長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語 

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 <第四章 荒野の幻影> 

(第三章までのあらすじはこちらから

(――引用――)


……こうして女神と男神は、それぞれ天と黄泉とにあって地上を正しく治め、世界は永らく、神代の平和の中で、幸福な赤子のようにまどろみ続けた。草木は茂り、鳥は歌い、魚は泳ぎ、獣は走り、大地に、海に、空に、生命は満ちて、無邪気に生まれ、生き、子を成し、そして無邪気に死んでいった。
 そんな神代の楽園で、未だ嬰児であった人類もまた、様々なことを学びながらその数を増やしていった。
 けれどもいつのころからか、タナート神は、双子の妹であるエレオドリーナ女神に、叶わぬ恋心を抱くようになっていた。失われし母なる混沌を密かに恋い慕い続けていた男神タナートは、かつて劫初の混沌の胎内でエレオドリーナとひとつであった思い出を忘れられず、いつしか彼女を妻にと望むようになったのだ。
 しかし、タナートは、夜と闇を司るもの。昼と光を司るエレオドリーナとは、朝夕の一時、遠く離れて顔を見交わすことができるだけで、永遠に触れることはできない。二柱の兄妹神は、決して交わることのない運命にあった。それでもタナートはエレオドリーナに焦がれ続けた。
 人類がみどり児の時を過ぎ、青年期に入ると、愛の女神でもあるエレオドリーナは、しばしば、人間の男を愛した。
 そのたびに女神は、若く美しく生命の力に満ちた人間の女性の姿をとって、気に入った人間の男の前に現われ、特に気に入った恋人は山頂の神殿にいざない、そこで、人間の女がするように彼と共に暮し、ともに年老いていった。
 そのたびに男神タナートは、為すすべもない嫉妬に苦しんだが、彼には永遠の時間があり、人間の命は短い。しばしの苦しみに耐えた男神は、やがて女神の恋人に定めの時が来ると、歪んだ喜びを持って、女神の許からその魂を連れ去さるのだった。
 そのために女神は、しだいにタナートを憎むようになっていった。
 恋人とともに年老い、老婆の姿で恋人の死を看取った女神は、その都度、長い嘆きのうちに喪に服した。女神が喪に服す時、世界は闇に包まれ、女神の心が悲しみに満たされる時、大地は冷えて、海は氷に閉ざされた。
 しかしやがて幾千年の歳月が女神の悲しみを癒し、女神はまた若く美しく蘇り、地上に春が訪れる。
 そんなことが幾度も繰り返されたのちに、女神はある時、また、一人の男を愛した。空で一番明るい星のように美しい若者、エレオドラ山の羊飼いのアルファードだった。
 女神とアルファードは山頂の神殿で束の間の愛の日々を送り、やがてアルファードに、命の終る定めの時が来た。
 けれども女神はアルファードをあまりにも深く愛していたので、それまでしてきたように年老いた恋人をタナートの手に委ねることを拒み、彼を星に変えて天に上げた。この、銀のアルファード星は、今でも、女神の肩に寄り添うようにエレオドラ山の上に輝いている。
 これが原因で、女神と男神はついに決裂し、神々の間に戦さが起こった。戦さは長く続き、地上は洪水や旱魃に交互に見舞われ、山々は火を吹き、いくつもの島が海に沈んだ。
 タナートの捲属であった妖精たちは、この戦いにおいてタナートに与することを拒んだために、彼から与えられた<魂の癒しの力>を封印された。自らを癒すことのできぬ魂にとって、神代の無垢の幸福を失った世界は、その肉体の持つ本来の長い寿命を耐え抜くには辛すぎるものだった。この時以降、妖精たちは、肉体よりも先に魂が年老いるようになり、そのことが、やがて肉体の寿命をも、しだいに縮めていった。そして、そうなった後も、彼らは、本来長命の種族ゆえに子を生むことが少なく、為に、種族自体が年老いて衰えていくのを食い止められなかった。
 こうして、人類が未だ火を知らぬころから神々のために金属を鍛えていたこの古く美しい種族は、神への反逆のゆえに、種族の長い黄昏を経てのちにゆるやかに滅び去ることになる。
 神々の戦さはどちらにも勝利をもたらさずに終結し、この戦さの後、神々は地上との往来と相互の接触を絶ち、神代は終焉を迎えた。
 しかし、一般にはあまり知られていないタナティエル教団の神話によると、この時、男神タナートは、一般に言われるように黄泉に去ったのではなく、女神を失った絶望から長い眠りにつき、未だ目覚めることなくこの地上にあって、ふたたび女神が地上に現われる時を待ちわびながら昏い悪夢の中をさまよっているという。彼らの説によると、北の荒野に棲むという『魔王』こそ、男神タナートが失意の眠りの中で見ている悪夢の中の彼の姿なのだという。
 現在、彼らがしばしば魔王を崇める邪教集団と見なされるのは、この教義のためであろう。
 また、エレオドラ山の麓、女神の司祭を擁する古いイルゼール村には、女神と女神の最後の恋人アルファードの運命について、一般に知られているのとは別の神話が伝えられているが、これについては、拙著『エレオドラ地方の民俗と神話に関する研究』を参照されたい。

――『イルファーラン国立上級学校神話学教科書』(<賢人会議>長老・イルファーラン国立研究所名誉研究員 ユーリオン著 統一暦百六十六年発行)より

一(前)


 北の太陽は、紙を切り抜いたように頼りなげに白く、空低く浮かんでいた。
 その弱々しい太陽が投げかけるわずかな熱も、大地に届く前に風がどこかへさらっていってしまうようで、里菜は馬上で身をすくませ、マントをかき寄せた。
 目の前には、果てしなく、冷たい風だけが吹きすぎる不毛の荒野が広がっている。
 その中を、くすんだ赤錆色のマントのアルファードを乗せた大きな栗毛の馬と、鮮やかな青のマントの里菜を乗せた少し小さな灰色の馬が、とぼとぼと進んでいく。アルファードは愛用の剣を携え、それぞれの馬には、荷物の袋が左右に振り分けて括りつけられている。
 一行の他に、動くものはない。草さえほとんど生えない、この荒れ果てた大地には、羽虫より大きな生き物は生息できないのだ。
 そんな砂漠のような北の荒野に、ただ一本の細い流れがあり、恐らく一年の大半は凍りついているのだろうが、夏の名残の残る今はまだちょろちょろと流れていて、ふたりはその川に沿ってゆっくりと北上していた。
 この川は、荒野の果て、最北の魔王の城の近くから、荒野をつっきって流れ下ってくるのだと言われているが、実際に川を遡ったものは誰もいないから、その真偽はわからない。それでも、魔法で水を出せないふたりには、この川が命の綱だ。川があるあいだは川に沿っていくしかない。それに、川の岸辺にだけは、わずかに草があって、馬に食べさせることができる。途中で川の源に来てしまったり流れの向きがそれた時は、ふたりはありったけの皮袋に水を入れて、馬は空馬で、来た道を帰らせるつもりだ。
 おとなしく辛抱強く寒さに強いこの馬は、戦さ用の馬ではなく、カザベル近くの、港町というよりは漁村に近い小都市イリューニンで調達した北部の荷役馬である。ふたりは、イルベッザからそこまで船で来たのだ。
 この国の西の海岸線は、南を上にした地図――この世界では地図は南が上なのだ――で言えば『く』の字型をしていて、イルベッザは、その『く』の字の上辺に接しており、カザベル街道は、『く』の字の左側を大きくなぞるように曲がっているから、はなからカザベルに寄らずにさらに北を目指すなら、カザベル街道より海路のほうがずっと近いし、本当はカザベルに行くにも、いったんイリューニンまで出て少し南東に戻るようにしたほうが早く、距離的にもずっと近い。
 だが、この国では海運はあまり盛んでなく、普通は船を利用するものは少ない。里菜たちが乗ってきた船も小さな貨物船で、木の葉のように揺れ、里菜は航海の間中、ひどい船酔いに苦しんだ。それでも、イルベッザでアルファードから乗馬の手ほどきを受けていたとはいえあまり馬に乗り慣れていない里菜にとっては、陸路を馬で来るよりはましだっただろう。少なくとも日程がだいぶ早まったのはたしかだ。
 里菜たちが船に乗ることができたのも、イリューニンで駐留軍から無償で馬を借り受けられ、十分な携帯食料や野営用の天幕をすみやかに提供してもらえたのも、ファルシーンの手配のおかげである。
 魔王を斃しに北の荒野へ行くというふたりの話を聞いた彼女は、軍隊を好きなだけつけてあげるとも提案してくれた。正規軍の兵士の中にも、あの日蝕の騒乱で家族や友人を失ったものは多く、魔王を退治しに行くと言って志願者を募ればいくらでも集まるだろうと言うのだ。
 けれど、もちろん、ふたりは、これを断わった。どうせ、いくら大軍を連れていっても、結界に阻まれて荒野に足を踏み入れることはできないだろう。入れたとしたら、それは魔王が軍隊に来られても困らないからで、その場合はいずれどこかであっさりと始末されてしまうのがおちだ。それで彼らは、ファルシーンに交通手段などの援助だけを頼んで、ただふたり、北の荒野に赴いたのである。
 ふたりの出発は、ひそやかなものだった。秘密というわけでもないのだが、ファルシーンとユーリオンは、相談の上、このことを一般市民に広く知らせるのはやめたほがいいと判断したのだ。
 ふたりは、ユーリオンだけに、すべてのいきさつを打ち明けていた。ことは国の存亡に関わるのだし、彼は<長老>であるだけでなく、神話学者だ。里菜とアルファードと魔王との、神話的で夢のような因縁の物語を、彼は正しく受け止めてくれるだろうと、アルファードは判断したのだ。
 そしてその通り、彼は、ふたりの語る不思議ないきさつをまるごと受け入れてくれた。そして、ふたりの勝利を信じて待つを言ってくれた。
 だが、たとえ彼自身は里菜たちの勝利を信じていても、<長老>という立場からは、慎重にならざるを得ない。
 これまでも、里菜とアルファードはイルベッザの民衆の希望の星だったし、今回の騒動でのふたりの活躍も、すでに市民たちに知れ渡っていた。ふたりが魔王討伐に行くと発表すれば、市民たちは、彼らに熱狂的な期待をかけるだろう。それは、今、災難に打ちひしがれている市民たちに希望を与えるが、一方で、万一、このふたりでさえ失敗したのだとなった時は、逆に国中の人々が絶望してしまうだろう。
 そういうわけで、ふたりの旅立ちは、<賢人>たちと軍の上層部、それにふたりのごく身近な友人たちにしか知らされなかった。と言っても、極秘扱いというわけでもなかったから、準備に関わった役人や軍の仲間たちはもちろん、イルベッザ城構内で働くものたちは皆それを知っていたが、里菜とアルファードが自分たちの決心を直接話したのは、ユーリオンとファルシーン、キャテルニーカとローイ、それに、ローイに話す時にちょうどそばにいたリューリだけだった。
 ふたりは、ローイに話をした時には、ユーリオンの時と違って、魔王がタナート神だとか里菜に何かいわくがあるらしいとか、そういう神話めいたことはあまり話さなかったのだが、彼らの使命が特別なものであることはローイにも察しがついていたから、彼は、もう、ふたりを止めなかった。
 ローイは、じっと里菜を見つめて、少しさみしそうに言った。
「そうか、やっぱり行っちまうのか。俺も怪我をしてなけりゃついていって一緒に戦ってやりたいところだが……。でも、どうせそういうところには、俺の出番なんてないんだろうな。俺みたいな、ただのヒトにはさ。そう、あんたらは、やっぱり違うんだ。あんたらはやっぱり、特別な運命を持った<マレビト>なんだよな……」
 その前にキャテルニーカに決心を打ち明けた時も、里菜は神話めいた説明はしなかったが、それは、キャテルニーカが、話さなくてもすべてをわきまえているのが分かっていたからだった。この時、キャテルニーカは、普段の、『綺麗だが無邪気すぎておつむが足りないように見える一風変わった子供』ではなくて、いつかの山賊の前やあの日蝕の中で見せたような、威厳に満ちた謎めいた巫女の顔になって、こう言ったのだ。
「あたしも一緒に行って手助けしたいけど、できないの。あたしたちは、昔、あのひとと戦って、既に一度、破れている。だから、あたしにできることは、ただ、お姉ちゃんが後のことを心配しなくていいように、ローイお兄ちゃんやリーンや、その他の、怪我をしたり刻印を受けた人たちをしっかり引き受けることだけ。あたしの手が届くところにいる人は、絶対、一人も死なせないから、安心して行ってきて。お姉ちゃんが魔王に打ち勝って帰って来たとき、みんなの刻印は消えるわ。刻印を受けてから長い人は絶望が心に染み込んでいるから、必ず元どおりになるとは限らないけど、今回の事件で刻印を受けた人たちは、ちょっとした治療で元気を取り戻すはずよ」
 この、昔『あのひと』と戦った『あたしたち』というのは、恐らく彼女の祖先である妖精の一族のことだろう。
 もちろん里菜は、キャテルニーカが魔王となにかしらの関わりがあるものなのは分かっていても――いや、分かっているからこそ、彼女を魔王の元に連れて行って危険に晒すつもりはなかった。
 旅立ちの前夜には、ティーオがリューリに伴われて宿舎を尋ね、アルファードに、マッチを手渡してくれた。それは、以前のものよりもっと『あちら』のマッチに近い、使いやすく携帯しやすい改良品だった。
 また、ティーオは、マッチの他にも、ふたりのために一種の固形燃料を用意してくれた。それは彼がマッチを発明する際に派生的に思い付いてひそかに研究を重ねていたものだそうで、完全主義者の彼は例によってまだ表立って発表していなかったが、もうほとんど実用段階に入っていた発明品だった。小さな火鉢のような容器に入れて使うもので、焚火と違って天幕の中でも使え、ささいな火力ではあるが薪がなくても朝までゆっくり燃え続けるので、魔法の使えないふたりにとってはもちろん、魔法で火を呼び出せるものにとっても便利なはずの大発明だ。
 旅立ちの朝、ふたりは、魔物に弓を引いた無茶がたたってまだ入院していたローイをもう一度見舞った。
 ローイは、入院中の身のはずが、まるで新人雑用係のような顔をして、リューリに指導されながら薬草を仕分けする手伝いをしていたが、その手を休めて、こう言った。
「頑張れよ。ほんとうに、一緒にいけなくて残念だよ。アルファード、俺の分も、しっかりリーナちゃんを守ってやれよ。もっとも、あんたがリーナちゃんを守れるのは魔王の城につくまでで、そっから先はどういうふうになるんだかわかんないけどな。あんがい、そういうところではリーナちゃんのほうが強いかもしれねえからな。……そう、リーナ、あんたは強いんだよ。あんたはチビでやせっぽちで、腕力も体力もないし、動きも鈍いし、頭は悪くないのにとっさの時のすばやい判断ってのはまるで駄目で、兎みたいに驚きやすくて、びっくりするとすぐ目をつぶってしゃがみ込んだり硬直して立ちすくんじまったりして、まあ、何かにつけて、使えないっちゃあ使えないんだが……。
 ……いや、そんなにしょげないで、最後まで聞いてくれよ。それでも、あんたは強いんだ。何も、剣を振り回すだけが力じゃないってことさ。だいたい、あんたの相手は、人間じゃない。どっちみち、腕力やら剣の技やらで勝てる相手じゃねえんだ。まあ、アルファードなんかはそれしか能がねえから相手が誰でもそれで戦うしかねえわけだが、あんたは違う。そんな吹けば飛ぶようなか弱い様子をしてるくせに、あんたには、どこかに何か、しぶとさみたいなものがある。これ、誉めてるんだぜ。どこがどうって言われても困るが、俺には、分かるんだ。あんたは強い。必ず勝って帰ってくるだろう。俺のことは心配いらねえよ。シエロ川での水泳のお楽しみはあきらめて、おとなしく待ってるからさ」
「お姉ちゃん、ローイは本当に大丈夫よ。あたしがついてるから」
「そうよ、あたしもいるし」と、かたわらでキャテルニーカとリューリが口を添えると、ローイは、
「ああ、俺ってなんて幸せものなんだ! こんなべっぴんさんがふたりがかりで面倒見てくれるとあっちゃあ、こりゃもう、元気出さないわけにはいかないね! まったく、ここは最高だあ。こんなにまわり中に美人がうじゃうじゃしてちゃ、口説くのに忙しくて、絶望している暇なんかねえや!」と、明るく叫んで、
「この色ボケ!」と、リューリに小突かれた。
 小突かれた頭をさすりながら、ローイは付け加えた。
「それにさ、ほんと、ニーカちゃんがそばにいてくれると、なんか気持ちが楽になるんだよな……。前からそうだったんだけどさ、刻印つけられてからこっち、特にそう思う。これって、なんだろうなあ。リュリュちゃんの魔法が怪我に効くみたいに、ニーカちゃんはなんだか、人の心に効くんだよなあ。いや、もちろんリュリュちゃんだって、こんだけべっぴんだと見るだけで元気が出るけどな。これでもう少しやさしくしてくれりゃあ……」
「ちょっと、どういうこと? あたし、あなたには充分やさしくしてるつもりだけど?」
「ほ、ほら、その言い方が、もう、怖いんだよ」
「あなたみたいなやつは、甘やかすと治らないのよ! あたしが怖けりゃ、さっさと治って退院しなさい。リーナ、あなたが帰ってくる頃までには、こいつをちゃんと社会復帰させとくし、それまでは、あたしがこいつをこき使って、落ち込む暇がないくらい忙しくさせといてあげるから、安心して行ってきてね。ついでに、こいつの軽薄と女ったらしも、少し矯正しといてやるから」
「やめてくれよ、そこを矯正されたら、もう、それ、俺じゃねえよ」と、ローイは本気とも冗談ともつかぬ様子で首をすくめた。
 そのあと里菜たちは、城の正門前の広場でユーリオンとファルシーンから激励の言葉を受けた。これは非公式の見送りだから、ふたりとも、<賢人>の白いローブではなく目立たない私服姿だ。が、ふたりがこの日ここで非公式の『出陣式』を行なうのは、<賢人の塔>の職員たちやふたりの仲間たちはみな知っていたから、彼らのまわりにはちょっとした人垣ができていた。みんなは跳ね橋までぞろぞろと見送りについてきて、ふたりに暖かい言葉をかけてくれた。
 跳ね橋の前で立ち止まり、見送りの人々と言葉を交わした里菜とアルファードは、最後に、治療院から見送りについてきていたキャテルニーカと向き合った。
 キャテルニーカは、あの不思議な巫女のまなざしで里菜を見つめて、ゆっくりと、歌うように言った。
「お姉ちゃん。お姉ちゃんは、今、とっても魔王のところへ行きたいと思っている。魔王を憎み、魔王と戦いたいと思っている。でも、それじゃ駄目。魔王はね、嫌々生贄になりに来るものは、手に入れられないの。自ら進んで自分のもとにやって来るものだけを、手に入れることができるのよ。今のお姉ちゃんをなら、魔王は簡単に手にいれてしまう。そのために魔王は、わざとローイお兄ちゃんや、リーンや、それに小さい子供とか、そういう、傷つけたらお姉ちゃんが怒るような人を傷つけたのよ。でも、お姉ちゃんは本当は、戦うことなんか好きじゃないでしょ? 本当は戦いを望んでなんかいないでしょ? そのことを、忘れないで。いつも覚えていて。お姉ちゃんは、戦う人じゃない。愛し、育み、あるがままの世界を受け入れるもの。魔王の前に立つ時、そのことを思い出して。ね?」
 橋を渡ったところには、一群れの市民たちが、ふたりの出陣を一目見ようと集まっていた。華々しく触れ回すことはしなかったといっても、やはり噂は広まっていたらしい。それでも、旅立ちまでの準備期間が短かったから、まだ噂が爆発的に広まるところまでいかず、この程度の人垣ですんだのである。
 期待のまなざしで自分を見つめる人々を前に、里菜の心は痛んだ。彼らは、里菜が家族や友人の仇をとってくれることを期待しているのだが、そもそも彼らに今度の不幸をもたらした遠因は自分なのだ。闇の中での里菜と魔王の会話を聞いていたものはアルファードの他にいないから、誰も里菜が自分たちの不幸の元凶だとは知らないだけなのだ。それを知ったら、ここにいる善良な人々は、里菜に石でも投げつけたかもしれない。
 けれども里菜は、ユーリオンから、そういうことを他の人には話さないようにと釘をさされていた。
 彼は、こう言ったのだ。
 自分は今度のことは決して里菜のせいだとは思わないが、里菜が心配するように、そう考えるものもいるかもしれない。だが、それは八つ当りでしかないし、彼らに事情を告げて里菜を憎ませても、何の役にも立たない。ただ、彼らにますます絶望感を与え、余計な苦しみを負わせるだけだ。里菜は、あくまでも彼らの希望の星でいてやることで彼らの苦しみを軽くしてやるべきだ、と。
 その言葉に、里菜は半ばほっとしながらも、そこでほっとしてしまう自分が偽善者のような気がしてやりきれなくなったが、たしかにユーリオンの言葉は正しいのだろう。里菜が今、自分たちの英雄に期待をかけてここに集まっている人々に真実を告げても、誰も今より幸せにならない。
 里菜は無理をして彼らに微笑みかけ、なるべく自信たっぷりに見えるようにと気をつかって、小さいながらも堂々とした足取りで橋を渡った。
 その時、人込みがざわめきながら左右に分かれて、その中を、三人の黒衣の男が進み出てきた。その姿を見て、里菜は目を見張ってつぶやいた。
「ゼルクィールおじいさんたちだわ! 前からその辺をうろついてたのは、やっぱりあの御一行様だったんだ」
 三人は群衆を抜け出して、橋の袂で立ち止まり、そこで、橋の向こうにいるキャテルニーカに軽く会釈した。――もっとも、見物の市民たちは、彼らが見習い治療師姿のちっぽけな子供に礼を取ったのだとは夢にも思わず、その隣に立ち並ぶ賢人たちに会釈したと思っただろうが。
 それから、三人は、ふたりの前に進み出て膝をついて礼をした。
 市民たちは不審げにざわめいていたが、そのざわめきには、以前からタナティエル教団に対して向けられていたような好奇心や漠然とした警戒心といったものだけでなく、はっきりした非難と憎悪の調子が含まれていた。市民たちは、彼らが今度の魔物騒ぎについて事前にあれこれ言っていたということで、彼らに対して、今まで以上にうさん臭さを感じているのだ。
 もちろん里菜は、彼らに今度の騒ぎについて責任がないことを知っているが、市民たちの前で彼らから大声で『女王』呼ばわりされるのは、やはり避けたい。
 里菜は、ゼルクィールが大声を出さなくても聞こえるようになるべく近づいた方がいいだろうと、自ら一歩進み出て、老人の目の前に膝をついた。老人は顔を上げて囁いた。
「……女王よ。ついに、時が来たのですね。我等はずっと、この時を待ち続けてまいりました。女王が我等の王を悪夢の中から救いだし、王との婚姻によってふたたびこの地上に神の御代をもたらしてくださるその時――世界が新しく生まれ変る復活の日を。その時、何が起こるのかを、我等はつまびらかには知りませぬが、我等は我等の王と女王を信じて、女王のお帰りを、ここでお待ち申し上げます。どうぞ御無事でお帰り下さいませ。夜の娘御の忠告を、お忘れなきよう……」
「あのね……」と言いかけて、里菜は後の言葉が続かなかった。この素朴な信頼を、どうしてよいのかわからなかった。この、慈悲深いまなざしを持つ温厚でか弱い老人に、『あなたたちの神様はあなたたちのことなど少しも気にかけていないのだ、彼はあなたたちもろともこの世界を滅ぼすつもりなのだ』などとは、とても言えなかった。そのかわり、ただ、言葉にできない同情を込めて、里菜は老人にそっと尋ねた。
「おじいさん、足、どうかしたの? 前は杖なんかついてなかったじゃない?」
 ゼルクィールは、静かに微笑みながら、
「私も、もう年でございますので……」としか言わなかったが、彼は、シルドーリンからの、老人にはきつい長旅と、底冷えのするヴェズワルでの脚を伸ばすこともままならなかった監禁生活、そしてその後の、湿気の多いイルベッザでの慣れない都会暮しで、すっかり身体を弱らせてしまったのである。
「ねえ、おじいさん、ここであたしの帰りを待ってなんかいないで、とりあえずシルドーリンに戻ったほうがいいんじゃない? あたしはそんなにすぐは帰ってこれないと思うし、ここは、ほら、まだ当分は暑いだろうし、何しろ湿気が多いから、お年寄りには障るんじゃない? やっぱり、住み慣れたところにいたほうが……」
 里菜は背を屈めて老人の顔を覗き込んだ。
 里菜にとって、里菜が魔王の花嫁になるなどと言う彼らの主張はとうてい同意しかねるものだが、それでも里菜は、どういうわけか、この不運な老人がとても好きだったのだ。
 老人は穏やかに目元を微笑ませて答えた。
「私などのことを、そのように気遣って下さり、かたじけなく存じます。女王よ、あなたはおやさしい娘御でいらっしゃいます。こうしてあなたにおやさしいお言葉をかけていただけるだけで、私はこの役目を与えられたことを幸せに思います。では、お気をつけていってらっしゃいませ」
 それだけ言うと、三人はまた、うずくまるような礼をして、彼らの会話をほとんど聞き分けられなかった不満にぶつぶつ言っている群衆を尻目に、その場を立ち去って行った。
 それからふたりは、道々、市民たちの激励を受けながら港まで歩いた。
 首都の港とはいえ、この世界には海外との貿易というものがないし、国内でも海運はあまり重視されていないから、ほとんどただの漁港に近い。市民たちは、津波の爪跡も生々しい、そのささやかな港まで、ふたりの後についてきて見送ってくれ、そこでふたりは、たまたま別の町の港に停泊していて津波を免れた貴重な貨物船の一隻に乗り込んだ。半年以上住み慣れた、この雑然としておおらかな都を離れるのは少しさびしくて、里菜は船の上から、遠ざかる港をいつまでも見ていた。

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掲載サイト:カノープス通信
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