〜司書子さんとタンテイさん〜





エピローグその1(九月)



 九月。渋皮煮用の栗を弱火で煮ながら、台所のテーブルで、反田さんとパティスリー・キハラのケーキを食べました。栗の渋皮煮は、途中で何度も水を替えないといけないので、その間台所に篭っていないと不便なのですが、煮ている間はつきっきりでかき混ぜる必要もなく、こうしてのんびりケーキを食べていられるのです。
 ケーキは、秋限定のアップル・カラメリゼと洋梨のタルト。二種類を、それぞれ反田さんと半分こです。これも期間限定のマロンケーキとスイートポテトパイも食べたくて、さんざん迷ったのですが、そっちは次の機会にすることにしました。秋は美味しいものがいっぱいで、困ってしまいます! パティスリー・キハラときたら、秋の限定商品を、こんなに何種類も出すなんて!

 九月も後半になるにつれて縁側では少し肌寒い日も増えてきたので、最近、反田さんには、こんなふうに台所のテーブルでお茶をお出しすることが多くなっています。座敷の座卓でお座布団敷いてお茶をお出しするのも、まるであらたまったお客様のようで、なんだか今さらで奇妙な気がしたので、自然とそんなふうになりました。台所なら、こうして何か煮たりしながらお茶やお話をすることができますし、反田さんが栗の皮剥きを手伝ってくれたりもします。
 こうやって、台所で一緒に栗を剥きながらおしゃべるするなんて、まるで、祖母が生きていた頃みたい。祖母とわたしも、こうしてこのテーブルで、一緒に手を動かしながらおしゃべりしたのです。

 台所の真ん中に据えた、作業台にも食卓にもなる年季の入ったダイニングテーブルの前は、子供の頃からの自室と並んで、わたしが家中で一番好きな、居心地のいい場所です。台所の、この、手頃な狭さが落ち着くのです。特に秋から冬は、自分ひとりだけのためにだだっ広い座敷を暖めるのは光熱費の無駄ですし、それに、いくらストーブを焚いても、一人ぼっちの広い部屋は、なんだかどうしても肌寒いのです。その点、狭い台所は、たいてい何かしら煮炊きをしていることもあって、小さなストーブ一つでもすぐ暖まります。夏は夏で、北向きだし、北と東の二面にある窓を開け放てば冷房なしでもわりと涼しいのです。窓を開けると金木犀の木があって、夏には涼しい葉影が落ち、秋にはさわやかな香りが流れこんでくるところもお気に入りです。
 だから、四季を通して、食事もここでとりますし、片手間にお料理をしながら、ちょっとした書き物や読書、さまざまな手作業も、このテーブルですませることが多いです。古い時計のかちかちいう音や、冬ならばストーブの上でヤカンのお湯がしゅんしゅんいう音を聞きながら……。
 子供の頃も、同じ時計の音を聞きながら、祖母がお料理をしている後ろで宿題をしましたっけ。
 テーブルにかかっている木苺柄のビニールクロスは、ずいぶん前に祖母が買ってきて、ふたりとも気に入っていたものなので、今ではずいぶん古びているけれど、買い替える気になれません。このテーブルに、このクロスをかけて座っていると、今でも、あの頃のままの祖母が向かいに座っているような気する時があるのです。

 そんなこの場所に、そういえばわたしは、反田さん以外の人を招き入れたことがありません。他のお客様には、縁側か、仏壇のある座敷でお茶をお出ししていますから。

 もともとわたしは、祖母と違って、家に人をお招きするのは、あまり好きでないのです。むしろ、どちらかというと、他人に家に立ち入ってほしくないほうです。
 この家は、わたしの、わたしだけの小さな世界。何にも心を乱されることなく安心してすごせる、安全な繭の中。わたしのお城で、安全地帯。
 いくら好きな仕事をしていても、良いご近所さんに恵まれていても、それでも、外に出れば辛いこともあります。心を乱すようなイレギュラーなことが、いろいろと起こります。けれど、ここでは、この小さなわたしの世界の中では、嫌なこと辛いこと、予想外のことは、何も起こらないのです。それはまあ、庭木に毛虫がつくとか、糠床にカビが出るとか、梅シロップが発酵するなどのささやかな不具合はちょくちょく起こりますが、それらは、日常生活に織り込み済みの、予測のつく範囲内のことで、平穏な生活の一部です。
 そんなこの場所でなら、わたしは、泣き虫で人見知りなショコちゃんのままでいられるのです。引っ込み思案で不器用で、ぼんやりと空想にふけってばかりいる、本当のわたしのままでいていいのです。ベッドの枕元に子供の頃からのお気に入りのうさちゃんのぬいぐるみが置いてあったって、ボロボロで薄汚れたそれに実はときどき話しかけていたって、実は抱いて寝ることもあったって、誰も見ないから誰にも笑われないのです。そういう場所があるから、外ではちゃんとした大人でいられるのです。
 毎日同じ、静かな、変わらない日常の中で、四季折々の小さな変化だけを愛で、誰にも邪魔されず、誰の邪魔もせず、平和に暮らす――そんなわたしの世界に、誰にも入り込まれたくありません。

 けれど、反田さんは、いつの間にか、わたしの世界を脅かす侵入者ではなく、その世界をわたしと共有してくれる人に変わっていました。隣で一緒にくつろいでくれる人になっていました。いつものようにお料理をしながらお茶を飲んだりする、その場所に、反田さんも一緒にいて、一緒にくつろいでいて、それがとても自然。
 どうしてそうなったのかな。不思議です。やっぱり、反田さんの人徳ですね。

 それにしても、木原さんちのケーキは絶品です。住宅街の片隅にあって、一見それほど流行っているようにも見えない小さなお店だけれど、もしかすると隠れた名店なのでは……?
 この、タルトの、しっとり、サクサク具合。包丁で半分に切っても欠けたり割れたりしないのに、歯を立てれば口の中でほろりと崩れて溶けるのです。ちょっと歯ごたえの残った洋梨のコンポートの煮え具合も絶妙で、さわやかな酸味と香りが広がります。
 それに、このアップル・カラメリゼの、リンゴのやさしい甘さとキャラメルの香ばしさとの絶妙なハーモニー……。ちょこっと添えられた生クリームが甘さ控えめでさっぱり軽やかなのが、濃厚さの合間の口直しになって、また良いです。

 最後の一口を食べ終わり、口いっぱいの余韻を味わってうっとりと幸せに浸っていると、反田さんが楽しそうに言いました。
「蕭子さんって、甘いもの食べてるとき、本当に幸せそうだよねえ……」
「……そうですか?」
「うん。すっごく美味しそうに食べる。細いのにねえ」
「えっ……。すみません、お恥ずかしいです……」

 いやだ、食いしん坊がバレてて恥ずかしいです。わたし、別にそんなに大食いではなくて、どっちかというと、むしろ小食なほうだと思うのですが、甘いものにはとにかく目がなくて……。
 自分がケーキを食べてる姿なんて自分では見られないけれど、わたし、そこまで美味しそうに食べてるんでしょうか……。そんなに食いしん坊丸出しなのかしら……。

「いや、恥ずかしがらなくていいですよ。なんで謝るんですか。美味しそうに食べるのはいいことですよ。見ているほうも幸せな気持ちになる」
「まあ……」
 反田さんはにこにことわたしを見ています。
「だから、蕭子さんがケーキとか食べてるところを、ずっと見ていたいなぁ……なんて思うんですよね」
 そう言って慈しむようにわたしを見つめる反田さんの眼差しが、すごく優しくて、なんだかきまりが悪くなってしまいました。反田さん、ちっともハンサムではないのですが、そんな表情をすると目元が甘いのですね。ちょっとだけ素敵かも……。新発見です。

 ……と思ったところで、反田さんが、あいかわらずにこにこと言いました。
「蕭子さんさあ……。前に、もう恋はしないみたいなこと言ってたけど、そこを何とか枉げて、俺と恋してみませんか?」
 わたしはびっくりして、紅茶のカップを取り落としそうになりました。
「はぁっ!? どういうことですか?」
 反田さんったら、突然、何を言い出すんでしょう……。
「どういうことって……。つまり、俺と付き合ってくれませんか?」
「な、なんでですか!? なんで反田さんと!?」
 取り乱して、どもってしまいました。
「なんでって……。傷つくなあ……。俺が蕭子さんを好きだからですよ。交際を申し込むのに、他に理由なんか要ります?」
「えっ……!?」
「なんでそんな意外そうな顔するかなあ……。俺、ずっと言ってたじゃないですか。最初に会った時から蕭子さんのファンだったって」

 そういえば、たしかに、反田さんは、ことあるごとにわたしのことを可愛いだの何だの言ってくれていましたが、わたしはこんな歳だし、反田さんは反田さんで、こういう、社交的でお口の上手い人だから、そんなのほんの社交辞令なんだろうと……。それをいちいち本気にするなんて自意識過剰というものだろうと……。わたしは社交辞令でも何でもすぐに本気にしてしまうから、そうしないように自分を戒め続けてきたんですが、まさか、あれ、本気だったんですか……?

 混乱して固まっていると、
「あれだけ言って、通じてなかったのかぁ……」と、反田さんが苦笑しました。「うん、まあ、本気にされてないなとは思ったんですけどね。でも、正直なところ、冗談だと思われてるのを良いことにっていうのもありましたね。卑怯かもしれないけど、俺だって怖かったんですよ。いきなり本気で告白して振られちゃうのは。冗談に紛らわせているうちは、とりあえず振られはしないでしょ? だからって、別に軽々しくいろいろ言ってたわけじゃないですよ。言ったことは全部本当です。今だから言うけど、俺、蕭子さん目当てで図書館に通ってたんですよ。もちろん本も読みたかったし、前に蕭子さんが俺に本を読む楽しみを思い出させてくれたんだって言った、あれも全部本当のことだけど、どっちかっていうとそっちはおまけで、蕭子さんに本を手渡してもらうのが一番の楽しみだったんです。最初に、カウンターに座ってた蕭子さんを見て『うわ、好みだ!』って思って、それから蕭子さんが本を探してもらって、いい人だなあと思って、その真面目で一生懸命な姿勢に惚れ込みまして。しかも、いかにもきちんとした育ちの古風で奥ゆかしいお嬢さんな雰囲気で、やっぱこういうのって永遠の憧れだよなあ、いいよなあとか思ってるところで、例の『まあ……』にとどめを刺されて、それから二年間、ひそかに憧れてたんですよ」
「まあ……」
 思わず言ってしまったら、反田さんが、
「ほら、また」と笑いました。

「でも、図書館の司書さんをいくら好きになっても、俺はただの利用者で、本を借りる時しか接点がないでしょ。どうお近づきになっていいかわからなくて。だから、偶然、犬の散歩で蕭子さんに会って、実はご近所に住んでたんだってわかったときは、天が俺に味方したと思って、もう有頂天でさ。うれしさと緊張のあまり、ちょっと舞い上がり過ぎちゃって、俺、うざかったですよね。ごめんなさい」
「いえ、そんな……」

 ほんとは、一番最初は、ほんのちらっとだけ、ちょっと厚かましい人だなあと思いましたけど、あれは反田さんなりに緊張なさってたんですね……。

「あの時、俺、なんとか接点を確保しようと必死だったんですよ。そうやって押して押して押しまくった甲斐あって首尾よく蕭子さんとお近づきになれて、うれしかったなあ……。しかも、長らく憧れの人だった蕭子さんは、実際に知り合ってみたら、思ってた以上に、なんか奇跡みたいにピュアな人でね。それだけでなく、実はかなりの天然だったり、びっくりするほど泣き虫だったり、あんがい子供っぽいとこがあったり、かと思うと思いがけない情熱を秘めてそうだったり、けっこう頑固だったり、ウジウジしたとこもあったり、おとなしいと思って油断してるとたまにさらっとひどいこと言ったりして、面白かったし、飽きないし、笑ったり泣いたり怒ったり、赤くなったりいじけたり、ムキになったり慌てたり、見せてくれるいろんな顔が、全部いちいち可愛かったんですよね。だから、どの姿を見るのも楽しくて、会うたびに、次はどんな顔を見せてくれるのか楽しみで。美人は三日で飽きるというけど、蕭子さんはその限りじゃないね。だって蕭子さんは、美人な上に面白いんだから、最強でしょ? だから俺は、蕭子さんには一生飽きないと思うんですよね。だから、ずっと蕭子さんを見ていたいな、ずっと一緒にいたいなーって思ったんですけど……ダメですか?」
「えっ……」

 いきなりそんなこと言われても、びっくりしてしまって、まともにものが考えられません……。何しろ、今までぜんぜんそんなこと考えたことがありませんでしたから。
 反田さんは、間違いなくとても良い人だし、魅力的な人でもあると思いますが、それと異性として好みかどうかは、また別の話で……。

 俯いて困っていると、反田さんが向こうから助け舟を出してくれました。
「いや、まあ、いきなり『ずっと』なんて言われても困りますよね」
「はい……」
「ですよね。だから、とりあえずは、ほんのお試しでいいですから」
「お試し、ですか……?」
「そう、まずは気楽に、ね」
「はあ……」
「だって、実は俺たち、もう付き合ってるも同然じゃないですか? こういう時、よく決まり文句で『まずはお友達からお願いします』って言うんだけど、俺たち、もう、とっくにお友達からはじめてますよね」

 ですよね。私たち、もう、ただのご近所さんではなく、少なくともお友達、もしかするとそれ以上……ですよね。

「だって、ねえ、こうして二人でお茶して、おしゃべりして、並んでお散歩して、ファミレスで一緒にご飯食べて、綿あめ半分こして食べながら一緒にスーパーボールすくいして、お弁当作って試合の応援に来てもらって……それって、もう、ほぼ『彼女』でしょ」

 わたしは考えこんでしまいました。言われてみれば、そうかもしれません……。たしかに、浴衣着て綿あめ食べながら並んで歩くなんて、絵に描いたようなお祭りデートかも……。場所が商店会主催の子供肝試し会場で、屋台の人はみんな商店街のお仲間だった事を除けば。

「だったら、このままほんとに彼女になっちゃってもよくないですか? 今とたいして違いませんよ」
「そ、そうでしょうか……」

 そういえば、たしかに、お隣のおばさんにも、前に反田さんを見送って戻ろうとしたときに垣根越しに呼び止められて『最近、あの方とお付き合いしてるの?』って聞かれましたっけ。違うと答えたけれど納得しなかったみたいで、どこの誰なんだと追求してくるので、反田洋品店の息子さんだと教えたら、『そう、そういう方なら安心ね。箱入り娘のショコちゃんがヘンな男にひっかかってるんじゃないかと心配してたのよ。おせっかいかもしれないけど、ショコちゃんがタチの悪い男に騙されるのを見過ごしたら天国のお祖母ちゃんに顔向けできないから、悪く思わないでね』と言われました。
 やっぱり、はたから見れば、わたしたちはお付き合いしているように見えていたのですね。

「そうですよ!」と、反田さんが力いっぱい断言しました。「というか、俺の友達はみんな、もう、とっくに蕭子さんのこと俺の彼女だと思ってますよ」

 たしかに、木原さんはじめ、みなさんにそう思われているようですが……。
 野球の試合の時にも、みんながそう思いこんで、反田さんがさんざん冷やかされていたのです。反田さん本人は、最初にはっきり否定してくださったのですが、みんな、それを信じないでうらやましがり続けて。反田さんも、違うと言いながら、みんなにうらやましがられてちょっと得意そうだったので、ここでわたしがあんまりムキになって、ご本人の否定にさらに否定を重ねて騒ぎ立ててはお友達の前で反田さんのお顔を潰すようで申し訳なく思えて、わたしとしては珍しく空気を読んだつもりであいまいに笑って聞き流してしまったんですが、あれがいけなかったのでしょうか。でも、わたし、ああいう時にどうしたらいいのか、普通はどうするものなのか、よくわからなくて……。

「ねえ、蕭子さん。今、俺と二人でお茶したり、こうしてお話してるの、嫌ですか? 嫌がられてはいないと思うんだけどなあ……」
「いえ、それはもちろん嫌じゃないですけど!」
 それだけは無いので、急いで否定しました。反田さんがうちに来てくださるのは、わたしもうれしいのです。それを口実に一人分では買いづらいケーキも買えて、しかも二人で半分こするから一度に二種類食べられますし。

「じゃあ、決まりですね!」と、反田さんが、うれしそうに言いました。「付き合うったって、別に急に何か変わるわけじゃなく、当面は今までどおり、こうして一緒にお茶したりしてくれればいいんですから、一緒にお茶するのが嫌でなければそれで良しってことで、ね?」

 えっ……。……もう決まりなんですか? わたし、返事をしていませんけど?

「あの……っ!」
 抗議しようとして、恥ずかしくて俯いていた顔を上げたら、にこにことわたしを見ている反田さんと目が合って、その眼差しの優しさと甘さにふいをつかれて、つい、また俯いてしまいました。
 反田さん、その目は反則です! ただの反田さんのくせに、ちっともハンサムじゃないくせに、なんでそんな……。もう……。

「……嫌ですか?」
 反田さんの優しい声に、つい、答えていました。
「いえ……嫌では……ないです……」
「うれしいな」
 お茶のカップを置いたままテーブルの上にとどまっていたわたしの指先を、そっと伸びてきた反田さんの手がやさしく包み込みました。
 恥ずかしくて、顔を上げられませんでした。わたし、反田さんとは、とっくに、普通に手をつないだことがあるんですけど。もっとしっかりと、というか、思いっきりがっちりと手を握られて、引きずられるみたいに路地を走り回りましたよね。その時は別に何とも思わなかったんですけど……今はなんだか、照れくさいです。



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