長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語

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 <第一章 エレオドラの虹> 


13(後半)

 里菜は、目を見開いて震えながら、手でいざって下がろうとしたが、身体が動かない。
「悪魔め! 死ね!」
 叫びと同時に、女は短剣を、里菜の上に振り降ろそうとした。
 その瞬間。
「ビュン!」と風を切る音がして、里菜の目の前を何かが過《よぎ》った。
 それは短剣にぶつかり、女の手から短剣を弾き飛ばしていった。
 短剣とともにカランと地面に落ちたのは、一本の薪だった。
 女は、手首を押えて顔を歪めながら、憎悪に満ちた視線で、薪が飛んで来たほうを振り向いた。
 その視線を追った里菜は、地面にへたりこんだまま、呟いた。
「アルファード……!」
 腰に剣を帯び、家の横に仁王立ちになったアルファードの頼もしい姿が、安堵の涙に滲んで見えた。
 ドラゴンを退治し、詰め所に盾と防具を置いて帰ってきたアルファードは、家の前の坂の途中で、めったに吠えないミュシカの尋常ではない吠え声を聞きつけ、坂を駆け上ると、全速力で、喚き声の聞こえる裏庭に回りこんだのだ。
 女が、短剣を拾って、アルファードに向けて構えながら叫んだ。
「邪魔を、するなァーッ!」
 アルファードは、剣を抜きすらしなかった。
 女の威嚇を無視して猛然と突っ込んできたかと思うと、左腕を前にかざしながら、ふっと身体を沈め、躊躇なく女に体当たりしたのだ。
 女が構えていた短剣は、アルファードの左手首の幅広の腕輪に受け止められ、腕の一振りで弾き飛ばされた。
 アルファードにあっさりと取り押えられ、両手をまとめて捻り上げられた女は、つやのない白髪混じりの髪を振り乱しながら絶叫した。
「離せ! 離せェーッ! わたしは使命を、使命を……!」
 女が喚きながら暴れるのを、まるで気にするふうもなく一見無造作に押え込みながら、アルファードは、まだへたりこんだままの里菜に、落ち着いた声をかけた。
「リーナ、怪我はないようだな。立てるか?」
「うん……」
「それじゃあ、悪いが、納屋に縄があるから、捜して持ってきてくれないか」
「え? う、うん……」
 里菜はあわてて、ふらふらと立ち上がると、納屋に入っていった。
 すぐにアルファードは、女の腕を後ろ手に捻ったまま、抑えた声で尋ねた。
「お前はタナティエル教団のものだな? これはアムリードの命令か?」
 アムリードというのは、ヴェズワルに住み着いたタナティエル教団の一派――都ではタナティエル教団ヴェズワル派と呼ばれ、このあたりではヴェズワルの山賊と呼ばれている――の指導者である。この辺では、宗教団体の指導者というより山賊の主領として、誰でもその名を知っている。
 女はアルファードのほうを振り向くと、唐突に笑いだした。笑いながら、女は喚いた。
「アムリードごときの命令じゃない! 神が自ら私に使命を与えたんだ! わたしは選ばれた! 選ばれたんだ! あの、バケモノめ、バケモノめ、殺してやる……。あの娘は、わが王の復活を妨げるために、この世界に侵入してきたんだ!」
 もし手荒な尋問をしなければならないようなら里菜が見ていないうちに素早くすませたいと思っていたアルファードは、この女を問い詰めるのに手荒なまねをする必要はないらしいと、少しばかりほっとしたが、同時に、何を聞いても無駄だということも理解した。
(完全に狂っている……。ジレンの麻薬だな)
 ジレンは、もともとはこの国の北部特有の植物で、その葉からは、強い幻覚作用がある麻薬の一種が取れる。無論、禁制の品だが、ヴェズワルのタナティエル教徒たちが、北部から持ち込んだジレンを森の奥で密かに大量栽培しているらしいということは、この辺では子供でも知っている。標高の高いこのあたりでは、北部原産の植物も、よく育つのだろう。事実、彼らのほとんどはこの麻薬に侵されていて、アルファードは自警団長として、山賊との攻防の中でそういう連中を大勢見てきた。
 もっとも、こんなにひどい状態のものが山賊行為に加わっていたことはないが、この症状は間違いようもない。精神を蝕むだけでなく、他の麻薬類と比べても肉体の消耗が特に激しいのが、ジレンの特長だ。一種独特の甘ったるいような体臭も、この麻薬に蝕まれたものに共通の特徴として、アルファードにとっては馴染み深い。
 女は、口の端から泡を吹き、半ば死人を思わせるやせ衰えた顔の中で目だけを異常にぎらつかせて、うつろな笑いを響かせ続ける。
 アルファードは、嫌悪と哀れみにかすかに顔を曇らせて、正視に耐えぬ女の狂態から、思わず目を反らした。
 この時、アルファードは、彼らしくもなく、ほんの少しだけ油断した。相手は麻薬に蝕まれ、痩せさらばえた非力な中年女であり、すっかり狂って判断力も失っているはずだったのだ。
 ところが女はアルファードのわずかな隙を見逃さず、意外な素早さで行動を起こした。 アルファードが顔を背けた瞬間、女は突然、それまでのまるで手ごたえのないもがきかたが嘘のように、信じられないような力でアルファードを突き飛ばし、かたわらの地面に落ちている短剣に手を伸ばしたのだ。
 それは、女の狂気が、その衰弱した肉体から絞り出した最後の力だったのだろう。
 アルファードも、同時に短剣に手を伸ばしたが、女の手のほうが一瞬早かった。
「バカなことはよせ!」
 女に飛び掛かりながらアルファードが叫ぶのと、
「死者の王よ、御許に!」と叫ぶなり、女が自分の首筋を掻き切ったのが同時だった。鮮血が吹き出した。
 アルファードはすばやく女を捕えると、上体を支えて地面に座らせ、首の動脈を押えて止血の処置をとった。女は、神経を病んで痛みすら既に感じないのか、ただうつろな視線を宙に徨わせながら、抵抗もやめて、ぐったりとアルファードにもたれていた。アルファードのシャツが見る間に血に染まっていく。
 ちょうど納屋から出て来て、この様子に立ちすくんだ里菜に、アルファードが叫んだ。
「リーナ! 大急ぎで、誰か人を呼んできてくれ!」
「う、うん、分かった!」
 里菜はおろおろと駆け出していった。
 アルファードは、顔を曇らせて血まみれの女を見下ろした。
 女はまだ息をしていたが、息をする度に不吉な音を立てて喉から血泡混じりの空気が漏れ、青ざめたその顔からは、すでに、一切の命の気配が消えかけていた。
――この女は、助からないだろう――
 アルファードは、かすかに溜息をついて、瀕死の狂女から顔を背けた。


 一番近いヴィーレの家まで、誰にも出会えずに走り通した里菜は、庭先で何か作業をしていたヴィーレの父の姿を認めて、余力を振り絞って叫んだ。
「おじさん、大変! 女の人が、怪我をして……! すぐに来て!」
 そしてそのまま庭に駆け込むなり、その場に坐り込んでしまった。
 ヴィーレの両親が包帯や薬草の入った袋を手に慌てて飛び出していったあと、ヴィーレが里菜を助け起こし、肩を抱くようにして家の中につれて入った。
 ヴィーレは、暖炉の前に座った里菜に、気持が落ち着く薬草のお茶をいれてくれ、まだ震えている背中に後ろから肩掛を着せかけると、その肩掛ごと、里菜の肩を静かに抱いてくれた。その穏やかなぬくもりに、里菜が落ち着きを取り戻したころ、ヴィーレの母が、疲れた様子で一人で帰って来た。
「お母さん、怪我人は?」
 ヴィーレの問に、彼女は黙って首を横に振り、里菜に向きなおって言った。
「リーナ、あなたは、もうしばらくここにいなさいね。あの女の人は、村の墓地に埋葬することになったわ。終ったらアルファードが迎えに来るから。それからね、あの人のことは、ただの物盗りってことにしてあるから、そのつもりで。なんだか変なことを口走ってたそうだけど、それを人に話しちゃだめよ。麻薬で頭がおかしくなってたんだから」
 里菜は黙って頷いた。


 共同墓地は、村の北側の小高い丘の上にあった。
 土を掘り返した跡も新しい狂女の墓には、仮の墓標として木切れが突き立ててある。
 ただでさえショックを受けている里菜に死体を見せたくないというアルファードの配慮で、埋葬は、里菜がヴィーレの家で待っているあいだに済まされていたのだ。
 埋葬を手伝った村の男たちには、ヴィーレの父が、この女はアルファードの家に忍び込もうとした物盗りで、里菜に見付かって襲い掛ったところをアルファードに捕えられ、処罰を恐れて自害したのだと説明していた。
 暮れかけた曇り空から、ひとひら、ふたひら舞い始めた雪が、盛り土の上でゆっくりと溶けて行く。その様子をぼんやりと眺めて立ち尽くす里菜に、アルファードが静かに言った。
「ここに、埋めた。あの女は、たぶん、ヴェズワルのタナティエル教団のものだが、かといって、山賊どもに遺体を引き取りに来いというわけにもいかない。――それにしても、哀れなことをした……。俺が油断をしたので死なせてしまった。どのみち、早晩死ぬところではあったろうが……。君も、祈ってやってくれ」
「うん……。黄泉《よみ》の大君よ、定めによりて死せる魂を、御許に安らわせ給え」
 里菜は、アルファードのまねをして頭を垂れ、教わったとおりの祈りの言葉を、ぎこちなく唱えた。
 さっきまで生きていた人間が、今は、死んで、この土の下にいると思うと、何か不思議な気持ちだった。
 短い祈りを捧げ終ったふたりは、足早に墓地を後にした。しばらく黙って歩いていた里菜は、ふいに思い切ったように尋ねた。
「ねえ、アルファード。あの人、どうして死んじゃったの? ほんとうに、裁きが怖かったからかしら」
「いや、違うだろう。あの女は、たぶん最初から、死ぬつもりだったんだ。死に場所を求めていたんだと思う。女の手首を見たか? 魔王の刻印があったろう。その絶望を忘れるために麻薬に逃れ、結局は逃れきれずに、絶望の内に自らの命を絶つ――。よくあることだ」
「だって、あの人、自分が死にたいなら、何もあたしを殺そうとすることなかったのに、なんであたしを?」
「わからない。たぶん、君のうわさを聞いて、狂った頭で何か曲解し、誤った思い込みを持ってしまったんだろう。……君は、あの女に、何か言われたか?」
「うん、ええっと、たしか、やっと見つけた、とか、悪魔め、とか……。怖かったから、あんまり覚えてないけど、わけのわからないことばっかり。なぜ、あんなこと……。アルファードは、あの後、あの人から何か聞き出したの?」
「ああ、一応、尋問しようと思ったんだが、すっかり狂っていて話にならなかった。彼女の言っていたことは、どうせ狂人のたわごとだ。気にするな」
「うん、でも……。あの人、ナントカ教団の人でしょ」
「ああ、タナティエル教団だ。君は、あの女が、教団の差し向けた刺客ではないかということを恐れているんだな。だが、多分そうではないだろう。麻薬で繋ぎ止めた人間を暗殺者に仕立てることは、古来、よくあることといわれているが、それが本当だとしても、ジレンは駄目だ。ジレンに蝕まれたものは、使い物にならない。それに、君を油断させて近付いてから殺す気なら、ああいう、いかにも哀れを誘う、無力そうな女を使う意味もあるが、問答無用でいきなり切りつけるなら、教団にも、もっと腕の立つ屈強な男が、いくらでもいるはずだ。だいたい、いくらヴェズワルの連中がいいかげんで統制の取れていない集団だと言っても、教団の上層部が指示して暗殺を企むなら、せめて短剣に毒を塗るくらいのことはするだろう。特に、ああいう非力な女をあえて使う作戦なら、絶対に毒を用いたはずだ」
 里菜は、アルファードの上着の裾を握りしめて、すがるようにアルファードを見た。
「でもアルファード、あたし、怖いわ。だって、やつらはもうあの家を知っているのよ」
「リーナ、怖がることはない。これからは、なるべく君を一人にしないようにする。どのみち、雪が積もるようになると、俺はあまり仕事がなくなるんだ。たぶん、ずっと家にいられるだろう」
 これを聞いて、里菜は顔を輝かせた。我ながら現金なことに、アルファードがそばにいてくれるという喜びのほうが大きくて、刺客に襲われたショックもほとんど吹き飛び、むしろ刺客に感謝したくなったほどだ。
「ほんと? ほんとに? アルファードがいてくれれば、何にも怖くないわ! アルファードは世界一強いんだもの」
 里菜は、うれしさのあまり、アルファードの腕にぶらさがるようにして、いきなり子どものように、ぴょん、と跳ねた。
 が、アルファードのほうは、実はそれほど事態を甘く考えてはいなかった。
(あの女が教団上層部が送り込んだ刺客でないにしても、彼らがリーナの存在に、何か勝手な宗教的解釈を与えている可能性は否定できない。あの女も、何かそんなようなことを口走っていた。あるいは、教団自体がリーナの暗殺を計画していて、他のものを寄越そうとしていたのを、あの女が功をあせって勝手に突出した行動を取ったのかもしれない。ああいうやつらは、えてして思い込みが激しいから何をするかわからない。今後は本当に注意が必要だ)
 難しい顔で考え込んでしまったアルファードに、里菜は困ってしまった。もののはずみでアルファードの腕を取ってしまったものの、アルファードがいつものようにすり抜けようともせず、かといって振り向いてくれるでもなく、よそを見て考え込んだまま、まったく反応がないので、どうしていいかわからなくなり、おずおずと手を離した。その時、ふと、彼がいつもつけている銀の腕輪が目に止まった。
 そういえば里菜は、アルファードがこれを外しているところを見たことがない。たぶん彼も、寝るときやお湯を使う時にはこれを外すのだろうが、里菜はアルファードが寝ているところを見たことがないし、ましてや湯浴みするところなど、見たことがあろうはずもない。
 里菜はずっと、彼が何のためにこんなものをしているのか不思議に思っていた。
 アルファードは、どう見ても、わざわざおしゃれのために装身具を身につけるようなタイプとは思えないし、この村では、男性が装身具をつけることは特に奇異なことでもないが、かといって、つけているほうが普通というほどでもないらしい。何か宗教的な意味でもあるのかとも思ったが、別に、そういうわけでもなさそうだ。
 ところが、今日、狂女を取り押さえた時に、アルファードはこれを防具がわりに使っていた。そういえば装身具というには武骨なデザインだし、もともと、そういう用途のものなのかもしれない。
 そう思った里菜は、アルファードの注意を引きたくて、尋ねてみた。
「ねえ、アルファード。この腕輪、飾りじゃなくて防具だったんだ?」
 無難な話題のつもりだったが、アルファードは、なぜか、ふいに顔をこわばらせた。
「いや……。そういう役にも立つが、これは、まあ、その、一種の護符なんだ」
「そうか、お守りなんだ。それでいつも肌身離さずつけているのね。でも、ほかに、こんなお守りつけてる人、いないでしょ。なにか、特別な由緒でもあるの?」
 アルファードは、そっけなく答えた。
「ああ。……じいさんの、形見だ」
(そうか、死んだおじいさんのこと、思い出しちゃったんだ。悪いこと聞いちゃったかな……)と思った里菜は、ふうん、と呟いたきり、話を打ち切った。
 日頃、どんなにやさしくしてくれても、どうやらアルファードには、里菜に触れられたくない話題が、けっこう多いのだ。彼と、とりあえず友好的につき合って行くには、彼が口を出されたくないことや追求されたくないことを早めに察知して、それ以上踏み込まないのがコツらしいということも、里菜がこれまでに学んだことのひとつだった。
 そんな、どこか心を閉ざしたようなところの残る彼の態度が、里菜は少しさびしかったが、自身もそれほど開けっ広げな性格というわけではない里菜には他人に干渉されたがらない彼の気持ち分かる気がするし、なによりも、里菜は、彼の心の中に無理やり踏み込もうとして拒まれるより、とにかくおとなしくして、あえて一歩控えていることで、今まで通り妹のようにかわいがってもらい、身近に置いてもらいたかった。
 里菜は、どうしても、アルファードを失うわけにはいかないのだ。彼は里菜にとって初恋の人であると同時に、この見知らぬ世界でただひとりの保護者と信じ切り、頼り切っている相手なのだから。
「リーナ、急ごう。早く帰らないと、今夜は雪が積もるぞ」というアルファードの声で、自分がいつのまにか遅れかけていたことに気づいた里菜は、あわてて足を速めてアルファードの背中に追いついた。
 日没と共に、ぐんぐん気温が下がりはじめたようだった。昼間、ちょっと薪を取りに行くつもりで軽装で外に出たままの里菜は、小さく身を震わせた。
 前を行くアルファードの、毛織のマントの下に潜り込み、大きな身体にそっと身を寄せれば、きっと、暖かいだろう。里菜は、そのぬくもりをぼんやりと夢想したが、もう一度、さっきのようにアルファードの腕に縋ってみる勇気は、もう、無かった。
「リーナ、寒くないか?」
 まるで里菜が震えたのが見えたかのように、アルファードが振り返り、里菜が寒さに身を縮めていることを一瞥で見てとると、マントを脱いで渡してくれた。
 そして、礼を言ってマントを受け取った里菜がそれを頭から被るのを見届けると、身ぶりで里菜を促して、そのまま、また歩き出した。
 里菜は黙って後を追った。
 暗くなり始めた空から、雪が、しだいに速度を増して降りしきり始めていた。

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