長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語 

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 <第四章 荒野の幻影> 

(第三章までのあらすじはこちらから


一(後)



 そして今、ふたりは、誰も足を踏み入れたことのない、はるかな北の荒野にいる。
 いつどこで結界を踏み越えたのか、ふたりは知らない。それどころか、この荒野に足を踏み入れてから何日になるのかさえ、いつのまにかわからなくなっていた。この場所には何か特別な、人間には計れない時間が流れているような気がするのだ。
 それは、半ば夢の中を旅しているような日々だった。
 くる日もくる日も、乾いた砂をさらさらいわせて風が吹き抜けるばかりの剥き出しの大地を、里菜とアルファードは、ただふたり、黙って馬を進めた。
 この荒野に来てから、アルファードはまた、どこか変わったように見えた。
 彼はますます無口になった。アルファードの大地の色の瞳は、底知れず静かだった。けれどその静かさの底に生命の力のようなものが漲り、ひたひたと満ちてゆくのを、里菜は感じていた。ただ黙って里菜のかたわらを行くアルファードは、無器用で生真面目なひとりの人間の男であると同時に、何か、余計なものをそぎ落した生命の力そのもののように見え始めていた。
 たぶん、里菜もまた、変わっていたのだろう。
 里菜にはもう、自分が誰なのか、よくわからなかった。『あちら』の世界にいたころの、内気で虚弱でいわゆる『頭でっかち』な、クラスメイトからはちょっと変わっていると思われていたけれどそれでもごくありふれた十七才の高校生だった自分のことが、あまり思い出せなくなっていた。制服を着て電車に乗って学校に通ったこと、テストを受けたり体操をしたり図書室で本を読んだりしたこと、表面的な付き合いではあったが今となっては懐かしい級友たちとたまには学校帰りにファーストフ−ド店でアイスクリームを食べたりしたこと、そんなことすべてが本当に自分の身の上に起こったことなのかにすら、もう、確信が持てなかった。父、母、友人、自分の部屋、住んでいた街、学校――そういったものすべてが、忘れかけた夢の中のもののように遠く思われた。
 無口になったのはアルファードだけでなく、里菜ももう、ほとんど口をきかなかった。空気が冷たすぎたり、吹き付ける風が乾いて埃っぽかったりするために顔の下半分を布で覆っていたせいもあったが、それだけではなく、話す必要をあまり感じなかったのだ。
 そんな静かな旅の中で、ただ、ときおりアルファードが、ぽつりぽつりと、この荒野にまつわる伝説などを教えてくれた。
 時のないようなこの土地でも、低い空に白く浮ぶ薄っぺらな太陽はゆっくりと回って、夜になれば西に沈む。太陽が沈んだ後も、空は長いこと、ほの明るい。アルファードの話によると、この荒野の最北端では、夏至の前後は一日中太陽が沈まないと言われているそうだ。そのかわり、冬の間はほとんど日が昇らないという。とすれば、ここはかなりの高緯度地帯なのだろうが、それにしては、『あちら』の世界の常識で想像するほどは、寒くない。けれど、魔王がここに城を構える前はもっと寒い土地だったそうだと、アルファードは言った。
 伝説によると、かつて、ここは、一年のほとんどを雪と氷に閉ざされた凍土の平原だったが、短い夏には花々が一斉に咲き競い、羽虫たちが飛び交い、鳥たちは囀り交わし、獣たちが駆け巡ったと言う。だが、魔王が凍土のさいはてに城を構えて以来、魔王の憎しみが邪悪な熱となって雪と氷を溶かし、雨も雪も一切降らなくなって乾いた風だけが吹き続け、それまでは寒さのためにいつまでも蒸発しなかった湿地の水でさえやがて干上がり、草も苔も枯れ、鳥も獣も死に絶えて、いつしかこんな砂漠のようなところになってしまったのだそうだ。
 そんな、生命の気配のない荒野で、ある時、ふたりは、遠い地平線を、巨大な角を持つ大鹿の群れが幻のように駆け抜けていくのを見た。その時、ほんの一瞬だけ、行く手の大地が緑の苔と小さな花々で覆われているように見えた気がしたが、その後、いくら馬を進めても、それまでと同じ乾いた荒れ地がどこまでも続いているばかりだった。
 また、ある時は、明け方のまどろみの中で、何頭もの狼たちが遠吠えを交わすのを聞いたが、翌朝、念のために周囲を探してみても、狼の足跡を見つけることはなかった。
 野営の準備をしている時に、ふと、かたわらの地面に目を落すと、そこに小さな灰色の兎がいて、鼻をぴくぴくさせてこちらを見上げていたこともあった。けれど、目をしばたたいてもう一度見直すと、兎は跡形もなく消え失せていた。
「大地が、過ぎた日の夢を見ているんだ」と、アルファードは言った。「君がここに足を踏み入れたことで、大地の奥深くで、遠い記憶が動き始めたんだ」
 そんなアルファードの言葉に、里菜は何も問い返さず、素直に頷くことができた。
 太陽が沈むと、ふたりは馬を止め、長くほの白いたそがれの中で、天幕をはり、水を汲み、ティーオがくれたマッチで火をおこして野営の準備をした。
 荒野に入って最初のうちは、ふたりは簡単に枯れ木を集めることが出来た。荒野の中でも南のほうは、かつては針葉樹林帯で、いつの時代のものかも分からない古い古い枯れ木がまるで魔法で守られていたかのようにそのまま姿を留め、からからに乾いて、あちこちで白骨のような姿をさらしていたのだ。それはちょうど、太古から誰かがふたりのために用意してくれておいたものででもあるかのようだった。
 そんなふうに枯れ木が手に入るあいだは、ふたりは古い苔の乾いた堆積物を地面から掻き取って焚き付けにし、天幕の外で焚火をして煮炊きをしたりしていたが、その後は、とうとう薪が手に入らなくなり、ティーオの固形燃料だけを頼りに野営をするようになった。
 狭い天幕は、高度な魔法で念入りに防水性保温性を高めた布でできていて、中で夜通し固形燃料を燃やせばそれなりに暖かかったが、それでも北の夜の冷え込みは厳しく、ふたりは、幼い兄妹のように寄り添いあって眠り、眠りの中で命のぬくもりを互いに与えあった。ここへ来てからアルファードは、里菜が寄り添っても、もう以前のように身をかわしはしなかった。
 不思議なことに、北へ北へと進むうちに気温はかえって上がっていくように思われた。特に夜の冷え込みは緩んでいった。
 けれどもそれは決して気持ちのよい暖かさではなく、北から吹き続ける風は、やがてどこか不自然な熱気をすら帯び始めた。温度としてはそれほど高いわけではなく、やはり寒いことに変わりはないのだが、それでも、この土地の本来の気温に比して奇妙に生暖かいのである。
 それは、神経がひりつくような、毒気を含んだ風だった。その熱気が強まるにつれて、それまでおとなしく柔順だった馬たちが、しだいに苛立たしげな怯えた様子を見せ、前に進むのを嫌がるようになっていった。
 そしてある時、とうとう馬たちは、立ち止まったまま、宥めても叱っても言い聞かせても頑として前に進もうとしなくなってしまった。ふたりはさんざんてこずったあげく、馬を諦め、残り僅かな荷物からどうしても必要なものを取り出して背負い袋に移し、馬を放した。この川筋を離れたら水も草もないのだから、馬たちはなんとか川に添って荒野の外れまで自力でたどりつくだろう。
 こうしてふたりは、とうとう徒歩で行くことになってしまった。けれど、先の道のりがもう短いことを、ふたりはなんとなく知っていた。
 荷物は少なかった。ここでは雨も雪も降らず、その頃には気温もかなり上がってきていたので天幕なしでもなんとかなりそうだったし、川に添って歩けば水を持ち歩く必要もなく、食料や燃料も、どのみち、もう僅かしか残っていなかったのだ。
 けれどふたりは、自分たちがこの荒野で飢えや渇きや寒さで死ぬことはないと確信していたので、食料の乏しさは、さほど気にしなかった。普段なら計画的で用意周到なはずのアルファードでさえ、この時はなぜか、帰りの食料のことなどまったく考えてもみなかったのだ。
 それは彼らが、還らないつもり――戦って死ぬつもりだったからではない。ふたりの心は、そのころにはもう、半ば現実を離れてしまっていたのだ。
 この旅が現実のものではなく夢の中のものであるかのような、自分たちが生身の人間ではなく肉体を遊離した魂であるかのような、そんな不思議な薄明かりの、時のはざまの境界を、彼らはさまよっていたのである。
 この、時の流れに取り残されたような荒野で、最初のうちは日没や野営の回数を数えて何日たったのか知っておこうと努力していたふたりも、馬がいなくなってからは、もう、何日歩いたのか、わからなくなっていった。自分たちがなぜ歩いているのかさえ、忘れかけることもあった。
 ある日、わずかに砂を削ってちょろちょろと走るひとすじの細い流れに過ぎなくなっていた川が、ついに姿を消した。
 川の源は、荒野の他のところと一見どこも変わらない砂地の一か所からじわじわと滲み出る涌き水だった。その涌き水のほとりで、ふたりは、野営をした。涌き水にたどりついた時、太陽はまだ沈んでいなかったのだが、魔王の城がまだ見えてこない以上、ふたりはもう、この先どう行けばいいのか分からないから、とりあえず野営をする他はなかったのである。けれどふたりは、朝になれば行くべき道が示されることを確信していた。
 翌朝、毒気を含んだ風がもたらす悪夢にそれぞれ悩まされながらの浅い眠りから目覚めたふたりは、野営地の北、さほど遠からぬところに、忽然とそそり立つ古びた石造りの塔を見た。
 塔は、昨夜までは見渡す限り何もないただの荒れ果てた平地だったはずのところに、一夜のうちに現われたのだ。
 それは奇妙な光景だった。
 どこまでも砂と石ばかりが広がる荒野のただなかに、ただ、灰色の塔だけが、ぽつりと立っている。『魔王の城』とは呼ばれていても、実際には、城があって塔があるのではなく、地面からいきなりまっすぐに塔だけが立ち上がっているのである。
 灰色の曇天の下、塔はすぐ近くにあるように大きく高く聳えているが、あたりに霧が出ているわけでもないのに、ひどく遠くにあるように霞んで見えてもいる。
 ふたりはしばらく黙ったまま並んで塔を見つめていたが、それから、どちらが言い出すともなく、何事もないかのように朝の仕事を始めた。ふたりは浅い川床の砂を掘り下げ、溜めた水が澄むのを待って皮袋に汲み、無言で背負い袋から携帯食を取りだすと、砂の上に腰を降ろして、塔に見下ろされながら、いつも通りにひっそりと食事をとった。
 簡素な旅の食事はすぐに終り、荷物をまとめたふたりは、一度だけ顔を見あわせてそっと頷きあうと、塔に向かってゆっくりと歩き出した。

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掲載サイト:カノープス通信
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