長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語 

<<<トップぺージへ  <<目次へ <前へ || 次へ>


 <第四章 荒野の幻影> 

(第三章までのあらすじはこちらから


二(前)



 荒野のただ中に厳然と屹立する年経た巨塔を、ふたりは真下に立って振り仰いでいた。
 それは遠目に見て思っていたよりずっと大きな塔で、そのてっぺんは、見あげていると首が痛くなりそうな、この世界の建築の常識を越えた高さにあった。
 野営地から塔にたどりつくまでにどれくらいの時間がかかったのか分からないが、塔は、思ったよりずっと遠かった。初めに見た時、塔がすぐ近くにあるようにも見えたのは、荒野がどこまでも平らで視線を遮るものも大きさを比べるものもないために距離感が麻痺していたのと、塔の形を見た時、その縦横の比から、ふたりが無意識にイルベッザ城の塔くらいの高さのものを思い描いてしまったための錯覚だったのだ。
 間近に仰ぐ灰色の巨塔は、昨夜までたしかに無かったものにもかかわらず、明らかに非常に古い――強力な魔法によって維持されているのもまた明らかだが、そうあってすら避け難く歳月が刻み付けられてしまうほどに古いもので、その、永い歳月を経たもののみのもつ厳粛な威容に、里菜は少し打ちのめされて、そっとアルファードに身を寄せ、その顔を見上げた。
 アルファードは里菜を見下ろして、励ますように小さく頷いてみせ、里菜を塔のほうに優しく押しやった。里菜には自分のなすべきことがもう分かっていた。
 塔には入り口がなかった。けれども里菜は迷わず塔に歩み寄り、風化してざらついた石壁のひとところに手を当てて軽く押した。
 そのとたん、世界を四角く切り取ったかのように壁の一部が消え去って、里菜の目の前に、別の次元に続く通路を思わせる暗い空洞が、いきなりぽっかりと出現した。
 唐突に口を開けたその空洞は、ちょうど人ひとりが立って入れる大きさの、塔の入口だった。
 ふたりは中を覗き込んだ。そこは外壁のカーブにそってゆるやかに昇って行くらせん階段の踊り場のようなところらしく、正面は、いきなり、わずかに曲面を描く石壁に突き当たっており、左右を見ると、左には下、右には上に向かう階段があった。
 塔には窓がなく、どうやら階段には明りもないようで、入り口からの光が届かない階段の先は、すぐに、目の痛むような漆黒の闇の中に消えていた。そして、左の、地下室へ続くらしい階段からは、荒野を渡る風の中に忍び込んでいた、あの、毒気を帯びた不自然な熱波が絶え間なく吹き上げてきていた。
 そのあまりの熱気に、ふたりは塔に入るまえに、ヴィーレにもらったマントを脱いで、きちんと畳んで地面に置いた。――里菜は初め、勇ましくかなぐり捨てたマントを何の気なしにその辺にばさっと放ったのだが、となりでアルファードが自分のマントを几帳面に畳んでいるのを横目で認めて己の雑駁さに赤面し、あわててマントを拾って、アルファードのまねをして――彼ほどきちんとは出来なかったが――畳み直したのだった。
 マントの下は、いつもの質素な普段着だ。最初はその上下に防寒着を重ね着していたのだが、ここ数日で温度が上がるにつれて一枚ずつ服を減らしていくうちに、結局、いつもと同じ格好になっていたのだ。防具は、つけていない。ふたりは、自分たちの戦いが鎧兜の重装備がものを言うようなものになるなどとは、まったく思っていなかった。 
 アルファードは、角灯に火を灯し、荷物の中からティーオのマッチだけを取り出すと、残りの荷物を畳んだマントの上に載せた。
 角灯とマッチ、それとそれぞれの武器だけを携えて、ふたりは暗い塔の中に足を踏み入れた。
 とたんに、背後で入り口が消え失せて、ただの壁に戻り、同時に、下から吹き上げる熱風が角灯の火を吹き消し、周囲は全き闇に閉ざされた。かすかな埃と黴の匂いと、むっとする不浄な熱気がふたりを押し包む。
 里菜は手探りでアルファードを探り当て、心細さに、手に触れた服の布地を握り締めた。
 アルファードはしばらくごそごそして火を点け直そうと試みていたようだが、何度マッチを擦っても風が吹き消すばかりだった。
「明かりは諦めよう。たぶん、ここでは何回つけても無駄だろう。とりあえず、こっちの階段を昇ろう。俺が先に行くから、君は右手で外壁をずっと触りながら左手でしっかり俺につかまって、ぴったり後ろについてきてくれ」
「うん」
 ふたりは本能的に声を潜めて言葉を交わし、目を閉じているのと変わらない暗黒の中、慎重に足場を確かめながら、手探りでゆっくりと進み始めた。
 どんな闇でも、普通は、慣れるにしたがって少しは目が見えるようになるはずだが、この塔の中では、いつまでも目が慣れることがなかった。たぶん、それほどまでに完全な暗闇なのだろう。目を開けていても何も見えず、何だか目が痛くなるような気がするので、里菜は目をつぶった。そうしてみると、そのほうがかえって怖くないような気がした。
 そうやって暗闇の中を行くうちに、里菜は、自分が足を動かしていることを忘れそうになり、自分が前に進んでいるのかどうか、それどころか自分に本当に足などというものがあるのかどうか、そもそも自分の身体というものがここにあるのかすら分からなくなりはじめた。自分が意識だけの存在になって無限の闇に浮かんでいるような気がした。右手でなぞる石壁の感触と左手で掴んでいるアルファードの服の感触だけが、辛うじて、そんな里菜に肉体の存在を思い出させ、里菜の心を物質の世界に繋ぎ止めていた。
 静まり返った闇の中を歩いていると、自分たちの立てる、普段は気づきもしないような小さな物音が、やけに鮮明に聞こえてくる。
 ゆっくりと足場を探るひそやかな足音と、階段を昇り続けてしだいに荒くなり始めた息遣い、剣帯の金具がかちゃかちゃいう音、微かな衣擦れの音、もっと微かな、手で壁を探る乾いた摩擦音……。
 視覚を断たれた埋め合わせにひたすら耳を澄ましているうちに、里菜はいつしか、その音のすべてが本当に自分たちのたてているものなのか確信が持てなくなり始めた。
 前をゆく足音は、本当にアルファードの足音だろうか。自分の右手のあたりから聞こえる微かな音は、本当に自分の手が壁に触れる音なのだろうか。もしかすると、自分の隣に何か奇怪なものがいつのまにか忍び寄って、ぞわぞわと地面を這って並んで進んでいるのではないだろうか。闇の中で間近に聞こえる息遣いは、守護者と頼む優しいアルファードのものではなく、血に濡れた重たげな巨体を闇に潜めてこちらを窺う見知らぬ獣の、その太く鋭い牙の間から漏れる、殺戮の興奮を押し殺して熱く湿った腥《なまぐさ》い吐息ではないだろうか。あるいは自分の左手が掴んでいるのはアルファードの服ではなく、布の先は、何か別の、得体の知れない気持ちの悪いものに繋がっているのではないだろうか――。例えば、何かべとべとした、ぐちゃぐちゃした、形の定まらないもの――ずぶりとめり込んで手応えのない、粘つく、嫌な臭いのする、汚い――そう、例えば、腐った屍肉のような――!
 それを想像したとたん、里菜は、ついに恐慌をきたした。恐怖に耐えかねて我を忘れた里菜は、突然、けたたましい悲鳴を上げた――はずだったが、実際に喉から出たのは叫び声ではなく、蚊の鳴くような、頼りなく掠れた呼びかけだった。
「……アルファード?」
「どうした?」と、アルファードの、深く静かな、暖かな声が応えた。同時に、里菜の左手と鼻先が、立ち止まったアルファードの背中にぶつかった。布地越しに、アルファードの体温が伝わってきた。その温もりはまぎれもなくアルファードのものだと、里菜は信じられた。
 里菜はそのまま、アルファードの逞しい背中にそっと手を当てて、その温もりと確かな質量を確かめた。シャツの下で盛り上がる筋肉のしっかりした手応え。微かな汗の匂い。呼吸につれて胸郭が動くのが分かる。生きて、呼吸している、まぎれもない現実の肉体。躍動の力を秘めて静かに息づいている、生命の温もり。
 その、堅固な現実の感触が、里菜の、闇の中で霧散しかけていた希薄であやふやな肉体と自我をも再構成して、物質の世界に連れ戻してくれるような気がした。
 本当は、さっきからずっとそうやって安心したかったのに、手を伸ばした時に何に触れるかわからないという悪夢めいた恐れから、たった今アルファードの声を聞くまで、里菜は自分の前方の何かに触れる勇気がなかったのだ。
 けれど、今、里菜の掌の下に、間違いなくアルファードの背中がある。そういえば、アルファードの家で初めて目覚めたあの日に自分をまず惹きつけたのは彼の後ろ姿だったのだと、里菜はふと、思い出した。すると、あの家での幸せな日々の思い出が胸いっぱいに広がって、心の中に、暖かい灯が点ったような気がした。
 そう、あれからずっと、里菜の前には、いつも、アルファードの広い背中があった。里菜の大好きな、アルファードの背中。ゆったりと大きな、力強く頼もしい、暖かな……。
「……なにしてるんだ、君は?」
 アルファードの、不審げな、そして幾分気味悪そうな声に、里菜は、はっと我に返って弾かれたように手を離した。どうやら自分は、知らないうちにアルファードの背中をぺたぺたと撫で回してしまっていたらしい――。
 里菜はうろたえて火が出るほど赤面したが、なにしろ真っ暗闇の中なので、赤面したところで気づかれる心配がないのは救いだった。
「ごっ、ごめん! なんでもないの。ただ、何も見えないから、アルファードがそこにいないような気がして……、それで、ちゃんとそこにいるって、確かめたくて……」と、声に出して言ってみると、里菜は急に、自分がすごくばかげたことを言っているような気がしてきて、何だか笑われそうで、だんだん声が小さくなり、語尾が立ち消えてしまったのだが、アルファードは、笑わなかった。
「そうか。……別に手を離さなくてもいい。そのまま、つかまっていろ。これからは、時々声をかけあって進もう」と、常に変わらぬ真面目な声で提案してくれた。
 その提案通り、ふたりはときおり小声で呼びかけあいながら、慎重に歩を進めた。足も手も確かに石に触れているのだが、目が見えないというだけで、ふたりは、まるで何もない暗闇の中に浮かんで漂っているような奇妙な感覚を味わっていた。
 そしてやがて、里菜は、それ以上に奇妙な感覚を覚え始めた。自分たちはたしかに上に向かう階段を昇っていたはずだし、足の動きにしても、やはりたしかに一段ずつ階段を昇る動作を繰り返しているのだが、なぜだか、自分が下に降りていっているような気がするのだ。それを裏付けるように、下から上がってきていたはずの熱風が、今は正面から顔に当たる。
 しばらく逡巡したあと、里菜は思い切ってそれを口にした。
「ねえ、アルファード。なんだか、どんどん下に降りていってるような気がしない?」
「リーナ、君もか。俺も実は、さっきからそんな気がしていた。どう考えても、そんなわけはないんだが……」
 アルファードが足を止めたので、里菜はまたアルファードの背中に鼻先をぶつけた。その背中に両手でしっかりつかまっておそるおそる目を開けると、いつのまにか周囲は、ごくわずかにだが薄明るくなっていて、アルファードの背中と、すぐ横の壁だけがぼんやりと見えた。
 いつのまにか、風が含む熱気はますます強まり、狭い空間は、ひどく暑くなってきていた。アルファードのシャツが、ぐっしょりと湿って背中に張り付いている。里菜も、気がつくと、熱さと緊張のためにじっとりと汗をかいていて、首筋や背中を汗がつたって流れ落ちていた。吹きつける熱気に、何か、きな臭いような、かすかに生臭いような異臭が混ざり始めたような気もする。
「アルファード、どうしよう? 引き返す? なんか、どんどん熱くなってこない?」
 里菜が囁くと、アルファードは壁から手を離して振り返った。
「いや、このまま進もう。引き返しても、もとのところに戻るだけだろうし、まっすぐ階段を昇ろうとしてここへ来てしまったということは、魔王が俺達をこっちへ誘導したということだろう。もちろん罠かもしれないが、ここは魔王の根城だ。罠を避けて魔王のところへたどり着くことなど、どうせ出来ない。それに、少なくとも、魔王はここで君をことさら危険な目に――少なくとも身体的に危険な目には――あわせる必要はないはずだ。魔王がしかける罠は、きっと俺と君を引き離すためのものだろうから、危険があるとすれば俺のほうだが、俺なら自分でなんとかする。罠なら罠で、そこを突破するしか道はない。そうしなければ君と一緒に魔王のところへ行くことはできないだろう。このまま行こう」
「……やっぱり? 実はあたしも、そう思ってたの」
 わずかとはいえ明るさが漂い始めたので、ふたりは壁から手を離し、剣を抜いて、そろそろと進み始めた。たしかに魔王は、たぶん、里菜をあえて傷つけようとはしないだろうが、こんな気味の悪いところには、魔王の統制の及ばない、どんな危険なものが潜んでいるか知れたものではない。そして、魔王が、そういうものからまで里菜をわざわざ守ってくれようとするとは思えない。なんといっても、彼は死神で、里菜が生きていようが死んでいようが手に入れるのに支障はないと明言していたのだ。一応、里菜をなるべく今の人間の身体のまま手に入れたいとは言ってはいたものの、同時に、それはちょっとした酔狂にすぎないのだとも言っていた。それに、もし魔王に助けられたとしたら、その時はおそらく、里菜はすでに相手の手中だろう。敵である魔王の保護など、あてにするわけにはいかない。用心を怠るわけにはいかないのだ。

<前へ || 次へ>


しおりを挟むノベルウッド提供『しおり機能』対応)
感想掲示板へ
『イルファーラン物語』目次ページへ
トップぺージへ

の作品の著作権は著者冬木洋子(メールはこちらから)に帰属しています。

掲載サイト:カノープス通信
http://www17.plala.or.jp/canopustusin/index.htm