長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語 

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 <第四章 荒野の幻影> 

(第三章までのあらすじはこちらから


三(後)

ご注意
この回には、流血描写、及び精神的に痛い内容が含まれています。
年齢制限が必要とは思いませんが、特に苦手な方はご注意くださいm(__)m



 アルファードは、剣を杖代わりにして傷ついた身体を支え、ゆらりと立ち上がった。
 ドラゴンの九本の首が、それをじっと見守っている。
 アルファードは、すでに満身創痍だった。血と泥で汚れた服はあちこちが裂け、破れ、その下に何か所もの傷が痛々しく口を開けている。剣はぼろぼろに刃毀れして、血脂に塗れ、すでに刃物としての用をほとんどなさなくなっている。
 どれくらい戦っていただろうか。何本の首にダメージを与えただろうか。片目を潰されても、いったん退いた首は、目から血を流しながら、すぐにまた襲い掛ってくる。
 けれど、こうしてアルファードが転倒すると、首は、襲ってこないのだ。ざわざわと揺らめきながら身を引き、地べたに這いつくばって立ち上がろうともがくアルファードを、例の舐めるような眼差しで見物している。まるで、これは礼節を重んじる剣術の試合なのだとでも言うように、あるいは、猫が捕らえた獲物を繰り返し弄ぶ時にそうするように、ドラゴンは、アルファードが自力で立ち上がるまで、彼の動きを、じっと見守っているのだ。そうして何度でもアルファードを立たせては、その度に嬉々としてまた襲いかかり、彼が再びくずおれるまで、執拗にいたぶる。
 もしかすると、ドラゴンは、そうやって、アルファードが心身ともに疲れ果てるのを待っているのかもしれない。
 けれど、そう思ったからといって、アルファードに何ができるわけでもない。
 彼にできるのは、ただ、何度でも起き上がって戦い続けることだけだ。
 自分とドラゴンの血で全身をまだらに赤く染めたアルファードは、傷の痛みと極度の疲労、それにおそらくはドラゴンの毒のために、意識が半ば朦朧とし始めていた。それでも、力をふりしぼって立ち上がり、剣を構える。地面に倒れ伏している時は、もう立ち上がれないとさえ思ったはずなのに、長年の訓練の賜物で、剣を持ち上げると自動的に身体がついてきて、構えが決まる。そうすると、重心が定まって、ふらついていた足が再び地面を踏みしめる。
 そのアルファードを、ドラゴンの首の一本が、なおいたぶり楽しむように追い回し始める。
 首が、アルファードの正面を捕らえた。だが、その首は、牙や毒液の攻撃を覚悟して身構えたアルファードをじっと見据えて、生々しく赤い口を開き、どこか官能的な響きさえ帯びた、滑らかな女の声で呼びかけた。
「アルファード……、苦しいかい?」
 アルファードはふらつきそうになる足を必死に踏ん張って剣を構え、疲労のために半ば霞んだ目をキッと上げて、無言でドラゴンの目を睨み返した。
 ドラゴンの、赤く燃える邪悪な目がふっと細められ、嗤《わら》うように口の端が上がった。
 ――いや、嗤うように、ではない。まぎれもなく、それは、嗤っているのだった。最初にドラゴンが見せた嗤うような表情は、後になってみれば、おそらく横に大きく裂けた口を薄く開いたのが俯き加減の角度のせいでたまたま嗤ったように見えたのだろうと思い直すこともできたが、今度の表情は、その蛇のような顔の構造でどうやって作ることができるのか想像もつかないほどに、明らかに人間臭い冷笑だったのだ。
 だが、あるいはそれは、すでに意識の境界を越えかけていたアルファードの幻覚だったのかもしれない。
 アルファードは、血が滲むほど、ぎっと唇を噛み締めた。
 幻覚は消えなかった。ドラゴンが、嗤っている。
 それは、人の心に潜む醜い欲望を悪意を持って誇張した悪趣味な戯画にも似て、誰もが嫌悪のあまり目を背けたくなるような、途方もなく厭らしい表情だった。
 ドラゴンは、醜悪に嗤いながら告げた。
「アルファード。なぜ、戦う。私と和解しようではないか。今のお前は、私に勝てない。お前には、魔法の力がない。私はお前に、それを与えてやれる。私を受け入れれば、楽になれるのだ。今のその痛みも苦しみも、そしてお前の人生の苦悩も、すべて終るのだよ」
(嘘だ!)
 喉から出かかった言葉を押し止め、アルファードは無言でドラゴンの首に向かって跳躍し、片方の目を剣で貫いた。首は、人間の女の声で悲鳴を上げて、のたうちながら退いていった。アルファードは、常は静かなその瞳に憎悪の炎を燃やして、退いて行く首を追い、鱗の隙間に剣を刺し込もうしたが、横から別の首が伸ばされてアルファードの行く手を阻んだ。
 首はアルファードを見つめ、擦り寄るように近付きながら、低く笑った。
「アルファード。力をやろう」
 牙を剥き出した赤い口が囁いた。今度は、太く力強い、男の声だった。
 アルファードはドラゴンの言葉に耳を貸さず、首に打ちかかろうとしたが、首は嘲笑うかのようにくねくねと剣をかわして逃げ回り、そうしながらも、ある時は頭上から、ある時は横から、アルファードに話し掛け続けた。
「アルファード、お前は強い。だが、まだ私を倒せない。もっと強くなりたくないか。力が欲しくはないか。お前に、力をやろう。もっともっと、だれよりも強くしてやろう。肉体の力、魔法の力、何にも動じることなく傷つくこともない精神の力、すべて与えてやろう……」
 大きく開いてそう語り続ける口の中に、アルファードは無言で、伸ばした腕ごと剣を突き入れた。剣は、ドラゴンの舌先を切り裂いた。アルファードはすぐにひらりと飛びすさった。首は、上を向いて苦悶の叫びを上げると、口の端から血を振り溢しながら、アルファードの頭上で旋回するようにやみくもに暴れ回り始めた。
 けれど、同時に横から伸びてきた別の首が、何ごともなかったように、さっきまでと同じ声で話の続きを引きとっていた。
「力をやろう……。さっきの、あの娘――、あれを、永遠にお前に縛り付けておけるほどの……。お前は、あの娘が欲しいのだろう? いつまでも、自分のものにしておきたいだろう? 力づくで縛り付けておかねば、あの娘は逃げていくぞ」
 その首の後ろに、もう一本の首が伸びてきて、ざらざらと耳障りなかん高い女の声で、アルファードをあざ笑った。
「そうさ、何もかも、お前から逃げていくのさ。誰もお前を愛しはしない。きっとお前が弱いからだ。お前はくだらない、役立たずな男さ! この世に生きている価値もない!」
 毒薬のように注がれ続けるドラゴンの言葉に反応して、アルファードの中に、激しい憎悪が生まれようとしていた。
 これまで悲鳴さえ押し殺してずっと無言で戦い続けてきたアルファードの口から、我知らず、野獣のような低く荒々しい唸りが漏れた。それでもなんとか否定の言葉を叫び返したい衝動だけは抑えて、そのかわり一層激しく剣を唸らせ、ドラゴンに切りかかった。
 首は、冷静さを失いかけたアルファードの攻撃を避けて、退いては近付き、くねりまわりながら、ときおり静止して彼の目を覗き込み、語りかける。
「あの娘は、逃げていく。お前を裏切って、どこかへ去っていくだろう」
 その間にアルファードの背後に回り込んでいた別の首が、猫のように嬉しげに喉を鳴らして、くつくつと悪戯っぽく笑いながら、ビロードのような女の声で甘やかに囁きかけた。
「その前に、お前があの娘、食っておしまいよ。逃がしてしまう前に……。可愛らしい娘じゃないか。実にうまそうだ。お前だって、本当は、ずっと食いたかったんじゃないのかい? おお、あの娘の肉は、さぞや柔らかかろう。舌の上でとろける、極上の美味……。きっと骨まで、砂糖菓子のようにぽりぽりと食べられるよ。温かなその血は、この上なくかぐわしく、天上の花の蜜のようにも甘かろうよ……」
 そのおぞましい言葉とともに首の後ろにドラゴンの熱く腥《なまぐさ》い息を感じたアルファードは、怯えた獣のように振り向きざまに飛び上がり、背後の首に切りつけようとした。
 が、その時には首はもう、薄笑いを浮かべて退いていて、そのかわり、先程の、かん高く耳障りな女の声を持つ首が背後に忍びより、すぐ耳元で、けたたましい笑いとともに、金切り声で叫んでいた。
「お前が食わぬのなら、私におくれ!」
 では、ドラゴンの巣の回りに散乱していた骨は、やはり、人骨だったのだ――。
 一方で、先程の男の声の首――といっても、もう、どの首がどの声で話しているのかも、定かではないのだが――は、まだアルファードの前で揺れていて、アルファードが振り向いたとたんに、毒を吐きかけてきた。
 毒液はアルファードの右頬を掠めた。斜めに長く浅い傷が頬に走り、焼けただれた傷口から、じわりと血が滲み出す。
 苦痛に顔を歪めるアルファードを眺めながら、薄笑いを浮かべて、ドラゴンの首は囁いた。
「そうだ、食ってしまえ。殺してしまえ。あの娘が、お前を捨てて、どこかへ去って行く前に。どうせ、あの娘は、お前など、本当には愛しはしない。今までも、これからも、お前のことなど、決して愛さない。それは、お前が劣った人間だからだ。愛される資格もない罪人だからだ。そう、自分でもひそかに気付いているだろう通り、お前は罪人なのだ。知らないふりをしても無駄だ。お前がいくら忘れたふりをしていても、私には、お前の額に印された、永遠に消えない罪の烙印が見える。お前は、汚れた罪人だ」
(嘘だ、嘘だ! 俺には何のことかわからない!)
 そう叫び返す代わりに、アルファードは歯を食いしばり、喉の奥で激しく唸りながら、狂ったように剣を振り回した。その太刃筋に、いつもの明晰さは無い。自分の中のどこから沸いてくるのだろうと思うほどの底知れぬ暗い怒りに突き動かされて、アルファードは我を忘れかけた。これもきっとドラゴンの邪悪な術なのだと自分に言い聞かせる余裕も、もう無くなりかけていた。怒りと憎しみに支配された彼は、理性を失った手負いの獣のようなものになり果てようとしていた。
 そんなアルファードを落ち着き払って眺めながら、ドラゴンは、甘やかな女の声で楽しげに囁いた。
「そうさ、どうせお前は罪人だ。だったら、ついでに、あの娘、殺しておしまいよ。簡単なことだ。あの娘は、あんなにか弱く脆い。そうだ、首を締めてごらん。あの細い首を、決してどこへも逃げられないようにしっかりと、お前のその手で捕まえてごらん。きっと悲鳴を上げるだろう。仔兎のように怯えるだろう。だが、あの娘も、あらかじめ罰せられて当然じゃないか? どうせやがては、お前を裏切り、捨てていくのだから。あの娘の悲鳴は、きっと、甘美な音楽のようだろう。あの娘が恐怖に慄き震え、空気を求めて喘ぐ様は、さぞや楽しい見ものだろう。あの、小さくてやわらかい華奢な身体が、お前の腕の中で小鳥のようにもがき、引き攣り、やがて力を失ってぐったりと息絶えていくその感触は、さぞや心地よいことだろうよ。本当は、お前も、ずっと、その瞬間の至上の快楽を夢見てきたんだろう? そう、お前は、それほどまでに罪深い人間なのだよ!」
 別の首が、悪意を滴らせた耳障りな声で横合いから嘲笑する。
「それに、そうすることでしか、お前はあの娘を繋ぎ止められないよ。お前のような、役立たずな男には!」
 アルファードは、眩暈のするような怒りに囚われて、血走った目をかっと見開いた。
 自分の中で、自分の知らない葛藤が、嵐のように荒れ狂っている。爆発的に膨れ上がってゆくどす黒い怒りが、奔流となって彼を弄ぶ。
 憎かった。何もかもが、ただひたすら、わけもわからぬままに憎かった。
 これまで自分でも気づくことさえなく心の奥底に秘め続けてきた古く暗い怒りと悲しみと憎悪のすべてが、ドラゴンの囁きという毒薬を注がれて一気に沸騰し、溢れ出たかのようだった。
 空を仰いだアルファードの喉から、意味をなさない獣じみたおめきが迸った。
 喚きながら、アルファードは、ドラゴンに向かって一気に跳んだ。冷静さを欠いた無謀な攻撃は易々とかわされ、彼はたたらを踏んだ。が、すぐに向き直って、間合いをはかることもなく、いきなり別の首に切りつけた。
 もう、止まらなかった。身裡から際限なく沸き上がる暗い怒りと破壊への衝動だけが、彼を駆り立てていた。絶え間なく身を苛む無数の浅手の痛みが、いっそう彼を狂乱させ、煽り立てた。
 それはもはや、攻撃ではなく、戦いではなく、暴力ですらなく、ただの恐慌であり、錯乱であり、追いつめられて怯えた獣の絶望的な抵抗だった。獰猛に唸りながら暴れまわる手負いの獣のようなその姿は、普段の彼からはおよそ想像もつかないものだったが、彼は、もう、そんな自分に戸惑う余裕すら失っていた。
 見境いもなく剣を振り回し、力まかせにあたりの空気を薙ぎ払って荒れ狂いながら、いつしか彼は、これまで経験したことのない異様な昂ぶりに捕われていた。自分が何をしているのかも、もう、ほとんどわからなくなっていた。全身を駆けめぐる目も眩むような怒りと痛みは、今や、いっそ心地よくさえあった。このままこの理不尽な激情に呑まれて何もわからなくなってしまえばかえって楽かもしれないと、ぼんやりと思った。
 普段なら絶対にしないだろう隙だらけの動作で意味もなく高々と剣を振り上げ、アルファードは、喉も裂けよとばかりに咆哮した。野獣のように吼えながら、傷の痛みと血の臭いに酩酊を覚えた。
 痛みと昂ぶりで血の色に霞んだ脳裏に、奇妙な幻が浮かんだ。
 薄暗い岩窟の中で天を仰いで咆哮する己の肌におぞましく醜悪な鱗が生え、たちまちのうちに全身をびっしりと覆いつくしてゆく。同時に身体は膨れ上がって、巨大な異形のものへと変形してゆく。手足には醜く凶々しい危険な鈎爪が生え、鱗に覆われた背中がみしりと割れて、血に濡れた亀裂から、折りたたまれた皮翼が現れる。やがてばさりと打ち振られ、粘つく血糊を絡みつかせて高々と広げられる奇怪な皮翼の色は、汚れて黒ずんだ、鈍い銀。
 その、血塗られた欲望の穢れた翼が、自分を、どこかへ連れていこうとする。どこか、見知らぬ、昏い世界へ。錆びた刃物に似た血の臭いと腐肉のような硫黄の臭気がわだかまり、生ぬるい肉があたりを満たして誘うように蠢く、底知れぬ緋色の奈落へと――。
 絡みつく肉の中に溺れていきながら、ふと、口の中に、熱い生血の味を感じる。血は、もはや苦い涙と鉄錆びの味ではなく、とろりとした古い美酒のように甘いのだ。
 鋭い牙が柔らかい生肉に食い込む、その感触の、気の遠くなるような素晴らしさ。鈎爪が肉を引き裂く時の、荒々しく心揺さぶる、その昂揚。温かい血が、口腔を満たし、喉を流れ落ちてゆく。血の味と肉の感触は、強い酒のように彼を酔わせる。鈎爪で押え込んだ得体の知れぬ肉塊を噛み裂き、引き千切り、溢れ出るその生命を陶然と飲み下だしながら、彼は思う。そうか、殺すことは、こんなにも心地よいことだったのか。死とは、こんなにも、甘い、甘い味がするものなのか!
 鋭い愉悦が全身に広がり、彼は、忌まわしい鱗に覆われた銀の巨体をわななかせる。
 ああ、俺はこのままドラゴンになってしまうのだろうか――。
 それもいいかもしれない、と、心のどこかで思った。そうすれば、自分という存在は、この世からいなくなる。自分の精神は、怒りと狂気にすっかり塗り潰されて、いつのまにか消え失せ、もう、苦しむこともない――。
 一方で、あまりに激しく錯乱し酩酊する心についてゆけずに遊離した理性が、そんな自分をよそ事のように外から見ている。
 ――きっと、ドラゴンの毒のせいだ。傷口から身裡に入り込んだドラゴンの毒が、血潮に乗って身体中を駆けめぐり、精神を侵しているのだ。心臓に入り込んで心を狂わせ、悪い夢を見せ、ジレンの麻薬のように魂を腐らせているのだ――。
 いけない、と叫ぶ声なき声は、荒れ狂う心に届く前に、嵐の中のかすかな谺のように虚しく掻き消えた。
 ドラゴンが、わざとらしく哀れむように首を振って告げた。
「アルファード、哀れな捨て犬よ、迷子の子羊よ……。教えてやろう。お前も薄々気付いていただろう通り、この世のすべてのものは、お前を裏切るのだよ。お前から、去って行くのだよ。その証拠に、あの娘でさえ、すでに去って行ったではないか。いや、否定しても無駄だ。現に、あの娘は、お前がこんなに傷つき苦しんでいる今、ここにいない。だいたい、本当は、もう、とっくの昔から、あの娘の心は、ずっとお前を裏切っていたのだ。あの娘は、あの従順そうな無垢そのものの顔つきの下で無能なお前を密かに蔑み、嘲笑いながら、強く美しい魔王に心を奪われていたのだ。お前も、そのことに、本当は気付いていたのだろう? ただ、それを認めたくなくて、気付かないふりをしてきたのだろう?」
 ドラゴンの毒々しい長広舌を聞きながら、アルファードの動きが、しだいに鈍くなってきた。徒《いたずら》に暴れ回って無駄な体力を消耗し、極限を越えた疲労に朦朧となった彼は、いつしか、剣を無防備にだらりと下げ、肩で息をしながら、ふらふらと立ち尽くしていた。
 もう、攻撃する力は残っていなかった。涜らわしい言葉を聞かぬよう耳を塞ぐために腕を持ち上げる力すらなく、荒い息の下から切れ切れに低い唸りを漏らすことだけがドラゴンの不当な言葉に対して今の彼に出来る精一杯の抵抗だった。憔悴した顔の中で、ただ、影に沈んだ双眸だけがぎらぎらと燃え上がって、憎悪の炎を一時も絶やさずにドラゴンを睨みつけていた。
 ドラゴンは、そんな視線をむしろ愉しむように、薄笑いを浮かべて得々と話し続けた。
「アルファード、下等な偽善者よ。お前は、覚えていないか? 私は、お前に、何度も忠告したのだよ。お前の夢の中に、ひそかに忠告を吹き込んでやったのだよ。早くあの娘を食ってしまえ、殺してしまえ、あの白い喉笛を噛み切ってしまえと。
 それなのに、お前は臆病すぎて、私の忠告に耳を傾ける勇気さえ持てずに現実から目をそらし、自分を謀り続けてきた。その、偽善と欺瞞と臆病の、結果が、これだ。
 弱さは罪だ。臆病は罪だ。だからお前は、その罪に対して、罰を受けた。あの娘を失うという罰を受けた。お前がさっさと食ってしまっておかなかったから、あの娘は、今、とうとう、こんなにも苦しんでいるお前を見捨てて、魔王のところへ行ってしまったのだ。今ごろは、もう、魔王の腕に抱かれて、お前を忘れておろうよ。お前がずっとひそかに怖れていた通り、あの娘は、やはりお前を裏切ったのだ。無様で薄汚い役立たずのお前などより、美しく力ある魔王を選んだのだ。
 が、あの娘を責めるわけにはいくまい。お前はそんなにも愚かで弱く劣っているのだから、見限られて当然だ。誰だって同じようにするだろう。お前を、見捨てるだろう」
 ドラゴンは、ここでにんまりと目を細めてアルファードの顔を覗きこみながら、満を持した最後の手札とばかりに、ひときわ毒々しく告げた。
「そう、かつて、お前の母親が、お前を棄てて見知らぬ男のもとに去ったように……」
 この、思いもよらない言葉に、アルファードの中で、ついに最後の自制が崩れた。
「……何っ!?」
 気がつくとアルファードは、ついにドラゴンに向かって言葉を発していた。その瞬間、あらゆる記憶が映像となって、津波のようにアルファードに襲い掛った。

 里菜は、果てしない無の深淵を、陶然と見つめていた。
 闇は輝く程に深く、すべての光を内包していた。 里菜は、吸い寄せられるように扉の向こうに足を踏み出した。
 気がつくと里菜は、床も天上も壁もない一面の空間に浮かんでいた。見えない虚無の黒い指が里菜を絡め取り、目の眩むような光と闇の渦と、ごうごうと耳を聾《ろう》せんばかりの静けさが里菜を押し包む。
 海の上に仰向けに浮かぶ時のように、か細い四肢を無防備に宙に投げ出し、全身を闇に預けて、里菜は、時のない闇の海をゆるやかに漂っていた。右も左も、上も下もわからなかった。不思議な浮遊の中で永遠の虚無にその身を委ね、いつしか里菜は、自分が誰なのかも忘れかけていた。
 どこからか、聞き覚えのある声が、魂の奥深くに直接語りかけてきた。
『エレオドリーナよ。どうだ、この眺めは。美しかろう。そなたへの、贈り物だ。……完全とは、全き無。すべてが在って欠けているところがないことではなく、何もないから欠けることがありえないということなのだ。ここには、何もないからこそ、無限があり、完全がある。ここに永遠の美がある……』
  里菜は薄く目を開けて、あらゆる光を孕んだ完全なる闇を見渡し、うっとりと微笑んだ。穏やかに満ち足りた、幸せな気持ちだった。
 その時、闇の向こうに、細い三日月がふいに現われた。どこかから昇ってきたのではなく、何もなかった虚無の空間に、ふっと現われたのだ。
  とたんに、それまで『無』であり『闇』であった空間が、『夜』になり、夜空には幾千の星々が降るように瞬き始め、同時に、時が流れ始めた。
 里菜はもう宙を漂ってはいず、いつのまにか石の床に足をつけて呆然と立っていた。
  気がつくと、空低くかかる三日月と思ったものは、白く輝く細いやいば――見覚えのある大鎌の刃だった。
 大鎌は、丈高い黒衣の人影の背に負われていた。
 それを見たとたん、里菜は、それが誰で自分が誰か、何のためにここに来たのかを思い出した。
 周囲はもう、虚無の空間でも輝く夜空でもなくなって、四方を石壁に囲まれた、ほの暗く冷たくがらんとした部屋の中になっていた。
『エレオドリーナ。よく来た。待っていたぞ……』
 魔王が囁いた。
 里菜は、ずっと抜き身で握りしめていた短剣を無言で握り直した。
 さっきまで、それを持っていることも忘れていた短剣は、気がつくと、狂ったように、激しくせわしない明滅を繰り返していた。
 里菜は、まなじりをきっと上げて、まっすぐに魔王を見据えた。掌に汗が滲む。心臓が壊れそうに震えながら脈打つ。本当はこのまま背を向けて、逃げ帰りたい。
 けれどその時、里菜の脳裏に、ローイの、フェルドリーンの顔が、そして刻印を受けたり傷を負ったりした多くの子供たちのことがよみがえった。そのとたん、里菜の胸に、魔王に対する憎しみが閃光のように広がり、満ちあふれ、ただ一言の叫びとなって、喉を奔った。
「……魔王!」
 ぎこちなく短剣を構え、里菜は、何の勝算もなく、ただ真っ直に、魔王に向かって駆け出した。
 まるで、その、黒衣の胸に飛び込もうとするかのように。

 アルファードは、目の前のドラゴンの存在を忘れ、記憶の奔流に呑み込まれて翻弄されていた。顔を歪めて両手で頭を抱え込み、仁王立ちで身を反らせてはまた折り曲げ、激しく頭を振ってもがき苦しむアルファードを、ドラゴンの九本の首がゆらゆらと伸びてきて取り囲む。片目を潰された首、舌を裂かれて口から血を流している首、鱗の継ぎ目から血を流している首――。先ほどまでは痛みに悶えていた首も、今はまるで、既に死んで痛みも感じなくなった血塗れの戦士の亡霊たちででもあるかのように、もはや苦しむそぶりも見せずに、ただアルファードを取り囲み、揺れている。
 その、ゆらめく檻の真ん中で、アルファードは、ふいに、頭を抱えたまま喉をのけ反らせて天をふり仰ぐと、うつろな目を見開いて、絞り出すように絶叫した。
「……母さん!」
 次の瞬間、アルファードは糸が切れた操り人形のようにすとんとくずおれて地面に膝をつき、そのまま、その場に、頭を抱え身体を丸めてうずくまった。
 その頭上で、ドラゴンの九本の首が、なぶるように嘲るように、ざわざわと笑いさざめきながら、満足げにアルファードを見降ろしていた。

 長い時を経てやっと再び巡り合えた恋人の腕に飛び込もうとするかのように魔王の許へと駆け寄りながら、その短い間に、里菜は、魔王の周囲に、ふっと満足げな笑いの気配が漂うのを感じた。その笑みに不吉なものを感じて、里菜は一瞬、かすかに躊躇したが、もう、止まることはできなかった。魔王は逃げる様子も避《よ》ける様子もなく、すでに里菜の目の前に立ちはだかっていた。
 里菜は短剣を振り上げ、思わず堅く目を閉じて、全身で魔王にぶつかっていった。
 その、短剣を握ったか細い手首が、空中で捕らえられ、軽く捻り上げられた。短剣はあっけなく里菜の手を離れ、からん、と儚い音を立てて床に落ちた。
 魔王は、里菜の手首を片手でぐいと引きながら、もう一方の腕を華奢な腰に回し、まるでこれは舞踏会で今からダンスを始めるのだとでもいわんばかりの優雅な仕草で、里菜をやすやすと間近に引き寄せた。
 里菜は、声も出せずに抱き寄せられながら、恐怖に目を見開いて魔王を見上げた。深く引き下ろした黒いフードの下の闇と、背後の大鎌の冷たい輝きが、瞳に映った。
 その輝きに魅入られた里菜は、一切の抵抗の力を失って、人形のようにぐったりと魔王の腕に抱かれていた。
 大きな黒いマントが、里菜の小さな身体をふわりと包み込む。
 魔王が、満足げな笑みを含んで、勝ち誇ったように囁いた。
『エレオドリーナ、私の花嫁よ。ついに、そなたを手に入れた……』


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