長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語 

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 <第三章 イルベッザの闇> 

(第二章までのあらすじはこちらから




 ざわめきに紛れそうなその声に、けれどもローイは、さっと振り向いた。
 振り向きざまに、ローイは、アルファードが投げた一枚の硬貨を受け止めた。
 硬貨の飛んできた方角を素早く見渡したローイの視線と、人垣の頭越しにまっすぐにローイを見つめるアルファードの視線が、一瞬だけ空中でぶつかり合うのが見えたような気がした。
 直後、ローイは、なんとなくばつが悪そうについと目をそらしながら、
「ああ、あんたらか……」とだけ呟くと、そのまま、里菜とアルファードの視線を避けるように楽器に上に屈み込んで、和音をひとつ鳴らした。
「よし、次は『エレオドラの星』だ。南部の歌だが、みんなちょっと聞いてみてくんな」
 客たちの一部からかすかに起こった不満げなざわめきも、前奏が流れ出すとすぐに収まり、酒場はふたたび静まりかえった。
 流れ出したのは、村の宴会や旅の夜の語らいに、里菜も何度か聞いたことのある懐かしい歌だった。
 エレオドラ山の上に輝く銀の星を眺めている幼い恋人たち。少年は、「大きくなったらあの星を君に取ってあげる」と誓う。やがて時は流れ、少女は大人になり、村を出ていく。幼い日の約束は忘れられ、それでも秋が来れば、故郷の山のかなた、星はあの日のままに輝く――。
 ローイお得意の、牧歌的でセンチメンタルな恋の歌である。エレオドラ地方の古い民謡にローイが自作の歌詞を載せたもので、村に居た頃、ローイの十八番だった歌だ。
 けれどローイは、北部からの出稼ぎ者が客の中心であるこの店で、今まで、この南部の歌をあまり歌わなかったし、歌う時も、北部の地名を盛り込んだ別の歌詞をつけていた。そして、その歌詞には、もちろん別のタイトルがついていた。
 だから、『エレオドラの星』というタイトルでこの曲を所望する声を聞いた時、彼は、はっとして振り向いたのである。
 曲が終ると、ローイは、
「南部の歌もなかなかいいじゃないか」などと呟いて次のリクエストをしようとする聴衆に、
「悪いが、今日、ちょっとここまでな。まあ、みんな楽しくやってくれや」と軽く手を振ってひょいと立ち上がると、硬貨が入った帽子を拾い上げた。そして、アルファードと里菜についてくるようにと目で合図をして、沸き起こった不満のざわめきをしりめに、さっさと隅の席にひっこんでしまった。
 ついてきたふたりに隣の椅子を示しながら、我が物顔で席に着いたローイは、
「そこ、座れよ。酒、奢るからさ。あ、リーナちゃんは何か冷たいお茶とか果実水なんかがいいのかな。ミルクもあるぜ。ああ、何かつまむものもとろうな。ここ、けっこう美味いぞ。少なくともあんたらの宿舎の食堂よりはぜったい美味いはずだ。食ってけや。おーい、ニーニちゃん!」と、ウェイトレスらしいエプロン姿の女の子を呼びつけて、ひとりで勝手にあれこれ注文しはじめた。
 ニーニと呼ばれた娘は、アルファードと里菜にちらりと目を走らせて、妙に馴々しくローイに頬を寄せるようにして尋ねた。ちょっときつめだが、なかなかかわいい顔立ちの娘である。
「知りあい?」
「ああ、まあ、同郷の古なじみなんだ」
「この女の子も?」
「ああ、まあな」
「ふーん……。こちらの彼、ちょっとすてきじゃない。逞しくて」
「ああ、こいつがあの、<ドラゴン退治のアルファード>だぞ。いつも言ってただろ、アルファードは俺のダチだって」
「えーっ、うそっ、それって、本当だったのォ! てっきり、ただのフカシだと思ってた。ステキ! どうりで強そうなわけね。紹介して!」
「うん、ニーニちゃん、こういうタイプ、好みだったよな。でも、こいつに色目使っても無駄だぜ。がちがちの堅物の女嫌い」
「うそぉ、こんな逞しい、男の中の男が、どうして? 勿体ない」
「いいから、仕事、仕事。酒、持ってきてよ」
「何よぅ、自分はさぼってて……。じゃあ、おふたりさん、ごゆっくりね」
 そう言って、エプロンの後ろのリボン結びを揺らしながら腰を振って立ち去っていくニーニのなかなか色っぽい後ろ姿を、里菜は思わず横目で睨みながらローイに尋ねた。
「何、あの子?」
「何って、見ればわかるだろ。この店の従業員だよ。皿運び。俺の同僚さ。俺、ちゃんと、この店の従業員なんだ。ただの流しの歌うたいとは違うんだぜ。歌うたい兼給仕手伝い兼用心棒ってとこ。手が空いたときには掃除や皿洗いまで手伝って、真面目に働いてんだ。まあ、最近は歌うたいのほうで人気が出ちまって、皿洗ったり料理運んでるヒマなんかないけどな」
「え、じゃあ、仕事さぼって、こんなとこで座り込んでていいの?」
「いいの、いいの。客の話し相手も仕事のうち。皿運びはニーニちゃんにまかせとこ。あの子な、ちょっと蓮っ葉じゃああるけど、あれでなかなか気のいい娘なんだ。ちょっとばかし態度が悪く見えても、悪気はないんだから、まあ、許してやってや」
 そこへ、さっきの人込みからローイを追って抜け出してきたらしい女性――娼婦たちとは服装が違うから、どうやら店の客らしい――が、後ろからローイの肩に手をかけて言った。
「ルディ、忙しいの?」
「う、うん、まあな。いや、ちょっと昔のダチが来てくれたんで、話がしたいと思って」
「そう。じゃあ、お友達とのお話が終ったらでいいんだけど、今夜、あたしと付き合わない?」
「いや、悪いなあ、何しろすっげえ久し振りに会った同郷の仲間なんだよ。今夜は語り明かそうと思ってるんだ」
「残念だわ。じゃあ、また今度、ね?」
「あ、ああ……、また、そのうちにな」
 思わせ振りにローイの頬を一撫でして立ち去っていく女の後ろ姿を睨みながら、里菜はちょっと声を尖らせた。
「ローイ。あのひと、何?」
「何って、そりゃあ、この店の客だよ……。最近、もう、どこの店も女の客なんてほとんど来ないんだが、ここは最近、俺目当てに、結構、女の客も来るんで、おやじも喜んでるんだ。やっぱ、女の客がいるといないとじゃ、店の雰囲気、違うからなあ。……な、何、睨んでるんだよ。俺が人気者なのは仕方ないじゃん。なにしろ、この美貌に、この美声、おまけに時代を先取りしたこの素晴らしいファッションとくりゃあ……」
「ローイ。あなた、ほんとにここで、歌うたったりお料理運んだりしてるだけなの? それに、ルディって、あなたのこと? なんで偽名なんか使ってるのよ」
「べ、別に、偽名じゃねえよ。最近、巷じゃ、こういうふうに名前の真ん中へんから愛称を取るのが流行ってるの。ほら、よく、同じ名前が身近に二人いると、区別がつくように真ん中から愛称を取るじゃん。村にも、ドリーっていたろ? エレオドリーナの、真ん中を取って、ドリー。で、都会じゃ人が多いからそういうケースが多くて、それで、そのほうが都会的で今風だっていう風潮になったらしいわけ。ローイなんてのは田舎臭いから、このほうがいいって、みんなが……」
「あたしは、ローイのほうが絶対いいと思うわ!」
「じゃあ、あんたは、そう呼んでくれよ。そんなの、好きな方でいいんだよ。でも、この店じゃ、俺はルディなんだ。他の名前で呼び出そうとしても俺のことだとわかってもらえねえから、そこんとこは覚えといてな」
「へえー、そんならそれはそれでいいけど、で、あの女の人は、どういうこと?」
 里菜の厳しい追及に、ローイはたじろいで、
「あのさあ、リーナちゃん、せっかくひさしぶりに会えたんだ、そういうどうでもいいことは横に置いといて、楽しく語りあおうじゃねえか、な?」と、馴々しく里菜の肩に手を回そうとしたが、間髪を置かずに払い除けられた。
 そこへ、ニーニが酒と料理を持ってきたので、ローイは、救われたとばかり、運ばれた料理についてあれこれペラペラと解説しながら里菜に勧め始めた。
 ところが、救われたと思ったのは一時のこと、料理の皿をテーブルに置き終ったニーニが、里菜たちを横目で見ながら身を屈め、ローイに囁いたのだ。
「ルディ、今日、お店がはねたら、あたしの部屋へ来ない?」
「わ、悪いなあ、俺、今日はちょっと……。そうそう、これから、俺の部屋で、この古なじみと語り明かして、そのまま泊まってってもらおう、なんて……。な、そうしようぜ」と、ローイはアルファードを振り返って言った。
「あんたら、別にこれから仕事ってわけじゃないだろ? どうも、ここじゃファンの女たちがうるさくて、ゆっくり話も出来ないからさあ。うん、スターは大変なんだ」
 ローイは、もう完全に開き直ってへらへら笑っている。
「と、いうわけでさあ、ニーニちゃん、俺、今夜、ちょっと早引けさせて貰うから、おやじさんに話しといてくんない?」
「いいけど、もう真っ暗よ。いくら近くでも、これから外へ出るなんて危ないわ」
「平気、平気。何しろ、ここにいるのは、かの<ドラゴン退治のアルファード>だぜ。ほら、こんなとこへ来るにも、しっかり剣なんかぶら下げてさ。どこ行くにもこれだけは持ってないと落ち着かないっていう野郎なんだよ。その上、こっちのかわいこちゃんはな、なりはちっちゃいが、なんと、かの有名な<魔法使いのリーナ>だ。噂の最強コンビさ。何も怖くなんかあるもんか」
「へえー、あなたが、あの……? ほんっとに、こんなちっちゃい女の子なのねえ。すっごーい! これからもがんばってね、応援してるわ!」と、ニーニは、初めて里菜に親しみのこもった笑顔を向けた。そんな様子を見ると、確かに気のいい娘らしい。
 が、そう思ったのも束の間、ニーニは立ち去りぎわに、 
「じゃ、ルディ、気をつけてね。あしたは絶対あたしのとこへ来て。約束よ。ね!」と、ローイの頬に素早いキスをしていったので、里菜はまたしてもムッとした。ローイが誰と何をしようと、里菜は文句を言える立場ではないのだが、やっぱり何だか面白くない。
(やきもちなんかじゃないわ。これはヴィーレのためよ! ヴィーレのために怒ってるのよ! 何よ、ローイってば、へらへらしちゃって)
 里菜の冷たい視線に気づいたローイは、慌てて、いっそうへらへらとしゃべり出した。
「あ、あはは、リーナちゃん、俺、モテちゃってさあ。な、なんだよ。だってさあ、こんな美形で、話術も巧みでセンス良く、その上、心優しく気配り細やかときちゃ、モテないわけないだろ? 嫌でもモテちまうもんは、しかたないじゃん。さ、じゃあ、まあ、とにかく、このつまみだけ、軽く飲みながら食っちまおうぜ。これ、ほんと、美味いんだからさ。で、後は俺の部屋で、ゆっくり語り明かそうや。……あんたらの活躍は、いろいろと噂に聞いてるぜ。俺もここで歌だけじゃなくて話なんかもしてるが、あんたらの村での活躍をよくネタにさせてもらってるんだ。みんな、あんたらがここへ来る前のこととか、全然知らないからさ。巷に正しい情報を広めるのも、あんたらの友達である俺の役目だろ!」
 その時、ずっと黙っていたアルファードがいきなり口を挟んだ。
「ローイ。お前、俺たちの噂を聞いていたなら、俺たちがまだ軍にいるのはわかってたんだろう。何で今まで連絡してこなかったんだ。俺は、最悪の場合、お前がとっくに死んでいるかもしれないとさえ考えていた」
 ローイはきまり悪そうに頭を掻いた。彼はその辺の話題を持ち出されたくなくて、わざとひっきりなしにしゃべり続けていたのである。
「ああ、そりゃ、悪かったなあ。別に大した理由はなかったんだ。ただ、まあ、あれこれとあってさ。最初のうちは仕事もねぐらも転々としていたから、ちゃんと一か所に落ち着いたら連絡しようと思ってたんだ。そうこうするうち、あんまり間が開いちまったんで、なんとなく今さら連絡するのもきまりが悪いような気がしてさあ。いや、そんなに心配かけてるとは思わなかったよ。悪かった」
「心配かけたどころじゃないわよ、ローイ。アルファードはこの半年、ずうっとあなたを探し続けていたのよ! もう、ひとりで苦労して、しらみつぶしに探したんだから。ね、アルファード」
「ああ、さすがにシエロ川の底さらいまではしなかったが……」
「……あんたが言うと冗談に聞こえないから怖いや。あんた結構執念深いとこありそうだからなあ。しかし、よく半年も、しつこく探し続けたもんだ」
「なによ、そんな、人ごとみたいに。友達だもの、あたりまえじゃない。アルファードがどんなにあなたのことを心配してたと思うの! そりゃ、アルファードは、そういうことあまり口には出さなかったけど、あたしにはわかってたわ。それに、あたしだって……」
「俺がいなくて、寂しかったか?」
「……うん」
「おお、そうか、そうか、よしよし」
「よしよし、じゃないわよ! もう、バカ!」
「おっ、ひさしぶりにあんたの『バカ!』を聞いたなあ。ずっと聞きたかったんだ……」
「じゃあ、もっと早く自分から聞きにきてくれればよかったのに! いくらでもバカって言ってあげたのに! ローイって、ほんとにバカよ!」
「あのさ、『バカ!』も聞きたかったけど、『ローイ、会いたかったわ!』とか、『毎日あなたのことばかり考えていたの』とか、そういう、愛のこもったやさしい言葉のほうがもっと聞きたいんだけど。できればそれに熱い抱擁とくちづけもつけてさ」
「バカッ!」
 そこへアルファードが、また、強い調子で口を出した。
「ローイ。お前、やっぱり、わざと名前を変えてたんじゃないか? 歌うたいのルディという名なら、俺も何度か噂に聞いた。お前がローイと名乗っていれば、俺はとっくにお前を見つけていたはずだ」
「ああ? 被害妄想、被害妄想。あんたみたいな内にこもるタイプは、そういう妄想に取りつかれ始めるときりがないぜ。とにかく悪かったよ、心配かけたことは謝るからさ、そういうことはもう水に流して、な? じゃ、俺の部屋行こう、すぐ近くだから。まあ、狭いし汚いとこだけど、この店の二階なんかよりゃあましだぜ。俺、ちっとは稼いでるから。ここで歌いはじめて最初のころはここの二階に住んでたんだけど、それだと女どもがおしかけてきてうるさいからさ。俺だってたまにはひとりになりたいもんな」
「ローイ! そんな、ひとりになる間もないほど女の人が出入りしてたわけ?」
「リーナちゃん……。あんた、結構おっかないな。少し性格きつくなったんじゃない? 半年前はもっとかわいかったぜ」
「な、なによ、あなただって……。そりゃあ、前から女たらしだったけど……」
 そう、ローイもやっぱり、どこか変わってしまった。どんなに派手な格好をしていても彼をかかしのように見せていたあの純朴さが、失われたような気がする。それに、なんだか、へらへらしているのに、悲しそうだ……。
 うらぶれた路地を辿ってローイの部屋へ向かう道々、里菜は尋ねてみた。
「ねえ、ローイ、なんであんな悲しい歌、歌うの?」
「なんでって、そりゃあ……、まあ、ウケるからさ。あんたも見たろ、客が泣いてるの。俺は歌で飯食ってんだ。あ、念の為言っとくが、何も、女で飯食ってるわけじゃないんだぜ。商売なんだから、ウケるものを歌わなくちゃ。でも、悲しい歌しか歌わないわけじゃないんだ。気分を引き立てるような楽しい歌やら、粋で色っぽい恋の歌やら、自分の作ったのも元から酒場で歌われてるのもいろいろ歌うよ。でも、ここいらじゃ、やっぱり、あの手の歌が、一番、客の心を掴むんだよな。ほら、みんな、帰るクニをなくした北部の百姓だからさ。
 ……俺さ、昔は北部のやつって、知りもしないのに嫌ってたんだけど、知りあってみればみんな結構、いいやつなんだ。もちろん中には嫌なやつもいるが、それはどこのやつでも同じだろ。それにみんな、さみしいんだ。みんな、放浪者なんだよ。俺もまあ、いってみりゃ出稼ぎ者だから、わりと気持ちがわかるんだよな。俺、やつらのために北部の歌を歌うの、嫌じゃない。やつらを泣かしてんのも、ただ金のためだけじゃなくて……。泣くってのは、別に、よくないこと、辛いことじゃないんだ。やつらは、泣いたほうが悲しくなくなれるのさ。ああして今夜泣いておけば、また明日から、何とか生きていけるんだ」
「……ローイも、寂しかったのね? ローイもふるさとを失くして……」
「い、いや、俺のクニは別に失くなっちゃいないさ。帰る気になりさえすれば、いつでも帰れるんだ。根なし草のあいつらとは違う……。ただ、少しは気持がわかるってだけさ。俺、毎日、面白おかしく過ごしてんだぜ。みんながああして俺の歌に涙してくれるってのも歌うたい冥利につきるし、女にゃモテるし、酒は飲めるし。俺ってさあ、この業界、根っから向いてるんじゃねえかなあ。昔から宴会の盛り上げって得意だったしさ。歌は歌えるし話は出来るし、顔もよければ愛想もいいし、目はしはきくし気配り細かいし、おまけに何をやっても器用で腕っ節まで強いもんで、おやじにも重宝がられてかわいがられて、客の人気も抜群! 特に女の客は、一人残らず俺がお目当て。もう、天職だね。おっと、ここ。俺の部屋、ここの二階。階段、腐ってるから気をつけてな」
 ローイの部屋は、窓際に寝台がひとつと壁際に小さなたんすがひとつ、それにテーブルと物入れを兼ねているらしい木箱が部屋の真ん中にひとつぽつんと置かれているだけの、殺風景な狭い部屋だった。結構散らかってはいるが、なんとなくそこできちんと生活が営まれているという感じのしない、あまり使われていなさそうな部屋である。
 案の定、ローイはこう言った。
「さあ、散らかってるけど、入ってや。俺、普段あんまり、ここ使わないんだ。店が終った後、わざわざ帰るの面倒くさいから、二階が空いてればたいていそこで泊まっちまうし、そうでなくても……」と、ローイはそこで気がついて後の言葉をうやむやに濁したが、里菜はごまかされなかった。
「それか、誰か女の人の部屋に行っちゃうんだ? お店の二階で泊まる時も、女のお客さんと一緒だったりして?」
「リ、リーナちゃん……。あんた、ほんとに追求厳しくなったなあ……。なんか、あったの? あの素直でおとなしい女の子が、こんなにおっかなくなっちゃうような?」
「あ、あたしは別に変わってないわよ! ローイが、ローイが……」
 里菜がそんなふうにローイに詰め寄っていたのは、ローイにとっては、むしろ幸運なことだった。里菜が、部屋の様子を検分するよりローイを糾弾するのを優先しているあいだに、アルファードのほうは、隅のたんすの上でくしゃくしゃになった女物の靴下止めを見つけてしまい、里菜に気付かれないうちにと、それをそっと背中に隠したのだ。
 しばらくして里菜が出しっぱなしの汚れた食器に気を取られた隙に、アルファードは、
「おい……」と、ローイを肘で小突いて、靴下止めをこっそり後ろ手で手渡した。
「うわっ、やっべえ! アルファード、悪りぃ」と、ローイはあわててそれを寝台の下に足で蹴り込んで、
「え、何、何?」と振り返った里菜に、こう言って、とぼけてみせた。
「いや、床に腐った団子が落ちてたもんで、捨てた。リーナちゃんが踏まなくてよかったよ」
「やだぁ、汚い。だいたい、このお皿、なに? いったい、いつ使ったの?」
「ああ、これ? ええと、前にここで飯なんか食ったのは、四、五日前かなあ……」
「えーっ、やだ! そのこびりついた食べかす、きっと腐ってるわよ! 気持ち悪くて触れない!」
「大丈夫、それはそのまま放っといていいよ。これから酒を飲むのに使うお碗は洗ったのがあるから」と、壁の飾り棚からお椀を取ったローイの正面にアルファードが進み出て、真面目な顔でまっすぐにローイを見た。
「ローイ。お前がどんな暮しをしようとお前の自由だが、これだけは言っておく。ヴィーレに言えないようなこと――いつか村に帰った時、ヴィーレの前で胸を張って、都でこんなことをしてきたと話してやれないようなことだけは、するな」
 とたんに、さっとローイの顔が強張った。血相をかえたローイは、いきなり乱暴にアルファードのむなぐらを掴み、その顔を睨みつけながら低く鋭く言った。
「二度と俺の前で、ヴィーレの名を口に出すな! ヴィーレはもう、俺とは何の関係もねえんだ。あんな田舎のイモ娘なんか、もう、どうだっていいんだよ!」
 その、今までローイが見せたこともないような荒んだ気配に、里菜は怯えて立ちすくんだ。アルファードを怖いと思うことはたまにあっても、ローイを怖いと思ったのは、里菜は初めてだった。この時のローイは、一瞬まるで本物のやくざもののように見えたのだ。
 だが、アルファードは全くひるまなかった。
「なぜだ。どうだっていいなら、なぜそんなにヴィーレのことを言われたくないんだ」
 ローイは叩き付けるように喚いた。
「うるせえ! あんたにヴィーレのことをとやかく言われたかねえ! こんどその名前を口にしたら、その不細工な鼻っぱしら、ブン殴ってやるぜ。言っとくが、俺はあんたなんかちっとも怖くねえんだ。最近わかったんだが、俺のほうがあんたより強いのさ。俺には平気であんたが殴れるが、あんたにゃ俺は殴れねえからな。そうだろう、え?」
 アルファードはあくまで穏やかに応えた。
「……まあ、そうかもしれない。俺はお前を殴れない。手を放せ。リーナが怯えている」
「あ、ああ、すまねえ。悪かったな、つい、かっとしちまって。座れよ。飲もうぜ」
 そう言って、床の敷物の上にどすんと腰を降ろしたローイは、もう、もとの愛敬者の顔に戻っていた。それでも里菜は、まだ少しローイが怖くて、黙ったまま、なんとなくローイから少し離れて座った。
 それからローイはひとりで大酒を飲みながら、何か言いたそうな里菜にその隙を与えてはならじとばかりに、どうでもいいようなことを奔流のようにしゃべりちらし、再会の夜は更けていった。
 しばらくしてアルファードが、ローイの話を強引に遮ってぽつりと言った。
「ローイ。俺たちと一緒に来ないか? 魔物退治がいやなら、手続き上だけ俺たちとチームを組んだことにして宿舎に入って、何でも好きなことをしていればいい」
「え、やだよ、俺、そんなの。それであんたらの稼ぎで食わせてもらうわけ? 俺、そんなとこで、仕事もしないで何してればいいわけ?」
「働かずに遊んでいるのは、お前の得意じゃないか」
「だって、そりゃあ、からかって遊べる女の子でもいればいいけど、軍の宿舎なんて男ばっかでむさいとこでぶらぶらしてんのは、ちょっとなあ……。あ、でも、隣にゃ女子宿舎があって、たしか談話室までは出入り自由なんだっけか。おお、それに治療院にゃ、妖精の血筋のかわい子ちゃんがわんさか……。いや、いや、だからってなあ。……いいよ、俺、ここも、今の仕事も、気にいってるから。さっきも言ったろ。この仕事、俺に合ってるんだ」
「だが、お前は、あまり幸せそうに見えない」
 いきなり核心をつかれて、ローイはちょっとうろたえた。
「な、なんでだよ。なんで、そんなこと言うんだよ。俺は毎日楽しくやってるよ。村にいたころみたいにあれこれうるさく言うやつはいないし、食うにも寝るにも酒にも女にも不自由しないし、好きな歌を歌って人に喜ばれてさ。……それに、じゃあ、なにか? あんたらと軍に入れば俺が幸せになれるってのか? あんたらだって――特にリーナちゃんは、俺よりたいして幸せそうに見えないぜ」
 今度は里菜が多少うろたえたが、アルファードはゆるがなかった。
「ローイ。少なくともここで自堕落な生活を送るよりは、俺たちと来たほうがお前のためだ」
「何だよ、俺はちゃんと真面目に働いてるんだぜ。歌うたいが悪いってのかよ。村じゃ、よく、年寄り連中に、男のくせにピーピーと歌なんか歌ってって言われたもんだが、ここじゃ誰もそんなこと言わないぜ」
「いや、歌はいいんだ。歌うたいが悪いというんじゃない。それだって立派な仕事だ。歌は人の心を慰める。ただ、俺は、お前の暮しぶりが荒れていると言っているんだ」
「何だ、そりゃあ。女のことを言ってるのか? だったら、おおきなお世話だよ。俺が何しようと、あんたに説教されるいわれはないぜ。何だってあんたは、そんな偉そうに俺に説教なんかするんだ? あんた、俺の、何だ? 俺はなあ、実の親父にだって女のことで説教されたことなんかないんだよ!」
 アルファードは至極冷静に指摘した。
「それはそうだろう。お前の親父さんが亡くなったのは、たしかお前がここのつかそこらのころじゃないか」
「ま、まあ、そういえばそうだったな。……とにかく、俺は誰の指図も受けねえんだよ」
 そう言って、ローイは、そのまま目をそらし、しばらく黙ったまま、ひとりで勝手に酒を飲んでいたが、ふいに立ち上がった。
「さぁて、と。悪いけど、俺、やっぱり店に戻るわ。せっかく俺の歌を聞きにきてくれた客に悪いからな。みんな俺の歌を楽しみにしてきたんだ。……ひさしぶりに話ができて嬉しかったぜ。また、一緒に飲もうや。何も俺があんたらと一緒に行かなくても、これからはあんたらがそっちから来てくれればいつでも会えるんだから、それでいいじゃん。ああ、この部屋に来ても、俺、滅多にいないから、会いたい時は店に来いよ。酒、奢るからさ」
「……ローイ!」と、立ち上がった里菜に、
「リーナちゃん、悪いが、今夜はあきらめてくんな。俺と一晩付き合いたいっていうお嬢さんたちは行列つくって順番待ちしてるんだ。いくら古馴染みだからって、割り込みはいけねえや、な」と、ローイはふざけたウィンクを送った。
「そ、そんな……。ローイ、ふざけないで! ね、もう少し話し合いましょ」
「俺は、もういいよ。悪いな。また今度な。そうそう、あんたら、どうせ今日はもう仕事はしねえんだろ? 俺、明日の朝はここへは帰らないから、朝まででも昼まででも、ここ使ってていいよ。一眠りして帰れば? あんたらが俺の寝台で一緒に寝ても、俺はちっとも気にしないぜ」
 里菜とアルファードが、その言葉にぎょっとするのを見て、ローイはあきれたように言った。
「なんだよ、なんだよ。何もそんなに思いっきりぎょっとすることないじゃん。俺が何かよっぽどとんでもないこと言ったみたいに……。あんたらって、今だにそういうふうなわけ? まあ、いいけどさ。別に、無理に一緒にとは言わねえよ。アルファードなんか、そのへんの床の上で十分だ。じゃあな」
「おい、待て、ローイ。店まで送る」
「いいよ。俺は護衛がいるほどやわじゃねえ。汚ねえとこだけど、ゆっくりしてきなよ」
「いや、どうせ帰るから、ついでに送る。リーナ、行こう」
 深夜の路上を、三人は無言で歩いていった。蒸し暑い真夏の夜、石畳に足音がくぐもって響いた。
 里菜は、淋しかった。ローイに再会する前より、もっと淋しかった。ものごとは、自分が思っていたより、もっとどんどん変わってしまっていたらしい。これからも、変わっていってしまうのだろう。親しい人が、遠くなってしまうのだろう――。


 アルファードとふたり、宿舎の前に帰り着いた里菜は、そこで立ち止まり、おやすみを言って立ち去ろうとするアルファードのシャツを引っ張って引き止めた。アルファードはけげんそうに振り向いた。
「何だ、リーナ」
「……アルファード。ローイは、帰ってこないのね……。何だか、何もかも、変わっちゃったみたい。あなたも……」
「俺は別に変わってはいないと思うが」
「ね、アルファード。あたしたち、また、村にいたころのように一緒に住まない? 近くに小さな家を借りて……」
「何でそんな必要がある? ここで十分じゃないか」
「だって、アルファード……。あたし、もっと……、ずっとあなたのそばにいたいの」
 ためらいがちにうつむいて言う里菜から、アルファードは目をそらした。
「今だって、ほとんど一日中、そばにいるだろう。仕事も一緒だし、食事もたいてい一緒だし、夕方の空き時間も、君に馬の乗り方なんかを教えたりして一緒に過ごすことが多かったはずだ。あとは、離れているのは寝る時くらいで、その時は寝る場所が隣の部屋だろうと隣の建物だろうとたいした違いじゃないじゃないか、どうせ寝てるんだから」
 それまでうつむいていた里菜が、突然、敢然と顔を上げ、アルファードをまっすぐ見つめた。その頬が赤く燃えているのは、最初は恥ずかしさとためらいのせいだったが、今は、里菜が自分からここまで言ってもまだそらっとぼけてはぐらかそうとするアルファードへの怒りともどかしさのためだ。怒りがためらいに打ち勝ち、里菜は開き直って、怒りに輝く瞳で挑むようにアルファードを睨みつけた。
「アルファード。隣の部屋じゃ隣の建物とたいして違わないって言うなら、あたしはあなたと一緒の部屋でいいのよ。一緒の寝台だっていいんだから!」
 普段おとなしい里菜にいきなり攻勢に回られて、アルファードはぎょっとして後ずさりながら、口の中でぼそぼそと言った。
「リーナ……。滅多なことを言うもんじゃない……。君は、俺なんかにそんなことを言っちゃいけない。いけないんだ……」
「なぜ? アルファード、あたしが嫌い?」
「……いや。だが、俺は……。俺は、魔法も使えない役たたずだ。俺なんかと一緒になっても、君は幸せになれない。君はいつか、君にふさわしい相手を見つけて幸せになればいい。今の話は、おたがいに忘れて、今夜から、また一緒に仕事をしよう。じゃあ、おやすみ」
 里菜の瞳にみるみる盛り上がる涙を見ないように目を背け、アルファードは、逃げるように立ち去った。
 里菜はその場に立ち尽くし、涙に潤む目で、遠ざかるアルファードの背中をじっと見つめていた。


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掲載サイト:カノープス通信
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