長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語 

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 <終章・2> 


 美紀の結婚式が、都内の某結婚式場で厳かに執り行われている、その当日。
 慣れない礼服に身を包んだ竜は、式場に入りきらない親戚たちがうろうろしている親族控室を、そっと抜け出した。
 彼にとって、親戚の輪の中というのは、もう、あまり居心地の良いところではなかったのである。ただでさえ、せっかく入った医学部を中退し、父の医院を継ぐのを拒んで家を出たこと、その後も親戚が納得するような就職をしていないことで、親戚の間では、彼に対する風当りは強い。その上、今日は従妹の結婚式ときている。三十過ぎて独身の彼に、親戚一同が口をそろえて結婚はまだかと言い出すのは、時間の問題だ。そうなると、どうも、面倒臭い。
 実を言うと、彼は、生まれてからこの年になるまで、一度も女性と個人的に交際したことが無い。大学時代には、向こうからアプローチしてきた女性もいないではなかったし、友人が女友達を紹介してくれようとしたり、頭数合せのために是非にと頼み込まれて合コンとやらに出たこともないではないが、そのようにして出会った女性たちに、一度も心を動かされたことがないのだ。
 別に、彼女たちのどこが嫌だったというわけでもない。そもそも、彼女たちの一人一人について、特に嫌う理由が出来るほど知りもしなかったのだから当たり前だ。ただ、彼女たちの誰もが、自分が特別に愛するべき、めぐり合うべきただ一人の女性とは違っており、彼女たちと付き合うことはそのまだ見ぬ誰かを裏切ることになるように感じただけなのだ。何か根拠があってそう思ったわけでもなければ、その、『めぐり合うべきただ一人の女性』というのがどういう人なのか特に具体的なイメージがあるわけでもなく、いいトシをした男がそんな少女趣味な思い込みに取り付かれているなど我ながらばかばかしくてとても他人には言えないとは思うし、自分でもそんな思い込みを本気にしているつもりはないのだが、いくらばかばかしいと思っても、自分でも信じてはいなくても、自分の心がそう感じてしまうことまでは止められない。いずれにしても、とにかく自分が彼女たちのうちの誰かと付き合ってみる気になれないということだけは確かで、それならば、なにもわざわざ多大な時間とエネルギーを無駄に費やしてまで、その女性と交際してみる必要もないだろう。別にそれほどしたくもないのに交際するなど、相手の女性に対して失礼ではないか。
 そもそも彼は、実を言うと、昔から何となく女性全般が苦手なのである。医者になって父の跡を継ぐことにだって、父の医院がよりにもよって産婦人科でさえなければ、あれほど抵抗はしなかったかもしれない。もちろん、新しい命の誕生を手伝う産婦人科医の仕事が有意義な素晴らしいものであることは重々わかっているが、だからといってわざわざ自分が、そんな、毎日毎日女性とばかり顔を合わせなければならない――のみならず、普通ならまずありえないような、ある意味では非常に深い関わり方をしなければならない――仕事をするのは、まっぴらごめんだったのだ。
 もちろん、別に産婦人科医でなくても、世界の人口の半分を占める女性とまったく関わらずに済むわけはなく、彼とて、産婦人科医のような特殊な関わり方でさえなければ、社会人のはしくれとしてそれを甘受する覚悟はあって、周囲の女性と良識の範囲内での友好関係を築くことや仕事先で女性の顧客に普通に礼儀正しく愛想よく接することまで嫌だと思ったことはないが、あらゆる構えを解いて何の気兼ねもなく過ごしていいはずの自分の城に帰ってきてまで、好き好んで女性と顔をつきあわせていたいとは、あまり思わない。いや、別に女性とでなくても、他人と一緒に生活すること自体、はっきり言って、わずらわしい気がする。
 一人暮らしの長い彼は、生活のすべてにわたって、それこそ茶碗の置き場所ひとつにいたるまで、確固たる自分の流儀を持っている。誰かと共に暮らすということは、そういう自分の流儀を互いに少しずつ曲げて折り合いをつけていくということだろう。そんな面倒な作業を行ってまで誰かと一緒に暮らす必要性を、彼は、今のところ、何一つ感じていない。
 それに、例え本気で結婚したいと思ったところで、住環境が特殊な上に経済的にも不安定な今の自分の生活では、来てくれる相手もいないだろう。
 ――ただ、そんな言い訳を親戚の前で口に出すと、だからもっとちゃんとした就職をしろとか、家に戻って父親と同居しろとか、結婚の話題以上に避けたい話題を蒸し返されるのがオチだから、今は黙って逃げておくのが一番だ。
 親族控室から逃げ出した竜は、ロビーの隅で、ぼんやりと中庭の噴水を眺めていた。別の結婚式の客らしい若い女性が何人か、通りすがりに、ちらちらと竜を眺めてゆく。失礼にも、一度通り過ぎてから何かこそこそ言い合って、わざわざちらりと振り返って彼を見ていった一団まである。
 実は、長身で肩幅の広い立派な体躯の持ち主である彼は礼服の着映えが非常に良く、背筋を伸ばして胸を開いた堂々たる立ち姿もいかにも様になっていて(特に意識しなくても、ついついそうやって常にきちんと姿勢を正してしまうのが彼のクセなのだ)、通りすがりの女性たちが思わず目を引かれずにはいられないほどだったというだけなのだが、本人にしてみれば、そんなことは思いも及ばないことだ。借り物の礼服など窮屈なだけで、それを着た自分の姿が見ず知らずの女性の目にどう映るかなど、知ったことではない。ただ、何をするでもなく手持ち無沙汰に突っ立っている自分が不審に見えるのだろうかと、少々居心地の悪い思いを味わうだけである。
 こういう時だけは、自分にタバコを吸う習慣があれば便利だったのにと思う。タバコを吸うならロビーに佇んでいても体裁が繕えるが、タバコもなしに、ただぼんやりとしているのでは、そういつまでも、同じところに立っていられない。まあ、挙式はもう終わったようだから、まもなく披露宴会場に案内されることになるだろう。
 そこへ、美紀の姉、圭子がぱたぱたとやってきて、いきなり竜の腕を引っ張った。
「竜君! なんだぁ、探したのよ。こんなとこで何してんの? お式、終わったから、これから披露宴よ。でも、そのまえに、ちょっと来てくれない? 紹介したい子がいるんだ。美紀の高校の同級生でね、山口さんっていうんだけど……」
「……何だよ、いきなり……。俺は別に……」
 圭子は、竜のぼそぼそした抗議などハナから黙殺し、一方的に早口でまくしたてながら強引に竜を引っ立ててロビーを横切りはじめた。
「いいから、ちょっと来てってば! ほら、こっちよ、こっち! 美紀がね、絶対あんたたちを会わせたいんだって言って、聞かないのよ。ほら、時間がないんだから! ねっ、ひとことふたこと、挨拶するだけでいいから。高校生の頃、うちにも何度か遊びに来たことあるから、あたしも知ってるコだけど、いいコだし、結構、かわいいわよ。美紀の同級生だから齢は二十七ね。趣味は読書だって。ちょっと内気なコで、人見知りするから最初は話が弾まないかもしれないけど、よく知りあってみれば絶対気が合うはずだからって、美紀が……」
「いや、だから、俺は別に……」
「いいから、いいから。見るだけ、見るだけ。見るだけならタダなんだから! それで、もし、ちょっとでも気になると思ったら、後でまた会えるように、美紀が陰謀巡らしてくれるっていうから。あ、ほら、あのコよ。ね、かわいいでしょ? 山口さーん! ちょっと!」
 圭子の大声に、受付の前にいた、青いドレスの小柄な娘が振り向いた。
 圭子に腕を掴まれてロビーをずるずると引きずられていた竜は、その傾いだ姿勢のまま、一応は顔を上げて相手の姿を認め――、そのとたん、なぜかはっとして、弾かれたように体勢を直て立し、そのまま茫然と直立不動で立ち尽くした。
 竜の姿を捉えた娘の目が見開かれ、パールピンクの口紅に彩られた唇から、不思議な言葉が零れ落ちた。
「……アルファード?」  



 その瞬間、周囲のざわめきが、ありふれた結婚式場のロビーの光景が消えて、竜の目の前に、いつか夢で見たような気がする緑の草原が現われた。
 空に架かる大きな虹の下、ほっそりとした少女が、三つ編みの黒い髪と質素な青いワンピースの裾を風になびかせて一面の草の海に立ち、こちらを見ている。
 誰だか分からないけれど、とてもなつかしい、とても愛おしい、かけがえのない少女。
 ひんやりとした高原の風が、竜を包んだ。
 ――やっと、会えたね――
 小川のせせらぎや木々のざわめきを運んで牧草の上を渡って来る風の中に、そんな言葉を、聴いた気がした。
 その時、まるで胸の奥深くにずっと隠してあった小さな宝石箱の蓋がふいに開いて大切にしまってあった一粒の宝石がぽろりと転がり出したかのように、あるいは、忘れていた魔法の言葉が突然蘇ったかのように、ひとつの言葉が、竜の心の水面に浮かび上がった。
 自分でも意味のわからない、けれどなぜか自分にとってとても大切で愛しいものに思えるその短い言葉を、気がつくと竜は、いつのまにか口にしていた。
「リーナ……」



 声を出したとたん、草原の幻は消え、少女の素朴なワンピースはつややかな青いサテンの膝丈のパーティドレスに変わり、竜の目の前にいるのは、童顔ではあるがもう少女とは言えない年齢の、一人の若い女性だった。
 大きく見開かれてまじまじと竜を見上げる娘の目から、ふいに、ぽろりと涙が溢れた。
 娘は、何が起こったかわからないという顔であわてて涙をぬぐい、涙を拭いたその手を驚いたように眺め、それから、恥ずかしそうに再び顔を上げて、おずおずと微笑んだ。
 その微笑みに、竜の心臓はいきなり喉元まで躍り上がった。
 なぜ、この時、竜が里菜の名前を知っていたのだろうか、この時の里菜の涙はどういうわけだったのだろうか、里菜がとっさに呟いて、その後すぐに自分でも忘れてしまった謎の言葉はいったい何だったのだろうか、そしてその言葉が竜にも親しいものに感じられたのはなぜだろうかと、ふたりがあれこれ訝るのは、後になってからのことだ。竜は、自分が今、たぶん生まれて初めて恋に落ちたのだという思いもよらない事実を愕然と悟って、硬直した。
「山口さん、目ェ、どうしたの? ゴミ入ったの? もしかしてコンタクト? 大丈夫? ……ねえ、山口さん、さっき、何て言ったの? 竜君、どうして山口さんの下の名前、知ってるの? あたし、教えたっけ? 美紀から聞いてた? ねえってば、ふたりとも、どうしたの? もしかして、ふたり、知りあい?」
 とまどう圭子の声は、ふたりの耳に入っていなかった。
 十年の時を越えて、ふたりは、見つめ合った。
 初めて知る胸の高鳴りに狼狽しながら、竜は、しどろもどろに口を開いた。
「ああ、その……、はじめまして」

 ――同じ世界にいれば、あんたらは絶対、また巡り合える。そして、巡り合えさえすれば、例えその時、すべてを忘れていても、必ずもう一度、最初から愛し合えるのさ――
 聞き覚えのあるやさしい声が、記憶の彼方で、そっと囁いたような気がした。



(── 『イルファーラン物語』・完 ──)





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この作品の著作権は著者冬木洋子(メールはこちらから)に帰属しています。
掲載サイト:カノープス通信
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