長編連載ファンタジー
イルファーラン物語
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13(前半) 空は灰色に曇り、今にも雪が降り出しそうだった。山の村は、まもなく本格的な冬の季節を迎えようとしている。雪はすでに何度か降ってはいるが、まだ、積もったことはなかった。けれど今朝、アルファードが空を見上げて、今日は雪が積もるかもしれないと言っていた。 里菜は窓辺に立って、曇った窓越しに外を眺めていた。 窓に嵌っている厚手の硝子板は、実は、あちらの世界で言う硝子ではなく、この世界で産する方解石に似た鉱石を魔法で加工・強化したものらしい。厚みがあるせいもあって、やや透明度が低く、本来は硬度の低い鉱石を魔法で強化したものであるためか、実際の硬さのわりに見た目はどことなく柔らかい印象で、里菜はいつも、氷砂糖を連想する。楽しい気分の時には、お菓子の家の窓みたいだとか、なめてみたら甘いかもしれないなどと、つい空想したくなる、独特の表情のある硝子板である。 その、氷砂糖を板にしたような厚手の硝子を通してみる外の世界は、白っぽく霞み、少し歪んだ輪郭が二重三重にぼやけて、夢の中の景色のように曖昧だ。明かり取りの役にはたつが、はっきり言って、外の景色を見る役に立つような窓ではなく、いつまでも眺めていたからといって何が見えてくるわけでもない。 里菜は、暖炉の前に引き返し、敷き物に座って、隣に寝そべっているミュシカの背中をなでた。 しんしんと冷え始めた、灰色の冬の午後。部屋には里菜とミュシカしかいない。 (アルファード……) 里菜は溜息をついた。 (どうか、無事に帰ってきて……) 里菜の心がわかったのか、ミュシカも主人の安否を気遣うように、くぅん、と鳴いた。 アルファードは、イルドの村に、ドラゴン退治に行っているのだ。 今朝、イルドからの救援の依頼を受け取ったアルファードは、ローイを含めて四人の自警団員を選び出し、馬で疾走していった。その中には、誇らしそうなミナトの姿もあった。 自警団の用に供される馬は村の共有財産で、乗用にするだけでなく荷車も引くがっちりした馬だ。サラブレッドのようにスマートではないが、それはそれで力強い美しさを持ち、自警団員らによって充分に手入れされている。村にはこうした乗用馬は五頭しかいないので、よその村でのドラゴン退治は、基本的に五人で行なわれるのだ。 ドラゴンの皮で作られた鈍い銀色の防具を身につけ、盾と剣を持った馬上のアルファードの姿は、雄々しかったが、なんだか少し怖くって、里菜はその時、アルファードの近くに行くことすらできなかった。 「じゃあ、行ってくる。心配はいらない。留守を頼む」と、馬上から、まるでどこかの家の薪割りでも手伝いに行くようにあっさりと言うアルファードに、里菜は、両手を固く握り合わせ、少し離れたところから黙って頷くことしか出来なかったのだ。 それが今は、悔やまれる。 本当は、アルファードに駆け寄って、無事を祈る言葉を、何度も何度も言いたかった。 もっとも、アルファードのほうは、そんな大袈裟な見送りかたをされたくはなかっただろう。急いでいたのだし、それに、たぶん、アルファードにとっては、ドラゴン退治は、ありふれた日常の肉体労働なのだ。 ドラゴンの皮で身を鎧ったアルファードの姿を思い出して、里菜は、少し身震いした。 身体だけでなく顔の半ば以上までをマスクのようなもので覆って中の人間の姿を隠してしまうその防具は、何かひどく不吉な印象を里菜に抱かせたのだ。 銀色のドラゴンの鱗に包まれて、アルファードは、まるで彼自身が、一頭の凶々しいドラゴンに変わってしまったかのようだった。近寄ってはいけない、危険で荒々しい、異質な生き物に。 (ドラゴンを倒すには、ドラゴンの力がいるんだわ) 里菜は、漠然とそんなことを思った。 (でも、アルファードには女神様がついているから、ドラゴンの皮を着て、ドラゴンの力を身につけても、心までドラゴンになって飛んでいってしまうことはない。アルファードは、きっと、帰ってくる。ドラゴンなんかに負けない。だって、前に牧場にドラゴンが出た時は、防具もなしに、たった一人で退治したんじゃない。今日は防具も付けているし、ローイや自警団のみんなが一諸なんだから) 自警団員たちの頼もしい姿を思い浮かべて、里菜の心は、ほんの少し落ち着いた。 あの宴会の時の彼らしか知らなければ、彼らが一緒だからと言って安心することは出来なかったかも知れないが、里菜は、一度だけ、自警団の訓練の見学に連れていってもらったことがあったのだ。 その時の彼らは、あの酔っ払いと同じ連中とは思えないほど機敏で真剣で、実に頼もしそうに見えたし、アルファードが彼らをリーダーとして実によくまとめ上げているのは、素人目にも一目瞭然だった。 アルファードは、特に威張るでも怒鳴るでもなく淡々と指揮を取っているし、団員たちもアルファードに特別丁寧な口をきくわけでもないのだが、それでもアルファードがみんなから尊敬され、信頼されていることが、自然と伝わってくるのだ。あのチームワークがあれば、ドラゴンなんか、怖くないに違いない。 里菜は、『自分の』アルファードの、板についた指導者ぶりが誇らしかった。 が、二度目からは、もう、アルファードは、里菜を連れていってくれなかった。 ただ女の子が見ているというだけで、それが別に気のある娘でなくても、意味もなく妙に張り切ってしまったりするのが、若者の習性である。 「君が悪いわけじゃないんだが、女の子が見ていると、雰囲気が浮ついて、やりにくい」と言うアルファードに、里菜は口を尖らせて抗議した。 「だって、自警団には、女の子もいたじゃない」 自警団には、ミンのほかにも何人か娘たちがいて、アルファードは、彼女らに、ほかの団員に対するのと全く変わらない態度で稽古をつけてやっていたのである。 だが、アルファードは頑として譲らなかった。 「それはそうだが、彼女らは、同じ団員だ。訓練の時は、みな、いちいち彼女らを、女だからどうだなどと、思っていない。だが、見物人となると、話が違う」 というわけで、里菜はしぶしぶ、見学を諦めた。 アルファードはそれから何回も、自警団の訓練に出ている。イルゼールの自警団は、どこよりも訓練が行き届いているのだ。 それでも、いざアルファードがドラゴン退治に行ったとなると、不安が募らないわけはない。 (女神さま、あなたのおさな子を、守ってください) 目を閉じて、里菜は祈った。 それから里菜は、いきなり立ち上がった。 「おそうじ、しよう!」 ミュシカが薄目を開けて里菜を見上げ、そのまま、また目を閉じる。 里菜は、水滴のついた窓を、ごしごしと布で拭き始めた。実は、さっきも窓を拭いたばかりである。 ローイもいないし、ドラゴンがこっちへ飛んでこないとも限らないので子供たちは家に閉じ込められていて、今日は『タクジショ』もお休みだ。里菜は朝から、家事もろくに手に付かず、かといって、落ち着いて座ってもいられず、こんなふうに意味のない動作を繰り返しているのである。 窓を拭いていたはずが、里菜はまた、もしやアルファードが帰ってはこないかと、細い指を硝子板に当てて窓の向こうを透かし見る。半透明の窓越しの景色はぼんやりと霞んでいるし、家に向かってくる道は、こちらから見ると緩い下り坂で、遠くまでは見えない。とうとうがまんできなくなった里菜は、窓拭きの布を放り出した。 「たきぎ、持ってこよう!」 里菜は、ショールを羽織ってドアを出た。ミュシカが、寝そべったまま首だけ回して里菜の後ろ姿を目で追い、軽く尾を振りながら見送った。 外に出ると、里菜はまず、坂の上から道の向こうを見渡した。やはりアルファードの姿はなかった。 里菜は溜息をついて裏庭に回り、納屋から一抱えのたきぎを持って、家の正面にもどって来た。 そこに――さっきまで誰もいなかったところに、黒いマントを纏った人影があった。 大きなフードが、顔をすっぽりと覆い隠している。 里菜は、立ちすくんだ。その目が、大きく見開かれ、抱えていたたきぎが、腕からすべり落ちた。 フードの下の暗がりの奥から、声がした。 「やっと、見つけた……。お前が、そうか」 里菜は、声も出せずに立ち尽くした。 これは自分の悪夢から出てきた影ではないか。悪夢の中の黒い影が、現実の世界に、いつのまにかするりと紛れ込んできていたのではないか。あのフードの下に、人間の顔はなく、ただ一面の闇だけがあって、その闇を入口として、この、昼間の世界に、悪夢の中から無限の闇が流れ込み、世界中を黒く塗り込めて、すべてを悪夢に変えてしまうのではないか――。 混乱した頭の中で、とっさに、そんな思いが揺らめいた。 「死ね!」 マントが翻り、短剣が閃いた。人影が、倒れ掛るように、里菜にぶつかって来た。 その瞬間、フードが飛び、顔があらわになった。 それは人間の女、おそらくは中年の女の顔だった。 相手が肉体を備えた現実の人間であると分かったとたん、それまで悪夢めいた恐怖に絡み取られてすくんでいた里菜の身体が、ふっと、動くようになった。 悲鳴を上げて飛び退いた里菜のショールの裾を、短剣が掠めた。女の肩が里菜にぶつかり、女は短剣を構えたままよろめいて、里菜の脇を擦り抜け、地面に膝をついた。 里菜の悲鳴を聞いたミュシカが、異変を察して、激しく吠えながら、内側からドアに飛びついた。ドアがガタガタと揺れている。 だが、ドアは内開きだから、ミュシカが内側から体当たりしても開かないはずだ。 家に駆け込もうと思ったら、ドアを開ける一瞬のあいだ、黒衣の女に至近距離で背を向けることになる。かといって、反対に村への道を駆け降りても、一番近いヴィーレの家にたどり着くまで、多分、助けを求める相手はいないだろう。 (納屋に逃げ込むしかない!) とっさにそう判断した里菜は、女がゆらりと起き上がるよりさきに、裏庭に向かって駆け出していた。 逃げながら、里菜は不思議に思っていた。なぜ、自分の方が足が早いのだろう。なぜ、自分に短剣がよけられたのだろう。自分は決して運動神経がいいほうではないのに。 肩越しに振り向いて、追い掛けてくる女を見た里菜は、女が息をきらし、よろめくように走っているのに気がついた。まるで、弱りきった病人だ。 (逃げきれるかもしれない……。納屋に逃げ込んで内側からドアを抑えれば……。それにあそこには、武器になる鋤 《すき》も入っている!) だが、その時、里菜は、女が走りながら左手を上げるのを見た。ローイが火の玉を作り出す時にいつもする、お馴染みのポーズだ。 里菜は足を止め、女に向き直った。わざわざ向き直ったのは、里菜がまだ、相手に背中を向けたままで魔法を消すことができるかどうかを試したことがなかったからだ。 女の手の中に炎が浮かびかけた瞬間、里菜は叫んだ。 「消えろ!」 足を止めた女は、信じられないように自分の手を見た。そして、もう一度手を上げた。こんどは最初から、炎が生まれなかった。 「バケモノめ!」 混乱と怒りに上ずった声で叫ぶなり、女は、狂ったように短剣を振りかざして里菜に向かってきた。 その形相に、里菜は背筋が寒くなるのを覚えた。 女は、確かに狂っていた。 病的に黄ばんだ肌、こけた頬、すべてに生気が感じられない中で、黄色く濁った白目の中の焦点の定まらない虚ろな瞳だけが、熱に浮かされたような異様な輝きを帯びている。おそらくは、その目に宿る狂気だけが、抜け殻のような肉体を支え、動かす力になっているのだ。 覚つかない足取りで迫ってくる女は、グロテスクな操り人形を思わせた。 女が纏っている絶望の気配には、どこか、あのガイルと通じるものがあったが、ガイルには、同時に、透き通るような悲しみが感じられたのに対し、この女から感じられるのは、狂った憎悪と殺意、醜い妄念だった。 おぞましさに悲鳴を上げ、くるりと女に背を向けてふたたび走りだそうとした里菜は、地面に足を取られて転倒した。起き上がる余裕もなく、身体を捻って振り向いた里菜の目に、覆い被さるように間近に迫った女の黒衣が映った。 女はマントを翻し、ひきつった笑いとともに、里菜の上に短剣を振りあげて叫んだ。 「わが王よ、あなたの僕《しもべ》の、永遠の忠誠の証《あかし》 、御覧あれ!」 →感想掲示板 へ →『イルファーラン物語』目次ページ へ →トップぺージへ |
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掲載サイト:カノープス通信
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