長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語 

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 <第三章 イルベッザの闇> 

(第二章までのあらすじはこちらから




 イルベッザの春の闇は、ぼとりと重く湿っている。
 路地にひしめく小さな貧しい家々の傾きかけた低い石塀の向こうには、それでもそれぞれ、壁と塀とに挟まれた僅かな隙間に果樹や花木が植えてあって、乏しい土になんとか根を張っているいじけた木々も、春にはやはり、この時とばかりに必死に花をつける。甘たるい花の香りが、かすかにドブ臭い裏街の臭気と混じりあって闇に満ちる。
 生ぬるい夜気をかきわけて、細い三日月に照らされたアルファードの大きな背中が前を行く。その足取りは注意深く、右手には、油断なく構えられた抜き身の剣がおぼろな月影を映して鈍く輝いている。
 路地の奥に重たく淀む闇の中に、影のような灰色の姿がちらりとうごめくのを、ふたりは、今しがた、確かに見たのだ。
 里菜は、息を詰め、足音を忍ばせて、アルファードの背後に寄り添って進む。里菜の手にも、黄金の短剣が、抜き身で握られている。柄に嵌められた緑の石が繰り返す、呼吸にも似た明滅が、警告を発するように、しだいに激しくなる。
 前を行くアルファードの足が、ピタリと止まった。
「リーナ!」
 一声鋭く囁くと、アルファードは身体を低くして、あらためて剣を構えた。
 直後、さっきの暗がりとつながる石塀の陰から、物言わぬ小柄な灰色の姿が、抜き身の剣を恐れる気配もなく、片手をつきだした姿勢のまま、妙にふわりとした動作で飛び出してきた。鬼ごっこをしている子供のような、素早いがどこか無器用な、無邪気にさえ見える動きである。
 灰色の腕をひらりとかわし、アルファードは、すばやく魔物に切りつける。
 アルファードの剣から飛びすさった魔物は、片手で、招くような奇妙なしぐさをした。魔物特有の魔法のしぐさだ。
 だが、何も起こらない。
 里菜は、今ではそこにいるだけで、ほとんど自動的に魔物の魔法を封じてしまうのだ。
 魔物は、うろたえる様子もなく、あたりまえのように、今度はマントの下から剣を抜いた。
 普通の人間は、魔法を消された瞬間、必ず、あせったりひるんだりして、一瞬の隙ができる。が、魔物には、そういう心の動揺がない。ただ、折れた剣を投げ捨てて新しい剣を取るように、ためらわず防御法を切り替えるだけだ。
 それでも、魔物が剣を抜く、そのわずかな時間のロスは、アルファードにとって十分な攻撃の好機だ。魔物が剣を抜いた時には、アルファードはすでに、剣を構えて魔物の真正面に飛び出していた。
 そのまま、一度、二度、切り結ぶ。魔物が後ずさる。
 もうアルファードに刻印を与えることはあきらめたらしい魔物は、突然、常人では考えられないような不自然に早い動きで飛びすさり、再び塀際の暗がりに飛び込んだ。その姿が、たちまち闇に溶ける。
 アルファードは剣を構え直して闇に目を凝らした。
 どこから魔物が出てくるかわからない。里菜はそろそろとアルファードの後ろに移動しようとした。
 そのとたん、闇が突然、人の形をとって里菜に躍りかかった。
 影のようなマントをなびかせて、どこか存在感の希薄な灰色の姿が目前に迫る。
 里菜の手の中で、短剣がふいに重さを失った。まるでそこにだけ、突然の無重力状態が発生したかのように。里菜の反射神経が右手に命令を出すより早く、短剣が勝手に持ち上がろうとしたのだ。
 けれど、魔物が里菜に向かって片手を伸ばした瞬間、無防備になった魔物の正面に、アルファードが躍り出た。
 かすかな月明りに、音もなく剣が閃く。
 アルファードは、無表情のまま、魔物の心臓部を深々と刺し貫いていた。それはまるでごくあたりまえの日常の仕事をするように無造作で、ひたすら正確な動作だった。
 そのとたん、マントの中で、魔物の形がすっと溶けるように消え失せた。一瞬、内側から不自然な燐光をちらりと漏らして、マントはふわりと地に落ちた。白い煙がかすかに立ち昇り、すぐに消えた後は、灰色の染みのように石畳に残ったマントの下に、もう人間の形はない。ただの布切れだ。かすかに、不快な刺激臭だけが漂う。
 細いおぼろ月の下の短い無言劇は、里菜がその筋立てを理解する間もないほどあっけなく幕を閉じた。
「……二体目だ」
 血もついていない剣を鞘に収め、アルファードは淡々と言うと、石畳の上からマントを拾い上げ、無造作に腰のベルトに挟み込んだ。そこには、すでに一枚、魔物のマントが下がっている。
 灰色のそのマントは、血の染みがついているわけでもなく、別にどこが汚れているということもないのだが、何か不潔で気持ちが悪いような気がして、里菜は触る気にもなれない。が、アルファードは、そんなことは全く気にもならないらしい。
 ほとんど風のない夜だったが、その時、かすかに潮と魚の臭いのする風がそよいで、魔物が消えた後の異臭を散らしていった。
 イルベッザも下町のこのあたりは、海岸近い低地で、海寄りの西側に低い防風壁を持つ粗末な家々は、ほとんどが<風使い>と呼ばれる漁り人たちのささやかな住み処だ。彼らは、ごく局地的に風をあやつる魔法の技術を代々受け継ぎ、木の葉のような小さく頼りない帆かけ船で、つつましい沿岸漁業を営んでいるのだ。
「リーナ、今日はもう終りにしよう。……今回、魔物を君の方へ行かせてしまったのは俺のミスだ。怖かっただろう。すまなかった」と、アルファードは里菜を振り返った。その肩の上に、東の空低く昇った細い下弦の月が、白く潤んで浮かんでいる。
「ううん、怖くなかった。何だかよくわからないうちに終っちゃったし、それに、魔物はアルファードが絶対やっつけてくれるって思ってたから……。でも、アルファードは大丈夫? 怪我、しなかった?」
「ああ。大丈夫だ。帰ろう」
「うん。……アルファード、ごめんね。何だか、あなた一人で戦わせといて、あたしは何もしないで後ろでつっ立ってるだけみたい。それで報奨金は半分こだなんて、何だか悪いわ。もっとあたしにも、何かできること、ない? ほら、魔物を挟み討ちにするとか、おとりになるとか……」
 里菜はずっと、万一のためにとアルファードから剣さばきの講習を受けていたが、里菜の短剣はこれまで一度も実際に振るわれたことはない。ただ、魔物の探知機がわりにお守りのように持ち歩き、アルファードが戦う間、念のために抜いて持っているだけなのだ。
 けれど、里菜のこのけなげな言葉に、アルファードは苦笑した。
「いいんだ。君は十分働いている。君は魔物の魔法を封じてくれているじゃないか。君がいるから俺は戦えるんだ。君はそこにいてくれるだけでいい。下手に動くとかえってあぶないから、なるべくじっとしていてくれ」
 アルファードは笑ったが、里菜の心は重かった。自分が役に立っていない気がするのも理由のひとつではあるが、本当は里菜は、アルファードが自分なしではこの仕事ができないこともよくわかっていた。それがよけい辛かった。
(あーあ……。君はそこにいてくれるだけでいい、君がいるから戦える、か……。もっと別の状況で言ってくれたら、けっこうジーンときちゃうかもしれないセリフなのになあ。でも、本当に、ただ文字通り、そういう意味なんだもんね……。そう、たしかに、あたしは、今、アルファードに必要とされている。だけどそれは、アルファードにとって、いいことなのかしら。アルファードはこの仕事にすごく一生懸命だけど、ちっとも幸せそうじゃない……)
 たしかに、この魔物退治の仕事で、アルファードは目覚ましい功績を上げ、今では、ちょっとした英雄だ。そしてそれは里菜も同じことである。
 あの剣術のチャンピオン<ドラゴン退治のアルファード>が、再び都へやってきて軍に入ったという噂は、ミーハーなイルベッザ市民たちの間にあっという間に知れ渡った。市民たちはアルファードに期待を寄せ、アルファードは期待どおりの活躍を見せた。市民たちは熱狂した。その熱狂を、さらに高めたのは里菜の存在だった。
 市民たちは、半ば伝説的な魔法使いユーディードを、今も忘れていない。その出身地イルゼール村から百何十年ぶりに魔法使いが現われた。しかも、魔法を消すという、今まで聞いたこともない不思議な力を持っているという。そしてその魔法使いが、なんと、まだうら若い、ほっそりとした可憐な乙女だというのだから、これはもう、アルファード以上に話題性がある。
 市民たちは、里菜とアルファードが魔物退治をするところを実際に見てはいないから、里菜が実はアルファードの後ろでつっ立っているだけだ、などということは知らない。市民たちの想像の中では、里菜は、その華奢で愛らしい姿からは想像もつかないような強力な魔法を次々と繰り出して、白魚の指先一本でバシバシ魔物をやっつけている、ということになっているらしい。
 今やふたりは、市民たちのスターである。時には、名もしらぬ市民から、激励の言葉を添えた贈物が宿舎に届けられていたり、ふたりを一目見ようとする市民たちが宿舎や食堂や練兵場の回りをうろついていたりする。みんな、ふたりが自分たちを魔物から守ってくれると、無邪気に信じているのだ。
 けれど里菜は、この人気を、手放しで喜ぶことはできなかった。自分たちのしていることに疑問を抱いてもいたし、また、自分が、市民たちに思われているような強い魔法使いではないことも後ろめたかった。そしてなによりも、この人気にもかかわらず何か満たされぬ思いを抱いているらしいアルファードの様子が、里菜は気懸りだった。
 アルファードは、何だか変わってしまった。
 別に、里菜に辛くあたるということはないのだが、里菜はもう、アルファードがわからない。
 村にいた頃、アルファードは、里菜と歩く時はたいてい少し離れて歩いた。今は、危険に備えて、ふたりは毎晩、手の届くほど近くに寄りそって歩いている。それなのに、アルファードがどんどん遠くなっていくような気がする。
 村にいたころの、あの、やさしい目をした温和で素朴な若者は、もういない。夜ごとイルベッザの闇を徘徊し、闇にひそむ魔物を狩り続けるアルファードは、まるで、満たされることのない飢えに取りつかれた不吉な夜の獣のようだ。
 暖かかったその目には、今、何か憑かれたような渇望が宿り、唇の端には、消えることない焦燥がこびりついている。
 彼の望んでいるものが名誉や名声なら、彼はもう、それを十分手にしている。けれど、名声は彼の心を満たしていない。得体の知れぬ衝動に突き動かされて、彼は、呪われた狩人のように魔物を追い続ける。魔物を消せば消すほど、彼の焦燥は深まるように見えるのに、それでも彼は魔物狩りを休まない。
(アルファードのこれって、ワーカホリックっていうやつかしら。もしかすると、あたしがアルファードをこんな状況に追い込んだのかもしれない。あたしさえいなければ、アルファードは今もあの美しい山の牧場《まきば》で、平和に羊を追っていたかもしれないのに……)
 そう思いながらも、今の里菜は、アルファードがただの羊飼いでいることに、心の底では満足していなかったことに気づいている。
 出会ったばかりの頃、里菜は、アルファードのことを、何でも知っていて何でも出来る、余裕たっぷりの大人だと思っていた。ちょうど、ごく幼い子供が、親が自分と同じように悩んだり迷ったりする存在であることに気づかず、彼らに知らないことや出来ないことがあるなどとは想像もせずに、安心しきって親を頼りきるように。
 でも、今、里菜は、傍目にはそんなふうに落ち着き払って見えるアルファードが本当はずっと何か思い悩んでいたらしいということに気づいている。
 たぶん、彼は、自分が何を求めているのかを知らずに、苛立っているのだ。彼には彼の苦悩があったのだ。里菜には窺い知れない、彼だけの苦悩が。
 アルファードは、この、ぬかるんだ灰色の都で、何を想っているのだろう。
 都へ来ると決めた当初、里菜は、軍隊が嫌ならいつでも辞められるというアルファードの言葉を信じていた。アルファードはあんなに力持ちなんだから、他に仕事がなければ道路工事でもすればいいだろう、都でならそういう仕事がきっといくらでもあるのだろうと。
 でも、今はアルファードにそれを言わなくて良かったと思っている。里菜はここへ来て、自分の認識の誤りを知った。
 ここではみんなが魔法を使い、魔法の存在がすべての仕事の前提になっているから、産業機械のようなものが一切発達していない。また、細かい分業体制や流れ作業体制が発達していないから、誰もがあらゆる行程に関わる熟練工でなければいけない。その中でも特に、建設関係の仕事というのは高度で特殊な魔法の技術を必要とする仕事の代表格らしい。この世界では、魔法が使えないものに出来る仕事など無いのだ。
 それを考えると、アルファードを魔物退治に駆り立てる不可解な衝動が、少しだけわかるような気もする。彼は、村で羊飼いしか出来なかったように、ここでは、魔法を消す力を持つ里菜と組んでの魔物退治しか出来ることがないのだ。
(あたしが軍を辞めたいといったら、アルファードはどうするかしら……。村に帰るしかないんじゃないかしら……。もし、今ここで、村に帰りたいって言ったら……?)
 春になってから、里菜の心に何度も浮かんだ誘惑である。
 冬が過ぎてもアルファードは、村に帰るかどうかについては一言も言い出さなかった。どう考えても、帰る気はないのだろう。里菜はそのことについて、問い質すことができずにいた。アルファードにはぐらかされるのはわかっていたし、それに、ふたりには、まだ村に帰れない理由もあった。ローイの行方が依然として知れないのだ。
 彼がイルベッザにいて、もしかすると何らかの苦境に陥っている可能性もあるのに、それを置いて二人だけさっさと村に帰るわけにはいかない。
 そのまま、春は深まり、すでに暮れてゆこうとしている。アルファードは村のことを決して口にしようとしない。
 前を行くアルファードの背中が遠い闇の中に消えていこうとしているような気がして、里菜は足を早めてアルファードに追いつくと、衝動的にそのシャツの袖を掴んだ。
 手を離したら、きっとアルファードは、一人で闇の中に行ってしまう。里菜を置き去りにして、自らの心の奥に潜む、自分だけの闇の中へ。
(どうしてアルファードは、何も言わずに、一人で黙って暗いところへ行ってしまうんだろう。どうしてあたしを一緒に連れて行ってくれないんだろう。ただ一言、ついて来いと言ってくれれば、どこへでも、どこまででも一緒に行くのに。アルファードの闇の中へ。そこがどんなに暗くても。それがアルファードのものであるなら、その闇の、色も匂いも感触も、全部知りたいのに。知って、理解して、愛したいのに――。
 そんな風に思うのは、もしかすると、リューリが言うように、あたしが何も知らなくて、何も分かってないから――今まで、本当に辛いことなんか何も知らずにぬるま湯の中で生きてきて、本当の闇の暗さなんか何も知らないからかもしれないけど。ただの甘さなのかもしれないけど。それでも、やっぱり、アルファードのそばに行きたいのに。隣にいてあげたいのに――)
 里菜は無言でシャツを掴む手に力を込めた。どうあっても放すまいと、細い指先が布地を堅く握り締める。
 アルファードは少し驚いたように振り向いて里菜を見下ろしたが、何も言わずに、里菜のすがるようなまなざしを避けて夜空を見上げた。
 月の細い夜だったから、星がとてもよく見えた。里菜の知らない、異世界の星座がふたりを見下ろしていた。
 アルファードは、さりげなく里菜の指を振り解きながら唐突に星の一つを指差して、静かに言った。
「リーナ、あそこに黄色い星があるだろう。あれが羊星だ。それと、そのまわりにごちゃごちゃかたまっている小さな星、あれは子羊座だ。……君は、羊の赤ん坊を見たことがあるか? それは愛らしいものだ。今ごろ、牧場《まきば》では、この春に生れた子羊たちが元気に跳ね回っているだろう……」
 そう言って遠くを見たアルファードの目は、ほんの束の間、かつての、あの、暖かな大地の色を取り戻した。けれど、里菜が何か言おうとして口を開いた時には、アルファードは再び口を引き結び、ただ、闇に向かって歩き出していた。
 その背中は、いつか野営の焚き火のそばで背を向けて横になった時のように、無言で里菜を拒絶していた。
 ひととき、星の光を見上げた後は、行く手の闇が一層深くなったような気がした。

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掲載サイト:カノープス通信
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