長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語 

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 <第四章 荒野の幻影> 

(第三章までのあらすじはこちらから


三(前)



 暗い窓に、ろうそくの灯が映る。
 ゆらゆらと踊るその火影を、アルファードは、見るともなしに見やっていた。
 七年前の、ある冬の夜。窓の外は、雪だった。暖かな家の中では、病の床についてすでに久しかったレグル老の寝台の脇の小卓で、ろうそくが静かに燃え続け、ゆっくりと短くなって、まるで老人の命の残りを示すかのように、まもなく燃えつきようとしていた。
 いつもなら、夕べごとに灯される枕辺のろうそくが夜も深まって燃えつきるころ、病める老人は、ひっそりと、浅い眠りに就くのだった。
 が、その夜、老人はまだ起きていて、当時十五歳だったアルファードを、病床の枕辺に呼び寄せたのだ。
 アルファードにとって、レグル老は、ただ養い親であるばかりでなく、自分が誰かも知らずにこの世に放り込まれた彼の、厳しくも正しい人生の導き手であり、絶対的な崇敬を捧げてやまない剣の師匠でもあった。
 その老人の命がすでにいつ終わってもおかしくないと知っていたアルファードは、示されるままに傍らの椅子に腰を下ろし、老人の遺す言葉を一言も聞きもらすまいと、静かに姿勢を正した。
 神妙に言葉を待つ年若い養い子に、老人は告げた。
「アルファード、お前の中には、ドラゴンがいる……」
 唖然として言葉を失ったアルファードに、老人は、力なく震える手で銀の腕輪を差し出しながら、言葉を続けた。
「息子よ。これを、お前にやろう。ドラゴンが暴れ出さないお守り、魔除けの銀だ。時が来るまで、決して外してはならない」
 それが、レグル老の遺言になった。次の夜明けを待たずに、老人は死んだ。
 『時が来る』とはどういうことなのか、老人は教えてくれなかった。彼の予言の常として、たぶん自分でも知らなかったのだろう。
 それ以来、七年間、アルファードは、護符のように、その腕輪を身につけ続けてきた。後に腕が太くなってサイズが合わなくなった時も、わざわざプルメールの貴金属細工店に持っていって、元の形を損なわないようにうまく調整してもらったのだ。養い親の形見となったその腕輪をつけていれば、頑固で厳格だったが自分を愛してくれたあの老人が、今もどこかで自分を律し、導いてくれるような気がしていた。
 けれど、自分がその腕輪を外さないのは、本当は、おそらく、親の遺言は守るものだという常識的な義務感のせいでも、師匠の言葉は絶対であるという弟子としての忠誠のためでも、また、養い親の想い出と常に共にありたいという感傷のためでもなく、あの夜のあの言葉――、『お前の中にドラゴンがいる』と言った老人の言葉が、彼を呪縛しているからなのだと、心のどこかで、彼は知っている。今も、アルファードは、あの言葉を思い出す度に、いつのまにか指の関節が白くなるほどに拳に力を込めている自分に気付くのだ。
 <ドラゴン退治のアルファード>という無邪気な賞賛を込めた二つ名に、彼が人知れず淡い違和感――というより、苦痛といってもいいかもしれないもの――を感じ続けてきたのも、たぶん、そのためなのだろう。
 銀の腕輪が彼の腕を戒め続けてきたように、ドラゴンという言葉は、常に、彼の魂を戒め、呪縛してきた。ドラゴンという言葉、ドラゴンの存在、そして誰もが自分の名とドラゴンを結びつけて語り、自分が時にドラゴンに喩えられること――、それら、ドラゴンにまつわるすべての事がらは、ずっと、彼を心の底で脅かし、密かに責め苛んできた。ドラゴンは、彼の心に深く刺さった蕀だったのだ。
 その、ドラゴンと、今、彼は、真正面から対峙している。
 こめかみの血管が脈打ち、身体中を血が駆け巡るのを感じる。
 ドラゴンは、邪悪な知性を湛えて赤く燃え立つ目で、アルファードを――ひたすらアルファードひとりを――捕らえ続けている。
 ドラゴンは、もう一度、赤い口腔を開けて、その響きを味わい楽しむかのように、ゆっくりと彼の名を繰り返した。
「あるふぁーど……」
 さきほどの最初の一声は、まるで長いこと錆びついていた機械をしばらくぶりで動かしたように、一音ずつ、とぎれとぎれに押し出すように発せられたが、この、二度目の言葉は、やや滑らかで、ずっと人間の発音に近かった。
 ドラゴンは、アルファードにむかって、探るように首を伸ばしてくる。愛しいお前をもっとよく見せておくれ、とでも言いたげな、奇妙にやさしい仕草で。
 アルファードの肌が粟だった。怖かったのだ。ドラゴンが。
 その大きさや力、その攻撃によって負うであろう傷の痛みや、もしかするともたらされるかもしれない死などが怖かったのではない。アルファードは、そういうものは何ひとつ怖いと思ったことはなかった。危険に備えて心身の緊張を高めるだけで、感情的な恐れというものを感じたことはなかった。
 ただ、ドラゴンに人間の言葉で自分の名を呼ばれたこと、ドラゴンが自分を見て嗤ったように見えたこと、すぐに攻撃されるのではなく、こうして舐めるように眺め回されていること、ひとつの首がそうしている間もドラゴンの別の首たちは生まれ出ようとする幼い息子たちを優しく細やかに介助していること、その、畜生ながらも母親らしい仕草――、それらが、無性に恐ろしかった。
 半眼で自分を見つめるドラゴンの奇妙な眼差しが、ぽっかりと開いた口腔の淫らがましい赤さが、アルファードを慄かせた。
 身体の奥底から沸き上がる、根源的な、ほとんど生理的な恐怖が、彼を満たしてゆく。
 それはまるで、何もない虚空からいきなり生えて出た細く生白い不気味な腕が、あらゆる攻撃を跳ね返すはずの彼の分厚い胸板をあっけなく突き抜けて身体の内側にするりと入り込み、なよなよと嬉しげに心臓を愛撫し始めたかのような、あやふやで得体の知れぬ、落ち着かない感覚だった。
(ああ、俺は無力だ……)
 ずっしり重い盾と戦斧を軽々と構え、腕や肩に隆々たる筋肉を盛り上がらせながらも、アルファードは、不慣れな無力感に愕然としていた。
 どんな時にも自分を守ってくれると信じていた堅い鎧が内側からじわじわと溶かされてゆくような――、完璧に武装していたはずの自分が実は生まれたての赤子のように丸裸だったことに戦場の只中で突然気づいたような――、そんな心もとなさが、彼の心を蝕んでゆく。
 今、初めて、魂を揺るがす本当の恐怖を、彼は知った。
 彼はこれまで、自分の逞しい肉体が、堅固な鎧となって傷つきやすい魂を護ってくれることを、心のどこかで信じたがっていた。がむしゃらに身体を鍛え続けてきたのは、そのためだったのかもしれない。鋼の筋肉で一分の隙なく身を鎧うことで、自分の内側にある何か弱いものを守れると思い込んだのだ。が、それは錯覚にすぎなかった。堅い鎧は剣を跳ね返しはするが、魂に忍び込む恐怖から彼を守れはしないのだ。
(そうか)と、彼は思った。
(だから俺は、どんなに身体を鍛え、剣の技を磨いても、満足することがなかったのだ)と。
 今、背後で震えている、このちっぽけな少女と出会って、己の人生の中に足を踏み出す前。まるで鳥篭の中の鳥のように、狭いあの村に――そして村人たちが期待する<おさな子>の役割の中に――自分で自分を閉じ込めていた、あの頃。肩に、胸に、腕に、いくら分厚く筋肉を盛り上げても、まだ、足りなかった。まだ、不安だった。もっともっと強くならなければ、生きる資格がないような気がしていた。自分を認めてやれなかった。――それは、ここに、こいつがいたからだ。
 いつの日か、こうして、こいつと対峙する時が来るのを知っていたから。この戦いがあるのを、あらかじめ知っていたから。そして、その時には鍛え上げた筋肉も磨き抜いた剣技も本当には役に立たないのだと、心の底では分かっていたから――、だから彼は、ずっと、どこへも足を踏み出せなかった。自分の運命に立ち向かう勇気が、まだ、なかった。
(あの頃――あの村に居た頃、俺は、みんなからそう呼ばれていたとおり、本当に、一人では歩くこともできない『おさな子』だったのかもしれない)と、アルファードは、苦く思った。
 けれど、今、彼はついに、自分の恐怖の源に向き合い、自分の戦いを見出したのだ。
(そうだ、これこそが、俺が斃さねばならない相手だ。きっと、今まで俺が殺してきたドラゴンたちはみな、俺が斃すべき、ただ一頭のこのドラゴンの、影のようなものだったのだ……)
 そう思ってしまうと、急に視界がはっきりしたような気がして、なせだか心が少し静かになった。
 アルファードは剣と盾を構えて、ドラゴンを睨み返しながら、里菜を背中で押すようにじりじりと後退った。そうしながら、振り向きもせずに囁いた。
「リーナ。俺はこいつと戦う。君はそこの通路に逃げ込んで、少し行ったところで待っていてくれ」
「そんな、アルファード……! 一緒に逃げよ? 通路はもう、すぐ後ろよ。このまま振り向けば、ふたりとも逃げられるよ!」
「いや、無理だ。きっと、こいつは、背中を見せたとたん襲い掛ってくる。俺が食い止めているあいだに、君は逃げろ。約束だろう? ……リーナ。俺は、たった今、知った。俺はどうしても、あいつと戦わなくてはならないんだ」
「なら、あたしも一緒に戦う」
「いや。リーナ、こいつは俺の相手だ。これは『俺の』ドラゴンだ」
 その言葉に、里菜は黙った。里菜の目に浮かんだ理解の色を、ドラゴンから目を離さずにいたアルファードは見られなかったが、それでもアルファードは自分の言葉が里菜に通じたことを背後の沈黙から感じ取り、緊迫した中ではあったが、出来るかぎり声を和らげて付けたした。
「リーナ。大丈夫だ、俺も必ず、後から行く。君をひとりでは行かせない。……今だ、逃げろ!」
 最後の一言を叫ぶと同時に、アルファードは戦斧を振り上げ、ドラゴンに向かって走り出した。同時にドラゴンの九つの首が一斉にもたげられ、アルファードに襲い掛った。
 直後、赤ん坊ドラゴンたちが、耳障りなかん高い声で喚きながら、卵液に濡れた翼を一斉に広げ、母ドラゴンの首の隙間をかい潜って、バサバサと里菜に殺到した。
 母ドラゴンの九つの首に取り囲まれたアルファードは、里菜の危機に気づいてもどうすることも出来ず、ただ、魅入られたように立ちすくむ里菜に向かって声を限りに叫んだ。
「リーナ、逃げろ!」
 我に返った里菜は、悲鳴を上げながらくるりと向きを変え、通路に飛び込んだ。後を追って飛び掛かろうとした赤ん坊ドラゴンの翼が周囲の岩を打ち、一匹が、もんどりうって無器用に墜落した。後に続いた二匹目も、同じ様に、狭い通路に飛び込みそこねて、これは墜落はしなかったが、空中でぶざまによろめいてから、なんとか着地に成功した。
 けれど、赤ん坊ドラゴンたちは、里菜をあきらめなかった。大人のドラゴンは、普通、人間の赤ん坊を空から攫うことはあっても、ある程度成長した人間はもう餌にはできないことを知っている。だが、生れたばかりで何も知らない赤ん坊ドラゴンは、ただひたすら、ドラゴンの本性である貪欲な飢えと本能的な攻撃欲だけに支配されて、目の前に動くものがあれば何でも襲おうとする。翼を広げたまま通路に飛び込むのが難しいことに気づいた小さな雄ドラゴンたちは、すぐに次々と地面に舞い降りて、先を争って通路に走り込んだ。雄ドラゴンはただの動物だと言われているが、それでもかなり知能は高いらしい。
 その様子を目の隅で捕らえながらも、今のアルファードには、なす術はなかった。ただひたすら、己の間の前に迫る九つの首を目まぐるしくかいくぐって、戦斧を振るい続けた。


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掲載サイト:カノープス通信
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