長編連載ファンタジー
イルファーラン物語
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二(前)
「今、何かがこの上を通った」
タナティエル教団最高導師ギルデジードは、白く盲いた目で空を仰いで呟いた。
「……おそらくは、女神と、女神の魔法使いが」
そう言って、ギルデジードは頭を垂れ、胸に手を当てた。
かたわらに付き従っていた導師ゼルクィールは、あわてて空を見上げたが、何も見えなかった。
ギルデジードの、老齢のために視力をほとんど失った目は、時々、他のものたちには見えないものを見る。
最高導師ギルデジードが、今、何才なのか、彼の腹心であるゼルクィールも、正確には知らない。恐らくは本人にも分かっていないだろう。ただ、恐ろしく年を取っていることは間違いなく、すでにかなりの高齢であるゼルクィールがまだ血気盛んな青年だったころ、ギルデジードはやはり今と同じような老人だった。妖精の血を色濃く引く、黒い肌のこの老人は、恐らくこの国で一番の年寄りに違いない。
あまりの老齢のために、彼はもう歩くことが出来ず、普段は、シルドーリンの坑道跡の礼拝所にある自分の部屋から出ることはない。外に出る時は、若い信徒に担がせた輿にのるのだ。身体は枯れ木のようにやせ細り、くしゃくしゃにしぼんだ黒い肌は干物のように干からび、その目は盲い、声は掠れて、か細く、耳もやや遠いが、若き日のゼルクィールを心服させたその強靭な精神は、いまだ衰えることがない。その手首には、皺に隠れて、古い古い<刻印>がある。
「生命の女王が、空をお通りに……」
ゼルクィールは呟いて、ギルデジードと同じように頭を垂れた。その胸の中に、不思議な感慨が沸き起る。
――では、やはり、待ち望んだ時が至ったのだ。けれどもたぶん、自分たちが思っていたのとはまったく違う形で。
彼が聖地シルドーリンで信仰のうちに過ごした長い年月が胸に蘇る。かつて、教団がまだ小さかったころの、静かで敬虔な瞑想と祈りの日々、素朴で満ちたりた清貧の暮らし。魔物の跳梁に伴う信徒の急増、組織の急激な膨張に対応しきれないまま統率力を失っていった苦悩の日々、新しい信徒たちの無軌道な活動、前途有望な若き導師だったアムリードの離反、ヴェズワルとの確執……。
そして、何よりも、幼い<死の愛し娘>、キャテルニーカのこと。
キャテルニーカは、今朝もひっそりと、この広場にやってきて、彼らと短い会話を交わし、すぐに自分の居場所に戻っていった。彼女はもう、教団には帰ってこないだろう。
それでいいと、ゼルクィールは思う。普通の少女として普通に学校に通い、仕事をし、恋をし、愛する人と結ばれる――。彼女には、それができる。これまでの<癒し手>たちにはできなかったことが。
キャテルニーカそっくりに美しかった先代の<御使い様>のことを思い出すと、今でも心が痛む。
彼女は、やはりキャテルニーカという名前だった。歴代の<御使い>たちは、妖精の女王の直系であり、妖精の王位継承の伝統にしたがって、代々、古代の言葉で『癒すもの』を意味するキャテルニーカを名乗ってきた。女王の娘は、幼い時は個別の幼名で呼ばれるが、女王の位を受け継ぐと同時に、その名も受け継ぐのである。だから妖精の女王たちは、古い詩に『永遠なるキャテルニーカ』と謳われるのだ。
気の遠くなるほどの昔から、妖精族の最後の生き残りたちは、シルドーリンの丘の下にひっそりと隠れて生き続けてきた。それを、ある時、後にタナティエル教団の始祖となる世捨人が発見した。その後、タナティエル教団はずっと彼らを庇護し、聖地の山奥深くに秘め隠して、その血統をひそかに守り続けてきたのだ。
<魂の癒しの力>を封印された妖精たちは、その頃にはすでに普通の人間より少しは長いという程度の寿命しか持たなくなっており、しかも、あいかわらず出生率は低く、血族結婚を繰り返していたため種族自体の生命力が衰えていた。それでも、タナティエル教団の始祖たちは、妖精の血統を絶やしてはいけないと考えた。なぜなら、やがてタナート神が復活した時に訪れる新しい神代の楽土において、彼らの中に眠る<魂の癒しの力>もまた復活し、傷ついた世界を癒すはずだったから。
先代のキャテルニーカが子を成せる年ごろになった時、妖精族は、すでに最後の二人となっていた。彼女と、その実の弟との。
妖精の純血を保つため、彼らは姉弟で契りを結び、子を成した。あの時は、彼女たち自身を含む誰もが、他に道はないと思っていたのだ。
その、妖精族の最後の子供が、今のキャテルニーカだ。彼女を産んだ後、彼女の父母は、ふたりそろって、自ら命を断った。彼らは、自らの犯した近親婚の罪に悩み、苦しみ抜いていた。彼らは自分たちの結婚を後悔し、もうひとり男の子を産んでしまうことで我が娘に同じ苦しみを与えてしまうことを恐れたのだ。
それはもう、十年以上も前のことだが、彼らの死を思うと、ゼルクィールは、今でも、深い罪の意識にさいなまれる。彼らの婚姻は強制されたものではなく、本人たちも納得した上でのものだったが、それも、ゼルクィールやギルデジードの説得に応じてのことだ。その結果がまさかあんなことになるとは誰も思っていなかったのだが、それでも、彼らをあのように追い込んでしまった責任の一端は自分にあるのだ。
今にしてみれば、彼らをあんなにも苦しめてまで妖精の血統を残す必要があったのだろうかと思うこともある。あのふたりはゼルクィールを本当の祖父のように慕ってくれていたし、彼もまた、ふたりを深く愛していた。本当は、彼らを苦しめたくなどなかった。
けれど、ふたりの苦しみは、無駄ではなかった。その苦しみのおかげで、今、妖精の最後の生き残りが、世界の再生に居合せることができる。<魂の癒しの力>が、ふたたび、この地上に解き放たれるのだ。
頭を垂れ、祈りながら、<賢人の塔>の前で、ゼルクィールは待った。
まもなく、生命の女王が、ここに現われる。今、頭上を通ったという彼女の姿を、自分は見られなかったが、ギルデジードが見たというのなら、彼女はもう、ここに帰ってきたのだ。
やがて、待ち受ける彼らの前に、生命の女王が姿を現わした。
黒い瞳のいとけない少女の姿をとった生命の女王は、広場に面した通用門から、<癒し手>キャテルニーカを伴って、ごく無造作に現われた。
それは、上質ではあるが簡素な青い服を着た、どこにでもいるような小柄な少女だったが、彼が以前に見た彼女とは、たしかにどこか違っていた。そして、彼女の後ろにひっそりと立つ小さなキャテルニーカも、今までの見慣れた彼女とは、やはり少し、違っていた。
キャテルニーカのどこが今までと違うのか、ゼルクィールには、はっきりとは分からなかったが、ギルデジードが、こう呟くのを聞いた。
「<御使い様>の額に、光が見える。封印が、解かれたのだ」
「おお……」
ゼルクィールは、涙が溢れそうになって、しばらく目を閉じた。
タナート神によって妖精たちに与えられた<魂の癒しの力>は、同じタナート神によって封印された。その封印を解けるのは、タナート神本人だけなのだ。封印が解けているということは、タナートの復活を意味する。
年若い生命の女王は、ギルデジードとゼルクィールの前に進み出た。
「ゼルクィールおじいさん、おひさしぶり。元気だった? 足はどう? それから、あなたがギルデジードさんって人ね?」
「さようでございます。我が女王よ……」
両隣の信徒に身体を支えられて深々と頭を垂れたギルデジードに合わせて、ゼルクィールも背後の信徒たちもいっせいに跪いて頭を垂れた。
「あのう……。お辞儀はいいから」と、年若い女王は困惑したように言って、ギルデジードを立たせようとしたが、彼が立てないのに気付くと、自らがその前に膝を折った。
ギルデジードは顔を上げ、見えない目で少女を見つめ、震える手を差し伸べた。彼の目が見えないことに気付いた少女は、その皺だらけの手を自分の手で包み込むように取って、頬に当ててやった。ギルデジードは、少女の顔をおずおずと手でなぞりながら、答えを聞くのを恐れるかのように、ためらいがちに尋ねた。
「……女王よ。では、黄泉の大君は、復活なすったのですね?」
少女はこくりと頷いた。
「ええ。タナートは、今、私の中に」
「おお……。女神と男神の婚姻は成った……」
ギルデジードの盲いた目から、涙が流れ落ちた。
「えっと、あのう……。おじいさん、泣かないで、ね……?」
困惑する少女に、しばらく返事も出来ずに啜り泣いていたギルデジードが、やがて弱々しく尋ねた。
「女王よ、私どもは、ずっとこの日を待ち焦がれておりました。もちろん私どもは、この日に何が起こるのか、具体的には存じませんでした。けれども、死者の王の復活と、王と女王との婚礼は、我々が解釈していたのとは全く違う形で実現したように思います。我々は、間違っていたのでしょうか。間違った夢を見ながら、無意味な年月を送っていたのでしょうか……」
「ううん、間違ってなんかいない。あなたたちは間違ってなんかいないわ。まあ、そりゃあ、ヴェズワルの人たちのしたこととか、たぶんあなたの目の届かないところで一部の人たちのしたこととかで、間違っていたことはいっぱいあったでしょうけど……。でも、だからと言って、あなたたちがこれまでの信じてきたことがすべて間違っていたとか、あなたたちのしてきたことが無意味だったとか、そういうことは絶対にないわ。あなたたちはあなたたちなりの、最良の道を選んできたんだと思う」
「ありがとうございます、女王よ……。信徒の犯した過ちの責任は、私にもございます。どうか彼らの過ちをお許し下さい。私どもはただ、安らかな生と死を、魂の平安を求めてきただけなのでございます。ですが、心の弱いものは、もっと具体的で分かり易い目先の利益や、目に見える約束のしるしを求めずにはいられないものです……」
「分かるわ」と、女王は頷いた。
「でも、もう、みんな、大丈夫よね。だって、他のたいていの人たちは、今日、何が起こったのかを本当には理解していなくても、あなたたちは、世界が新しく生まれ変ったことを知っているんだもの。少なくとも、それを知ることが出来たということで、あなたたちのこれまでは、無駄じゃなかったでしょう?」
「はい。道を外れた信徒らは私が責任を持って説得し、彼らの犯した様々の過ちも、時間をかけて、できるだけ償わせます」
「そうさせてちょうだい。それで、あなたたちのさらった妖精の血筋の女の子たちのうち、家に帰りたがる子はちゃんと家に送り届けてあげてちょうだいね。帰りたがらない子や、帰るところの無い子は、教団の中で、普通の子として、責任持って養育してね。もちろん、学校へも通わせてあげるのよ。卒業したら、本人が教団に残りたがればそれでもいいし、外で働きたければ出してやって、そのうち好きな人ができて結婚したいって言えばそうさせてやって、そういうふうに、普通の女の子として生きさせてあげて」
「間違いなく、仰せの通りに。女王よ、どうぞ我等を許し、我等の魂に平安をお与え下さい」
「魂の平安だったら、あたしが与えなくても、あなたたちは、これまでもずっと、自分でそれを選び取ってきたわ。そうでしょう? あなたたちのしてきたことは正しいのよ。これからもあなたたちは自分で自分の魂の平安を選び取ることができる。でも、その手助けだったら、あたしじゃなくてキャテルニーカが、してあげられるわ。ね、ニーカ」
それまで黙ってニコニコと女王の後ろに立っていた<癒し手>が、頷きながら進み出て、ギルデジードの額に黙って手をあてた。つづいてゼルクィールの額に。
ゼルクィールは、自らの魂が穏やかに癒されていくのを感じた。それは、乾いた喉に水が染み込むような感覚だった。
(これが、<魂の癒しの力>……)
目を閉じて、ゼルクィールは、清らかな甘露を味わうように、その奇跡を味わった。
夢と眠りと忘却を司るもの、夜と死と闇の愛し娘なるキャテルニーカは、<魂の癒しの力>を封印されていたこれまでも、彼らを始めとする信徒たちの心を慰め、癒してきた。
けれども、これまでの彼女の癒しの技は、ただ、黒い覆いをしたランプから微かに漏れ出てくる淡い光のような、封印された癒しの力のわずかな漏洩のようなもので、根本的で完全な癒しをもたらすものではなく、悲しみの記憶を心の奥に沈め、苦しみを眠らせる、眠りと忘却の技でしかなかった。彼女は確かに、ある程度、自分のものを含む、人の記憶を操作することができたのだ。
そして、これまで彼らは、彼女のその、忘却を司る力に助けられて、この苦しみの世に命を繋いできた。
けれど今、本物の癒しの力が、彼の魂を静かに潤していく。
「ギルデジード、ゼルクィール。あたしのお父さんたちのことで、もう、悩まなくていいのよ」と、幼い<癒し手>が静かに言った。
「あたしも、今はもう、思い出しても大丈夫だから」
ふたりは、キャテルニーカに向かって静かに深く頭を下げた。
<魂の癒しの力>を取り戻した<癒し手>キャテルニーカは、自らに施した自らの記憶の封印を解いたのだ。
妖精の女王が代々受け継いできたのは、キャテルニーカという名と、金の髪、黒い肌、緑の瞳のその美貌だけではなかった。彼女たちは、神代にまでさかのぼる歴代の女王の記憶を、れんめんと受け継いでいたのだ。
妖精の種族の運命は哀しく、神代の終焉以来のその記憶は苦痛と嘆きに満ちている。そして、それ以前の神代の幸福の記憶は、今の悲しみをさらに募らせる。長い苦難の記憶の集積は、自らを癒せぬ魂にとっては、重すぎ、辛すぎた。さらに、<癒し手>である彼女らは、他者を癒す時に、その癒す相手の苦しみ、痛みを、その都度自分のものとして味わってしまい、それらも決して忘れることがない。
そうした重荷から逃れるために、彼女たちは、自らの記憶を、忘却を司る自らの力で封印するしかなかったのだ。
男神が妖精たちの<魂の癒しの力>を封印したとき、この、忘却の力にまでは手を付けずに放置したのは、反逆したとはいえ元は自分の愛し子であった妖精たちに対する、男神の、狂気の中にも残されていた僅かな思いやりだったのかもしれない。
そして今、キャテルニーカは、妖精たちの長い苦しみの歴史を、そしてまた彼女が癒してきた人々の悲哀と絶望の深い堆積を、受け止め、乗り越える力を得たのだ。
「ギルデジード、ごめんね。あたしは、教団には戻らない。でも、あなたたちを見捨てるんじゃないのよ。あたし、これから、国中を回る旅に出るつもりなの。そうして、<刻印>を持つ人たちを癒して回るの。シルドーリンにも必ず行くから、待っていて。でも、とりあえず、今日、ここにいる人は、順番で癒しの技を受けていってね」
キャテルニーカはあどけなく微笑んで告げた。
(――そう、死者の王の復活は、たしかに自分たちの漠然とした解釈とはだいぶ違う形で実現したのかも知れないが、結局、待ち望んだ<世界の再生の日>は、訪れたのだ。……生と死が和解し、この世界は、<魂の癒しの力>を取り戻した)
<御使い様>の言葉を聞きながら、ゼルクィールはこう考えて、静かに微笑んだ。
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