長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語 

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 <第四章 荒野の幻影> 

(第三章までのあらすじはこちらから


五(前)
ご注意
この回には、精神的に痛い内容が含まれています。
年齢制限が必要とは思いませんが、特に苦手な方はご注意くださいm(__)m




 紺色の半ズボンをはいた少年が、家の二階に続く薄暗い階段を昇っていく。階段には木の手摺りがついていて、壁には、雪を頂く山並みを描いた風景画の額がかかっている。
 少年の着ている服には、見覚えがある。
(ああ、あれは俺だ……)と、どこかでその光景を遠く眺めて、アルファードは考える。それは、彼の通っていた私立の小学校の制服だったのだ。
 少年が昇っていく階段も、その手摺も、壁の絵画も、彼は、よく知っている。そして、あの時、北向きの踊り場の明かり採りの小窓からぼんやりと差し込んでいた、初冬の曇り日の淡い光の寂しい色も、彼は、はっきりと覚えている。
 これはきっと、彼が十才だったころの、ある日――彼の子供時代の最後の日の光景だ。
 その日、彼は、熱を出して学校を早退したのだ。
 彼は神経質な子供だった。特に病気というわけでもないのに、よく微熱や軽い腹痛を訴えて保健室に行った。それでも、学校を早引けすることはなかった。母親を心配させたくなかったのだ。保健室の世話になった日も、いつもの時間に家に帰り、体調を崩したことを母に伝えず、実際、過ぎてしまえばたいした不調でもなかったので、何食わぬ顔で夕方を過ごすのが常だった。
 母は、美しい女性だった。授業参観の時など、厚化粧をした同級生の母親が、みな、ただの『おばさん』に見える中で、彼の母は、実際は特別に若いわけではないのに際立って若々しく、派手に装っているわけではないのに女優のように華やかで、上品に見え、母の立っているところだけ、まるで周囲と空気が違っているように見えた。
 彼はそんな母を、ひそかに自慢に思っていた。そんな母に、何ひとつ心配をかけたくなかった。いつでも母の自慢の息子でいたかった。だから彼は、保健室の件を母に知られて、ひ弱な子供だと、がっかりされたくなかったのだ。
 成績も良く、スポ−ツも得意で、級友たちからの信頼も厚い彼は、教師たちから非常にしっかりした危なげのない優等生と見なされていたから、たまに保健室の世話になるくらいのことはさほど気にかけられもせず、そのおかげで、彼は、望みどおり、保健室の件を母に知られずに済んでいた。
 けれど、この日は、本当に風邪をひいてしまったらしく、彼は、保健医の指示で、しかたなく、昼過ぎに早退した。担任が家に電話したとき、母はいなかったが、彼は家の鍵を持っていた。母は専業主婦だったが、習い事や友達付き合いなどで何かと外出の多い人で、彼が学校から帰るころには家に戻るように努めてはいても、たまに帰りが遅れることもあった。だから、彼は、念のために鍵を持たされていたのだ。この日も、母は、午前中は出掛けるが彼が帰る時間には家にいると約束していた。彼はそのことを担任に話し、一人で帰る許可を得た。
 家に帰り着いたのは、午後もまだ早い時間だった。母はまだ帰っていないらしく、玄関には鍵が掛かっていた。みんながまだ勉強をしているこんな時間に学校から帰ってきたことで何とはなしに後ろめたい気分だった彼は、黙って静かに鍵を開け、母のいない薄暗く冷たいリビングやダイニングを覗きながらひっそりと廊下を通り抜けて、二階にある自分の個室に向かった。
 途中、踊り場で立ち止まって、壁の風景画を眺めたことを覚えている。
 それはたしか、父が昔、どこか外国の土産に買ってきたもので、立派な額に入ってはいるが一見して薄っぺらで安っぽい、ただ奇麗なだけのどうでもいいような観光客向けの絵だった。
 そんなふうに、その絵が決して芸術として深みのあるものでないのを子供心にも感じ取りながら、それでも彼は、その絵が好きだった。
 絵が好きだったというより、そこに描かれている景色が好きだったのだ。
 それは、雪を頂く山脈を遠景に緑の高原で羊たちが草を食んでいるという構図で、手垢のついた陳腐な牧歌趣味と言ってしまえばそれまでだったのだろうが、それにもかかわらず、その光景をじっと見ていると、彼は、自分が羊たちと一緒にそこにいるような、遠い昔にそれとよく似た場所を知っていたような、そんな気がしてきて、安らかなような懐かしいような、不思議な気持ちになるのだった。
 だから彼は、しばしば――特に、嫌なことがあった時や悲しい時など――、階段の途中で立ち止まって長いことその絵を眺め、自分がその中に住んでいるという空想にふけったりもしたし、そうでないときも、階段を上る時は、途中で絵の中の羊たちに挨拶がわりにちらりと目をやっていくのが半ば習慣になっていた。
 そして、その日も、そうやってしばらく絵を眺めてから、彼は二階に上がったのだ。
 彼の部屋は、二階のつき当たりだ。部屋に行く途中、母の寝室の前を通る。彼の父は開業医で、深夜や早朝に急に呼出しが入ることも多かったので、母は、父とは別の寝室を持っていた。
 その、母の寝室の前を通り掛った時、彼はドアの向こうで母の声を聞いたような気がして、首をかしげて立ち止まった。
「お母さん、いるの?」
 おずおずと声をかけて、ノックとともにドアを開けた彼が見たのは、眩しく白い、母の裸身だった。
 母は、美しかった。
 最初に彼を襲った感情は、激しい罪悪感だった。
 彼はその時、直感的に、自分が絶対に見てはならぬものを見てしまったと悟ったのだ。
 母の寝室にいたのは、母だけではなかった。母の白い裸身は、ベッドの上で、やはり裸の、見知らぬ男に組み敷かれていた。最初に母だけが見えたのは、男の浅黒い肌が、カ−テンを閉め切った部屋の、淫靡に淀んだ薄暗がりに溶け込んでいたからだ。その分よけいに、母の裸身は、部屋に漂う仄かな明かりを一身に集めて、まるで内側から発光しているかのように白く浮き上がって見えていた。
 一瞬、彼は、男が母を殺そうとしているのかと思った。窓から忍び込んだ暴漢が、母の首を絞めてでもいるのかと。
 が、奇妙な形に絡み合うふたりの姿態は、もっと残酷な事実を彼に告げた。彼はまだ子供だったが、その光景の意味するところがわからないほど無知ではなかった。
 母は、悲鳴を上げながら男を押しのけて飛び起き、毛布で我が身を隠そうとした。見知らぬ男は、あわてる気配もなく身体を起こし、唇を微かに歪めて、冷え冷えと沈んだ目でじっとこちらを見すえた。
 少年はドアの前に立ち尽くし、ただ、声も出せずに、口をぱくぱくさせた。
 裸身にガウンをはおってベッドから降りてきた母が、足早に歩み寄ってきて、いきなり、彼の頬を打った。
 彼は、訳もわからず、
「ごめんなさい、ごめんなさい!」と叫びながら、よろめいて、一歩、後退った。
 後でよく考えてみれば、彼は何ひとつ悪いことはしていないのだが、ただ、その時、彼は、母の裸身を見た時に理由もわからずとっさに覚えた罪悪感と、これまで見たこともない母のすさまじい形相に、自分は何かとりかえしのつかない罪を犯したのだと感じたのだ。
 これまで、どんなにきつく彼を叱る時にもあくまで上品だった母が、狂ったように腕を振りまわしながら、憎しみの目で彼を見て、金切り声で叫んだ。
「イヤな子! お前はいつもいつも、わたしの邪魔ばかりする! どうしてそんなにイヤな子なの!」
 狂乱する母の後ろで、男が、平然と下着を身につけて立ち上がった。
 彼は、どうしてよいかわからずに、くるりと向きを変えて自分の部屋に向かって逃げようとした。
 その肩を、後ろから大股で歩み寄った男が掴み、彼を乱暴に振り向かせた。
 半裸のその男は、背が高く、逞しく、少年の彼には、巨人のように大きく恐ろしく見えた。
「ぼうず。今見たことを誰にも話すな。父親に話しでもしたら、殺すぞ」
 男は低く言いながら、すくみ上った少年を脅すように、その首を両手で絞めあげた。
「あ……あ……」と、恐怖と苦痛にかすれた声を上げながら、少年は、助けを求めて母親のほうに視線をさまよわせた。たぶん、実際はそれほど強く絞められたわけではなかったのだろうが、恐怖が喉を塞いで息が詰まり、自分は本当に殺されるのではないかと思ったのだ。
 が、母親は、ほとんどその光景が目にも入っていない様子で、ただ、乱れた髪が顔にかかるのを払いもせずにヒステリックに喚き続けていた。
「お前はいつだって、わたしを縛りつける。束縛しようとする! お前さえいなければ、わたしはもっと自由でいられたのに。お前は、お前の父親とそっくりよ! いつもわたしを抑えつけ、ここに閉じ込めようとする、あの人に! ……あの人は、本当は一度だってわたしを愛してくれたことがない。わたしのことを自分の持ち物くらいにしか思っていない。人に見せびらかせる上等の置き物みたいにしか思っていない。わたしが何を考え、何を感じているかなんて、考えてみたこともない! ……でも、この人は違う。わたしを、ひとりの人間として、愛し、理解してくれるのよ!」
 もはや息子に向かってではなく、かといって愛人に向かってでもなく、誰にともなくうわごとのように言い放った母は、視線を宙にさまよわせて、ひとり、勝ち誇った笑い声を立てた。
 母の目には、あきらかに、もう、目の前の現実は映っていなかった。自分一人だけの、ありえない夢を宙に描いて現実を拒否し、夢の中に逃げ込んでしまった――そんな、虚ろな、遠い目だった。
 男は少年の首から手を離し、彼を乱暴に突き飛ばした。少年は、よろめいて背後の壁に倒れ込み、そのまま壁にもたれかかって、目に涙を浮かべてせき込みながら、込み上げる吐き気に耐えた。
 男は、端正と言ってもいいその顔にうっすらと冷たい笑みを浮かべながら、ベッドの傍らに戻り、脱ぎ捨ててあった衣服を悠然と身に着け始めた。
 その時、彼は、激しい衝撃と恐怖を覚えていたにもかかわらず、なぜだか心の一部が妙に冷静に澄み渡るのを感じ、母の見苦しい取り乱しようと、どこか投げ遣りな荒んだ気配を纏って悠々と身支度を整えている男を見比べて、不思議と醒めた気持ちで、こう考えていた。
(それは違う。お母さんの言っていることは間違いだ。たとえお父さんがお母さんの言うとおりの人だったとしても、お母さんがこれまでずっと本当は幸せでなかったにしても、この男の人は決してお母さんの思っているような人じゃない。この人は絶対、お母さんを今より幸せにはしない!)
 自分の夢でできたガラスの塔に囚われてしまった母の目は、息子である自分をもう見ていないだけでなく、目の前にいる愛人さえ、本当には見ていないのだ。
 母の愛人は、本当は、ここにいるこの男ではなく、母と一緒に彼女の夢のガラスの塔に住んでいる、夢の中の男なのだ。そいつは、この男と同じ顔を持っているが、この男ではない。どこにもいない、夢の中の男――母の夢の中に住む母自身の分身であり、母の自己愛が男の姿をとっただけの、男の姿をした夢なのだ。
 だから、現実のこの男がどんな酷いことをしようと、母はそれを、見ようとしないだろう。もはやどんな現実も、脆いが硬いガラスで出来ているような彼女の夢の砦に干渉することはできない。母は、もう、夢のプリズムを通してしか、世界を見られないのだ。自分の夢の世界にあって欲しくない出来事はすべて排斥し、何も気付かないふりで事実を抹殺し、自分だけの夢を見続けようとするだろう。
 そして、ついにそれすら出来なくなった時――母の夢と現実とが、あまりに大きい齟齬《そご》を来した時、母の心の、儚いガラスの塔は砕け散り、きっと、破滅が訪れる。徹底的で残酷な、とりかえしのつかない最終の破局が――。
 そんなことになったら、脆くて弱い母の心は、今度こそ完全に壊れてしまうだろう。
 直感的に、彼は、母の破滅を予見した。
 きっと彼は、その時、哀れむような、悲しむような目をしたのだろう。
 少年の澄んだまなざしに、母はよけい逆上して、髪を振り乱して鋭く叫んだ。
「その目! お前のその目は、なによ? なんでお前は、そんな目をするのよ。子供のくせに、そんな、何もかもわかってるみたいな目をして! 何とか言いなさいよ! また、そんなふうに黙りこくって……。なぜ黙ってるの! お前は昔から、そうやって黙ってばかりで、何を考えているのかわからない子だったわ。しかも、お前は、どんどん父親に似て来る。……わたしをそんな目で見ないでちょうだい! わたしは、お前の父親がわたしを愛したことがないのと同じように、一度だってあの人を愛したことはない。あの人にそっくりなお前も、一度だって愛したことはない。産んでこのかた、お前をかわいいと思ったことなんか、一度もないわ! お前さえ、お前さえ、生まれてこなければ……。何で、何で、お前なんか産んだのかしら!」
 そう言ってワッと泣き出した母に、いつのまにか一分の隙もなく着衣を整え終った男が歩み寄った。
 男は、嗚咽する母の肩を抱き抱えながら、少年に向かって唇だけで冷たく微笑みかけ、鈍いが分厚い危険な刃物を思わせる低い声で、念を押すようにゆっくりと言った。
「出ていけ、ぼうず。いいか、ここで見たことを、誰にも言うな。もし、人に話したら、すぐに俺が、お前を殺しに行くぞ。どこに逃げても無駄だ」
 少年はふたたび、男が今この場ででも自分を絞め殺すのではないかという激しい恐怖に襲われて、もつれる足で自分の部屋に逃げ込んだ。


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掲載サイト:カノープス通信
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