長編連載ファンタジー
イルファーラン物語
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12(中編) * アルファードの家は、村の中心部から少し離れている。遠足にでも行くようにはしゃいでいる子どもたちを引き連れたローイと里菜は、広場へ向かって、並んで歩いていった。 里菜が広場へいくのは、別に初めてというわけではない。牧場《まきば》 へ行っていたころは、夕方、ここで羊たちを持ち主に引き渡していたし、その時ついでにパンや雑貨を買ったりもしていたのだ。でも、そのときは必ずアルファードと一緒だった。アルファードと一緒にではなく村の中心部に行くのは、初めてだ。 そう思った里菜は、ほんの少し緊張しながら、あらためてあたりを見回した。 最後にこの道を通ってから、半月ほどたっている。その間に、道沿いの畑も木立も、すっかり冬めいてしまったように感じられる。冷たく澄んだ空気と、金色の午後の日差しが心地よい。子供たちの元気な声を聞きながら歩くうちに、アルファードの言いつけを破った後ろめたさで強張っていた里菜の気持ちも、のびやかにほぐれてきた。牧場 《まきば》に行かなくなってから、里菜はずっと、アルファードの家とその庭を離れたことがなかったのだ。解放感が、緊張と後ろめたさに取ってかわり、里菜は大きく伸びをして、空を見上げた。 そんな里菜の様子を横目で見ながら、道中のあれこれを面白おかしく解説していたローイが、ふいに真顔になって、こう言った。 「あんた、アルファードに、惚れてんだろ。なんでまた、あんな堅物に。あんた、あいつにゃ、勿体ないよ」 突然の言葉に、里菜は真っ赤になった。 「な、なんでわかるの?」 「なんでって、あんたまさか本当に、わからないつもりだったのかよ。そんなの、誰が見たってわかるさ。今だって、そんなに真っ赤になってさ。あんたがアルファードのあとをついて歩いてるとこは、まるでアヒルのヒナみたいだぜ。……でも、けちをつけるつもりはないけどよ、あんたのそれはさ、恋っていうより、ほら、アヒルのヒナが最初に見たものを親だと思ってくっついて歩く、あれとおんなじなんじゃねえの? あんた、この国に来て目を開けて初めて見たのがアルファードだったろう。そんでアルファードのこと、親鳥だと思いこんじまったとかさ。いや、気に障ったら許してくれよ。俺、思ったことは、すぐみんな言っちまうからさ」 里菜は、ちょっと驚いて、それから考え込んだ。 言われてみれば、自分のアルファードへの想いは、たしかに、それに近いものかもしれないという気がしてくる。もとより里菜は、どういうのが恋でどういうのがそうでないかなど自分に区別できるとは思っていないが、それにしても、自分はただアルファードに頼り切っていて、いつも甘えていたいだけで、それは、恋愛感情というのとは、さすがにちょっと違うような気もするのだ。なるほど、親鳥を慕うヒナと変わりない。 だいたい、よく考えてみれば――よく考えてみるまでもなく――、アルファードは、もともと、里菜の好みのタイプというわけでもないのである。極端にオクテであまり恋愛に興味のなかった里菜に、それほどはっきりした異性の好みというのがあったわけでもないのだが、少なくとも彼のようなやたらと男っぽいタイプは絶対に好みでなかったことだけは確かだ。好みであるとかないとか考える以前に、そもそも、まるっきり対象外で、視野にも入って来なかっただろう。 だから、例えば、里菜がアルファードと『あちら』の世界の日常生活の中でたまたま普通に行き合っていても、彼に特別な関心を持つことは、まず無かっただろうと思う。 まあ、タイプとして好みであろうとなかろうと、人柄を知ってみたら実は良い人だったというなら好きになっても不思議はないが、あんなふうに、ほとんど一目で彼に恋に落ちてしまったというのは、確かに、なんだか不自然だ。 いや、そう言えば里菜は、一目惚れどころか、顔もろくに見ないうちから、すでに彼に恋していたような気がする。恋をしていたというより、はっきりした根拠は何もないのに最初から彼を信じ切っていて、川から抱き上げられて運ばれて行く時も、その腕の中であんなに安心しきって、うっとりと眠りかけたりしていたのだ。 顔もよく見ず、人柄も知らないうちに、恋ができるものだろうか。 だいたい、いくらまだ意識が朦朧としていたからといって、自分が見知らぬ男の腕の中であんなふうに安心して眠り込むなんて、よく考えてみれば、確かに変だ。『刷り込み現象』のなせるわざとしか考えられない。 今まで、自分では一人前に彼に恋をしているつもりでいたが、もしかすると、これは、ただ、『刷り込み現象』を恋と錯覚しているだけなのだろうか。 ローイは、一生懸命考え込んでいる里菜を覗き込んで、ふいにおどけた調子で言い出した。 「でも、もったいねえよなあ。あんた、大損してるぜ」 「え? 損って、何が?」 「だってよ、この国に、男はごまんといるのに、たまたま最初に見たのがアルファードだったからって、あんたみたいなかわい子ちゃんが、あんな朴念仁に惚れちまうなんてよ」 「別に、最初に見たから好きになったなんてわけじゃ……」 「いいや、そうだ。そうに決まってる。あんたの国には、こういう話はないのか。ほら、小箱の中に、親指くらいのきれいなお姫様が閉じ込められてて、たまたまその箱の蓋をあけた貧しい若者のお嫁さんになる、みたいな話」 「うーん、もしかするとどこかにあるかも知れないけど、あたしは聞いたことないわ。壷とか瓶とかランプとかに閉じ込められていた魔神が、蓋を開けて出してくれた人の願いをかなえてくれるって話なら知ってるけど」 「あははは、壷の魔物か。そういう話なら、この国にもあるよ。壷から出してもらった魔物は、助けてもらった恩のために、出してくれた人の言うことは何でも聞かなきゃならなくなるんだ。こりゃあ、いいや。あんた、まさに、それを地でいってるよ」と、ローイがあまり大笑いするので、里菜は思わず、むっとした。 「なによ。どういう意味?」 「まあ、怒るなよ。だってあんた、アルファードのいいなりじゃん」 「そんなことないわ!」 「まあまあ、怒るなって。でも、あんたじゃ、壷の魔物の役は、ちっと無理そうだなあ。たしかに不思議な力があるっちゃあ、あるかもしれないが、それで何が出来るってわけでもないしな。やっぱ、どっちかっつうとシルグリーデ姫だよな。あ、その、箱の中のお姫様、シルグリーデ姫っていうんだよ。 で、さ。彼女は、実は、悪い魔物に、誰でも最初に箱を開けたものに恋をしてしまうって呪いをかけられてたのさ。魔物は、その美しい姫に惚れて結婚を申し込んだんだが、ふられちまったんだ。その腹いせに妖術で姫を小さくして箱に閉じ込め、そんな呪いまでかけて、姫がどんなに愛しても決して振り向いてくれないような男に箱を開けさせようと企んだんだ。ところが魔物は、そういう男を探して世界中を飛び回っているうちに、空の上から、箱を落してしまった。きっと、ちょっとマヌケな魔物だったんだなあ。それから何百年もたって、貧しいけれど心のきれいな若者が箱を見付け、箱から出してもらった姫はもとの大きさに戻って、ふたりは結ばれ、めでたしめでたしってわけ。 それでだな、俺が言いたいのは、あんたにもシルグリーデ姫みたいに何かの呪いがかけられていたんじゃないかってことだ。それであんた、アルファードに惚れちまったわけ。そして、それが大損だっていうのさ。だって、あんたがもしも呪いから解き放たれ、目をさましてあたりを見回してみれば、あんたが恋するのにもっとふさわしい相手が、すぐそばにいることに気がつくはずだぜ。そう、今、ここに、あんたの隣にだよ!」 そう言ってローイはケタケタと笑い出したので、からかわれたと思った里菜は、つん、と、横を向いた。 ローイは笑いを収めて、唇を尖らせた里菜の様子を眩しげに横目で見やって、言葉を続けた。 「でもよ、なんであんたがアルファードに惚れるのか、わかんないんだよな。いや、アルファードが怪物みたいに不細工だとか、ひどく意地が悪いとか、そういうことはないんだが、ただ、俺から見ると、あんたとアルファードって、相性はあんまりよくないように見えるんだ。……ていうか、まあ、割れ鍋に綴じ蓋で、それなりに相性はいいのかもしれねえが、でも、それに安住してると、あんた、ダメになると思う。あいつは、あんたをダメにする。あっちこっちへ伸びあがろうとするあんたの心を力で押えつけて、あんたの魂を矯めてしまうだろう。 ……アルファードはな、普段、あんまり温厚でおとなしいから、誰も気付いていないと思うが、あれは、なんていうか、人を支配するタチの男なんだ。そして、あんたは、あんな野郎におとなしく支配されてるような女じゃないはずだ。俺、人間を見る目には、ちょっと自信があるんだぜ。あんたは、ヒナ鳥か飼犬のようにアルファードの後をついてまわっているが、もともと、あんたは、男の後を黙ってついていくってタイプじゃねえだろう。それなのに、アルファードの前では、あんたは、ついていく女になっちまう。それが恋だと言われればそれまでだが、アルファードの前では、あんたは本当のあんたじゃなくなっちまうんだ。今はそれでよくても、そのうち、ムリがでてくるぜ」 たしかに、彼の、ひとを見る目は確かだ。一見軽薄なだけに見えるローイが、繊細で鋭い感覚も持ちあわせているのを、里菜はもう、知っている。 アルファードの前で、里菜が自分を失っているというのは、たぶんそのとおりだろう。里菜はそれを、ただ、恋をしているせいだと思っていた。恋をした女の子は、みんな変わってしまうんだと思っていた。だが、ローイにこんなふうに指摘されると、それが不自然なことにも思えてくる。里菜は、なぜだか言い訳する口調になって言った。 「でもローイ、アルファードは、そんな人じゃないわ。絶対いばったりしないし、それにやさしいし……」 里菜のよわよわしい反論を、ローイが、彼にしては強い口調で遮った。 「やさしいから支配しないってものじゃないんだ。冷酷な暴君も、思いやり深い明君も、支配者には違いないだろう。あいつは、あの、父親みたいなやさしさで、保護者づらして人を支配しようとするんだ。だから俺は、あいつとは友達だし、いいやつだと思っているが、時々あいつに我慢がならねえ時もあるんだ。俺は、たいして年上でもねえ赤の他人に父親面されるのはごめんだからな」 それからローイは、一転して、茶化すような軽い調子になって付け加えた。 「ま、色恋ってのは理不尽なもんで、どういうものか、一緒にいて幸せになれるやつを好きになるとは限らないんだよな。わざわざ、つらくなるようなやつを選んで恋をしてみたりする。そこが色恋の、奥の深いところってもんだ。だからあんたが、それでもアルファードがいいってんなら俺は止めねえよ。まあ、いつまでもつことやら、せいぜい頑張ってみな。何事も経験ってやつさ。実は俺のほうがあんたにふさわしいってことに気付くのはそれからでも遅くないぜ。いや、そのほうが、俺の有難みがよくわかろうってもんだ。そうさ、そういう遠回りが、いっそうふたりの愛を燃え上がらせるのだ!」 ローイは、芝居がかったしぐさで両手を広げて叫んだ。ただでさえ滑稽なしぐさが、赤ん坊をおぶっているので、よけいおかしい。 里菜はローイを睨んで見せたが、彼の愛敬につりこまれて、つい笑い出してしまった。 「もう、何よ、ローイってば! 何が、『ふたりの愛』よ! ふたりって、誰と誰?」 「わかってるくせに! 照れるなよ」 慣れ慣れしく里菜の肩を叩いて、ローイは大笑いを始めた。 ひとしきり笑いころげたローイは、また急に真摯な声音で言った。 「でも、ほんと、冗談抜きでさ、アルファードといるのがつらくなって、やめたくなったら、いつでも俺のとこへ来いよ。俺、ずっと……待ってるから」 それはまるで、突然仮面がはずれたような、素直な言葉だった。少なくとも、そう、聞こえた。 里菜は、不意打ちをくらった思いで、少しうろたえて、目をそらした。 が、ローイは、すぐに、いつものおどけた顔に戻って、ケラケラ笑いながらつけくわえた。 「……なーんてね!」 「ふんだ、ローイのバカ! 何があったって、あなたのとこへなんかだけは、絶対行かないもん!」 里菜は、かすかに頬が赤くなってしまったのをごまかすために横を向いて、ひときわツンツンして叫んだ。一瞬でも、ドキッとしてしまった自分が悔しかったのだ。 「おお、おお、元気、元気。いいことだ! さすが、素手でドラゴンに立ち向かった女の子だけのことはあらあ。あんた、俺の前では、随分威勢がいいよな。アルファードの前じゃ、まるでしおらしいくせしてよ。でも、俺、こういうあんたの方が好きだよ」 この、最後の一言は、里菜に聞こえないように、口の中でそっと呟かれたのだった。 後ろでは、子供たちが、ふたりの会話など気にも留めずに騒いでいる。 幾度か、道沿いの畑や庭で、急がしそうに働く人影が見えた。彼らは、一行が通り過ぎるのを、めずらしそうに手を止めてながめ、何人かは遠くから里菜に手を振り、声をかけてくれた。里菜は笑顔で小さく手を上げて、あいさつを返した。 このあたりでは、冬はどんより曇って小雪が舞っていることが多い。だが、本格的な雪の季節の訪れを前にして、毎年必ず、今日のようなよく晴れた日がしばらく続く。その、冬の初めの短い黄金の日々を、村人は<女神の贈り物>と呼んで、季節に追い立てられるように忙しく冬支度に精を出すのだ。道すがら見掛ける誰もがせわしなげに働いている。働き者の村人は、いつでも忙しいのだ。 「おや、リーナ、今日はローイと一緒かい? あんたがアルファードと一緒じゃないとこを見るのは、初めてだよ。でも、そういえば最近あんたを見掛けなかったね」 広場に面したパン屋のおかみさんは、里菜とはすっかり顔馴染みだ。自分でパンを焼くことができないアルファードは、この店の上得意なのである。 広場では、何人もの老人たちが、椅子を持ちだしたり縁石に腰掛けたりして、日向ぼっこをしながら世間話をしたり、何やら細かい手作業をしたりしていた。広場の近くに住む年寄りたちは、天気がいい日はいつもこうして広場に座っているのだが、今まで里菜は、夕方、老人たちがもう家に引っ込んだあとに来ることが多く、こんな早い時間の広場の賑いを見るのは初めてだ。 里菜はおかみさんに笑顔を返して答えた。 「うん。ずっと家にいたから」 「あら、そう? どこか悪かったの?」 「ううん、そうじゃないんだけど、出掛ける用事、無かったし。それに、うちで子守りしてたから」 「ああ、そうよねえ。今日も大勢引き連れて。みんな、有難がってるわよ、ほんと助かるって。<女神のおさな子>に子守りをしてもらうなんて、もったいないことだよ。だいたい、この時期、毎年、子守りに困ってたのよ。ローイだって、ぜんぜんあてにならなかったし。ローイ、あんた、今年はずいぶんと落ち着いて村にいるじゃないの。去年はすぐ、よその村の娘っ子にちょっかい出しに、子守りを放り出して、ふらふら行っちまってたのにさ」 「やだあ、ローイってば。よその村までナンパしに行ってたの?」 里菜に横目で見られて、ローイは頭を掻いた。 「おばさん、それ、言うなよ。今年の俺は、もう、去年とは違うんだ。心を入れ替えたんだよ! こんなに毎日毎日、真面目に子守りに精出す俺なんて、見たことないだろ」 「どうせなら、子守りだけじゃなくて、ほかの仕事もやっとくれよ。あんたの義姉さん、昨日もこぼしてたよ! なんのために、そんなでっかい図体してるのさ。まったく、いい若い衆がぶらぶらして……」 「説教はいいから、パンくれよ、パン。アルファードがいつも買ってるやつ」 「はいよ、どうぞ。これ、おまけ。リーナの好きなお菓子だよ。じゃあリーナ、またね」 「うん、おばさん、ありがと。またね」 里菜がパンを買っているあいだに、老人たちの何人かがこそこそと立ち上がって家に入っていったことに、広場に背を向けていた里菜たちは気づかなかった。 パンを抱えた里菜とローイが広場を後にしようとした時、誰かが背後から、しわがれた声で叫んだ。 「二度と来るな! この悪霊め」 その、悪意に満ちたざらついた声に、里菜の足はすくんだ。冷たい手で、首ねっこを掴まれたような気がした。 (悪霊って……。あたしの、こと?) 怯えた里菜を後ろにかばうようにして、ローイは振り返って仁王立ちになった。 「今の言葉、誰に向かって言ったんだ? え?」 ローイは、すごみを効かせて広場を睨めまわした。 「聞きずてならねえなあ。来るなとは、どういうことだ。リーナは、この村の住人だぜ。村の住人が、村の共同の広場に来て、何が悪い!」 ただならぬ空気に怯えた子供たちが、不安げにローイの足元に寄り集まって、広場に目をやった。広場にいる老人たちや、回りの店の主人や客は、しん、と静まりかえって成り行きを見守っている。 「今の声は、オードのくそじじいだな。何、こそこそ隠れてやがる。言いたいことがあったら出てきて言えよ! 何でリーナがここへ来ちゃいけねえんだ!」 ローイの目が、広場に面した一軒の家のドアに止まった。 ドアが、細く開いている。その向こうに、人の気配があった。 ドアの隙間から、さっきのしわがれた大声が響いた。 「その娘は、村に災いを呼び込む不吉な悪霊だ。ローイ、お前もそんな娘にかかわりあうんじゃない!」 「なんだよ、どんな訳があってそんなひどいこと言うんだよ! リーナが、何か、悪いことしたっていうのかよ!」 「その娘が、毎日のようにこの広場へ来てた頃、わしの家ではチーズに悪いカビが生えたし、ミルクもすぐにすっぱくなった! 言っておくが、そんなことは今までにはなかったぞ! その悪霊めが、邪眼で保存の魔法を消しくさったに違いない」 「なんだ、そりゃあ? オードじじい、あんた、ボケちまったんじゃねえの? あんたんとこのミルクが腐ったのは、本当だろうさ。でもそれは、保存の魔法のかけかたがいいかげんだったか、あんたがモウロクしちまって魔法の力が弱くなっちまったからだろうよ。リーナは、保存の魔法は、消せないんだ。そんなバカげた理由で他人を中傷しないでくれよな!」 そう、確かに里菜は、保存の魔法のようにあらかじめ物にかけてある目に見えない魔法は、最初から、消すことが無かった。里菜が消すのは、目の前で使われる目に見える魔法だけなのだ。それを、ローイは、よく知っている。 が、老人は、そんな言葉には耳を貸さなかった。 「わしらが女神から授かった魔法を消してしまうなどという、世のことわりに背く力を持つものが、女神の御子でなぞあるわけがない。その娘は魔性の者だ。わしらの魔法の力を消して、ふぬけにしておいてから、魔物たちと魔王の灰色の軍勢を村に導く算段に違いない。ええ、そうだろう? 親切ぶって子守りなどしているのも、そうやって子供たちを手なずけておいて、いつかまとめて力を奪い、村を乗っ取るために決まっておる。だからわしは、口をすっぱくして、みんなに言っておるのだ。自分の子供をかわいいと思うなら、あんな、どこから来たかもわからぬ怪しげな娘に触れさせるなと!」 その声に含まれた、激しい憎悪と恐れ、そして見知らぬ者に対する警戒の念が、ほとんど物理的な暴力のように里菜を打ちのめした。里菜は、我しらず一歩よろめいて、ローイの腕にすがった。 「おい、いいかげんにしろ、このモウロクじじい! あんた本当にボケてるぜ。いいか、リーナはな、魔法の力そのものを消しちまうわけじゃないんだ。その時々で使われる魔法を消すだけだ。それだって、今は、消さないことだって出来るようになったんだ。もう、誰にも迷惑はかけないはずだ。それなのに、そんな訳のわからんたわごとを抜かしやがって! いくら年寄りは敬わなけりゃならないったって、そこまで言われて黙ってなきゃいけねえって法はないぜ。リーナのことをそんなふうに言うやつは、たとえ年寄りでも許せねえ! 出て来いよ、この卑怯者!」 「誰がそんな挑発に乗って、おめおめと邪眼の前に姿をさらすものか。わしは知っておるぞ! その娘の黒い目で睨まれると、魔法の力が吸い取られてしまうのだ!」 広場の老人たちの幾人かが、もごもごと口の中で賛同の言葉をつぶやいて里菜から目をそらしたのが、いっそうローイを逆上させた。 ローイは、ことさら大声を張り上げた。 「ははあ、じいさん、怖いんだな。こんなちっぽけな、年端もいかない女の子が。ハ! こいつはおかしいや!」 「ふん、どうせその姿は、人を油断させるための見せかけだ。その目を見れば、その娘が見かけどおりのものではないのがわかろうに! その悪霊めは、そんなふうに、いかにも罪のない無力な小娘を装ってわしらを油断させ、村に災いを引き込むころあいを計っておるのだ! ローイ、お前はその小娘にたぶらかされておる。その娘の本当の齢など、わかったものじゃないぞ!」 そこで老人は、ふいに思い出したように矛先をローイに向け、日常的な説教の口調になって続けた。 「ローイ、お前もお前だ。いい若い者がろくに仕事もせんで、そんな破廉恥ななりをして子供と一緒になって遊び回っているとは、世も末だ。それだけでも嘆かわしいのに、その上、そんな得体の知れぬよそものの娘といちゃつきおって。村中の娘っ子に色目を使うだけじゃ、まだ足りんのか。まったくもって浅ましい。恥を知れ、恥を!」 ローイは気色ばんで叫んだ。 「なんだって! 誰が、リーナといちゃついてるって! 確かに俺は、村中の女の子全員に分け隔てなく色目をつかっているが、リーナにだけは、まだ、なんにもしてねえぞ!」 ローイは大真面目に自己弁護のつもりで叫んだのだが、これには、誰もが思わず失笑した。張り詰めていたその場の雰囲気が、ふっと緩んだ。 それまで息を詰めるようにしていた人々が、ざわざわと騒ぎ始めた。 「オード、いくらあんたがその子を気にくわないにしたって、そりゃあ言いすぎじゃないか?」 「そうそう。ローイの言うとおり、ここは村の共同の広場なんだから、あんたが気にくわないからって、人に来るなとは言えないわよ。かわいそうに、リーナは怯えてるじゃないの。この子が何をしたっていうのかね。あんた、最近、偏屈が過ぎるよ」 「いや、オードの言うことはもっともだ。普通の魔法が使えないばかりか魔法を消してしまう<マレビト>など、どう考えても正しいものじゃない」 「ジグ、およし! どんな力があろうとなかろうと、<マレビト>は<マレビト>だよ。めったなことを言うもんじゃない。アルファードだって、魔法は使えないけど、ちゃんとドラゴンから村を守って村に女神の恵みを運んでくれてるじゃないの。この子が魔法を消すのにも、ちゃんと何か女神の御意志が働いているのさ。女神の御配慮はとても深遠だから、時に、わたしら人間には推し測れないこともある。それでも必ず、女神のなさることには理由があるんだ」 ローイが、あたりをぐるりと睨みまわして言った。 「おい、みんな。女神がどうの、悪霊がどうのと言うのは、もうやめてくんな。リーナはただの女の子なんだ。ただ、よその国から来た子で、目や髪の色が人とちょっと違って、少しだけ人と違う力を持っているってだけのことなんだ! それを、本人を前にしてああだこうだと、あんたらには、大人のくせに思い遣りってもんがないのか! オードじいさん、いいかげん、出てこいよ! このいたいけなリーナちゃんが、あんたに悪さをするように見えるかよ。出て来ないなら、俺が迎えに行くぜ。このままじゃ、気がすまねえんだよ!」 ローイが本当にオード老の家に向かって一歩足を踏み出したので、それまでショックのあまり黙って立ち尽くしていた里菜は、あわててローイの腕をひっぱった。 「ローイ、やめて! もういいの、あたし、もう、ここへ来ないから。パンはアルファードに買ってきてもらえばいいんだし」 「でもよ、リーナ……」 「ね、お願い。もう止めて。パンも買ったし、もう帰ろ、ね?」 里菜は、ぶら下がるようにして必死でローイの腕を引いた。 自分を見上げて懇願する里菜の、青ざめながらも平静を取り戻したらしい表情を見て、ローイは、ふと、気を抜かれ、とりあえず矛を収めた。 「わかった。リーナ、あんた、気丈だな。さすがは素手でドラゴンに立ち向かった……」 「もう、ローイ、それ言わないでよ、恥ずかしい。あたし、無茶なことしたって反省してるんだから……。さ、行こ」 ローイは、オード老の家のドアにじろりと一瞥をくれると、里菜に引かれるようにして広場から立ち去ろうとした。 そのとき、広場の片隅で、それまで無関心そうに座っていた一人の男が、ゆらりと立ち上がり、まっすぐに里菜を見つめて、どこか弱々しい、うつろな声で言った。 「待ってくれ……」 そのとたん、広場の雰囲気が再び一変した。みな、ギョッとしたように一瞬黙り込み、それから、どこか不自然な、取り繕うようなざわめきが起こった。 「ガイル、どうしたんだい、立ち上がったりして大丈夫かい」 「なんでもないんだよ、なんでも。その娘のことは、気にしなくていいんだ。オードじいさんが何だか言っていたが、じいさんの勘ちがいなんだから」 「魔物は来ないよ、来ない。大丈夫だから」 誰かが舌打ちして、小声で言った。 「オードのやつ、ガイルの前で魔物の話なぞ持ち出しおって!」 子供をあやすように、周囲の老人たちが彼を再び椅子に腰掛けさせようとした。だが彼は、老人たちの腕を無言で振りほどき、里菜を見つめて立ち尽くした。 里菜はまたローイの腕にしがみついた。 (何? 今度は何が起こったの?) ローイを見上げると、彼も表情を強張らせている。 「リーナ、いいか、あんたは何も言うなよ。みんなが何とか収めてくれるから」 「収めるって? あれは誰?」 里菜はそれ以上、ローイに質問することは出来なかった。 男が、ゆらゆらとこちらへ歩いて来たのだ。 それは、壮年と見られる男だった。だが、もっと年を取っているようにも見え、実際の年齢がまるでわからない。 おそらくかつては筋骨逞しかったろうと思わせる体格をしているが、今、その身体にはどこか病み衰えた気配が漂い、顔付きもやつれて表情に乏しく、生気が感じられない。それが彼を老人のようにも見せているのだ。 そういえば里菜は、彼をこの広場で幾度か見かけたことがあるのを思い出した。村の大人たちの誰もがいつも働いている中、さほどの年寄りには見えない彼がただ座っているのを見て、里菜は、病人か、一見したところ分からないがどこか身体が不自由な人かと思っていたのだ。 ガイルと呼ばれたその男は、里菜の前でぴたりと立ちどまって、うつろな目で里菜の瞳を覗き込んだ。 子供たちは、里菜とローイの後ろに寄り集まった。 男は、里菜を後ろにかばおうとするローイを無視して、無言で里菜の左手を取った。 里菜はぞっとして手を振りほどこうとしたが、病人めいた男の力は意外と強かった。 男は、里菜の腕を裏返して掌を上向かせ、手首の内側を見つめた。 白く細い手首には、魔王の夢を見た朝に突然姿を現した傷跡が、今も消えずに浮かび上がっていた。 男が、ふいに目を上げて、言葉を発した。 「あんたは、俺を救ってくれるか……?」 →感想掲示板 へ →『イルファーラン物語』目次ページ へ →トップぺージへ |
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掲載サイト:カノープス通信
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