長編連載ファンタジー
イルファーラン物語
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(第三章までのあらすじはこちらから)
一
(――引用――) 一般に知られた神話では、女神エレオドリーナは、死期を迎えた恋人アルファードを星に変えて天に上げたと言われているが、この村の女神の司祭の家には、代々、別の物語が伝えられている。それによると、アルファードに定めの時が至ったその日、女神は空に虹を架け、人間の老婆の姿から若く美しい本来の女神の姿に返って、年老いた恋人の手を引き、ともに虹を渡って、タナート神の追跡の手を振り切り、空の裏側にある別の世界へと逃れていったのだという。 また、年老いて足が弱っていた魔法使いアルファードは、この逃避行の途中で一度つまづいて転んでしまい、その拍子に、彼が女神に賜って身につけていた銀の腕輪が割れて、この時、空に落ちた腕輪が、後に『魔法使いの星』と呼ばれる銀のアルファード星になったという。 男神タナートは、女神のこの裏切りに怒り狂って荒ぶる破壊神と変じ、女神と共に創造したこの地上のすべての生き物を滅ぼさんと、地上にあらゆる大災害をもたらした。 この時、男神の眷属であった妖精たちは、男神を諌めようとしたが相手にされず、男神の注意を引くために、やむなく彼に戦いを挑み、その怒りに触れて『魂の癒しの力』を封印された。だが、妖精たちのこの捨て身の諌言は効を奏し、男神はその後、本心に立ち返って、自らの所業を悲しみ、女神に去られた傷心を抱いて永久に地上を見捨て、独り、黄泉へと去った。 その後、女神とアルファードがどうなったかは伝えられていないが、ただ、女神は、別の世界に逃がれていっても決してこの世界を見捨てたわけではなく、今も別の世界のどこかでこの世界のことを気にかけ続けており、この世界の繁栄に、遠くから気を配っているという。『虹の向こう』の別の世界にいる女神が生命に満ちる時、この世界では、草木が茂り、麦が豊かに育ち、羊は多くの仔を産み、人間も富み栄えるという。反対に、女神の生命が衰える時、この世界は不作に見舞われ、羊は仔を産まず、人々は飢えや病いに倒れるのだという。だから、その年の収穫を寿ぐ秋の収穫祭では、毎年、遠い世界にいる女神に感謝を捧げ、女神の生命のいやさかを祈り、その加護を乞うのだという。 ちなみに、イルゼール村の収穫祭は、秋分の日に行なわれるが、それは、女神が別の世界に去っていったのが秋分の日だったという言い伝えのためである。『マレビト』が、必ず秋祭りの前後に姿を現わすのも、その季節にこそ、この世界と女神が去っていった別の世界とが最も接近し、ふたつの世界の間に通路が開くからだと言われている。 これらの物語は司祭の家に代々伝えられているものだが、特に秘密のものではなく、司祭は、毎年、秋祭りの時に、全村人の前でこの物語を語ることになっている。 しかし、この物語は、ここでは現代の言葉に置き換えて紹介したが、本来は、非常に古い言葉で口伝されているもので、今では語っている司祭にも、そのままではほとんど意味が分からないものとなっている。 それでも司祭は、代々、その言葉と同時に、その意味も、その時代の言葉で次の司祭に語り伝えているが、現在の村人たちのほとんどは、この物語をただの長い祈りの決り文句としか思っていないようである。特に若い世代において、自らの村に伝わる、この由緒ある独自の神話を知るものがほとんどないのは、憂うべきことであろう。 ――『エレオドラ地方の民俗と神話に関する研究』(イルファーラン国立研究所主任研究員ユーリオン著 統一暦百五十三年発行)より。 |
「や、やあ、おかえり……」
何もないはずの部屋の真ん中に、降ってわいたように現われたふたりを見て、ユーリオンは、目を見張ったまま反射的に答えた。悲鳴を上げたわけでもなく、飛び上がったわけでもなく、声と言葉だけ聞くとそれほど動転しているふうでもなかったが、この一言を言い終えた後も、ユーリオンの口はぽかんと開いたままで、手は、ペンが落ちたことにも気付かずに、ペンを握った形のまま、宙に静止していた。
その様子がおかしくて、里菜はついつい、くすくす笑いだしてしまった。
ユーリオンは、はっとしたように口を閉じ、手を下ろして、コホンとひとつ、取り繕うような咳払いをして、付け足した。
「あ……、ああー。……と、とにかく、元気そうでなによりだ」
付け足してから、自分の言葉がひどく間抜けに聞こえることに気付いて赤面したユーリオンに、里菜はもう、堪え切れなくなって身体を折って笑い転げ出した。
「ご、ごめんなさい、リオン様、驚かせて……。で、でも、でも……」
「リーナ君、そんなに笑わないでくれたまえよ。部屋の中に、突然人が降ってわいたら、誰だって驚くだろう?」と、ユーリオンはばつが悪そうに立ち上がって、アルファードの前に進み出た。
「では、君たちは勝ったんだね。魔王を倒したんだね」
「はい。つい、さっき。荒野の結界は解け、魔王の城は消えました。魔王は――いや、タナート神は、この、リーナの中に」
「そ、そうか……」と、ユーリオンは、まだ笑い転げている里菜に、ちらりと目をやった。
「じゃあ、魔王はやはり、タナート神だったのかね。そして、この子が……。いや、そうか、この子はやはり……。それで君、アルファード君は、魔法の力を――<本物の魔法>の力を手に入れたんだね。神話の、女神の恋人アルファードと同じように」
「はい。ついうれしくて、ちょっとひけらかしてみたくなってしまいまして。済みませんでした」と、アルファードは笑った。
ユーリオンは、それでまた真っ赤になった。
「い、いやいや、いいんだ、いいんだ、その……。そんな力を手に入れれば、誰だって、見せびらかしたくなるさ。いや、すごいものだ。姿を消す魔法かね。魔王を倒したのがついさっきだと言ったが、ということは、ここまで帰ってきたのも、魔法を使ってなんだろうね?」
「ええ。魔法で、姿を消して、空を飛んで」
「それはすばらしい! そのう、姿を消さずに空を飛ぶこともできるかね?」
「ええ、できますが……。ただ、あまり一般の人を驚かせないようにと思って……」
「いや、それはぜひ、後でみんなに……。何しろ君たちは、こんなふうにいきなり帰ってきてしまって、これでは市民たちが納得しないだろうし、とにかく後でもう一度……。ああ、いや、まあ、いい、その話は後だ。まあ、とにかくそこの椅子に座ってくれたまえ、疲れただろう? いやはや、二人とも、言っちゃ悪いが、ひどい格好だねえ。さぞかし辛い戦いをくぐり抜けてきたんだろうねえ。本当にご苦労だったね。
いや、この国を――世界を救った英雄たちに、ご苦労様だなどとは、あんまりな言いぐさのような気もするが、私としても、こんな状況には前例がないもんで、何をどう言っていいか分からないんだよ。許してくれたまえ。さあ、リーナ君も、いつまでもそう笑っていないで……。いや、失礼、女神様を、そんなふうに気楽に呼んでいいものだろうかねえ……」
ユーリオンは、どう扱っていいやら分からないという困惑の表情で里菜を見やった。
里菜は、なんとか笑いを収めて答えた。
「どうぞ、リオン様、あたしはただのリーナですから」
「そうかねえ……。まあ、他になんて呼んでいいのか分からないし、他人の目もあるからねえ。とりあえず、畏れ多いが、そう呼ばせてもらうよ。君も、全国民の前で、私が女神です、なんて宣言する気は、ないんだろう?」
「もちろん。それに、あたしは本当に、ただの人間の女の子だし」
「はあぁ、どうもよくわからないねえ……」
「えっと、あたしの中に女神エレオドリーナがいるのは本当なんだけど、でも、それと、あたしが女神だっていうのとは、やっぱり違うと思います。……あのう、これは例え話なんですけど、女神様っていうのは、あたしにとって、一冊の本みたいなものなんです。それは前からあたしの本棚にあって、でも、前は自分でそれを知らなくて、今はあたしはそれを見つけたっていう、それだけなんです」
「本、ねえ……」
「ええ。力の源となるいのちの言葉が書かれた、『生命の女神』という本。でもそれは、それを読んだからといって、あたしが全能の女神様になれるって本じゃないんです。だって、どんな偉い人や賢い人が書いた本とか、どんな立派な素晴らしい人について書いた本とか、どんな良い内容の本を読んだからといって、あたしがいきなりそれを書いた人のように賢くなれるとか、その本に出てくる人のような立派な人になれるわけじゃないでしょ。
でも、その本が本当にあたしの心を動かすものだったなら、そこに書かれた言葉と真摯に向き合っていけば、あたしも、変われるかもしれない。それを書いた人や、その本の主人公と同じ人にはなれなくても、自分なりに成長していけるかもしれない。その本を読んだこと、そこに書かれた言葉を自分の中に持っていることが、あたしの、生きる力に変わるかもしれない――。
あたしの中に女神がいるってことは、そういう本を一冊、心の中に、いつも持っているようなものなんです。読んでいない時でも、その本を持っているということで心が強くなれるような、そういう本です。
本を一冊、持っているからといって、あたしはやっぱり愚かなままで、どうでもいいようなことに悩んだり迷ったりしてばかりいる取るに足らない普通の人間のままで、たぶん、一生、そのままなんだけど、でも、そうやって悩んだり迷ったりしながら生きることに耐えられる強さや、そういう取るに足らない自分とその人生を愛する力を、あたしは、『生命の女神』というその一冊の本から――そこに書かれたいのちの言葉から、得ることができると思うんです。
ただ、あたしの、この『本』って、好きな時に好きなところを開いて読むというわけにいかないんですけど……」
里菜が笑うと、それまで黙って聞いていたアルファードが、穏やかに口を挟んだ。
「でも、きっと、必要な時に必要なところが開かれるだろう」
里菜はアルファードを見上げて、ふたりはそっと微笑みあった。
そんなふたりを眺めながら、ユーリオンは困ったように首を振った。
「そういうものかねえ。でも、まあ、ここだけの話、やっぱり君はエレオドリーナの、まあ、一種の化身のようなものではあるんだろうね。ちょっと敬意を表させてくれないか」
ユーリオンは、唐突に里菜の前に跪いて、左手を胸に当てる女神への祈りのポーズをとり、短い祈りを唱えた。里菜はあわてて真面目な顔になり、ユーリオンの上に片手をかざして答えた。
「あなたの生命に、祝福を」
ユーリオンは、一瞬、眩しげな目で里菜を見上げ、それから頭を垂れて、しばらくそのまま感慨深げに胸に手を当てていたが、
「いや、ありがとう」と呟いて、照れくさそうに立ち上がった。
それから、急にがらっと口調を変えてせかせかと切り出した。
「ところで、君たち。実は困るんだよ、君たちにこんな気軽な帰りかたをされちゃあ。もっと、大々的に、華々しく凱旋してもらわなくちゃ困るんだ。これじゃあ、国民が納得しない。本来なら、まず、なるべく早くカザベルの市議会にでも連絡を入れてだね、そんなみすぼらしいなり――いや、失礼――でなく、美々しい鎧兜でも持ってきてもらって、それを着こんで立派な馬に乗って、カザベルの駐留軍から正装した騎兵の一個大隊でも借りてお供に付けて、堂々と行進して市門を潜って凱旋して、歓迎の式典にでも臨んで欲しかったわけだ。それから、カザベル街道を、威風堂々の大軍勢を引き連れて、沿道の民衆の歓呼に応えながら南下してだね、先々の都市で歓迎を受けて……」
里菜が呆れてさえぎった。
「でも、リオン様、そんなことじゃ、いつまでたっても帰ってこられません……」
「ああ、まあ、ずっと陸路では時間がかかりすぎるから、途中から船に乗るなり空を飛ぶなりするのはしかたがないが、それにしても、イルベッザに入る前には、君たちの凱旋を事前に市民たちに予告して、記念式典やら宴会やらの用意を整えて、港なり市門なりで市民総出の盛大な歓迎をしたかったんだよ。そうでないと、市民は納得しないんだ。アルファード君はもう知っているだろうが、ここの住民は、とにかくお祭り騒ぎや宴会が何より好きなんだからね。
だいたい、これじゃあ、君たちが魔王と倒してきたと言っても……、いや、私は信じるが、魔王が消えたからと言ってたちどころに何か目に見えるような変化が現われたというわけでなし――、まあ、さっき、たぶんあれは君たちが魔王を倒した時だったんだろうが、ちょっとした天変地異はあったから、みんな何かが起こったとは思って市内が騒然となってたんだが、何があったのかは分からなかったし――、市民たちには勝利の実感が湧かないんじゃないだろうか。君たちの出発のことは、あの後、口伝えで街中に広まって、みんな君たちに期待をかけて、帰ってくるのを待っていたんだ。だから君たちがそこに華々しく凱旋してくれば、特に証拠がなくても、みんなは、魔王の消滅を信じたと思うんだよ。人は、信じたいことを信じるものだからね。
別に、市民の機嫌を取れとということじゃないんだが、とにかく今、一番大切なのは、市民に希望と安心感を与えることなんだ。そりゃあ、食べ物や着るものや住む場所はもちろん大切だが、何と言っても、人の心に活気が戻ってこそ、初めて、街に活気が戻ってくるんだ。だから、君たちの、この帰り方は、実は、非常にまずい……。何とか、手を打たねばなるまい……。とにかく大急ぎで、宴会とパレードの準備をさせなくては。予算は、まあ、何とかなるだろうさ。何しろ、宴会は何より大切だ!
しかし、まあ、全市民を構内に招いての大盤振る舞いと華麗な大式典をやるとなると、どんなに急いでも、準備に一か月はかかるだろうなあ……。いや、だが、今回は、そんなのんきなことは言ってられないぞ! こういうことは勢いが大切だ! その場の勢いで、わーっと盛り上がらないと。一か月もたって、みんなが落ち着いたころにやったって意味がないんだ。よし、普通なら半年も一年もかかるところを、今回は、そう、十日で準備してみせよう! うん、死ぬ気でやればできる! いや、楽しみだ。昔、この城に王様たちが住んでいたころのような、何十年も語り継がれるほどの大宴会をやるぞ! よし、すぐに連絡を取って打ち合わせを……」
勝手にしゃべりちらすユーリオンに痺れを切らした里菜が訴えた。
「あのう、リオン様……。十日後の大宴会はいいんですけど、あたしたちは、今、すっごくおなかが空いてるんですけど。朝、堅パンを少し食べて泉の水を飲んだだけで……。それに服もたしかにぼろになってるし、そういえば、もうずっと、お風呂にも入ってなくて、髪が砂まみれで、汗もかいてて気持ち悪いし……」
「あ、ああ、それは大変だ。もちろん、君たちは今、すごく疲れているだろう。当然のことだ。気が利かなくて済まなかったね。つい、興奮してしまって……」
「あ、いいえ。それはいいんですけど、あの、だから、とりあえず今は宿舎に帰っていいですか? 着替えもしたいし、この時間なら食堂も浴場も開いてるだろうし……」
「と、とんでもない! ちょっと待ってくたまえよ。それはまずい! 君たちが今、そんなふうにひょこひょこと宿舎だの食堂だのに顔を出したりしたら、非常にまずいんだよ。いいかい、これから何とか君たちの凱旋の体裁を取り繕わなくてはならないんだから、それまで絶対、外に出てはいけないよ! まったく、君たちがいきなり宿舎や食堂にぽっと出現したりしなくてよかったよ。食事や風呂のことなら、心配はいらない。ここは、もと王宮だよ。普段は使わないが、今でもいくつかは浴室つきの客室を残してあるし、立派な厨房もあるんだ。着替えだって、どうせ宿舎にあるのは、それとたいして変わらないうような服だろうから、こっちで適当に用意するよ。食事も、今すぐの分は、外から取り寄せたほうが早いだろう。例の店から、すぐに何か持ってこさせよう……」
「えっ、例の店? やったあ! あそこのシチューとか、すごくおいしいんだ」
「ああ、じゃあ、熱々のシチューをたっぷり持ってこさせようね」
「あと、ほら、あの、魚の空揚げみたいのも……。あ、野菜のサラダも食べたいなあ。道中、携帯食糧ばっかで野菜不足だったから。あと、木の実の入った甘い焼き菓子と……」
「ああ、よしよし、何でも取り寄せるから、好きなものを言っておくれ」
「じゃあ、あの、あそこのお店では出たことないけど、何か、薄荷味の砂糖菓子がすっごくおいしいって噂を……」
「おい、リーナ……」と、アルファードが、困った顔で里菜を横からつついた。
「なあに、アルファード? いいじゃない、ずっとろくなもの食べてないんだから……」
「ああ、アルファード君、君も遠慮なく、何でも注文しておくれ。ええと、砂糖菓子ね。わかった、わかった。いいとも、何でも取り寄せるから、とにかく、頼むから外に出ないでおくれよ。君たちがすでにここにいることは、当面、絶対に秘密にしておきたいんだ」
「でも、友達にも早く会いたいんですけど……」
「ああ、じゃあ、内輪のものだけ内密に呼び寄せてあげるよ。誰と誰を連れてくればいいね?
」
というわけで、里菜とアルファードは、至急呼び集められた他の<賢人>たちに一応顔を見せた後、それぞれ客室をあてがわれて入浴をすませ、ユーリオンがあわてて市内の店で調達させたらしい新しい服に着替えて、別の一室に用意された食事を取った。
ふたりがそうしている間、静かだったのはその部屋だけで、<賢人の塔>の他の場所では、上を下への大騒ぎが繰り広げられ、<賢人>から清掃係に至るまで、あたふたと走り回っていた。
ふたりが食事を終えたころ、役人が迎えにきて、ふたりは、もう一度、ユーリオンの執務室に連れていかれた。
そこでふたりは、ユーリオンから、これからもう一度イルベッザへの帰還をやり直すようにと言い渡された。ふたりが食事をしている間に<賢人>たちは会議をして、方針を決めていたのだ。
「いいかい、君たちは、まだここに帰ってないことにしてあるからね。市民たちには、こう言って発表しておいた。さっき、北の空が真っ赤に見えた時、君たちが魔王を倒していて、それからすぐに魔法で私にその報告をしてきて、これから魔法で空を飛んで帰ってくるところだと。
それでだね。せっかく着替えたところを、すまないが、見栄えのする衣装を用意させたから、これからもう一度、それに着替えてくれないか。魔法で飛ぶのに、着ているものの重さは関係ないんだろうね? で、それを着て、防壁の外まで姿を消して飛んでいってもらって、それから姿を現わして、入城をやりなおして欲しいんだよ。着陸場所は、広場正面のバルコニーだ。ほら、アルファード君、武術大会の式典の時に私たちが立って挨拶した、あのバルコニーにね。ああ、リーナ君、君は知らないだろうが、あそこはもともと、王様たちが国民に手を振ったりするように作られた場所なんだ。
そうそう、アルファード君、君、派手に光ったりなんかできないかい? そろそろ暗くなるから、ぱっと、何か照明を演出して飛び込んできたりして貰えると、ありがたいんだがねえ……」
里菜とアルファードは、予想外の要求に顔を見あわせて絶句していたが、ユーリオンはかまわず、さらに続けた。
「それから、その後は、私たちと一緒に、バルコニーで、市民に顔見せしてあげてもらいたいんだがね。なに、君たちは黙って手を振るだけでいいんだ。挨拶なんかは私たちがやるから」
「えっ……。あのう……、本当に、そんなことしなくちゃいけないんですか?」
唖然とする里菜に、ユーリオンは大真面目に懇願した。
「いや、お疲れのところ申し訳ないし、面倒だろうが、ほんのちょっとの時間でいいから、どうか、頼むよ。馬鹿馬鹿しいと思うかもしれないが、これは、ぜひ必要な手続きなんだ。ただのくだらない人気取りだとか、無意味な格好つけだとか、そんなふうには思わないでおくれ。ものごとには、形式とか演出とかも大切なんだよ。そういうきちんとした手順を踏んでアピールしてこそ、市民に魔王の消滅を納得させ、今後の安全を実感させ、働く意欲を掻き立てることができるんだからね。何しろ、今、一番大切なことは、人の心を明るくすることなんだ。だから、とにかく、できるだけ派手に、華々しく頼むよ」
「はぁ……」
「もちろん、やってくれるね。ありがとう! 明日以降の行事については、また後で詳しく打ち合わせして、いろいろお願いするから……。ところで、もうひとつ、相談があるんだが……。実は、君たちへの賞金のことなんだがね……」
「そんな、賞金なんて、あたしたち……」
「いや、ちょっと聞いておくれ。実は、それがまた、とんでもなく安いんだよ……」
「……はぁ?」
「いや、だからね、すごく低い金額なんだ。たったの五百ファーリなんだ。今は魔物一匹で五十ファーリだから、君たちが今までに魔物退治で稼いだ額のほうが、よっぽど多いよねえ」
「はぁ……。なんで、そんな額なんですか。まあ、別にいいんだけど……」
「それがね、実は、この金額は、百年程前に決まったものなんだ。当時の貨幣価値から言えば一生遊んで暮せるような額だったはずなんだよ。そのころ、一番最初に魔物退治の報奨金が定められて、その時に、一応、魔王の場合の金額も一緒に定めたらしい。あんまり昔のことなので、私たちは誰も知らなかったんだが、最年長の<賢人>ファドゼールが、そういえば昔、そんな話を聞いた気がすると言い出してね。古い書類を調べてみたら、たしかに記録があったんだ。そして、その条項は、少なくとも撤廃はされていないらしいんだよ……。ただ、何しろ、本当に誰かが魔王を退治するなどとは、誰も思っていなかったから、その後、時代が下るにつれて、魔物退治の報奨金の額を物価の上昇に合わせて引き上げた時も、魔王のほうはそのまま忘れられていて、改定されなかった。その間に、通貨単位の変更なんかもあったから、こういう事態になったわけだ。それで我々は協議して、いくらなんでも額面通りでは君たちに悪いだろうということになったんだが……。さて、そこで相談だ。君たちは……」
「額面通りでかまいません」と、アルファードが、素早く答えた。
「えっ、本当かね! リーナ君、君も、それでいいのかい? ああ、それはありがたい。本当に助かった。何しろ、魔王に賞金がかかっていることすらすっかり忘れていたんだから、当然、そのための予算なんか、とってあるわけがないだろう? もしや君たちが――いや、そんなことは言わないだろうとは思ったんだが、この金額を現在の貨幣価値に換算して全額即金で払ってくれなんて言い出したらどうしようかと、内心びくびくしていたんだよ……。むろん、君たちがこの偉業をなしとげたのは賞金目当てでじゃないことは分かっていたんだがね……。いや、ありがたい、ありがたい……。五百ファーリなら、今年の魔物退治の報奨金の予算の残りで充分対応できる……。何しろ、これからはもう、魔物は出ないわけだろう?」
肩の荷が降りたというふうに無邪気に喜ぶユーリオンを見ながら、里菜はアルファードに小声で尋ねた。
「アルファード。五百ファーリだって、いらないんじゃない? あたしたち、どうせ、もう、この国からいなくなるんだもの……」
「いや、貰っておこう。俺たちはいらないが、五百ファーリあれば、村の初級学校の図書室に新しい本が買えて、自警団の武具も買い足せる。それに俺たちは、ローイとヴィーレに結婚祝いを買ってやらなけりゃならない」
「えっ? ローイとヴィーレにって……。いつのまに、あのふたりの結婚話がまとまってたわけ? あたし、聞いてないけど……」
「いや、俺もまだ聞いてはいないが、間違いなく彼らは結婚するさ」
そこへユーリオンが、そわそわした様子で話し掛けてきた。
「それでね、着替えに行く前に、もうひとつ、リーナ君に片付けて欲しい、ちょっとした問題があるんだが……」
「はい?」
「実は、あれなんだよ……」と、ユーリオンは、窓から見える城の正面広場を指差した。そこには、黒衣の人々がうじゃうじゃとひしめきあっていた。さっき里菜が空から見た人だかりは、これだったらしい。
「リオン様、これ……。タナティエル教団の人たち?」
「そうなんだよ。いや、ここ数日、ずっとこういうふうで、私たちはみんな、すっかり参っているんだ。数日前から、タナティエル教団の信徒たちが続々と市内に集まってきて、ここに集結してしまってね……。別に何か悪いことをするというわけでもなく、ただ集まって、時々お祈りをしたり、祈祷歌を歌ったりしているだけなんだが、窓の下に、こういう黒衣の連中にうじゃうじゃ集まられると、どうにも落ち着かなくてね……。みんな、このあいだの魔物騒ぎ以来、ただでさえ落ち着かないのに、<塔>の職員もますます仕事が手につかないし、市民たちも気味悪がって大変なんだ。
だからと言って、君たちも知っているように、ここは国民が誰でも自由に入っていい広場だから、ただ気味が悪いからと言って強制的に武力で排除してしまうわけにもいかない。火を焚いて炊事をするとか、テントを張って通行のじゃまになるとか、大声で不埒なことを怒鳴り散らすとかしていれば、それを口実に追い払うこともできるんだが、食べ物は堅パンなんかを噛じっているようだし、夜はマントを被って地面で寝てるし、おとなしくお祈りをしているだけで人の迷惑になるようなことは別にしないものだから、かえって始末が悪い。
特に今朝からは何だか彼らの動きがざわざわしてきてね。今にして思えば、北の荒野で何かが起こっているのを感知していたんだろうね。彼らの中には、予言者まがいのものがいるようだからね。そして、さっき、あれは君たちが魔王を倒した時刻だったんだろうと思うんだが、しばらく空が真っ暗になって、北のほうだけ真っ赤に染まって、こんな南のほうで見えるはずのないオーロラのようなものまで見えて、また、何か恐ろしいことが起こるのではと市内が騒然となったんだが、その時など、彼らがばたばたと地面にひれ伏して大声でお祈りを唱え出し、タナート神の復活だとか、死の王と生命の女王の婚礼だとか喚いたもので、本当に怖かったよ……。
それでだね、たぶん彼らは、君が出ていって説得してくれれば、ここからどいてくれると思うんだが。いや、私は君が彼らと別に関係ないのは知っているが、彼らは君のことを自分たちの女王だと言っているようだから、君の言うことなら聞くだろう。このままじゃあ、君たちが空を飛んで入城する時に、他の市民が怖がって、ここに集まってこられないから、その前に彼らをどかしてほしいんだよ。君たちがすでにここにいることは内緒だから、リーナ君一人が、そのままの目立たない格好で通用口からそっと広場に出ていって、彼らの代表と話し合うという形で……」
「わかりました。話してみます。でも、その前に、できればキャテルニーカを連れてきて欲しいんですけど」
「キャテルニーカって、あの、妖精の血筋のお嬢ちゃんかい? なんでまた?」
「あの子は、『妖精の血筋』じゃありません。本物の妖精の生き残り、最後の一人で、タナティエル教団の御使い様だった子です」
「えっ! まさか、そんな……。そうか、そうだったのか……。いや、あの子なら、もう呼びに行かせているよ。そろそろここへ来るだろう。君たちの他の友達と一緒に呼んでこさせたんだが、そういうことなら、最初にその子だけここに連れてこさせよう」
ほどなく、役人に案内されて、キャテルニーカが執務室に入ってきた。
「お姉ちゃん……。勝ったのね」
にっこり笑って、落ち着いた様子で里菜の前に進み出たキャテルニーカは、ひょいと跪いて胸に手を当てて敬意を表し、立ち上がって里菜を見上げた。
「かわいそうな魔王は、救われたのね」
「ええ」
「お姉ちゃんが彼を目覚めさせ、悪夢の中から救い出してあげたのね。そしてタナートが復活し、エレオドリーナと結ばれた」
「そうよ」
「ありがとう」とキャテルニーカは微笑んで、里菜の手を取り、自分の額に当てさせた。「封印を、解いて」
「うん」
ユーリオンとアルファードが無言で見守る中、目を閉じたキャテルニーカのかわいらしい額に当てた里菜の手が、一瞬、光を発した。それはほんの一瞬だったが、目を開けたキャテルニーカの額は、数秒ほど、光の粉をまぶしたように光っていた。
その光が消えた時、キャテルニーカは、目を開けて、晴れ晴れと言った。
「封印が解けた。魂の癒しの力は、ふたたび、この世に」
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