おかあさんは、エーレンカの木になった。私が七つの時だった。
 ほっそりした優しい姿で、普段は目立たないけれど五月には控えめな白い花をあたり一面に降り零すエーレンカの木は、おかあさんにぴったりだ。
 おかあさんは、五月が好きだった。エーレンカの白い花と、その優しい香りも。

 森の外の荒野をさすらう<荒地の民>は、死んだ人を火葬してしまうのだそうだけど、なんて悲しい、さびしいことだろう。
 だって、愛した人の身体が、灰になって消えてしまうだなんて。どこにもなくなってしまうだなんて。
 今、目の前に見えている愛した人の亡骸――今は確かにそこにあって、生きている時と変わらぬ姿をしていて、手に触れることも出来る亡骸を、燃してしまうだなんて、私だったら、耐えられない。

 私たち<森の民>は、死んだ肉親を、自分たちの里《セレタ》の周囲の土に葬る。
 そうすれば、愛した人の亡骸は、土に隠されて見えなくなるだけで、そのまま、私たちのすぐ近くで眠り続けるのだもの。ちょうど、頭まで毛布を被って同じ部屋で寝ている人みたいに、姿は見えないし、言葉も交わせないけど、でも確かにそばにいると感じられるもの。

 そうして、亡骸を埋めた土盛が、七十七夜の月の光と七十七日の日の光を浴びた、その次の朝、そこには、木が生えてくる。
 死んだ人は、みんな、木になるのだ。
 その人の好きだった木や、その人に相応しい木に。
 大好きなおばあちゃんは、慎ましいレッカの木になった。陽気で頼もしかったおじさんは、どっしり太いゼガーの木に。私が生まれる前に死んだから人の姿では会うことが出来なかったおじいちゃんも、やっぱり立派なゼガーの木になって、大きく枝を広げ、今も私たちのセレタを雨風から守ってくれている。
 おばあちゃんのおかあさん、おばあちゃんのおばあちゃん、そしてそのまたおばあちゃん、そんな大勢のおばあちゃんたちの、数え切れないほど大勢の兄弟たち――名も知らない幾多のご先祖様たちが、みんな、私たちのセレタを囲む大きな木になって、遠い昔から、私たちを見守っている。ゆりかごを守る手のように私たちの小さな世界を抱き、子孫である私たちを、雨風や、外の世界の悪しきものたちや、時に外界を吹き荒れる擾乱の嵐から隔て、美しい花や良い香りや気持ちの良い木漏れ日で変わらぬ愛を伝えてくれる。おいしい果実や薬効のある葉や樹液、薪になる枝や衣服の材料になる樹皮を四季折々に贈ってくれたりもする。
 数え切れないご先祖様たちからの愛の贈り物に囲まれて、私たちは、生まれ、育つ。
 そうして、死んだ後は、そういうご先祖様の木の一本になって、いつまでも子孫たちを見守るのだ。


 おかあさんの木は、今、冬空の下で、すべての葉を落として眠っている。
 けれど、たおやかなその幹に頬を寄せると、木の中を、温かな命が流れているのが分かる。
 おかあさんの命が。
 連綿と続く、私たちの一族の命が。
 春になれば、この、静かな命の流れが、一気に奔流となって空に向かって駆け上がり、樹皮を突き抜けて、芽吹き、溢れて、花開くのだ。
 そうして、エーレンカの白い花が、おかあさんの優しい眼差しのように、私の上に降り注ぐ。
 
 小さい頃から、淋しくなると、こうしておかあさんの木の根元を訪れて、幹に手を触れ、その命を感じ、おかあさんの愛を感じた。嬉しい時にも、おかあさんの木を見上げた。
 心の中で、いろんなことをおかあさんに話した。
 おかあさんは、何もかも知っている。
 小さかった私の、ときおりの小さな淋しさや悲しみを。
 おかあさんはいなくても一族みんなに愛されて育った子供時代の、たくさんの幸せを。
 冬の間ひっそりと育まれてきた花芽が春の陽射しを受けて誇らかに花開くように、緑の風の中で咲き初めた恋を。
 その恋が秋の木の葉のように燃え上がった、眩暈のするような日々を。

 今、おかあさんの木の幹にそっと手を当て、梢を見上げて、私は微笑む。
 おかあさん。私も、もうすぐ、『おかあさん』になるのよ。




 春が来て、夏が過ぎ、また冬が来て、そしてまた五月。
 おかあさんのエーレンカに、白い花が咲く季節。
 満開の白い花の下で、幼な子が笑う。リリと名づけた、私の小さな娘が。
 まだ赤ん坊らしく顔以外の全身を金茶色の産毛に覆われた、仔熊のようにもこもこと愛らしい姿で、不器用に立ち上がっては、ころんと転ぶ。
 もう少し、もう少しよ。がんばって。
 小さなリリは、自分が立てることが面白くて仕方ない風に声を上げて笑いながら、もう一度、立ち上がる。
 短い尻尾をぴこぴこ振って重心を取りながら、一歩、二歩、危なっかしく歩こうとしては、しりもちをつく。
 外の世界の人たちには、生まれたときから尻尾がないそうだけれど、赤ちゃんがよちよち歩きを覚える時にバランスを取る尻尾がなくて、不便じゃないのかしら。私たちの子供には、赤ちゃんのときは尻尾があって、達者に走り回るようになる頃には抜け落ちるのだけれど。

 あんまり何度も転ぶから、リリの毛並みは泥だらけ。
 後で念入りに毛皮を拭いてやらなきゃならないわ。
 私たちの赤ちゃんには毛皮があって、本当に良かった。
 荒地の民の赤ちゃんは大人と同じように裸の姿で生まれてくるそうだけど、それでは赤ちゃんが風邪を引いてしまわないかしら。柔らかい肌に汗疹が出来たり、怪我をしたりはしないかしら。お湯を沸かした大鍋で赤ちゃんをお風呂に入れるだなんて、間違ってお湯の中に赤ちゃんを落としてしまったりしないかと思うと怖くって、私には出来そうもない。
 私たちの赤ちゃんは毛皮があるから、冬に生まれても風邪を引かないし、お風呂に入れなくても清潔が保てて皮膚病にならない。お風呂に入れる代わりに、毎晩、エーレンカの乾燥花とゼダーの葉を煎じたお湯に浸した柔らかい布で全身を丁寧に拭いてあげれば、赤ちゃんはいつも清潔ふわふわで、清々しいゼガーの葉とエーレンカの花の良い匂い。毛皮のおかげで転んでも怪我をしにくいし、それに、何より、ふかふかの毛皮に包まれた丸々とした姿は、見るたびに抱きしめずにはいられないほど愛らしい。


 幼な子の柔らかな毛並みに、白い花が散り掛かる。
 私の可愛いリリ。一族みんなの愛を一身に受けて、毎日どんどん大きくなるリリ。
 いつかはこのふわふわの産毛も抜けて、尻尾も取れて、たぶん産毛と同じ金茶色の髪の、綺麗な娘に育つのね。きっと、森一番の美人になるわ。
 いつまでもこのままでいて欲しい気持ちと、すくすく育つのが嬉しく誇らしい気持ちと、両方の気持ちで胸がいっぱいになって、花の香りのする小さな身体を抱き上げる。
 私も、赤ちゃんの頃は、エーレンカの香り水で身体を拭いてもらっていた。弟も、従姉妹たちも、一族の赤ちゃんは、みんな。
 だから、エーレンカの香りは、赤ちゃんの匂いで、清潔と幸せの匂いで、おかあさんの匂いだ。

 可愛いリリをもっと近くで見せたくて、エーレンカの木の梢に向かってリリを差し上げると、リリは笑いながら白い花に手を伸ばす。
 ほら、リリ。この木はね、あなたのおばあちゃんなのよ。
 ねえ、おかあさん、この、とびきり可愛い子が、私の娘で、あなたの孫のリリなのよ。

 私もきっと、死んだ後はエーレンカの木になるのだろう。
 エーレンカの木になって、リリと、リリの子供や孫、そのまた孫をいつまでも見守ろう。

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この作品の著作権は著者冬木洋子(メールはこちらから)に帰属しています。
掲載サイト:カノープス通信
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