長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語 

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 <第四章 荒野の幻影> 

(第三章までのあらすじはこちらから


八(後)



 灰色の空から、雪が、音も無く、後から後からひらひらと舞い始めた。それは、ずっと雨も雪も降らなかったこの荒野に、何千年ぶりかで降り出した雪だった。
 アルファードは空を見上げて、静かに言った。
「ここは、また、かつてのように緑の野となるだろう。雪と氷に閉ざされた長い冬の穏やかな眠りの後に、短い夏が訪れ、一面に花は咲き乱れて、兎や狼の子供たちが、緑の苔の上で戯れるんだ」
 里菜は、雪の一片をてのひらに受けながら、うっとりと微笑んで頷いた。とても幸福な気持ちだった。
 そんな里菜に、アルファードが、穏やかに促した。
「さあ、その日のために、エレオドリーナ、生命の女王よ、大地に眠る古い種子たちに祝福を。種子たちは、君だけを待って、この大地の奥深くで何千年も眠り続けてきたんだ」
 里菜は、舞い落ちる雪の中にすっくと立ち、厳かに片手を上げた。それは、やせっぽちでちっぽけな少女の、かぼそい手だったが、今、そのかよわい少女の肉体と声を通して大地を祝福しているのは、力強く威厳に満ちた堂々たる生命の女王、その人だった。
「この大地に、大地の奥の眠れる種子に、祝福を……」
 歌うように夢見るように、里菜は言い終えて、手を下ろした。
 アルファードがそっと里菜の肩を抱いた。
「大地は目覚めた。誰にもできない、君だけの魔法だ」
 寄り添うふたりの前で、大地は喜びに震え、来るべき日の夢を荒野の上に描き始めた。
 土の下で、長いこと眠っていた植物の種たちがいっせいに目覚め、小さな殻を突き破って白い根を伸ばし、芽を吹き出すのが視える。
 雪解け水に濡れた土を力強く割って現われた緑の芽は、みるみるうちに天を指して伸びて行く。
 草に覆われた緑の大地には、灰色の兎たちがうれしそうに飛びはねながら草を食み、戯れ、番 《つが》い、走る。狼が現われて兎を殺し、大地に赤い血が流され、狼が去った後、残された兎の残骸を、その、血の跡を、たちまち草が覆い、その下で、むくろはやがて土に還る。夏が過ぎ、草が枯れ、白い雪が大地を覆う。
 そしてまた夏が訪れ、大地は芽吹き、雪の下から兎の白骨が現われ、あばらのすき間から、うつろな眼窩から、新しい芽が伸びて草が茂り、その草の上を、次の世代の仔兎たちが、嬉々として飛び越えてゆく――。
 早回しのフィルムを見るように、ふたりの前で、幾度も夏が巡り、生と死の連鎖の営みが繰り広げられる。
 やがて幻影はかき消えて、ふたりは元どおりの荒野に立っていた。
 ほうっと溜息をついて、里菜は空を見上げた。灰色の空から、雪が、激しさを増して舞い落ちてくる。アルファードが、もう一度、里菜の手に、さっきの炎の球を手渡してくれた。
「ありがとう」
「ああ。……リーナ、俺の本当の名前は、『竜』というんだ。竜――つまり、ドラゴンだ。そして、やはり俺の中には、ドラゴンがいたらしい」
 アルファードにしてみれば少しためらってから告げてみた言葉だったが、里菜は小首をかしげて、あっさりと言い放った。
「いたって、いいよ。暴れさせなければいいんだから。アルファード、生き物を飼いならすのは得意でしょ?」
 その、賢しいような無邪気なような瞳が冗談めかしてくるめいたのにつられて、アルファードは少し笑った。
「ああ、得意だ」
「……ねえ、アルファード、あたし……」
 口を開きかけて、里菜は、手の中でゆらめく炎に目を落しながらしばらくためらい、また顔を上げて言葉を続けた。
「アルファード。あなた、この後、どうする? あたしは……、あたしは、『あっち』の世界に帰ろうと思うの。……って言うか……、そうしなくちゃいけないんじゃないかと思うの」
「ああ……」
「あたし、ここにいちゃいけないの。あたしは生命の女王の力と死の王の力を、共に自分の内に取り込んでしまった。それは、この世界を無造作に滅ぼすこともできるほどの力で、でもあたしはただの人間の女の子で、ただの、心弱い普通の人間がそんな力を持つのは、すごく危険なことなの。分かるでしょ?」
「ああ」
「あたしは、この力を永遠に身うちに押し込めておけるほど、強くないかも知れない。今はあたし、大丈夫。でも、もし、あたしがずっとここにいて、あたしより先にあなたが死んだら……そしてその時、あたしが、遠い昔のあの時と同じように、あなたを失うことを受け入れる強さを持てなかったら……。あたしは愚かだから、きっとまた、同じ過ちを繰り返してしまうと思うの。あなたの死を信じたくなくて、世界の秩序を否定してしまうと思う。
 そうしたら、あたしは、あなたを引き止めるために、この世界を、一瞬で消し去ってしまうかもしれない。そんなことをしてもあなたは帰ってこないのだけれど、それでも、きっと、そうしてしまう。今度はあたし、それだけの力を持ってしまっているから。あたしの中にある劫初の混沌を世界に解き放てば、それで何もかも済んで――終ってしまうんだもの。だからあたしは、ここにいたら、危険な不発弾のようなものなの。いつ爆発して、世界を滅ぼしてしまうかもしれない。あ、不発弾って、分かるよね? あなたも、同じ世界から来たんだものね?」
「ああ」
「だから、あたしは、この世界を愛するなら、ここにいちゃいけない。あたしのこの力は、この世界の生成に関わるものだから、『あっち』の世界には、たぶん、影響は及ぼさないと思う。だから、あたしは、『あっち』に帰るわ」
「ああ。俺も、帰る」
「でも、アルファード、あなたは、ここで生きていけるわ。もう魔法も使えるし、そうでなくても、あなたは、ここでは、世界を救った英雄よ。残りの生涯を、英雄として尊敬され、大切にされて、誇りを持って満ち足りて生きることができると思う」
「いや。君のいない世界で、俺の人生が満ち足りることは、決してない。君以外には世界中のあらゆるものが望むままに手に入るとしても、俺は、何も欲しくない」
 淡々と、けれどきっぱりと告げられた言葉に、里菜は、はっとした。……もしかすると、自分は、今、『好きだ』でも『愛している』でもないけれど、すごく熱烈な愛の言葉を聞いたのではないだろうか――。
 胸に熱いものが広がり、それから、じわりと涙が滲みかけた。
 この言葉を、一生の思い出として覚えていられないだろうことが残念だ――。そう、あちらの世界に帰ったら、きっと自分たちはここでのことを忘れてしまうのだ。
「でも、アルファード、あたしたち……」
 涙で潤みかけた里菜の言葉を、アルファードは静かに、けれど断固としてさえぎった。
「ああ。分かっている。『あっち』に帰ったら、俺たちは、それぞれの場所に戻って別れ別れになってしまうだろうし、ここでのことはたぶん忘れてしまうのだろう。だから、もし仮にどこかですれ違うことがあっても、互いのことに気付けないかもしれない。それは分かっている。……それでもいい。それでも俺は、君と同じ世界で――君のいる世界で生きたい。たとえ巡り会えなくても、どこかに君が生きているというだけで、その世界は、俺にとって、生きる価値がある」
「アルファード……。気付けなくても、一目だけでも、どこかで会えるといいね……」
 里菜はアルファードの手を取ってうつむいた。重ねた手の上に、涙が一粒落ちた。
「ああ……」と、短く答えてから、アルファードは、
「リーナ、泣いちゃだめだ。泣くと、睫が凍り付く」と、小さく笑った。身体を内側から暖めるアルファードの炎の暖房のおかげで寒さを忘れていたが、あたりの気温は、それほど下がってきていた。
「リーナ、行こう。暗くなる前に、イルベッザに帰ろう」
 そう言って、アルファードは、里菜の目の前でふわりと宙に浮き上がり、里菜に片手を差し出した。
「うん」と、頷いて、里菜はアルファードの大きな手に自分の手を預けた。
 里菜とアルファードは、手を取りあって宙に浮んだ。丸い透明な結界がふたりを包み込む。
 ふたりはゆっくりと上昇し、荒野を見下ろした。降りしきる雪に静かに白く染め替えられていく最北の大地に別れを告げ、ふたりは結界ごと、南へと移動しはじめた。最初は、下の景色が見える程度にゆっくりと動きだし、それから徐々に速度を上げて。
 空に浮かんでいても、少しも怖くなかった。アルファードの大きな暖かい手が、里菜をしっかりと抱き寄せてくれている。閉ざされた球の中では風も動かず、ただ浮んでいるだけのように感じられるが、足の下を見れば、世界がすごい早さで流れていく。
 荒野の外れに近付くと、雪は徐々に止んだ。
 アルファードは、里菜のために、時々速度を落して景色を見せてくれた。
 やがて荒野は終り、まばらに草の生えた境界地帯にさしかかった。このあたりはもう、今はなくなった結界の外側で、今までも少しは降雨があったが、自然は厳しく、人も生き物もほとんど住まない辺境である。
「この辺は、今に、昔のように、深く清浄な、明るい森になるだろう。寒さのために人はあまり住まないだろうが、清らかな水が流れ、しらかばの木が育って、春にはキャテルニーカの目のような黄緑色の若葉をそよがせる、動物たちの楽園になるだろう」
「そうね」と、里菜は微笑んで、手を差し伸べて大地を祝福した。
 やがて、最北端の小さな村が見えてきた。その辺境の村は、かつて真っ先に魔物に襲われて焼き払われ、里菜たちが往路に通りかかった時には全くの廃村だったが、今、速度を落して上空から見ると、いくつかの急ごしらえの掘っ建て小屋から、炊事の煙が上がっていた。
「俺たちの姿は下の人間たちからは見えないようにしてあるから、心配ない」と言って、アルファードは、やや高度を下げて村の様子を見せてくれた。豆粒ほどの人間が、忙しく立ち働いている姿が見える。北部の復興は、もう始まっているのだ。
 里菜は、焼き払われて荒れ果てた畑や、動き回っている村人たちに心からの祝福を送った。野良で働いていた村人の幾人かは、その時、ふと空を見上げたが、何も見えず、ただなんとなく、こうして故郷の村に帰れたことと、今日一日の無事を彼らの女神に感謝したくなって、それぞれの胸の中で短い祈りを捧げた。
 ふたりはどんどん南下していった。北部では、そこここで、放置された畑や焼け野原となった村や街の再建が行なわれていた。ところどころの、景勝地や有名な都市、あるいは名もない寒村で、アルファードは、高度を落して、里菜に下界を見せてくれた。
 やがてふたりは、懐かしいイルベッザに近付いた。
 ふたりを包む球体は、速度を落して、ゆっくりと防壁を越えた。
 空から見るイルベッザの街並みは、やはりひどく無秩序でごちゃごちゃだった。けれども、そこに住む人々のたくましい営みが感じられ、生活のぬくもりがあたり一面に立ち込めているようで、里菜は胸が熱くなった。
 前方に<賢人の塔>が見えてきた。ふたりはもう、かなり高度と速度を落しており、構内の各種施設や軍の宿舎、治療院なども、窓から人の姿が見えそうなほど近くに見えたし、城の前の広場に、何やら黒っぽい人だかりが出来ているのも見えたが、頭上のふたりに気付くものはいない。
 里菜は今すぐにでも、リューリや、たぶんキャテルニーカや、もしかするとローイもまだいるかもしれない治療院の窓に飛び込みたいような気がした。
「アルファード。どこに降りるの?」
 里菜が問うと、アルファードは答えた。
「いきなりそこいらに降りるわけにはいかないから、とりあえず、そうだな……、<賢人の塔>の、リオン様の執務室はどうだろうか?」
「えっ、執務室って、いきなり部屋に入っちゃうの?」と里菜が驚いている間に、ユーリオンの執務室のある塔は、もう、目の前に迫っていた。
「やだ、ぶつかる!」と、里菜が思わずアルファードにしがみ付くと、アルファードは笑った。
「大丈夫だ。通り抜けるから。怖かったら目をつぶるといい」
「ええーっ!?」と叫びながら、里菜はぎゅっと目をつぶって、反射的に首をすくめて身を固くしたが、何の衝撃もなく、すぐに球体がふわりと静止する感覚があった。
「さあ、もういいよ」
 アルファードの声に目を開けると、そこはもう、以前に一度入ったことのある、ユーリオンの簡素な執務室の中だった。その、真ん中に、ふたりを包んだ球体はゆらゆらと浮んでいる。
 正面の机の向こうに、ユーリオンが座っていた。どうやら、ふたりの姿は、まだ見えていないらしい。
 ユーリオンは、古びた巻物や分厚い書物を机いっぱいにごちゃごちゃと広げ、何やら書類を前にしてペンを手にしてはいるが、どうも、ただそうして座っているだけで、全く仕事が手についていないらしい。溜息をついて端正な顔を上げ、落ちつかなげに髪をかきむしってはなんとか目の前の書類に目を戻そうとするものの、どうにも身が入らないといった風で、手にしたペンを意味もなく神経質そうに振ったり、机にかちかちと打ちつけたりしている様は、まるで一問も解けないテスト用紙を前にした学生のようだ。
 そのやさしげな面差しが懐かしく、少し疲れてやつれたような、落ちつかない様子が気の毒で、里菜は思わず、彼に駆け寄って「いま帰りました」と声をかけたくなったが、姿の見えないものが突然声をかけたら驚かせてしまうだろうと思い直して、アルファードの顔を伺った。
 意外なことに、アルファードは、どう見ても悪戯っぽい微笑を浮べて里菜を見返した。それは、里菜が初めて見る、アルファードの、少年の顔だった。
 そういえば、不思議なことに、魔法の力を得て、かつて秘めていた鬱屈の気配から開放されたアルファードは、成長したというよりは、それまでよりむしろ若返ったように見えていた。思えばアルファードは、もともと、年のわりに妙に老成した若者だったのだ。その彼が、今、初めて、いたずらっ子の笑顔を里菜に見せている。どうやらアルファードは、最初からユーリオンを驚かしてやるつもりで、こういう現われ方を選んだらしい。
 里菜もつられて楽しくなり、アルファードに、共犯者の笑みを返した。
 アルファードは里菜に頷きかけると、ふいに結界を解いて、ユーリオンに声をかけた。
「リオン様。ただいま帰りました」
 ユーリオンの目がゆっくりと、こぼれるほどにまで見開かれ、それから口がぽかんと開いて、手にしたペンが、ぽろっと落ちた。



(── 第四章完結・第五章 に続く ──)

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掲載サイト:カノープス通信
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