別に動物のように完全に冬眠してしまうわけではないが、明らかに夏場より睡眠時間が長いようだ。二倍は眠っている気がする。食料集めに忙しい夏場と違って、急ぎの仕事がないからだろう。
 ここでは、普段働き者で早起きな彼らも好きな時に寝たり起きたりして、起きている時は主室に集まって、昼間はおしゃべりをしながら様々な手仕事をするし、夕べには皆で、あるいは数人で集まって、炉明かりの元、物語を語ったり遊戯をしたり楽器を演奏したりして楽しむこともある。彼らは、子供たちのする他愛のない遊戯から、大人たちが木の盤を囲んで車座になって繰り広げる非常に緻密で複雑なルールに則った知的なゲームまで、様々な娯楽を楽しんでいる。

 私も一冬、この『冬の家』での暮らしを経験したが、彼らのように長く眠ることが出来ないため、時間を持て余して困った。男たちには外に狩りに行く機会もあったが、私は大きな音を立てたりして邪魔になるからと狩には連れて行ってもらえないのだ。
 が、彼らのうちのたまたま起きているものから様々な話をゆっくりと聞かせてもらうことができたし、たいして役立たないながらも手作業を手伝ったりして時間をつぶしたものだ。
 彼らの盤ゲームも教えてもらったが、一冬中負けっぱなしだったのは悔しいことだ。負け惜しみを言うようであるが、ルールが非常に複雑で簡単には覚えられない実に高度な遊戯で、彼らにあっても一人前の指し手になるには何冬もかかるのが普通だそうなのだ。
 そういえば、その際に気づいたことだが、彼らは、数の暗算に非常に長けている。このゲームには、勝とうと思ったら非常に複雑な計算が必要になるのだが、彼らはそれを、瞬時に暗算でやっているようなのだ。私は最初、それに気づかずに、なぜ彼らが巧みに作戦を立てられるのかわからずにいた。そのうち、計算によって作戦が立てられることに気づき、丸一日考え込んだ挙句にその計算式も割り出したが、その段階で、彼らがそれを暗算でしているらしいことに気づいて衝撃を受けた。
 私にはその複雑な計算が暗算できなかったので、棒きれで地面に数字を書いて筆算していて、彼らに、何をしているのかと不思議がられたものだ。
 文字を持たない彼らは数字も持たないが、何人かが私のしている筆算に興味を持ったので説明してみたところ、最初は概念をつかめず首をひねっていたものの、いったん事情を飲み込むとすぐに理解し、たちまち筆算ができるようになった。
 が、しばらく珍しがってやってみた後で、そんなことは別にいちいち棒きれなど持ち出さずともすぐわかるのに、なぜわざわざこんな面倒なことをする必要があるのかと、みな、止めてしまった。
 それで思い返してみたのだが、そういえば彼らは平素から、何十個の木の実を十何人で分けると一人幾つで幾つ余るというような二桁以上の計算を、考える様子も見せずに瞬時にやってのけていた。
 もとより知性の高い人たちであるとは思っていたが、これにはおそれいるばかりだった。
 これは彼らの種族的な特徴であり、生まれつきの特技であろうと思うので、私があのゲームに負けるのは仕方のないことなのである。

 彼らは、私有財産をほとんど持たない。個人の持ち物といえば普段に着ている衣服やわずかな身の回り品程度で、それも、『たまたまその人がいつも使っているもの』という程度の認識らしく、私有財産という概念自体があまりないようだ。明らかに個人に属している物は、狩りをする年齢になった男性の弓矢くらいのものである。ほとんどの道具は里の共有財産であり、それを必要なものが必要な時に使うことで、問題なくうまくいっているようだ。私には驚くべきことに見えるが、ここではそれが当たり前なので、誰も疑問に思わないらしい。
 だが、よく考えてみれば、セレタはひとつの家庭なので、それを思えば納得がゆく。家庭内にある生活用具は、衣服だの歯ブラシだのといった一部の個人的な身の回り品以外は特に持ち主が決まっていたりせず、みなで共有して必要な人が必要な時に使うのが当たり前ではないか。それと同じことなのだろう。

 彼らは、財産を共有しているだけではなく、狩も、育児を含む家事労働も、すべて共有している。すべての仕事が、セレタの共同作業である。赤ん坊も、母子の絆は尊重されているが、母親個人に属するものではなく里全体の子供と見做されて、すべての女性が協力して保育にあたるのだ。
 彼ら、とくに女性は、みな非常に子供好き、赤ん坊好きである。子供たちも小さいうちから弟妹の世話を手伝って、赤ん坊の扱いに慣れている。彼らはあまり多産ではないので、貴重な赤ん坊の可愛がられることと言ったら、まさしく『セレタの宝』扱いである。
 実際、彼らの赤ん坊は、誰しも抱き上げずにはいられないような可愛らしさなので、よってたかって可愛がられるのも無理もない。

 赤ん坊は、みな、冬の間に『冬の家』の産室で生まれる。身ごもる時期がだいたい決まっているので、生まれてくる季節も決まっているのだ。初夏から夏に懐妊して冬に生まれるということは、妊娠期間は、私の属する種より若干短いのだろうか――私の、自分の属する種についての知識は、そういう方面がかなり手薄なようで、実はあまりよくわからないのだが。

 彼らの衣類は、主に、樹皮や蔓植物の繊維から作られる。他に、何種類もの草の茎の繊維や穂ワタなども使われ、それら多様な材料から、丈夫だが粗いものから薄く滑らかで柔らかいものまで、様々な種類の布が作られて、それぞれに適した用途に使われている。樹皮の繊維で作る布にも、原料になる木の種類によって、煮溶かした繊維を薄く延べて押し固めた不織布と、糸を紡いで織る織物との二種類があるなど、多彩な技術が発達しており、出来上がった布に手の込んだ刺繍や型染めで装飾を施す方法も多彩である。
 驚くべきことに蜘蛛の糸を加工する技術もあるそうだが、当然ながら、これは本当に少量しか生産できないといい、何年も何十年もかけて少しずつ織り進めたその布は、花嫁のベールにのみ使われ、そのベールはセレタの宝物として代々大切に伝えられてゆくのだそうだ。
 他に、狩りの獲物の毛皮や革も、衣類や道具に使われる。
 手に入る樹皮等の量に限りがあり、また、加工に気の遠くなるような手間がかかるため、布は大変な貴重品であるらしい。

 そんな貴重な布を使って、彼らは、背が高い私のために、特別誂えの服を作ってくれた。最初のものは、間に合わせのため、ありあわせの布を長方形につなぎあわせて中央に穴を開け、腰を縄で縛ったただけの単純な貫頭衣だったが、その後、私の体格に合わせて、自分たちのものと同じ、優雅さと実用性を兼ね備えた服を作ってくれ、セレタの成員を示す紋様も施してくれたのだ。
 この衣装が自分に似合っている気は全くしないが、それでも、貴重な布を私の無駄な長身――ひょろ長い体型から見るに、私は自分の属する種族の中でも長身のほうだったのではないだろうか――のためにこれほど大量に提供してくれたことは感謝に耐えないし、セレタの紋様を纏うことを許されたのは、私の誇りである。彼らは私を、セレタの一員として認めてくれたのだ。


 ところで、実は、彼らの最大の――と思われる――特徴は、小さいことでも美しいことでも、赤ん坊の頃に毛皮があったり尻尾が生えていたりすることでもない。
 死ぬと木になることである。
 最初、それは埋葬した場所に木を植えることを比喩的に言っているのか、あるいはそういう信仰なのかと思ったのだが、そうではなく、ただ単に事実だったのだ。

 彼らは、死者を土に埋葬する。すると、数十日後に、そこから一本の木が生えてくる。
 植えたり種を蒔いたりしているわけではない。本当に、自然に生えてくるらしい。
 誰も蒔いていなくても鳥などが種を落としていったのではないかと疑ってもみたが、その木が普通の木ではないのは、発芽後の異様な成長速度を見て信ぜざるをえなくなった。
 彼らは、その木を、故人の名前で『誰それの木』と呼んで親しみ、敬愛し続ける。
 自分たちは、人としての生を終えても、ただ居なくなるのではなく木の姿で生き続けるのだ、と、彼らは言う。人の姿から木の姿に変わるだけだ、と。
 彼らが仲間の死をあまり悲しまないのは、そのせいらしい。

 この森の木は、ほぼすべて、そういう、誰かが死んでなった木であるという。
 人としての生を終えてしばらくの間、故人の思い出を持つ人々が『誰それの木』と呼んで面影を偲んだ木は、やがてセレタの世代交代とともに個別の名を忘れられて『ご先祖様の木』となり、周囲がそうした木で混み合ってくるとセレタは別の場所に移動して、それを繰り返すことで森が豊かに茂ってゆくのだという。

 彼らが基本的に木を伐らないのは、そういう理由からなのだ。森の木は、木の姿で『生きている』彼らの先祖なのである。

 ただ、前に述べた通り、全く木を伐らないわけではない。いつどこの木を切って良いかは『森が教えてくれる』のだと、彼らは言っている。混みあった箇所を間引いたり、新たにセレタを作る場所の木を伐ったり、その他、森にだけわかる何らかの理由で伐る必要のある木、伐ってもよい木を、森が指示するのだそうだ。
 セレタをいつどこへ移動するかも、やはり、森の指示によるという。

 そのように祖先の集合体であり意思を持つものである彼らの森は、招かれていないよそ者を寄せ付けないのだという。
 外のものが森に足を踏み入れられるのは〈森の民>に招かれた時だけで、交易も森の外で行なっているため、実際に外部の者を森に入れることは、まずないらしい。もし森に入ってこようとするものがいても、森が認めなければ、樹木に阻まれて果たせないそうだ。そういうものたちは、森の浅い部分をそれとは知らずぐるぐるとさまよい歩き、『自分は森の奥深くまで分け入ったが〈森の民〉の里は見つからなかった』と信じて、そのまま出てゆくことになるのだという。入り込んだものを発見した〈森の民〉が、森狼の鳴きまねで脅したり、足元の草を結んで転ばせたり、頭上に木の実を落とすというような、ちょっとした悪戯をして追い返すこともあるらしい。娘たちが、くすくす笑いながら教えてくれた。

 しかるに私は、この森の中に忽然と現れた。
 彼らが驚くのも、無理もない。
 だが、彼らは、私が森の中に現れることができたということは、森が私にそれを認めたからだと解釈している。
 私は森に客人として招かれ、立ち入りを認められたのだと。
 だから彼らは、私を仲間として受け入れてくれたのだろう。

 私は、その幸運を、しみじみと噛み締める。私は今、とても幸せだ。
 平時の主食であるでんぷんや木の実の粥が口に合わないのにだけは閉口するが、森の空気は清々しく、四季の移ろいは美しく、人々は穏やかで心優しく、セレタの暮らしはいつも明るい笑い声と様々な楽しみに満ちている。食べ物だって、粥が口に合わなければ芋でも焼いてもらって食べていればいいのだ。森は豊かで、食物は豊富にあり、〈森の民〉は親切で気前が良い。私とて無為徒食を決め込んでいるわけではなく、狩こそできないが、女性たちに混ざって自分の食べるくらいの食料は採集するし、力仕事ではいかんなく特性を発揮して、「背高さんがいてくれて本当に助かる」「背高さんがいればなんでも百人力」と重宝がられ、何かと頼りにされ、親しまれている。
 そんな幸福な日々の折々に、ふと思うのだ。こうしてこのまま、彼らの一員として、ずっとここで暮らしていけたらどんなにいいか……と。

 今、こうして手記を書いている時も、私の周りには可愛らしい子供たち、美しい娘たちが集まってきて、手元を覗きこんだり、背中をよじ登ってみたり、膝に上ってきて私の髭を触ったりしている。彼らは髭が生えない種族なので、私の髭がもの珍しく、面白いらしいのだ。
 男たちは狩りや森の見回りに出ている時間が長いので、その間、狩りに連れて行ってもらえない私を構ってくるのは、主に、子供たち、女たちだ。女たちの中でも、特に、好奇心の強い若い娘たちは、仕事の合間合間に私のところに立ち寄っては、積極的に構ってくる。
 そんな時、自分がこんな美しく優しい娘たちの一人と結婚して、こんな可愛らしい子供を持つという、夢のような想像が心をよぎったりもする。

 が、それは、ありえないこと――まさに夢なのだ。

 ついつい繰り返してしまうが、〈森の民〉の娘たちは、一人残らず花のように美しく可憐である。そんな娘たちが、子供たちと同じように無邪気に膝に座ったり背中に抱きついたりとやたらまとわりついてくるので――今も二人同時に膝に乗ってきて、ふざけて押し合いへし合いをはじめてしまったので、たいへん書き物がし難い――、なんだか自分は女性にとてもモテているのではないかなどと、うっかり勘違いしそうになるのだが、悲しいことに、それは錯覚である。彼らには『恋の季節』という決まった繁殖期があって、それ以外の時期は、年頃の男女であっても、色恋めいたことなど欠片も頭にないのだ。彼らは非常にスキンシップを好むが、それはただ単にそういう習慣、文化なのであって、誰に対しても同じようにするのであり、たとえ男女間であっても、性的な意味合いは全くない。その無邪気な振る舞い通り、そういう面では心も子供と同じなのだ。好奇心と素朴な優しさから、珍しいものを構い、寄る辺ないものに寄り添ってくれているだけである。
 彼らにとって、セレタにいるものはすべて家族なので、恋とはセレタの外の森にあるものであり、セレタの中には存在しえないものだ。私も、実際には血縁ではなくても、セレタに受け入れられた段階で、彼女たちにとっては兄やおじと同列のものになっているはずだ。いや、むしろ、彼らにペットを飼う習慣はないが、珍しい大きなペットのように思われているような気もする。子供たちや娘たちがやたらと私を構うのは、おとなしい大きな珍獣を構うようなものだろう。
 では、別のセレタの娘なら私を恋人に選んでくれる可能性があるかというと、それもありえないことはわかっている。
 そもそも、彼女たちには、私の持っているような『結婚』という概念がない。『家庭』という概念も全く違う。『恋愛』という概念も、たぶん私とは全く異なっているだろう。愛しあう一組の男女が互いを唯一の伴侶と定めて永続的に共に暮らし、協力して子を産み育てるという、私が考えているような恋愛や結婚や家庭の形は、ここにはないのだ。

 さらに、それ以前の問題がある。
 たまたま成人後の姿がほぼ同じであるためについ忘れがちになるが、やはり私は、彼らとは別の種族、別の生き物であるのだ。
 それが、たとえ他のセレタの娘であろうとも私を恋人に選ぶことはありえないと思う理由だ。
 彼女らの『恋』は、すなわち生殖である。種の違う生き物は、生殖の相手に選ばれることはないだろう。

 私と彼らが、姿は似ていても根本的に違う生き物なのだということを、私にはっきりと教えてくれたのは、『森』だった。

 私はそれまで、〈森の民〉たちが何度も『森が教えてくれる』というのを聞いて、自分にはその感覚がわからないのを、少し寂しく思っていた。
 彼らは、私が問えば、森がどうようにして語りかけてくれるのかを、言葉をこらして何とか伝えようとしてくれるのだが、私には、その説明を聞いても、悲しいことに全く理解できなかったのだ。
 だから、森が私に語りかけてくれた時は、その神秘に打たれ、ついに自分も彼らの森に受け入れてもらえたのか、真に彼らの仲間になれたのかと、感激に震えた。
 けれど、森が私に語ってくれたことがらは、皮肉にも、私が彼らとは別の生き物、永遠に一つにはなれない別の存在であるということを、私に、はっきりと突きつけたのだ。

 あれは、セレタを少し外れた森の中、大きなゼガーの木が立ち並ぶ中にぽかりと丸く開けた小さな空き地――私が最初に発見されたその場所を訪れた時のことだった。
 なぜ、その日、そこを訪ねようと思ったのかわからない。ここへきて最初の頃は、己が何者か、どうやってここに来たのかわからない心細さに、何か自分の身元を明かすものか帰還への手がかりでもあるのではないかと、幾度もその空き地を訪れ、草をかき分けて何かの痕跡がないかと探したり、何が見えると思ったわけでもないのに梢の間に小さく見える空を漠然と見あげて無為な時間を過ごしたものだったが、その頃にはもう、そこに行っても何もないのはわかっていたし、自分がこの世界にいることにもすっかり慣れて、その場所を訪れることも絶えていたのだ。

 けれどその日は、なぜだか気が向いて久しぶりにそこを訪ね、なんとなく、ゼガーの幹にもたれて空を見上げていた。
 今にして思えば、おそらく私は、ただ、一人になりたかったのだろう。
 私は、賑やかなセレタの暮らしが好きだ。人懐こく愛情深いセレタの家族たちが好きだ。けれど、四六時中誰かが傍にいて親しげに身体に触れたり優しく話しかけたりしていて、そういう風でない時が全くないこのセレタにいると、ほんのときたま、ふと、一人になってみたくなるのだ。

 そして、その時、森が語りかけてきた。

 森が語りかけてくれる、その感覚を、私はやはり、言葉で説明することはできない。
 少なくとも、それは、言語ではない。耳に聞こえる音でもない。彼らが口をそろえて言っていたように、私にも、ただ『わかる』のだ、としか言いようがないのだ。
 けれど、森が語ってくれた物語を、映像の形に変えて頭の中に思い描くことはできる。その映像の大意を、自分の言葉に置き変えて語ることはできる。
 森は私に、この森の来歴を、この森と〈森の民〉の共生の真の姿を、語ってくれた。
 うまく説明できる自信はないが、そのおおよその内容を、私の言葉で書き留めてみよう。


 太古の昔、遠い宇宙の彼方から、遥かな闇を越えてこの星に飛来した一粒の種子――あるいは胞子。まだ眠っている、一つの生命体。
 それが、乾いた荒れ野だったこの大地に降り立ち、たちまち目覚めて最初の根を――あるいは吸管を出し、その管を深く地中に挿し伸ばして己を固定し、地表にしっかりと張り付くとともに地中に眠る水を吸い上げて、やがて地上に小さな芽を出した。――その地で育つにふさわしい姿を選んで。

 生まれたばかりの小さな芽の、その地上部はこの地の樹木の芽の形をしていたが、実はその生命体の大部分は地表をぴったりと覆うように広がって、その下には、地上を遥かに凌ぐ規模で膨大な根がびっしりと絡みあっていた。
 一見、一本の小さな樹木の芽生えに見えるものは、実は、そういう、地中と地表に広がった大きな生命体の、ほんの一部を成す突起物なのだった。
 それが樹木の芽の形をしていたのは、樹木の種子たちの記憶をなぞってかたち造られたからだ。宇宙から来た生命体は、地中に眠っていたこの地の植物の種子を己のうちに取り込んで、その記憶を、性質を読み取り、模倣したのだ。

 のちに〈森〉と呼ばれることになるその生命体は、そうした芽吹きの過程において、植物の種子のみならず、土中に潜んでいた微細な生き物たちを己の成長に組み込んで、この星の生命と融合し、大地と融合し、その場所に一つの生態系を形成していった。

 そうして生まれた最初の小さな森は、気の遠くなるような長い年月をかけて大きな森に成長し、地表で成長すると同時に、地中に張り巡らされた膨大な根も、ますます増殖していった。ちょうど、地中に広がる茸の菌糸のように。

 そう、茸がそうであるように、この森の木々は、例え外見上の種類が違っても、地中深くで、すべて繋がっているのだ。この森は、ひとつの巨大な生命体であるのだから。

 森は、地中深くから吸い上げた水を、樹木の枝葉を通して空中に放って、苛烈だった地表の気候を和らげ、空気を清め、周囲の荒れ野に降水をもたらした。
 森がもたらした雨は、不毛だった荒れ野に草を芽吹かせた。
 細々とながら草が芽吹けば、その草を食べる虫や獣が、草を頼りに荒れ野を渡って森に辿り着く。そんな草食の獣たちを追って、肉食の獣たちも森に引き寄せられてくる。空を渡って、鳥の群れも訪れる。鳥や獣は、時に、新たな植物の種や虫たちを運んでくる。
 森は、それらの生き物を受け入れるために、少しずつ姿を変えていった。最初の森が生まれた時にしたように、彼らの食料により適するように自らの組成を変え、彼らの生み出すものを自ら取り入れて利用するすべを整えて、彼らを生態系に組み込んだのだ。
 森に住み着いたこの地の動物たちは、長い年月の間に森の生み出すものと融合しつつ独自の進化を遂げ、森狼など、この森独自の、森の外では生きられない、森と共生する生物となった。
 鳥や獣に運ばれて紛れ込んできた草花の種や小さな虫たちも同じように森の営みに組み込まれていったが、大樹の種子は、すでに姿を確立していた森固有の樹木を脅かすものとして森に受け入れられず、たまたま芽吹くことはあっても大きく育つことはできずに枯れていった。

 いったん独自の生態系が完成すると、森は、それ以上、外のものを受け入れるのをやめ、姿を変えることをやめた。

 こうして、宇宙から飛来した種子は、この地にしっかりと根を下ろし、悠久の時を生き始めたのだ。

 その間、外の世界では人間という種族が台頭し、時に狩りの獲物を求めて荒地を越えてきて、森の回りをうろつくようにもなったが、かつて獣たちを受け入れた森は、彼らを受け入れることはなかった。彼らがやがて木を伐り、森を焼き、地を耕すだろうことを知っていたから。
 かわりに森は、この地の人間に姿と生態を似せて、自らの民を産み出した。木や苔が花を咲かせるように、地中に広がった菌類が茸を生やすように、自らの一部を変化させ、独立した生き物のようにかたち造ったのだ。
 宇宙から飛来したこの生命体は、もともと、そのように、自分が降り立った星の生き物に擬態する性質を持っていた。姿形だけでなく性質や生態も似せることで、その星での生存に適応するために。『彼ら』は、そういう戦略で生き延びる生命体なのだ。

 密集した藪の中や樹上を動きまわるのに適した小柄で身軽な〈森の民〉は、自ら動くことのできない森に代わって、その手足となって森の手入れをする、いわば森番の役目を負った。
 そしてもう一つ、森という木が咲かせる花として、生殖という役割を。ちょうど、一本の木が雄花と雌花を咲かせ、自家受粉するようなものだ。
 それによって、森は、より多彩な繁殖手段を獲得した。

 〈森の民〉は、最初のうち、森の外周部にセレタを作り、そこに死んだ仲間を葬ることで、森を拡大していった。そうして何十世代もセレタを移しながら森を拡大し続け、十分な大きさになると、今度は森の奥に戻ってきて、古い木が朽ちた後に新しいセレタを作り、その周囲に仲間を葬るようになった。そうして、その後も、幾十世代もの間、森が必要と思う場所にセレタを移して森を維持し続け、増えすぎた獣を狩り、森に入り込んだ外界の植物の中で不要なもの、過剰なものを排除して、森の均衡を保ちつづけた。

 彼らがそうして森とともに穏やかに満ち足りた日々を送り、独自の文化をゆったりと育てている間、荒れ野を越えた平原では、急速に数を増した人間たちが畑を耕し、村を作り、町を作り、天を衝く塔を建て、城壁を築き、時に剣を取り、火の矢を降らせて諍った。幾つもの文明が生まれては衰退し、幾つもの国が興っては滅び、数々の戦乱の嵐や気候の変動が地表を吹き荒れた。
 けれど、この森と、森に抱かれた〈森の民〉だけは、森がこの地にもたらす穏やかな気候の中で、時の流れに取り残されたように変わらぬ姿を保ち続けた――。


 これが、森が私に語ってくれた、彼らの物語だ。

 これらのことがらを伝え終えて、私の中から森の『声』が去った時、私の頬を涙が伝っていた。
 こうして森の声を聞いたという自分の体験の不思議さ、森が語ってくれた物語の驚異に打たれ、同時に、〈森の民〉の真の姿を知って彼らと自分との隔たりを思い知った、その悲しみに打ちのめされて。

 たしかに、彼らはよく、自分たちは同じ一本の木に咲く花のようなものだと言っていた。花の一輪一輪は別々の花ではあるが、木という大きな一つの命の一部なのである、それと同じように、自分たちは、森という大きな一つの命の一部なのである、別々の姿をとっていても、本当は一つの命なのであると。
 私はそれまで、その言葉を、比喩であり、彼らの思想、哲学、人生観のようなものであるのだと思っていた。だから、私も、彼らに真にセレタの仲間と認められさえすれば、同じ木に咲く一輪の花の一つ、同じ一つの命の一部とみなしてもらえるのだろうと。
 けれど、森が語ってくれたことは、それが比喩などではなく、単なる事実であったことを明らかにした。
 彼らは本当に、森という一つの巨大な生命体の一部だったのだ。
 彼らは事実として森と一体なのであり、人の姿で生きている時も、たまたまそういう姿をとっているというだけで、その本質は『森』という一つの大きな生き物の一部なのだ。
 彼らが森を意思のあるものであるかのように言うのも、それまで思っていたような単なる擬人化、神格化ではなく、この森は本当に、ある種の知性と意思を持つ、一つの巨大な生命体だったのだ。宇宙のあちこちに散っていって、辿りついた先に根を下ろし、その星に適応するために自らの組成さえ作り替えて、その星の生き物の生態を真似て生き延びるという、驚くべき生存戦略と適応力を持つ宇宙規模の生命体だったのだ。

 それを悟った私は、衝撃に呆然とした。
 今まで見ていた彼らの姿が、セレタの素朴な暮らしが、実は全く違う様相を隠し持っていたように思えて、ふと戦慄もした。
 彼らが我欲を持たず互いに争わないのは、彼らの人格が高潔だからではなく、もともと同じ個体だから争う必要がなかっただけなのだと思いいたると、今まで彼らに抱いてきた尊敬の念を裏切られたような気にもなった。

 が、あらためて顧みれば、彼らは、同一個体ではない私にも、同じように気高く寛い心で接してくれていた。仲間たちに注ぐのと同じ自然な優しさと思いやりを、惜しみなく注いでくれた。
 彼らの心の優しさ清らかさ気高さは、間違いなく、本物なのだ。
 彼らの一人一人はやはり、今まで知っていた通りの素朴で愛情深い彼らであり、ある意味では同じ一つの個体の一部だったとしても例えば思考や感覚を共有しているわけではなく、それぞれの愛すべき個性もあって、一人一人がその人生を精一杯生きているだけなのだ。
 考えてみれば、今現在『人』の姿で生きている彼ら一人一人にとっては、自分たちが森の一部であるということは、ただ単に、他の生き物がそれぞれの属する生態系の一部であるのと同じことにすぎないのかもしれない。自分たちが死後も森と一体となって永遠に子孫を見守り続けるのだと信じて生きていることは、他の種族たちがそのような宗教、信仰を持って生きることと、何ら変らないのかもしれない。死後の永遠を、愛するものたちとの生死を越えた絆を信じつつそれぞれの今生を懸命に生きているという点で、私の知る『人間』たちと彼らの間に、何の違いがあろうか。
 そう思えば、私が愛した彼らの文化や暮らしは、やはりそのまま、私の目に見えるままに、そこにあるものだった。
 何が変わるわけでもない。何が違ったわけでもない。
 ただ、私が彼らの一員にはなれないという、最初から変わっていない事実が、はっきりしただけだった。
 この森で、私は異物なのだ。彼らは同じ一つの生命体の一部であり、私はそうではないのだから。

 姿形は似ているが、私は、死んでも木にはなれない。彼らの生には人の姿の時と木の姿の時という2つの相があり、私には、人の姿の生しかない。見かけの類似とは裏腹に、生き物としての生の形そのもの、命そのものの形が、根本的に違うのだ。
 私には、彼らの生の形を、彼らと分かち合うことができない。いくら客人として受け入れられ、友人として愛され、セレタの中に私がいる暮らしがいつしか当たり前のものとなってきてはいても、死んでも木にはなれない私には、森と共に生きる彼らの絆に組み込まれることは、愛情や友情とは関係のない次元で不可能なことだったのだ。

 それでも私は、彼らを愛する。彼らの一員となれなくても、彼らを愛することはできる。
 人間の愛とは、そういうものだろう。
 人間は、どんなに愛しあっても、一つになることはできない。ひとりひとり別々の人間であり、その上で、互いを愛するのだ。
 彼らは違う。彼らは本当に一つになる。いや、もともと一つなのだ。だから、彼らの『愛』と私の『愛』は違うもので、私には彼らの愛は共有できない。だから私は、私の愛で彼らを愛する。――いつか、ここを去る日まで。

 そう、私は、いつかここを去るのだ。
 森が語りかけてくれた時、そのことも確信した。
 森は私を、この世界のことを語らせるために呼んだのだ。このような世界があり、このような命が存在し、このように生きているということを、誰かに伝えるために。彼らの暮らしを、そのささやかな生と死と愛を、伝えるために。
 私は、『テル=Tell』、――『語る』ものだ。
 ありとあらゆる世界をめぐり、その世界を語る。それが私だ。

 だから私は、愛を込めて彼らのことを、この森のことを語る。
 私が『テル』である以上、この物語が伝えるべき誰かに伝わることと信じて。
 その誰かが、この森を、私が愛する〈森の民〉を、少しでも愛してくれることを祈って。

 夕餉の匂いが漂ってくる。空も暗くなりはじめた。そろそろ女たちが夕餉のために皆を呼び集めるだろう。ひとまずここで、ペンを――不格好な手製のペンではあるが――置こう。


  〈森の民〉のセレタにて、美しい娘を三人ほど膝に乗せて 
テル・トールマン記す




――『〈森の民>の物語』番外編『テル・トールマンの手記』・完――




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※当サイトには『テルの物語』参加作品がもう一つあります。
異世界召喚恋愛ファンタジー『イルファーラン物語』番外編『いつも心にジャガイモを』(本編未読可・ネタバレ無しの、泣き笑い系ほのぼのラブコメ)。
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この作品の著作権は著者冬木洋子(メールはこちらから)に帰属しています。
掲載サイト:カノープス通信
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