長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語 

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 <第四章 荒野の幻影> 

(第三章までのあらすじはこちらから


三(中)



 里菜は、追ってくる赤ん坊ドラゴンたちを肩越しに振り返りながら、ころがるように通路の奥に走り込んだ。狩られる獣の本能的な恐怖だけが里菜を支配していた。アルファードを気遣う余裕も失い、里菜は、猟犬に追われる兎のように、必死で逃げた。
 さっき、舞い上がって襲いかかってきた彼らの、その金色の目の中にぎらつく忌まわしい欲望を見てしまった里菜は、金縛りにあったように動けなくなってしまったのだ。アルファードが叫び声で呪縛を破ってくれなければ、そのまま、抵抗も出来ずに襲われていたかもしれない。
 こんなにも幼いものが、こんなにも凶暴で攻撃的で貪欲な気配を纏っていることが、里菜は、理屈抜きで無性に恐ろしかった。
 それさえなければ、この小さなドラゴンたちは、不器用に首をかしげる仕草といい、親と比べて丸っぽい顔つきや大きな目といい、たぶん、どこかしら愛らしくさえ見えるはずだ。
 それだからこそ、里菜は、彼らが、成長したドラゴンよりも、ずっと怖かった。彼らは、生き物の持つ本能的な飢えそのものの生々しい化身のようだった。
 ドラゴンたちは、互いにぶつかりあいながら、狭い通路をひしめきあって突進し、ギャーギャーと耳障りな叫びを上げて、執拗に追いすがってくる。が、おそらくドラゴンの身体は、こんな赤ん坊でも地を走るより空を飛ぶほうが向いているのだろう、幸いなことに走るのがすごく早いというわけではないらしい。しかも、いかにも赤ん坊らしく不器用で、まだうまく制御できないらしい大きな翼を持て余して、時々もたついたり足をもつれさせたりしている上、兄弟同士でぶつかり合ったり小競り合ったりして互いの進路を邪魔し合っている。時に、群れを飛び出して突出してきた一頭の牙が里菜のスカートの裾を掠めたりすることはあっても、その一頭は次の瞬間には後続の兄弟たちに踏みつけられて転倒してしまったりするので、里菜は何とか逃げきっていた。
 が、それも、里菜の乏しい体力が続くうちだろう。
 里菜は、ドラゴンたちをまこうと、角という角を曲がり、ついには、それまでは避けていた細い枝道も通り抜けた。幸い、例の妙な『生き物』にはでくわさなかったが、枝道を抜けた時、里菜は、自分のいるところがまったくわからなくなっていた。が、背後にドラゴンたちが迫っていたので、自分が方角を見失ったことになど気づく余裕さえなく、そのまま、ただあてずっぽうに走りまわり続けた。
 それからまた何度も角を曲がり、いくつもの枝道を駆け抜けて、気がつくと、ドラゴンはもう追ってきていなかった。
 里菜は立ち止まって壁にもたれ、荒い息をつきながら、恐怖の涙が滲んだ目をこすった。
 忌まわしい凶暴さを湛えた赤ん坊ドラゴンたちの金色の目と、凶々しい真っ赤な口の中の、小さいくせにやけに鋭い牙を思い出すと、今更ながらに足が震えて、里菜はへなへなと床に座り込んだ。
 しばらくそうしていてから、自分が、一人で道に迷っていることに気がついた。自力では、アルファードのところへ戻れないだろう。アルファードは無事だろうか。もし彼が親ドラゴンを斃したとして、その後、彼は里菜を見つけてくれるだろうか――。
 里菜は、心細さに我が身を抱きしめて、啜り泣きはじめた。

 アルファードは、洞窟の中で、巨大な雌ドラゴンと向かい合っていた。
 里菜を追って飛び出していった幼い雄ドラゴンたちがそのまま戻って来ないのが気にかかるが、今は自分の戦いで手一杯だ。
 額を流れ、目に入る汗を、アルファードは素早く拭って、戦斧を握り直した。
 恐らく、ドラゴンを倒すにはやはり心臓を貫く必要があるのだろうが、九本の首が胴体を取り巻いている間は、胴体に近づけそうもない。首を一本一本片付けていくしかない。
 普通なら、ドラゴン退治をする時は、まず自警団の仲間が槍や弓矢でドラゴンの喉や目を狙い、棍棒や重さのある大剣で首や身体を叩いて相手を弱らせたところで、アルファードが剣でとどめを刺す。が、今は、気心の知れた自警団の仲間は、ここにはいない。また、喉や目を狙うには槍が、鱗の隙間を刺し貫くにはいつもの細身の剣が適しているのだが、一人で一度に操れる武器はどのみちひとつだ。まずはこの戦斧で、できるところまで戦っておこういうのが、彼の計画だ。
 アルファードの服は、あちこちが鮮血に赤く染まっていた。ドラゴンの返り血も浴びていたが、彼自身も、すでにいくつもの小さな傷を負っていたのだ。
 その一部はドラゴンの爪によるものだったし、一部はドラゴンの攻撃を避けて岩にぶつかったりした時のものだったが、傷の原因はそれだけではない。
 雌ドラゴンは、雄のように炎を吐かなかった。そのかわり、何かよく見えない液体のようなものを一直線に吐き出した。恐らく一種の毒であるらしいその液体に触れると、刃物で切られたようにすっぱりと肌が裂けた。その傷は浅く、切口はかすかに焼け焦げたようになって、あまり血は出なかったが、苦痛は激しかった。ドラゴンの毒液には何か神経を侵すような成分が含まれてでもいるのだろうか、それはまるで、血を流さない傷口の下に毒のある炎が潜り込んで皮膚の内側で肉をぶすぶすと焦がし、腐らせてゆくかのようで、傷を受けるたびに、肉体だけでなく魂までも切りさいなむような苦痛が全身を駆け巡るのだった。
 ドラゴンの九本の首がそれぞれにくねって、四方からアルファードに襲い掛る。その九本の首の先で、十八の赤い目が、毒を含んでアルファードを見据える。
 ドラゴンは、アルファードを情け容赦もなく攻撃しながら、その一方で、ときおり、愛おしむかのようにアルファードの名を呼んで、彼に話しかけてきた。
 それはもう、最初に聞いた時のような、ぎこちない機械的な発音ではなかった。今や、ドラゴンは、はっきりと、人間の声で、人間の言葉を操っていた。
 九つの首は、それぞれ違う声を持っていた。
 いや、同じ首でも、口を開くごとに違う声を出していたのかもしれない。
 その声は、あるいは女、あるいは男、あるいはそのどちらとも知れず、低いもの、高いもの、美しいもの、耳障りなもの、やわらかいもの、ざらついたものと様々で、入れ替わり立ち替わり、アルファードに語りかけてくるのだった。
 首の一つが、自分が吐きかけた毒液に当たって苦悶するアルファードの姿を楽しげに眺めながら、
「アルファード」と、まるで愛撫するかのように柔らかく、その名を呼んだ。
 それは美しい、低く滑らかな女の声だった。
「アルファード。待っていたよ。やっと来てくれたね……」
 そう言って、アルファードの顔を覗き込むように、やさしく、なまめかしくさえ見える動きで差し伸ばされた首が、突如真っ赤な口をかっと開いて、再び毒を吐きかける。
 アルファードは盾を掲げながら飛び退いたが、体勢を崩して、二、三歩よろめいた。
 そのアルファードに、背後から別の首が牙を剥いて襲い掛る。
 さっと振り向いたアルファードは、ドラゴンの眉間を正確に狙って戦斧を叩き込んだ。
「ぐァッ」と叫んで、首がのけ反り、のたうちながら退いていく。と、同時に、もう、別の首がアルファードの目の前に迫っている。
 アルファードは素早く飛び退き、ドラゴンの顎の下をかい潜って、低く下げられたその首の上から、力一杯振りかぶった戦斧を打ち下ろした。調達してきた戦斧はかなり大振りで刃も厚く、彼のいつもの剣と比べればずっと重量があったが、硬い鱗に覆われた首を一刀両断に断ち切るなどということは、さすがに不可能だった。相応のダメージは与えているようだが、いくら渾身の力を込めても首の骨を叩き折るところまではいかない。鱗の下の肉を押し潰す弾力を感じた後、戦斧は弾き返され、握った腕を痺れるような衝撃が駆け登る。
 すばやく体勢を立て直したアルファードは、再び戦斧を振り上げる。その背後に、別の首が襲いかかる。鋭い牙がアルファードの肩先を掠めて上衣を引きちぎり、その下の肌をも浅く切り裂く。ぱっと鮮血がしぶき散る。
 こうしてアルファードが、数本ずつ入れ替わり立ち替わりで襲ってくる首たちと、息を継ぐ間もなく立ち回り、汗を飛び散らせて戦い続ける間、残りの首たちは、それを眺めて面白がっているかのようにざわざわと笑いさざめき、何か甘やかなものを味わうように、繰り返し、口々に彼の名を唱え続ける。ひとつひとつの首が語りかける時には男の声のこともあるが、こうして背後でざわめいている声は、高低様々な女の声の重なりだ。
 しばらく別の首の戦いを見物した首は、ひとつの首が傷を負って引っ込んでくると、入れ替わりに、嬉しげに参戦してくる。戦いながら、人間の声と言葉で、時にいたぶるように、時に慈しむように、アルファードに呼びかける。
 最初は名前を呼ぶだけだったドラゴンの言葉は、次第に複雑な内容を語り始めた。
 アルファードはなるべくその言葉を耳に入れないよう、心の中で耳を塞いで、ひたすら戦い続けた。たぶんこれが、雌ドラゴンの邪悪な妖術なのだ。ドラゴンの言葉にうっかり耳を傾けたりしたら、それだけでも、気が散って戦えなくなるだろう。さらに、つい返事をしてしまったりしたら、きっと、彼女の術中にはまってしまうのだろう。何も聞いてはいけない、考えてはいけない。ただ、戦う機械と化したように、次々と目の前に現われる首と戦い続けるだけだ。
 まるで誘うように目の前に差し出されたドラゴンの首に向かって、アルファードは力一杯、戦斧を振り下ろした。
 と、その瞬間、戦斧を跳ね返すように、勢いよく首が振り上げられた。
 狙いを外れて首に浅く突き立った戦斧が、アルファードの手を離れ、首に刺さったまま空中に持ち去られた。
 ドラゴンは、苦痛に吼えながら激しく首を振った。その弾みで戦斧が抜けて弾き飛ばされ、頭上を飛んでいった。戦斧は、洞窟の奥の岩陰に落ちたらしい。が、拾いに行く余裕はない。
 アルファードは、剣を抜いた。

 しばらく床にしゃがみこんでいた里菜は、やがて、壁に手をついて力なく立ち上がり、ほの暗い通路を、あてもなくふらふらとさまよいだした。はぐれた時は動かないほうがいいとは思ったが、怖くて、じっとしていられなかったのだ。
 独りになってみると、この地下迷宮は、さっきまでより一層不気味なところに思えた。
 壁掛の一枚一枚の後ろに得体の知れぬものがひそんでいるような気がしてくる。アルファードと一緒だった時はただの飾り物にしか見えなかった彫刻たちまで、何か怪しげな仕掛けがありそうに、今にも動き出して自分に襲い掛ってきそうに見えてくる。
 里菜はもう、恐怖と疲労に思考が麻痺して、いつのまにか自分が階段を昇り始めていることにさえ、気がつかなかった。
 見えない糸に曳かれるように、里菜は、よろよろと壁に手をついて、長いらせん階段を昇っていった。

 アルファードは、襲い掛る首をひらりとかわしながら、黙々と剣を振るい続けた。
 彼も自覚しているとおり、剣はもともと、ドラゴン退治に適した武器ではない。しかも、彼の剣は、重装の騎兵が鎧の上から相手を叩いてダメージを与える目的で使っていたような重量のある大剣ではなく、かつて戦乱の時代に農民出身の軽装の歩兵たちに支給されることが多かった白兵戦用の剣の流れを汲む、切れ味重視の軽い剣である。そんな、生身の人間同士が斬りあうために使うような剣でドラゴンに立ち向かうなどというのは、歌物語やお芝居の中の英雄たちだけにできるはずのことだったのだ。
 それでも彼がこれまでドラゴン退治に使い慣れたこの剣を用い続けてきたのは、それが集団戦におけるとどめの一撃専用だったからである。仲間たちが他の武器で弱らせたドラゴンの胸元に飛び込んで、一瞬のチャンスを捉えた渾身の一突きで素早くとどめを刺すという、彼ならではの瞬間的な速攻戦法においてこそ、この剣の手ごろなサイズやきっさきの鋭さという特徴を生かすことができたのだ。
 だから、普段、この剣でドラゴンに何度も切りつけるなどということは、ないのである。うまくいけばただ一突き、失敗してもせいぜい数回だ。そうでなければ、彼とても、他の、もっと頑丈な武器を選んでいただろう。こんな華奢な剣でドラゴンの固い鱗にいくども切りつけるなど、正気の沙汰ではない。下手をすれば、途中で剣が折れる。そうなっては、そこで終わりだ。
 それでも、戦斧を失った今となっては、この愛用の剣一本が頼りだ。
 剣は、すでに何か所も刃毀れしている。もう、これ以上、鱗に切りつけて剣を損なうわけにはいかないだろう。あとは、目と口腔に狙いを定めるしかない。ならば、長槍を持たない以上、首をなるべく己の近くまで引きつける他はない。例え、毒液の攻撃に我が身を晒そうとも。
 アルファードは、盾を捨てた。動きが制限されすぎる。自警団でドラゴン退治をする時も、彼は、とどめを刺すのに打ちかかる時は、盾は持たなかった。身軽さのほうが大切だったのだ。もちろん、それは、他の団員たちがドラゴンを弱らせてくれたところでとどめだけ刺しにいくという戦法だからこそ出来ていたことだとわかっているが、それでも今は、いちかばちか、捨て身で勝ちに行くしかない。それで駄目なら、どっちみち敗れるだけだ。
 アルファードは、ただ独り、戦い続けた。


 長く暗いらせん階段を、里菜は昇り続けた。自分がどこにいるのか、半ば忘れかけていた。
 いつのまにか、下からの熱気は薄らいでいる。かわりに上のほうから、何か冷えびえとした気配が忍び寄り始めていた。
 ふいに里菜は、自分が長い階段を昇りつめたことを知った。
 目の前に、古びた木の扉があった。それは、特に大きくもなければ重々しくもなく、何の飾りもない、ごくありふれた質素な扉だった。
 すでにほとんどの思考を失っていた里菜は、まるで何でもない普通のことをするかのように、ためらうことなく取っ手に手をかけた。
 それは、長い旅行から帰って自分の家のドアを開ける時のような、あたりまえでありながらどこか違和感を伴う行為だったが、里菜がその違和感を感じ取った時には、すでに扉は、重さのないもののように、何の抵抗もなく、内側にすっと開いていた。
 開け放された扉の向こうには、何もなかった。いや、『無』が、『闇』が、あった。
 圧倒的な無と、まばゆいほどの闇が、里菜の前に、ただどこまでも果てしなく広がっていた。



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