長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語 

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 <第四章 荒野の幻影> 

(第三章までのあらすじはこちらから




 魔王は、輪郭のあいまいな影のような手を里菜の手首から離して、両腕で里菜の細い腰を抱き寄せ、くつくつと笑いながら屈み込むように里菜の顔を覗き込んだ。
 里菜は、茫然と魔王を見上げた。間近に見上げるフードの下に、さっき見た虚無の深淵が、ごうごうと渦巻いている。その肩の向こうに、ふたたび、細い三日月と、星をちりばめた宇宙が生れる。さっき魔王に切りつけていった時には戻ってきていたはずの重力も、今はまた消え失せて、里菜は、魔王の腕に抱かれながら、昏く眩い宇宙を漂っているような気がした。手足の力が抜け、頭の中も、靄がかかったように霞んでいく。
 両腕が自由になっても、里菜はもう、何の抵抗もできなかった。その目は、虚無を映してガラス玉のようにうつろに見開かれ、身動きはおろか、まばたきすらできない。里菜は表情を失ったまま、嵐のように身内に沸きおこる激しい陶酔に翻弄されていた。
『エレオドリーナ。この短剣は、気にいってくれていたようだな。肌身離さずここまで持ってきてくれたとは、嬉しいことだ。……これは昔、私がそなたに贈ったものなのだ』
 闇の眩さに陶然となって何もかも忘れかけていた里菜は、魔王の囁きに、はっとして自分を取り戻した。
 意識を闇に引き止めようとする陶酔を振り切って、里菜は叫んだ。
『嘘!』
 口は開かなかったが、魔王が語りかける時のように、里菜の叫びは、魔王に直接届いていたのだ。
『嘘よ。これはティーティに――村の、女神の司祭に貰ったのよ。女神の祠の御神体よ。それがなぜ、あなたからの贈物なの?』
『嘘ではない。これは、かつて私が、私の版図で産するシルドライトと黄金を、私の眷属であった妖精たちに細工させて、そなたに贈った品なのだ。遠い昔、私たちがまだ仲違いしておらなかったころにな……。その後、そなたはそれを人間の手に託した。きっとそなたは、私からの贈物など、身につけていたくなくなったのだろうよ。これがもともと私に属するものである証拠は、そのシルドライトの明滅だ。それは私や魔物を警戒して明滅するわけではなく、同じ力と呼びあい、再会を喜んで輝くのだよ。……美しい品だろう。これほど美しいものは、人間の手では産み出せないのだ。これは後でまた、あらためてそなたに献上するとしよう。婚礼の贈り物のひとつとしてな。エレオドリーナよ、そなたの望み通り、人間のしきたりに従って婚礼の儀式を執り行うべく、正式の祭壇をしつらえておいたぞ。そなたが祭られるべき祭壇の前で、そなたが婚礼を挙げるというのも、おかしなものだが、なかなか面白い……』
 そう言って笑いながら、魔王は、里菜の背後に回って肩を抱き、黒衣の腕を上げて正面を指し示した。
 すると、そこはもう宇宙ではなく、石壁に囲まれた部屋に戻っていて、里菜は、部屋の奥にしつらえられた祭壇を見ていた。さっき魔王に切りつけにいった時には気づかなかったが、たしかにそこには、暗がりにぼんやりと蛍光を放って、花にうずもれた水晶の祭壇があったのだ。祭壇を一面に覆う白と青の清楚な花々は、清らかな露を抱いて、今にもそよ風に揺れそうに、匂やかに、瑞々しく見えたが、よく見ると、それらは、どこもかしこも、サファイアやムーンストーンやエメラルド、ダイヤモンドやシルドライトで作られているのだった。
 魔王は里菜の後ろから屈み込むようにして肩を抱き、声なき声で囁いた。
『美しかろう。私たちの婚礼の祭壇だ。エレオドリーナ、愛しきものよ。共同統治者にして恋人、花嫁にして妹なるものよ……』
『……い……もうと……?』
『そうだ、我等は世界の始まりの時に、同じ父母から共に生れ出た、双子の兄妹だ』
『嘘……。あなたとあたしが兄妹だなんて……そんなこと、知らない!』
『嘘ではない。そして、そなたもそれを、本当は知っていたはずだ。そなたはただ、忘れておったのだろうよ』
『じゃあ、じゃあ、もしそれが本当だとしたら、そうしてあなたがそれを知っていたんなら、どうしてそんな、あたしと結婚しようなんて言うの? 妹なのに……』
『妹なのに、ではない。妹だから、なのだ……。そなたが妹だからこそ、私はそなたが欲しいのだよ。妹よ、懐かしい妹よ、そなたも本当は知っておろう。我等の母は――母なる混沌は、我等を産み出したことで死んだ。妹よ、我等が結び付くことでのみ、いま一度、母なる混沌を、この世界に呼び戻すことができる。失われた我等の母を、ふたりで、この世界に産み出し直そうではないか。そなたには、それができる』
『そ、そんなバカな……。自分のお母さんを自分で産めるわけないじゃない!』
 魔王は笑った。
『妹よ、そなたはすっかり人間になってしまったな……。人間の理屈を捨てよ。そなたが私を受け入れれば、我等はもう一度、母なる混沌の中で、母の胎内で、すべての苦しみを忘れて、永遠に溶けあい、安らぐことができるのだ。そなたは星ひとつ混沌に返すことにひどく抵抗を感じているようだが、そうすることで私たちは、永遠と完全を手にいれることができるのだぞ』
『でも、それじゃ、再生なんかじゃなくて、ただの、永遠の滅亡じゃない。この前、あなた、混沌の中から新しい世界が蘇るって……。あれも、嘘だったのね? 嘘つき……』
 そう詰りながらも、里菜は自分が、魔王の語る混沌の中の永遠に、強く惹かれていくのを感じていた。
『嘘などついておらん。混沌は時を持たない。時のない場所では、いくつもの真実が並行して存在する。そうでなくても、世界には、いくつもの相があるものだ。例えば、この城だ……』
 そう言いながら、魔王の影のような手が後ろから伸びて、里菜の両目を覆い隠した。
『見せてやろう。この城の別の姿を……』
 魔王の言葉とともに、里菜の閉ざされた眼に様々な光景が次々と映し出されはじめた。映像は、どうやら、里菜がここまで通ってきた道筋を、逆に辿っているらしい。
 が、それは、さっき里菜が見たものとは全く違う光景だった。城は、もう、どこも古びてはいなかった。廊下や階段は荘厳な薄明かりに満ち、重々しい壁の装飾布は真新しくきらびやかで、彫刻は生きているように鮮やかだった。まさに王の住いにふさわしい、絢爛豪華な王城が、そこにあった。
 映像はゆっくりと移り変わり、やがて廊下がとぎれ、不思議な薄明りに満たされた神秘的な庭園が映し出された。
 それは、無数の宝石の花が淡い光を湛えて一面に咲き乱れる、広大な地下庭園だった。
 サファイアの花びらとシルドライトの葉を持つ青い薔薇の茂みの上を、色とりどりの貴石で飾った透き通る翅を持つ蝶たちが、銀色の光の粉を撒き散らしながら舞っている。その花園の真ん中には、水晶を溶かしたような涼やかな小川が、ちらちらと蛍火を宿しながら流れている。
 庭園の周囲は壁に囲まれているらしいが、花園を取り巻く木立に隠されて、定かには見えない。その木々は、瑪瑙や蛍石で出来ているらしい優美な幹や枝に、透かし彫りのように繊細な金や銀の葉を茂らせていて、その枝から枝へと、光沢のある薄い金属の羽毛を持つ小鳥たちが、軽やかに飛び移っている。
 ドームのような天井は高く霞んで、真珠色にぼうっと照り輝いていた。庭園を満たす、月光にも似たやわらかな薄明かりは、地に敷き詰められた花々と、この天井との、両方から来るらしい。
 ときおり、木立の間に、透き通るように淡く輝く絹の服の裾や、蜘蛛の巣のように繊細なレースのリボンの端が翻るのが、ちらりと見えたような気もするし、少女たちの清らかな歌声や無邪気に笑いさざめく楽しげな声が、切れ切れに聞こえたような気もする。
 その美しい光景を、里菜はうっとりと見つめていた。
『そなたの庭園と侍女たちだ』と、魔王が囁いた。
『美しいだろう。そなたのために私が用意したのだよ。婚礼が済めば、この庭園のすべてがそなたのものになる。だが、今はこの庭園の、もうひとつの姿を見せてやろう』
 そのとたん、映像が変わった。そこはもはや、美しい人工庭園ではなく、ついさっき後にしてきた、ドラゴンの洞窟だった。
 さっき里菜を追いかけた赤ん坊ドラゴンたちが、バサバサと旋回しつつ洞窟の中を飛び回っている。その旋回の中心に、巨大な雌ドラゴンがうずくまっている。血塗れの九本の首が、それぞれうねうねとくねりながら、地面の上の何かを取り囲み、時々鼻先を近付けたり、また離れたりしている様子だった。
 里菜はアルファードの姿を探したが、見えなかった。もう、戦いは終ったのだろうか。ドラゴンが生きているということは、まさか、アルファードは負けたのだろうか。それとも、なんとかうまく逃げ出したのだろうか。
 不安にかられた里菜に、魔王が話しかけた。
『あれは、世界でただ一頭の雌ドラゴン――ドラゴンたちの女王だ。私の作品だよ』
『それじゃあ、やっぱり、あなたがドラゴンを飼って、操っていたのね!』
『操ってなどはいない。ドラゴンたちは、ただ、己の性質に従って行動しているだけだ。彼女らを創り出したのは私だが、彼女らはもはや、私の思惑を越えてしまっている。……ドラゴンは、エレオドリーナよ、この世界でただ一種、生命の女王たるそなたの手の触れていない生き物だ。そなたの力を借りずに生き物を創り出すのはなかなかに難しい事で、私は随分と試行錯誤を繰り返したものだが、私は、ぜひとも、この世で一番大きく強く美しい、完成された生き物を創ってみたかったのだ。無論、そなたも知っての通り、私一人の力では、まったくの無から生命を創り出すことは出来ぬ。私に出来たのは、そなたと共に創り出した何種類かの生き物を混ぜ合わせたり変化させたりして、別の形にすることだけだ。だから、彼らの性質のほとんどは、もともと、そなたの手の中から生まれ出た生命の中にあったものだ。だが、私はそれに、いくつかの、もっと優れた性質を付け加えることに成功した。その中でも特に、他の生物に類を見ない優れた性質、それは、永遠の寿命だ』
『嘘。生き物に永遠の寿命を与えるなんてことは、あたしにもあなたにも出来ないはずよ』
 それは、里菜の中の埋もれた記憶から浮び上がってきた知識――絶対的な約束だった。
『そう、確かに、出来なかった。だから私は、最初から永遠の寿命を与えようとしたのではなく、彼らの心臓に、それを食ったものを不死にする性質を与えてみた。そしてそれを食わせたのだ』
『……心臓を?』
『最初に創ったドラゴンは、雄雌の一つがいだった。雌ドラゴンは、一度の交尾で、一生、卵を生み続けることが出来る。交尾が済んだ後、私は雌ドラゴンに教えてやったのだ。役目を終えた雄を殺して、その心臓を食えば、お前は不死になれると。雌ドラゴンは、最初から雄ドラゴンより幾分大きく、知能も高かったから、私の言葉を理解し、その通りにした』
『ひどい……』
『ひどくなどなかろう。そなたと共に作り出した虫たちの多くも、同じように、次の世代を育むために共食いをする。そなたのひいきの人間たちなどは、食うためにでもないのにしょっちゅう互いに殺しあっているではないか。
 とにかくそれで、雌ドラゴンは永遠の生命を得た――はずだった。が、実際は、そううまくはいかなかった。雌ドラゴンは、雄ドラゴンの心臓を食ったことで、永遠の寿命だけではなく、私が意図した以上の知性と魔力とを獲得してしまったのだ。それによって、ドラゴンは、私の思惑を越えた独自の生態を持つようになった。
 ドラゴンの営巣にふさわしい土地は少ない。不死を得ると、雌ドラゴンは、成長して自分の巣を奪おうとするかも知れない雌ドラゴンは産まず、雄のドラゴンだけを産むことに決めた。ドラゴンの母親は、雄雌どちらでも好きなように産めるのだ。自分が不死であれば、雌は一匹で充分だ。こうして彼女は、女王になった。
 ところが、彼女が最初に産んだ雄ドラゴンたちは、世界でただ一頭の雌である彼女を取りあって兄弟で争い、結局、全滅してしまった。息子たちの死を悲しんだ彼女は、次からは、生殖能力のない雄だけを産むようになった。彼女は不死で、一生独りで卵を産み続けられるのだから、ドラゴンの種族には、もう、交尾の必要はなかったのだ。
 生殖能力のない雄は、今までそなたらが見てきたように小さく身軽で、ここから世界のあちこちに飛び散っていった。
 そこまでは、まあ、よかった。だが、私の誤算は、主に、雌ドラゴンの知能が高くなりすぎたことだ。そのために、彼女はやがて悲しみを覚え、孤独を知り、永遠の生命を持ちながら、生きることに倦んでしまったのだ。どうやら、永遠の生などというのは、知性のある生き物には耐え難いものなのだな。
 やがて彼女は、長い長い一生の後に、ついに自らの命を断つことに決め、その最後の産卵で、一頭の雌と、数頭の生殖能力を持つ雄の卵を産んで、死んでいった。新しい女王は、すでに本能となった知識に従って、戦いに勝ち残って夫となった雄の心臓を食い、今度は最初から生殖能力のない雄だけを産むようになった。こうして同じことが繰り返され、永遠に生きる生命を創り出すという私の望みは破れた。
 だが、それはもう、かまわない。ドラゴンはやはり私の最高傑作、この世界で最も完成された生き物だ。見よ、あの力強く美しい、機能的な姿、人間を越えた魔力と知性を宿した瞳……。実に魅力的な生き物だろう』
『でも、あたし、あんなのちっとも綺麗だと思わない。あれは、そう――なんだか、変よ。不自然な、邪悪な生き物よ。魔王、あなたは許されないことをしている』
『それは、まあ、価値観の相違というものだろうな』と、魔王は笑った。
『私は彼女を美しいと思うし、長年、いい友人として共生してきた。持て余すほどの長い時を生きるもの同士、つれづれを慰めあい、互いに利益をもたらしあってきたものだ。そら、今も彼女はこうして、私に気晴らしを提供してくれているのだよ』
 魔王がこう言った時、ちょうど、手前で揺れていた何本かの首が同時に退いて左右に分かれ、首の取り巻いていた地面の上のものが、はっきりと見えた。それは、逞しい身体を胎児のように丸めて地面にうずくまるアルファードの、痛々しい傷だらけの姿だった。
『どうだ、エレオドリーナ。お前の羊飼いだ』
 魔王が楽しげに囁いた。
 アルファ−ドの服は、あちこちが裂け、破けて、血染めのぼろ布のようになっていた。服を染める血潮の不吉な赤さと、服が破れてほとんど剥き出しになった素肌のあちこちに見える無残な傷に、里菜はぞっとして、聞こえるはずもないのに、狂おしく、声にならない叫びを上げた。
『アルファード! アルファード!』

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掲載サイト:カノープス通信
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