長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語 

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 <第四章 荒野の幻影> 

(第三章までのあらすじはこちらから


五(後)
ご注意
この回には、精神的に痛い内容が含まれています。
年齢制限が必要とは思いませんが、特に苦手な方はご注意くださいm(__)m



 夢中で部屋のドアを閉め、自分のベッドの上に身を投げた時、それまで恐怖のあまり麻痺していた彼の感情が初めて動きだし、どっと涙が溢れ出した。
 声を殺し、シーツを掴んで、彼は泣いた。
 彼は、自分の、少年時代の幸福が去ったのを知った。これまで自分が信じていたすべてのものが否定されたのを知った。世界が、彼の思っていたようなものではなかったことを知った。
――『お前の父親も、父親にそっくりなお前も、一度も愛したことはない』――
――『お前をかわいいと思ったことなんか一度もない』――
――『お前さえ生まれてこなければ……』――
 追い詰められ、取り乱した母の言葉が、繰り返し脳裏に響く。
 彼の両親は、とりたてて不仲というわけではなかった。少なくとも、彼はこれまで、両親が愛しあっていることを疑ったことがない。いや、そんなことは、特にあらためて考えてみたこともなかった。彼は両親が喧嘩をするところを見たことがなかったし、父はいつでも母を大切にしているように見えた。親しい友人を自宅に招いた時など、父は、子供にもわかるほど露骨に自慢そうに、美しい妻を見せびらかしていたものだ。
 一人息子の彼は、非常に厳格にしつけられはしたが、また、非常に大切にもされていた――はずだった。少なくとも、望めばどんな高価なものでも惜し気なく与えられたし、望むと望まないとに関わらず、すべてにおいて上質のものを与えられ続けてきた。
 彼は幸せだった――はずだった。まわりの大人たちも、たぶん、彼の両親をすべてに恵まれた仲のよい夫婦だと信じ、彼らを絵に描いたような幸福な家族と見なしていたに違いないし、彼もずっと、そう信じていたのだ。
 その、自分がこれまであたりまえのものとして信じてきた幸福が、愛が、すべて幻だった。自分のこれまでの短い人生の、すべてが嘘だった。自分は、愛されてなどいなかったのだ。
 母は、ほとんどいつでも彼に厳しかったが、それは彼の将来を思う愛情故の厳しさであったはずで、だから彼は、ずっと、常に母の期待に応えようとし、母に満足してもらえるような自分に少しでも近づくために、常にがんばり続けてきた。そして、その努力を辛いと思ったことは一度も無かった。努力の末には、母の笑顔があると信じていたから。信じようとしていたから。
 お前を叱るのは、お前に厳しくするのは、それがお前のためだからだと、お前を大切に思うからなのだと、母は、いつも、言っていた。……言っていたのに。
 裏切られた思いに、彼はただひとり、泣き続けた。世界が終ったような気がした。
 けれども心のどこかで、泣いていればそのうちに母が入ってきて、あの言葉はすべて取り乱して口走っただけの嘘で本心ではなかったのだと言ってくれないかと、微かに甘く期待していた。
 けれど、いつになっても母は彼の部屋に現われず、いつのまにか彼は泣きながら眠っていた。夕食も取らず、父がいつ帰ってきたのかも知らず、彼は眠り続けた。
 そしてそのまま、高熱を出して、数日間、熱に浮かされて昏い悪夢の中をさまよった。
 夢の中で、彼は、大きく恐ろしい、不気味な怪物に執拗に追い回されていた。まわりには、無表情な見知らぬ大人たちが審判のように立ち並び、助けてくれる様子もなく、ひそひそと非難の囁きを交わしながら咎めるような目で彼を見ているのだった。
 そんな中、頭を抱えて逃げ惑いながら、彼はひたすら呟き続けた。
――ごめんなさい、ごめんなさい、学校を早引けしてごめんなさい、お母さんの部屋のドアを開けてごめんなさい、邪魔をしてごめんなさい、いつもお母さんの邪魔になっててごめんなさい、お父さんに似ていてごめんなさい、ぼくが居ちゃって、ごめんなさい、生まれてきちゃって、ごめんなさい……。
 うなされ続ける彼を看病してくれてたのは、母ではなく、父が郷里から呼び寄せた祖母だった。数日後、熱が下がって彼が起きられるようになった時、すでに母の姿は家の中から消えていた。
 まだ朦朧としていた頭の中で、彼はぼんやりと、自分が何かひどい罪を犯した罰として母を失ったのだと感じていた。夢の中の無表情な審判たちが彼を指差して『罪人』と罵っていた、その言葉が、まだ消えずに頭の中に谺《こだま》していた。
 けれどもその罪が何であったか、正確には思い出せなかった。
 たぶん、風邪を引いて学校を早退したのがいけなかったのだと、彼は思った。早退なんかしたから、母が去ってしまった。きっと、自分がひ弱だったから、母に見捨てられたのだ。
 そう、父がいつも言っていたではないか、男の子は、強くなければならないと。強くあれ、勝《まさ》ってあれ、常に一番であれ、誰よりも秀でてあれと――、滝を昇る無数の鯉の中で一番強いただ一尾だけが龍になれるという、その龍のように、お前は、選ばれた勝者たれ、と。
 それなのに自分は、そうではなかったから、母に愛してもらえなかったのだ――。
 しばらくして頭がはっきりし、すべてを思い出した後も、自分が弱かったために母に捨てられたのだという、この時のこの思いは、どういうわけか胸の奥にこびりついて消えなかった。
 その後、母がどこへ行ったのか、彼は知らない。
 彼は自分の見たことを父に話さなかったし、父も彼に、母について何も言わなかった。
 ただ、それからずいぶんたったある日、突然、父は、昨日、母との離婚が正式に成ったと、母は二度と帰らないと、ぽつりと教えてくれた――。


 そして今、逞しい青年となったアルファードは、大きな身体を丸めてうずくまり、ドラゴンの邪悪な術の創り出す幻影の中で、ふたたび、あの日の夢の怪物たちに追い回されている。
 幻影の中の彼は、剣も持たず、幼な子のように無力だった。頭を抱え、背中を丸めて、なすすべもなく逃げ惑う彼を、無表情な黒い影たちがとり囲み、罪人よ、敗け犬よ、逃亡者よと、口々に罵りながら指差して、その惨めな姿を嘲り笑っていた。
『アルファード、母に棄てられた子供よ』
『アルファード、思い出すがいい。母がお前を棄てていった、あの日のことを。永遠に消えぬ、あの日の苦しみを。癒えることない、お前の傷跡を……』
『魔法も使えない、半人前の男! お前はできそこないだ。何の値打ちもない、劣った人間だ』
『そして、お前が魔法を使えないのは、お前が罪を犯したからだ』
『母がお前を棄てたのは、お前が弱くて愚かで罪深いからだ……』
(嘘だ! 嘘だ……)と、叫ぼうとしても声は出ず、アルファードはただ、哀れに逃げ惑い続けた。
 長い触手を持つもの、巨大な角を持つもの、ぎらぎら燃える一つ目を持つもの、おとぎ話の鬼や悪魔によく似たもの、人間に似ていながら奇妙に歪んだ姿を持つもの、獣めいたもの、蛇に似たもの、いびつな馬に似たもの、象のような奇怪な耳や鼻を持つもの、巨大な蟲や蝙蝠を思わせるもの、ぬらぬらして形の定まらぬもの、あるいは、ごく普通の人間の男や女の姿をしていながらなぜか途方もなく醜怪な裸形のもの――。様々の、醜悪な、あるいはどこか淫らな異形のものたちが、彼を追い回し、厭らしく笑いながら彼の目の前に飛び出しては、彼を脅やかす。
 笑いさざめく黒い影たちが、入れかわりたちかわり、彼に囁く。
『死んでおしまい……。そうすれば楽になるよ』
『いいや、殺しておしまい。お前をバカにする人間たちを、一人残らず殺しておしまい。そうすれば、お前は世界の王だ。お前に、そのための力をやるよ。そうだ、お前も、ドラゴンにおなり。そうすれば、世界を焼き滅ぼすのも、すべての人間を食い尽くすのも、お前から母を奪った男を殺すのも、お前を棄てた母を罰するのも、思いのままだ。……お前は、母が憎いのだろう? 罰してやりたいだろう?』
『いや、お前は本当はやさしい子だ。今でも母を愛しているのだろう? 許してやれるのだろう? お前が強くなれば、お前の母も帰ってきてくれるかも知れないよ。お前の前に跪き、悪かったと、許してくれと、愛していると言ってくれるだろう』
『いいや、お前の母は帰ってなど来ない。どんなに強くなったって、どうせ誰もお前を愛しはしない。この苦しみから逃れたければ、死ぬほかはないんだ。誰もお前を救ってくれやしない。誰もお前を助けには来ないよ。お前を産んだ母でさえお前を見捨てたのは、お前が生きている価値もない人間だからさ』
『お前なんか、生まれてこないほうがよかったんだ。お前が母を不幸にした。お前の存在が母を苦しめた。だから、母に憎まれた。母に棄てられた。そうだ、お前が悪いのだ。何もかも、お前の罪なのだ。お前がこの世に生まれてしまったこと、それこそが、お前の、決して償えぬ永遠の罪なのだよ』
『そうだ、お前は罪人だ。だから、お前のことなど、誰も愛さない。誰もお前など必要としない。お前の母でさえ、お前を棄てた。お前を愛さなかった。それは、お前が愛される値打ちもない人間だからだ! 教えてやろう。お前には、生きている権利なんか無いんだよ!』
(いやだ、いやだ、あっちへ行け……)
 恐さと気味悪さに幼児のようにすすり泣きながら、よろよろと悪夢の中をさまよい続ける傷ついたアルファードに、影たちが、合唱するように声を揃えて囁きはじめた。
『アルファード、死んでおしまい……。お前が、死ぬこともできぬほどの臆病ものなのなら、いっそ、殺してやろうか? 死ぬのは怖くないよ。眠るのと同じだ。母親が子守歌を歌うように、やさしく、やさしく、殺してあげよう……』
(そうだ、俺は罪深い人間なんだ。誰にも愛されない、愛される資格もない存在なんだ。生きている意味もない、無用な人間だ。いっそ、このまま、死んでしまおう……)
 いつしか逃げ回る力さえ失ったアルファードは、幻影の中でも、その実体がしているのと同じように、ただ頭を抱えてうずくまりながら、涙を流し続けていた。
 ――ねんねんころりよ おころりよ……――
 うずくまるアルファードの回りで、ドラゴンの九本の首が、彼の幼い日に母が歌ってくれた子守歌を歌い始めた。



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この作品の著作権は著者冬木洋子(メールはこちらから)に帰属しています。

掲載サイト:カノープス通信
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