〜司書子さんとタンテイさん〜





エピローグその3(二月)



 二月の終わり。庭の白梅が咲きました。
 約束通り、縁側で、反田さんと梅の花見をしました。甘酒に、角の宝来堂の手焼きせんべいと、季節に合わせたウグイス餅、それから、これはたぶん甘酒とは合わないと思うので、後でお茶と一緒に食べるため、今年最後の木苺ジャムを乗っけたクラッカー。
 もともとほんのちょっとしかできなかった木苺ジャムは、小袋に分けて冷凍保存したのを特別な日にだけ少しずつ解凍しては、大事に大事に食べてきたのですが、今日の分で本当に最後なので、ひときわ大事に、味わって食べなくては。
 わたしたちだけが目の前で美味しいものを食べてはかわいそうなので、スノーウィも、パティスリー・キハラの犬用クッキーでお花見のお相伴です。――スノーウィはクッキーを一瞬で丸飲みしてしまいましたが。

 穏やかに晴れた午後、庭の隅にはこのあいだ珍しく積もった雪がまだ少し残っているけれど、空の色はめっきり春めいて、窓を開け放った縁側のひだまりは、溶かした水飴みたいに透き通った、麗らかな光でいっぱいです。
 とはいえ二月の風はまだ冷たくて、わたしは祖母の形見のはんてんを、反田さんはダウンジャケットを着こんで、甘酒の湯のみを両手で包み込みます。二人の間には小さな火鉢を置いて、おかわりの甘酒を温めてあります。わたしの傍らには、熱いお茶の入ったポットと湯のみを載せたお盆も。

 わたしと反田さんは、暮れに婚約しました。去年の今頃には、まさか自分の身にこんなことが起こるなんて、夢にも思わなかったのに。
 でも、そうですよね、図書館で同じ本に手を伸ばしたふたりがたちまち意気投合したり、平凡な図書館員のわたしがタクシーに飛び乗って『あの車を追ってください』と叫んだり、六十歳の父が青い目の年上美女と恋に落ちたり、そんなことが実際に起こるんだから、わたしが婚約することくらい、別に驚くことでもないのでしょう。

 反田さんは、ふたりだけの時、ときどきわたしのことを、ショコ、と、小さいころのあだ名で呼びます。反田さんに呼ばれると、そのあだ名が、とても甘く聞こえます。そんな時、反田さんは、いつも、あの、わたしにだけ向ける特別の甘いまなざしをしています。わたしの心の中に、ぽっと温かいものが灯ります。若い頃に感じたドキドキとはちょっと違うけれど、なんだか少し切ないような、懐かしいような、胸の奥に、静かに甘いさざ波が広がるような。

 反田さんは、わたしの髪に触れるのが好きなので、反田さんが家に来る日は、わたしは髪を結ばずに下ろしています。反田さんがそうして欲しいって言ったから。
 先日、髪を撫でていた手が、そのままついでのように降りてきて、セーター越しにあらぬところを触ろうとしたので、ぺちっと叩いておきました。
「反田さん。わたしたち、まだ結婚していませんよ」って。
「えー……。ほんのちょっぴり触るだけでもダメなの? 婚約してても?」
 反田さんが世にも情けない顔をしたので、思わず、ほんのちょっとくらいなら許してしまおうかと思いかけましたが、世の中には、けじめというものがあります。がんばって心を鬼にして、つんと顎を上げ、
「たとえわたしが許しても、おばあちゃんが許しません!」と、言っておきました。
 反田さんは、笑ってほっぺたを掻きました。
「そっかあ、おばあちゃんが許さないんなら仕方がないや。いいよ、どうせすぐ結婚するんだから」

 そうですよ、どうせすぐ結婚するんですもの。式は五月です。だから、こんなやりとりが出来るのも今だけ、あとほんの少しの間だけです。だから、この時間を、並んで座るふたりの間のこの距離を、少しの間、大切にしていましょう。

「でもさあ、蕭子さん、清楚なのにときどき妙に色っぽいんだよなあ……。そのへんも実にこう、ふわふわと柔らかそうでさあ……。そのセーター、罪だよなあ……」と、まだ物欲しそうに横目でわたしの胸のあたりを見やる反田さんには少々辛い距離であるらしいのですが、そんな思いが出来るのは今だけなんですから、反田さんも、今はその辛さを大事に味わってくださいね――と、そう言うと、反田さんは、「あいかわらずひどいなあ……」と笑いましたが。

 そうかしら。ひどいかしら。いくら今まで片想い以外の恋愛経験が一度もなくても、いつかこの距離を愛しく思い出すのだろうと想像できるくらいには、わたしは歳を取っています。反田さんだって、きっと本当はわかっているくせに。ひどいなあと言いながら、うれしそうに愛しそうに目を細めて笑っていたもの。

 でも、何のへんてつもない地味な普段着のセーターを、そんないやらしい目で見られていたと思うと、心外ですね。もうわたし、反田さんの前ではこのセーターを着ませんから!

「そんなこと言わないでまた着てくださいよ、似合うんだから。単に俺がスケベなだけですよ!」と、反田さんは悪びれもせずに笑っていましたが、反田さんだと、そんなことを言ったりしたりしていても、子供みたいに無邪気な感じで、なんだか憎めないんですよね。

 ……わたし、もうすぐこの人と、家族になるんですね。反田さんが垣根の前で足を止めたあの日、一年後にはこの人と結婚しているだなんて、どうして想像できたでしょう……。

 昔、先生がわたしに、生け垣の向こうを王子様が通りかかってどうこうとおっしゃった時、わたしは内心、そんなこと起こるわけがないのにと思いましたが、そういうことって、本当にあるんだったのですね。本当に、うちの生け垣の向こうを、ある日、王子様が通りかかりました。白い馬には乗ってないし、ちっともハンサムじゃなくて背もあんまり高くない、近所の洋品店の次男で三十五歳の、少しおっちょこちょいな王子様ですが、でも、どうしたっておとぎ話のお姫様なんかにはなれない、ドレスで着飾るより糠味噌を混ぜているのがお似合いの地味で平凡な三十二歳のわたしには、たぶん、ちょうど良い王子様です。
 わたしの未熟さも頑なさも気の利かなさも何もかも、委細構わずおおらかに笑って受け止めて、大きなやさしさで包み込んでくれる――そんな、わたしだけの王子様です。
 あいかわらず、反田さんにドキドキすることはあまりありませんが、ずっと一緒に暮らすのに四六時中ドキドキしていては身がもたないので、あんまりドキドキしないくらいがちょうどいいのかもしれません。
 これも、反田さんが言っていた、『カテゴリーが違う』ということなのでしょうか。若いころの、あの、心をかき乱すときめきと、反田さんの笑顔に感じる暖かな安らぎは全く違うものだけれど、こういう穏やかな愛というものもたしかに存在するのだな、と――反田さんといると、そんなふうに思えます。
 ――そんなこと、本人には、恥ずかしいから一度も言ったことありませんが。

 結婚したら、わたしたちは、二人でこの家に住みます。
 わたしは図書館の仕事を続ける予定です。もちろん、最初から、仕事を辞める気はまったくありませんでしたが、もしかしたら洋品店で働いて欲しいと言われるかもしれないという覚悟はしていました。でも、反田さんは、『もし蕭子さんがぜひ辞めたいんだったらそれでもいいけど、店を手伝ってくれればそれはそれで助かるけど、でも、好きでやってる仕事でしょ? 好きな仕事を辞める必要はないよ。俺はわりと時間の自由が効くから、もし必要になったら保育園の送迎でも何でもして協力しますよ』と言ってくださいました。

 反田さんとしても、正直に言えばわたしが今の仕事を続けてくれたほうがありがたいのだそうです。
 それというのも、反田洋品店は今のところは幸いなんとか経営が成り立っているけれど、今の時代、商店街の小さな個人商店の将来は決して安泰ではなく、たまたま近くに衣料量販店の一軒もできればたちまち潰れてもおかしくないから、そういう時に二人とも洋品店に生計を頼っていたら共倒れになる、どちらか片方は別の安定した仕事をしていたほうが助かる、ということだそうです。
 たしかに、それはそうですよね。だから反田さんのお兄様も、長男にもかかわらず――というか、むしろそうであるからこそ別の会社にお勤めで、反田さんは気楽な独り身の次男だから洋品店に専念できていたのだとのこと。
 そういう現実を考えると、公務員という安定した職を手放すのは、わたしがその仕事を好きであることを別としても、もったいないですね。
 反田さん、お店を抜け出してはふらふらと遊んでいる極楽トンボのように見えて、意外と堅実でしっかりした考えをお持ちの方でした。

 けれど、そういう世知辛い話だけでなく、反田さんは、『それに俺、図書館できびきび働いてる蕭子さんを見て素敵だなあと思ったんだから。図書館で頑張って働いてる蕭子さんを好きになったんだから』と言ってくれました。『図書館員の蕭子さんが、ずっと俺の憧れの人だったんだから、その憧れの司書さんが俺のせいで図書館からいなくなったりしたら、本末転倒だよね』と。
 だから、わたしが好きな仕事を続けられるように、協力は惜しまないと言ってくれました。もし子供が生まれて、急に熱を出した時にも、お母様やお義姉様が面倒をみてくれるだろうとも。
 それはきっと、とても助かることでしょう。……もし子供が生まれたら、ですけど。

 子供は、たまたま授かることができればラッキーだし、授からなければ別にそれでも……ということになっています。わたしももう若くありませんし、赤ちゃんは授かりものですから。でも、もし子供を持つ可能性があるのならなおさら、きちんと産休が取れる公務員の職は確保しておいたほうがいいというのが反田さんのご意見で、わたしもそう思います。

 図書館の仕事を続けてもお休みの日には洋品店を手伝ったほうがいいのかなと思いましたが、反田さんは、それも別ににいいと言ってくれました。『だって、それじゃあ、蕭子さんにはお休みが一日も無くなっちゃうでしょ? たまに、何か緊急事態の時に臨時の店番を頼むことくらいはあるかもしれないけれど、普段はいいよ』と。
 なんだか申し訳ないですが、たとえばご両親が揃って冠婚葬祭に出かける日とか、お義姉様のお子さんたちが熱を出したりしてどうしても人出が足りなくなった時にはわたしがお手伝いできて、それだけでもずいぶんお役に立てるそうなので、せめてそうさせてもらうつもりです。当面はレジ打ちくらいしかできることがないでしょうが、洋品店のお仕事も面白そうですし、ゆくゆくはもう少し何か手伝えるようになりたいです。


 ちゅんちゅんと可愛らしい声がして、ふくふくに膨らんだ冬雀が、梅の枝に遊びに来ました。梅にウグイスとはいかないけれど、ウグイスならウグイス餅がありますし、梅に雀も良いものです。
 気がつくと、木苺の新芽が、もう芽吹き始めています。見ればふきのとうもずいぶん伸びてしまっているので、近いうちに摘んで、蕗味噌を作りましょう。垣根の足元には水仙も咲いて、凛とした香りを漂わせています。
「まだ寒いけど、春ですね」
「ああ、春ですねえ……。おっ、このせんべい、うまいな」
「でしょう? そこの宝来堂さんの手焼きです。祖母も大好きだったんです」
「お祖母ちゃん、こんな硬いせんべい食べられたの?」
「そうなんですよ。最後まで歯は丈夫で、それが自慢でした」
「すごいなあ……。うちのお祖母ちゃんは七十過ぎには総入れ歯だったよ。好きなものが食えなくてかわいそうだった」

 そう、反田さんの家には、ちょっと前までお祖母様が同居していたのだそうです。やっぱり、反田さんがプルタブを開けてくれた時の、『お年寄りのいる家の方だろう』という想像は当たっていました。ご両親がお店をやっていましたから、反田さん、お祖母ちゃんっ子で育ったらしいです。
 お祖母様は数年前に亡くなられたとのことで、反田さんが以前わたしに『祖母を亡くして悲しいのは祖母を大好きだった証拠で、素敵なことなんだ』とおっしゃった、あれはきっと、ご自身のそんな経験から出てきた言葉だったのですね。きっと素敵なお祖母様だったのでしょう。できればわたしも、反田さんのお祖母様にお会いしてみたかったです。

 それにしても、こんなふうに他愛ないおしゃべりをしながら、毎年祖母としていたように、祖母が好きだったおせんべいを食べつつ梅の花を見上げていると、祖母も一緒に、三人で座っているみたい。

 お茶を淹れて、木苺ジャムを乗せたクラッカーを口に入れた時、ふいに、反田さんが、目をすがめて妙な顔をしました。
 いやだ、変な味でもしたのかしら。ポリ袋に密封してたけど長いこと冷凍していたから、冷凍庫の匂いが移ったとか? 前回食べた時は全く何ともなかったのですが……。
 反田さんは、妙な顔をしたまま口の中のクラッカーをもぐもぐと飲み下し、木苺のあたりに目を注ぎながら言いました。
「……蕭子さん。蕭子さんのお祖母ちゃんって、ピンクっぽい着物持ってた?」
「えっ……?」
「えっと、ピンクっていうか灰色っていうか……。裾のほうに、なんか鳥の模様が入ってるやつ」

 それって、祖母が生前気に入っていた桜鼠の色留袖のことではないでしょうか。たしかに、灰色がかった桜色の地の、裾のほうに、花枝に遊ぶ小鳥が描かれていたはずです。
「はい、持ってましたけど……どうして?」
 反田さんは、その着物を見たことはないはずです。
 遺影の写真は黒留袖ですし、祖母が色留袖を着て反田洋品店に買い物に行ったことがあるとは思えません。もしかしたら、こないだお見せしたわたしの子供の頃のアルバムに、それを着た祖母が一緒に写っている写真もあったかもしれませんが、でも、『持ってた?』なんて聞くってことは、見たことを憶えてはいなかったんですよね? それでも無意識のうちに記憶に残ってたのでしょうか。

「あのさあ……」と、反田さんが、不思議そうな顔で言いました。
「信じてくれないかもしれないけど、さっき、一瞬だけ、そこの木苺のへんにお祖母ちゃんが立ってたような気がしたんだ。その、ピンクっぽい着物着て」
 まあ……! まさか……。
 わたしも目を凝らしましたが、お祖母ちゃんは姿を見せてくれませんでした。
「……今も見えるんですか?」
「いや」
「まあ……。ずるいわ。なんで反田さんにだけ」
 わたしだって、あの、お葬式の直後の時以来、祖母に会っていないのに。だから、あれだって、もうずっと、夢だったんだと思い込んでいたのに。
「お祖母ちゃん、俺に、『蕭子をよろしく』って言って、頭を下げたんだ」
「まあ……」

 そうか、お祖母ちゃん、反田さんにご挨拶に来てくれたんですね。お気に入りの色留袖で正装して……。だからわたしではなく反田さんの前に現れたのですね。反田さんは、お祖母ちゃんに認めてもらったのですね。

 反田さんは、不思議そうに首をひねっています。
「ねえ、蕭子さん……。もしそこにお祖母ちゃんがいたとしたら、それって幽霊だよね? こんなに真っ昼間っから? 幽霊だとしても、俺、ちっとも怖くなかったんだけど、どういうこと?」

「怖くないに決まってるじゃないですか。わたしのお祖母ちゃんだもの。もうすぐ反田さんにとっても、義理のお祖母ちゃんになるんだもの」
 わたしが笑うと、反田さんも、安心したように破顔しました。
「そうか、そうだよね。怖いわけないよね」
 それから反田さんは、
「じゃあ、わざわざ会いに来てくれたなら、俺もお祖母ちゃんにあらためてご挨拶しなくちゃな」と、むっくり立ち上がりました。
 沓脱ぎ石から庭に降りて、真面目な顔で、選手宣誓でもするみたいに背筋を伸ばして居住まいを正します。反田さんの、こういうきりっとしたお顔は、普段あんまり見ることがありません。

 反田さんは、あらたまった声で、誰もいない庭に向かって呼びかけました。
「蕭子さんのお祖母ちゃん――ミサ子さん。あなたが大切に育ててくれた大事なお孫さん、俺が責任持って、一生、大切にします。いっさい苦労をさせずにすむかというと、それはちょっとわからないけど、二人なら苦労も幸せだと思ってもらえるような、そんな夫になれるように、俺、がんばります。どんな時にも、決して蕭子さんを疎かにはしません。常に愛情を持って、世界の何よりも蕭子さんを尊重します。だから、安心して天国から見守っていて下さい」
 そして、木苺の茂みに向かって深々と一礼しました。

 まあ……。反田さん、カッコいいです! 今の口上、今、この場で考えたのかしら。いくらお口がお上手でも、元からそういうことを真剣に考えていなかったら、とっさに出てくる言葉ではありませんよね。わたし、ちょっと胸が熱くなりました。わたしは幸せものかも。
 それに、反田さんは知っているのかしら。愛情、尊重というのは、どっちも、木苺の花言葉です。お祖母ちゃんの大好きな――今もその傍らに現れたという木苺の。

 木苺の傍らに、微笑んでうなずくお祖母ちゃんが一瞬見えて、ふと消えたような気がしました。
 反田さんにもそれが見えたのかしら。もう一度、木苺に向かって深々と頭を下げて、しばらくそのままでいました。
 ありがとう、お祖母ちゃん。
 姿は見えなくても、祖母はきっと、わたしのそばにいるのです。
 わたしが生きている限り、お祖母ちゃんは、ずっとわたしと一緒です。


 それにしても、祖母はなぜ、いつも木苺のところに現れるのでしょう。
 それは、わたしにとっても謎です。祖母はあの木苺をとても愛していましたけれど、それを言ったら、ジギタリスの株だって、この梅の木だって、庭中の草木をみんな愛していたし、思い入れを持って大切に手入れしていました。
 その中で、あの木苺だけが祖母にとって何か特別だとしたら、その理由は、祖母の人生という一冊の本の中の、わたしが見たことのないページに書かれていたのかもしれません。
 だとしたら、わたしはその謎の答えを、永遠に知ることはないでしょう。
 でも、それでいいのかもしれません。
 だって、わたしは祖母の人生のすべてを知ってはいなかったけれど、そういう長い人生を抱えた祖母を、わたしの知らない一面も持っていただろう祖母を、まるごと愛することはできましたから。



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