長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語

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 <第一章 エレオドラの虹> 

12(後編)

 奇妙に無感情で、まるで遠いところから聞こえて来るようなその声の響きに、里菜は慄然として思った。
(こんな響きを、どこかで聞いた……。そう、あの、悪夢の中の魔王に似ている!)
 声自体が、似ているわけではない。魔王の言葉は、耳に聞こえる音を持たなかった。
 似ているのは、その声の底に重く淀んだ、絶望の気配だった。
 男は突然、里菜の腕を離すと、声も出せずに立っている里菜の目の前に、どこからか素早く取り出したらしい剥き出しの小刀を、柄のほうを向けて差し出した。
「これを、取ってくれ。そして、これで俺の心臓を刺してくれ。俺はもう、こんなに弱くなってしまって、自分で自分を刺すことが出来ない。あんたこそ、俺が待っていた人だ。俺を助けてくれ」
 目の前の男の後ろに、夢の中の魔王の黒い姿が見えたような気がして、里菜は眩暈を覚えた。刃物の輝きが、心の底に眠る忌まわしい記憶を呼び覚ますような不吉さで、里菜を脅かした。
「いや……。いやァーッ!」
 訳がわからぬまま叫んだ里菜は、気がつくと、ローイが横から手を出して小刀を取り上げるより早く、いきなりそれを目の前からはたき落していた。
 小刀は、初冬の光を跳ね返しながら、くるくると舞って地に落ちた。子供たちが目を丸くして、それを眺めた。
 男は、がっくりと膝をついた。
「あんたも、俺を見捨てるのか……」
 ローイが黙って小刀を拾った。
 そこへ、さっき、ガイルが立ち上がったとたん広場から駆け出していった雑貨屋の主人が、息を切らして駆け戻ってきた。もうひとり、別の男が一緒だ。
 新しくやってきたその男は、屈み込んでガイルの肩を抱くようにして彼を立たせながら言った。
「ガイル、そろそろ寒くなってきた。家に帰ろう」
 それから里菜に向かって軽く頭を下げた。
「お嬢さん、びっくりさせてすまなかったね。弟に、あんたを傷付ける気は、なかったんだ。許してやってくれ」
「は、はい……」
 里菜があっけにとられたまま頷くと、男は、こんどは広場を見渡して頭を下げた。
「みんなにも、面倒かけてすまなかった」
 みんなを代表するように、一人の老婆が進み出て、男の腕の手をかけて静かに言った。
「いいんだよ、ファール。ガイルのことは、あんただけの責任じゃない。村のみんなで、気をつけてやらなきゃならないことなんだ」
 広場の老人たちが、賛同を示して頷く。
 ガイルはもう、あたりのことに一切の関心を失ったように、兄のファールに支えられてぼんやりと立っていた。
 ローイはファールに小刀を手渡した。
「はい、これ。おじさんも大変だよな。でも、刃物だけはしっかり隠しとけよ」
「ああ、ローイ、ありがとう。いや、隠しておいたつもりだったんだがね。どうやって見付け出してしまったものだか。じゃあな。さあ、行こう、ガイル」
「さあ、俺たちも行くぜ、リーナ。今のおっさんのことは、もう心配しなくて大丈夫だ。兄貴がついてりゃ、もう心配ないから。怪我、してないよな?」
 熱しやすく冷めやすいローイは、今のごたごたですっかり気勢をそがれて、里菜をつれておとなしく立ち去った。広場の老人たちも、ドアを半分開けて首を出していたオード老も、何も言わずにふたりを見送ってから、今の出来事についてがやがやと話し始めた。
 その時、里菜は再び、背後で声を聞いた。今度の声は、オードの怒鳴り声ではなく、パン屋のおかみさんの、オードに向けた叱声だった。それは、広場のざわめきに紛れそうな抑えた声だったのだが、里菜の耳には、その声だけが、はっきりと届いた。
「オードじいさん! なんてことを……。<マレビト>に失礼なことを言うと、崇りがあるよ! それこそ、村に災いが降りかかるよ! どうしてくれるんだい」
 里菜の足が止まった。ローイが怪訝そうに里菜を見下ろした。
「どうしたい、リーナちゃん」
「ううん、なんでもない」
 里菜は唇を噛んでうつむいたまま、歩き出した。そんな里菜を見て、ローイはやさしく言った。
「もう、後ろの連中には見えないから、泣いたっていいんだぜ。あんた、偉かったな」
「ローイ……。ありがとう。あたしの味方してくれて。うれしかったわ」
「そんなの、あたりまえじゃん! ほかのやつらがおかしいんだよ! リーナ、その……ごめんな、俺があんたを無理に連れ出したから、こんなことになって」
「ローイが悪いんじゃないわ」
「リーナ、あんなクソじじいの言うことなんか、気にするなよ。あのじじいは、村中で有名な気難し屋なんだ。あいつが気に入らないのは何もあんただけじゃなくて、村の人間の半分は気に入らねえんだ。そしてやっぱり、村の人間の半分は、あいつを嫌いだ。そういう、嫌われものの偏屈じじいなんだよ。まともに相手にすることねえんだ」
「うん。気にしないことにする。あたしはよその世界の人間だし、変な力があるし、いくらこの村の人が<マレビト>に慣れてるからって、中にはあたしを怖がる人がいるのは仕方がないわ。でもみんな、きっといつかは、あたしのこと、村の人間として受け入れてくれるよね?」
「今だって、みんなは受け入れているさ! どっちかって言うと、あんたは人気者だぜ。ただ、中に何人か、わからんちんがいるだけさ。年寄りは迷信深くて困るよな。だいたい、ほら、閉鎖的っていうの? 田舎だからさ。これだから、俺は田舎はいやだね。だいたい、俺が何着ようと、誰と一緒に歩こうと、俺の勝手だろ。そんなことまで、うるさいじじいどもにとやかく言われたかねえやな。この村じゃみんな、俺の最先端ファッションについて、何にもわかってくれねえんだ。ああ、いやだ、いやだ! な、リーナちゃんは俺のこのファッション、分かってくれるだろ?」
「え? うーん……。ごめんね、あたしにも、ちょっと……」
「あ、冷てえなあ。嘘でもいいから、ええ、すてきだわ、くらい言ってくれよ!」
 思わず笑った里菜を見て、ローイは嬉しそうに言った。
「うん、それでこそ、素手でドラゴンに立ち向かった女の子だ!」
「それ、言わないでってば!」
 里菜はローイの脇腹を――背中には赤ん坊がいたので――両手で張り飛ばしてから尋ねた。
「ところで、ねえ、ローイ。あのガイルって男の人、何? どこか悪いの? そのう……頭がおかしいとか?」
 ローイは、彼には珍しく、少し顔を曇らせて言い淀んだ。
「ああ、あれか……。びっくりしたろう。でも、あのおっさんを悪く思わないでやってくれよな。あの人は、別にどこが悪いってんでもないんだが、まあ、その、最近ちょっと身体が弱っちまって、それで働けなくなったんだ。でも、あの人は、立派な人なんだぜ。だから、あんた、他の人の前で、あの人のこと、頭がおかしいとか言わないでやってくれな。たまに、さっきみたいに変なことを口走ることもあるが、普段はいたってまともなんだからさ」
 普段、一を聞けば十を教えてくれる話し好きのローイにしては、妙に歯切れが悪い説明だった。ローイはきっと、このことをあまり話したくないのだ。
 そういうことは、アルファードにはよくあることだが、おしゃべりで開けっ広げなローイからこんな拒絶の気配を感じたのは、里菜は初めてだった。
「ふうん、そうなんだ……」
 うなずきながら、里菜は思った。――たぶん、あの男は、本当は少々頭がおかしいのだろう。そしてたぶん、ローイを含めた村人は、そういう彼の存在を、外部の人間にはあまり知られたくないのだ――。
(そう、あたしは結局、この村の人々にとって、マレビト――かりそめの客人なんだわ。お客は、その家の人が知られたないことを、あれこれ嗅ぎまわっちゃいけないのよ)
 さっき背後に聞いたパン屋の言葉が耳によみがえる。
 あのパン屋は、里菜の数少ない顔馴染みの大人の一人だった。里菜がお菓子を好きなのを知っていて、いつでも割れたお菓子をとっておいては、ニコニコしながら、おまけにつけてくれていたのだ。
 そんなパン屋の、あの一言は、里菜にとって、オードの罵りより辛かったのである。
 それからふたりは、なんとなく黙りがちに歩いていった。
 もう夕方も近い。子供たちは、それぞれの家の近くを通りかかるごとに、一人、二人と手を振って列を離れていった。最後の赤ん坊を母親に手渡したふたりは、足を早めて家路を急いだ。時折ローイが、落ち着かなげにズボンで手をこすったりしながらポツリポツリと冗談を言い、里菜は短く笑って、また黙り込む。


「リーナ! どこへ行っていた?」
 家の前のゆるい坂道を上ってきたふたりの姿を、坂の上から見付けたアルファードが、静かだが厳しい声で尋ねながら大股で歩み寄ってきた。
 ちょうど今しがた、予定より早く仕事を終えて帰ってきたアルファードは、家に誰もいないのを不審に思い、また家の前に出てきたところだったのだ。
 その頼もしい姿を見、力強い声を聞いたとたん、里菜の心をかろうじて支えていたものが崩れた。
「アルファード……!」
 里菜は駆け寄って、アルファードのシャツを掴み、その胸に顔を埋めた。顔を隠したとたん、涙があふれ出した。何か言おうとするが、言葉にならない。
「な、何だ、どうしたんだ、リーナ」
 アルファードはめんくらって、里菜の細い肩が震えるのを見下ろした。途中まで上がった腕が、里菜の肩のあたりで逡巡《しゅんじゅん》して、また降りた。
 それからアルファードは、里菜にしがみつかれたまま、ローイをギロリと睨んだ。
「おい、ローイ……」
 ちょうど里菜の後ろから追い付いてきて、バツが悪そうにアルファードと里菜を見やっていたローイは、あわてふためいて、顔の前で左右に大きく両手を振った。
「ち、違う、違う! 俺じゃねえ! 俺は、何にもしてねえよ!」
「ローイ、どういうことだ。どこへ行っていた。何があったんだ」
 アルファードに、静かだが妙に迫力のある口調で問い詰められて、ローイはびびりながら、事の次第を白状した。
 黙ったまま聞き終えたアルファードは、里菜の肩に手をかけてそっと脇に押しやると、威圧するようにローイの前に進み出た。
「ローイ。なんでリーナを連れ出した。リーナを良く思っていないものがいるのは、お前だって知っていたはずだ。どういうことになるか、分からなかったのか?」
 こうして向かい合って立つと、ローイの方が、アルファードより頭半分近く背が高いのだが、それにもかかわらず、アルファードのほうが大きく見える。横幅があるせいもあるが、何といっても、迫力で、断然、アルファードのほうに歩があるのだ。存在感の大きさが、まるで違う。
 ローイは思わず一歩後ずさりながら、口だけは負けじと反論した。
「リーナを良く思わないやつがいるからって、それはしょうがないことだろ? 俺のことだって、良く思わないやつは大勢いるが、それでも俺はこうして大手を振って闊歩してるぜ。リーナがほんのちょっと避暑にでも来ただけだってんなら、いいんだぜ。自分のことを良く思わないようなやつらとは、顔を合せないままで済ませることもできるさ。でも、この村でこれからずっと暮していくつもりなら、いつまでもそういうやつを避けて通るわけにはいかねえだろ? まあ、俺だって、いきなりこんなことになるとは思ってなかったけどさ、さっきのは、リーナがほんとうにこの村の住民になるためには、いつかは通らなけりゃならない道だったんだよ。リーナには気の毒だったけど、リーナはあんたが思ってるより、ずっと強いんだ。リーナはこれからもこの村で、嫌なやつとだってそれなりに付き合っていかなくちゃならねえんだ。それが人生ってもんだろうが!」
「ローイ、開き直りはよせ。お前の人生論など、聞くつもりはない。お前が人生についてどう考えていようとかまわないが、その考えをリーナに押し付けて、彼女に辛い思いをさせる権利は、お前にはないだろう」
 言いながらアルファードは、さらに一歩、ローイに詰め寄った。ローイは、後ずさりながら喚いた。
「俺は別に、リーナを辛い目に会わせようと思って連れ出したわけじゃないさ。たまたまそういう結果になっちまっただけでさ。俺はただ、リーナも家に閉じこもってないで、たまには外で気分転換したほうがいいと思ったんだ。ずっと前に、村を案内するって言っておいて、まだ、してなかったしさ。……あんた、リーナに、外に出るななんて無体なこと言ったんだってな。リーナはそんな横暴に、おとなしく従ってること無いんだ。それこそ、あんたには、そんな権利は無いんだ!」
「外に出るなといったのには、理由がある! リーナには例の力が……」
「『例の力』ったって、リーナはもう、それはすっかり抑えられるようになったじゃねえか。俺だってずっと訓練に付き合ってたんだから、よく知ってるんだぜ。そんなの、あんたの言い訳だろう! あんた、リーナを、一生ここに閉じ込めておくつもりかよ! そうしてあんたが選んだ無難な人間としか会わせないつもりか? あんたはリーナの、何だ? あんたにそんな権利があるのか? リーナは子供じゃないんだぜ。むろん、あんたのペットじゃない。ちゃんとした人間だぞ。リーナがどこに行って誰と会うかは、リーナの自由だろうが。あんたが決めることじゃないだろ! それを、あんたは……」
 アルファードは、無言でローイの胸倉を掴んだ。
 それまで呆然と立っていた里菜が叫んだ。
「やめて、アルファード!」
 アルファードはローイを突き離して里菜の方に向き直った。里菜を見つめるその目は厳しかった。いつもの里菜なら、目を伏せてしまっただろう。
 けれど里菜は、涙に濡れた目をまっすぐに上げて敢然とアルファードを見つめ返した。
 瞳はまだ濡れていたが、涙は止まっていた。さっきから、本人をそっちのけで言い合うふたりを見ているうちに、里菜の心はスッと冷静になっていった。霧が晴れるように、物事がよく見えるようになった気がした。
「ローイを責めないで。あたしは、ローイにむりやり引きずっていかれたわけじゃない。自分で歩いていったのよ。何もローイのせいなんかじゃないんだから! あたしは自分で村へ行ったの!」
 不動で立っているアルファードの静かな全身から、突然、目に見える閃光であるかのように、激しい怒りが奔った。里菜は、思わず、首をすくめた。
 だが、その激情の気配は、燃え盛る炉の扉を一瞬開けてまたすぐに閉めたように、すばやく影を潜めた。それはあまりにも一瞬の出来事だったので、アルファードの背後にいたローイは、気がつかなかったほどだった。
 アルファードは、自分の逆上を恥じるように、あるいは自分を落ち着かせるように、静かに目を伏せ、すぐにまた目を上げた。
「リーナ……。ローイをかばっているのか。君は、辛い思いをしたのではないか?」
「そりゃあ、辛かったわ。でも、それはほんとうに、ローイのせいじゃないし。それにあたし、もう、大丈夫だから。さっきは泣いたりして、ごめんなさい。それから、約束破ってごめんなさい」
「……」
「でも、あたし、今日はこんなことがあったけど、村へ行ってよかったと思っているの。ローイの言うとおり、あたしは、ああいう人たちとも、付き合っていかなきゃならないんだもの。……あたし、今まで、あたしのこと、あんなふうに思ってる人がいるって、知らなかった。でも、知ってよかったわ。だって、知らなくちゃ、その人と仲良くなろうと努力することも出来ないじゃない。ね、アルファード。あなた、このあいだ言ったでしょ? あたしが何を知り、何を知らずにいるべきかを、あなたが決めてはいけなかったって」
「ああ。俺はどうやら、また同じ過ちを繰り返していたようだ」
 アルファードは、静かに言った。怒りの気配は消えていた。
「アルファード。あたし、いつかはオードおじいさんとも仲良くなれるように、頑張るから」
 きっぱりと言う里菜を、アルファードは、初めてみるようにまじまじと見た。
「俺は、本当に考え違いをしていたらしい。……リーナ。君は、強い」
 里菜は、涙の名残りを手で拭い去り、アルファードを見上げて微笑んだ。
 ローイは、複雑な表情で、一歩下がったところから黙ってふたりを見ていた。

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