長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語

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 <第一章 エレオドラの虹> 

 暖かなベッドの中で薄目を開けて、里菜は、ぼんやりとあたりを見まわした。
 もう眠くなんかないと思っていたのに、昼食の後でアルファードに昼寝するように言われた里菜は、しぶしぶ目を閉じたとたんにたちまち眠ってしまい、今また、目を覚ましたところなのだ。やはりまだ完全に体調を回復していたわけではなかったらしい。
 目が覚めたのは、たぶん、隣室から漏れてくる静かな話し声のせいだ。
 隣室との境のドアは細く開いていて、その隙間から、穏やかなオレンジ色の光に包まれてテーブルにつく二つの人影が見えた。
 一方は、そう、もちろん、この家の主、アルファードだ。もう一人は……。
(そっか、ヴィーレが来たんだわ)
 里菜はそっと微笑んだ。思い出し笑いである。
 さっき、里菜の年齢を聞いて凍りついたアルファードが、しばらくしてやっと口を開いた時、その口から出てきたのは、それまでの落ち着き払いぶりはどこへやら、うろたえてしどろもどろの、別にしなくてもいいような弁解だったのだ。
「その……、君の服なんだが、着替えさせたのは俺じゃない。ヴィーレという隣の家の娘がちょうど来合わせて、それで……。だから俺は断じて一切、そのう……。ああ、ヴィーレはただの幼なじみで、俺とは別に何でもない……というか、妹のようなものではあるんだがそれだけで……いや、そんなことは余計な話で、別にどうでもいいんだが……」
 本当に余計なこの釈明で、アルファードとの間柄がちょっと気になっていた娘の正体がわかって嬉しくなったのと、そんな余計なことまでなぜか弁明してしまうアルファードの狼狽ぶりのおかしさに、里菜が思わずくすりと笑うと、アルファードは急に咳払いをして、
「ああ、とにかく、その……、後でヴィーレが君にちゃんとした服を持って来てくれる約束になっているから、それまで君は、まだ寝ていろ」と一方的に言い渡して、今度こそ引き止める間も与えずに、そそくさと部屋を出ていってしまったのである。
 里菜が起き出していくと、ヴィーレが親しげな微笑みで迎えてくれた。
「あら、リーナ、起きたのね。アルファードから聞いたと思うけど、あたし、マルヴィーレよ。ヴィーレって呼んで。よろしくね。あなたに、服を持ってきたの」
 里菜が挨拶をする間もなく、ヴィーレは足元の包みの中からあれこれ取り出し始めた。
「これ、お古で悪いんだけど……」
 と、言いながら、ヴィーレは取り出した服を里菜の肩に当ててみた。それは簡素な茶色の膝下丈のワンピースだった。
「あら、やっぱりこれでちょうどよかったわ。あたしが子供のころに着てたのだから、スカートはちょっと短めだけど、これくらいなら、まあ、いいわよね。他のじゃ、きっと、ブカブカだもの。ちょっと子供っぽいかなとは思ったんだけど、あなた、かわいらしいから、きっと似合うわよ」
 向かい合って立つと、ヴィーレは、里菜よりかなり背が高い。身体つきもふくよかで、彼女のお古だと、確かに、ずいぶん前のものでないと里菜には大きすぎるだろう。
「ありがとう」と、里菜はヴィーレに笑顔を返し、ごく自然にそれができた自分に、ちょっと驚いた。『あちら』にいたころ、里菜は、内気で人見知りの強い少女だった。けれどヴィーレの笑顔はあまりにやさしく、その態度があたりまえのように親しげなので、里菜もつられて、自分と彼女がすでにとても親しいような気分になってしまったのだ。
 もしかすると、それは、里菜が、この世界ではっきりと意識を取り戻す前の赤子のようなまどろみの中で、すでに彼女と出会っていたからかもしれない。
 ヴィーレは、里菜と服をにこにこと見比べながら続けた。
「これも似合うと思うけど、どっちみち一枚じゃ足りないから、今度、あたし、あなたに新しい服を作ってあげるわ。すぐ出来るわよ。あたし、そういうの、得意なの。そう、青がいいわね。あなたには、きっと青が似合うわ。もともと着ていた服も、紺色だったし……それに、あなたは<女神のおさな子>だもの。青は、女神さまのお好きな色なのよ。そういえば、あなたの着ていた服、洗ってきたんだけど……」と、ヴィーレは、なにか不吉なものを見るように、テーブルに畳んで置いた里菜の制服を見やってから、続けた。
「これ、着ないで、どこかにしまっておいたら? ここでは、少し、その……、奇妙に見えるかもしれないから。それからね、靴と寝巻と、髪を結ぶリボンも持ってきたわ。それでね、お湯を使ったらどうかしら。顔なんかは昨日あたしが一応拭いたけど、髪も洗いたいでしょ? じゃあ、あたしとアルファードは、支度をしたらそっちの部屋にいくから。着替えはここに一式置いとくわね。あ、タオルはここね」
 話しながらも、ヴィーレはテキパキと動き回り、暖炉の前に敷物を広げ、タライをとりだし、石鹸やらタオルやらを並べている。
 どうやら、風呂場ではなくこの部屋で、タライで行水することになるらしい。
(うわあ、お湯、こぼしたらどうしよう)と、里菜がちょっと心配になって見ていると、ヴィーレはその気持を察したかのように、
「あ、この敷物、防水だから、少しくらい水こぼしても、平気よ」と言った。
 それにしても、この人は、なんだかこの家の中のことにすごく詳しいみたいだ。ただの隣りの娘にしては、まるで自分の家のように振る舞っている。どういうことだろうか。ただの幼なじみと言われていたが、これは、やっぱりちょっと気になるかもしれない──。 あれこれ考えながら、ヴィーレの動きを漠然と追っていた里菜の目が、ふいに、大きく見開かれた。
 タライの脇に膝を付いたヴィーレが、ごく何気ないようすで上に向けたてのひらを、水を掬うように合わせてタライの上で傾けると、突然そこから水があふれて、流れ落ち出したのだ。ちょうど、合わせた手の中に、水道の蛇口が出現したかのように。
(えっ、うそ、なにこれ、なに?)
 里菜は、一瞬目を疑っていたが、次の瞬間、自分が見たものをはっきりと認識し、そのとたん、思わず叫んでいた。
「うそ! なにそれ!」
 同時に、水の流れが止まった。ヴィーレが、驚いてまじまじと里菜を見た。
「リーナ、あなた……」
「ヴィーレ、今の何? なんなの、それ! うそでしょ?」
「何って……お湯を入れただけよ」
「だって、何もないところからお湯が出なかった?」
「そりゃあ魔法だもの……」
「なに、それ! 魔法って……、あなた魔法使いなの? うそでしょ……。なに、それ……」
 里菜は呆然と繰り返した。


 タライに張られたお湯にタオルを浸して身体を拭きながら、里菜は上の空でそわそわしていた。手だけは機械的に動いているけれど、心は全然違うことを考えている。
 なにしろ、魔法である──。
 いっそ、この世界のことを何も知らないうちに魔法を使うところを見せられていれば、魔法の存在を簡単に受け入れられていたかもしれない。だって、何しろ、異世界だ。そんなこともあるだろう。
 だいたい、物語の中などで異世界に行ってしまった人がいれば、行った先は、過去か未来でなければ、まず例外なく、魔法が存在するおとぎ話のような世界ということになっている。当然、自分がやって来たのもそういう世界だろうと、里菜も最初は漠然と予測していた。というより、期待していた。
 が、アルファードの話を聞いて、実はそうではなく、ここはただの近代社会の田舎の村なのだと納得し、拍子抜けしていた矢先に、いきなり魔法である──。それも、あんな、ごく当たり前の、慣れた様子で、何の不思議も神秘もなく、蛇口をひねるような何気なさで、日常生活の中で魔法が使われるなんて──。
(うそぉ、何、これ……)
 タオルをゆすぎながら、また、ぼんやりする。なんとなく、お湯をぴちゃぴちゃやってみる。このお湯も、魔法で出したものなのだ──。
 さっき、自分がお湯を出したのを見て里菜に驚かれたヴィーレは、当惑して、助けを求めるように里菜からアルファードに視線を移した。アルファードも当惑したようにヴィーレと里菜を見比べ、肩をすくめて小さくかぶりを振った。
 ヴィーレは里菜に向き直って、用心深い口調になって言った。
「あたしは別に、魔法使いじゃないわ。あたしのは、ただの<普通の魔法>だもの。リーナ、もしかして、あなたのいた世界では、こういう<普通の魔法>も、珍しい――めったにないようなものなの?」
「めったにどころか、ぜんっぜん、ないわ!」
 力いっぱい言う里菜を見て、ヴィーレとアルファードは顔を見合わせた。
「じゃあ、君は、魔法が使えないんだな? そして、君のいた世界では、みんながそうだと言うんだな?」と言ったアルファードの静かな声には、押し殺した昂ぶりのようなものが抑えがたく滲んでいたが、里菜はそんなことに気づくどころではなかった。
「あたりまえじゃない! ねえ、どういうこと? ここではみんな魔法が使えるの? ヴィーレが魔法使いじゃないって、どういう意味? <普通の魔法>って? 普通じゃない魔法っていうのもあるの? アルファードも魔法が使えるの?」
 せき込むように質問を浴びせかけながら、里菜は我知らずアルファードに詰め寄っていた。そんな里菜の肩を、落ち着け、というように大きな手でそっと押し止めて、アルファードは穏やかに言った。
「いや、俺は、魔法は使えない」
 一見さらりと言われたその言葉に潜む、苦いものを噛み締めるような響きに、魔法をまのあたりにしてすっかり興奮していた里菜は、気がつかなかった。
「そうか、君は、魔法について、なにも知らないのか」と、アルファードは続けた。「とにかく、まず風呂に入ってしまうといい。あとで、ゆっくり、全部話してあげよう」
 里菜は、もうお風呂どころではない気分なのだが、アルファードの言葉に、ものやわらかな中にも有無を言わせないものを感じ、あきらめて頷いた。
 どうも、このアルファードという人は、物言いはあくまで穏やかで、別段威張っていたり偉そうにしたりはしていないのだが、それにもかかわらず、一言のもとに人を従えずにはおられないような何かを持っているらしい。その言葉は、決して命令調だったり居丈高だったりするわけでなくても、なにかしら逆らい難いものがあるのだ。
 というわけで、今、里菜は、魔法の存在する異世界で、魔法で出してもらったお湯で、それどころではないはずなのにあたりまえのように入浴中なのである。
 タオルをしぼっては身体を拭くことを、ぼんやりと繰り返す。暖炉の真ん前なので、寒くはない。小さな、ほっそりした白い身体を、揺れる炎が橙色に照らしだす。揺れる火明かりも、そのなめらかな肌の上に、濃い陰影を生むことはない。まだ女らしい起伏に乏しい、セルロイドの人形のようにすべらかで無機的な、清潔だが子供っぽい裸身である。
 こんなふうに、部屋の中でタライで行水だなんて、考えてみればそれはそれでずいぶん珍しい体験なのだが、今はそんなことを面白がっているどころではない。
 タライの隣には、小さな桶に、指し湯用の熱いお湯が入っている。
 これもヴィーレが魔法で出してくれたものだ。
 が、これを出す時は、ちょっと大変だったのだ。
 里菜に魔法が使えないと知ったヴィーレは、気をきかせて、お湯が冷めた時のための熱い湯を用意しておいてくれようとしたのだが、なぜか、今度は魔法でお湯が出せなかったのである。
 その時のヴィーレの当惑を思うと、魔法の存在に興奮して舞い上がっていた心が少し重くなる。
 ヴィーレがお湯を出せなかったのは、里菜が見ていたからなのだ。
 どうやら、里菜には、どういうわけか、見ているだけで他人が魔法を使うのを妨げてしまうという特殊な性質があるらしいのである。
 それに気づいたのはアルファードだった。
 アルファードは、ヴィーレがお湯を出そうとしている時に、里菜に後ろを向くように命じた。すると、普通にお湯が出せた。
それから、里菜は、アルファードに言われるままに、目の前に立ったヴィーレがあれこれと不思議な動作をするのを、ただ見ていた。
 ヴィーレは、里菜の見ている前では、二度と魔法を使えなかった。
 アルファードは、しばらく、難しい顔で考え込んだ挙げ句、ゆっくりと噛み締めるように、こう言った。
「……俺は、君には、『魔法を消す』という特別な力があるんだと思う。これは本当に特別な、ものすごく特殊な力だ。これまで、この世界に、そういう力の持ち主は、現れたことがないはずだ──少なくとも、人間の中には。が、<マレビト>の力については、何もわかっていない。この世界の基準では測れない力なのだから、今までたまたまそういう力を持つものが居なかったからといって、そういう力があり得ないとは言えないだろう」
 ならば、なぜ、さっきはヴィーレは魔法を使えたのかというと、アルファードは、それは里菜が魔法を魔法と認識する前に不意打ちで行われてしまったからだろうという。あまりに予想外のことで、里菜が魔法を魔法と認識する暇がなかったからだろう──つまり、里菜の存在自体が魔法を排除するのではなく、里菜の意識が魔法を排除するのだと。
 そう考えると、ヴィーレが、ゆうべは里菜のそばでも魔法が普通に使えたのも、里菜が眠っていたためということで説明がつくと言うのだ。
 アルファードの言うことは、里菜には、よくわからない。ヴィーレには、もっと解っていないらしい。ヴィーレは、アルファードが突然聞いたことのない異国の言葉を話し出したとでも言うように、ぽかんとしていた。
 里菜は複雑な気持だった。何の取りえも特技もないと思っていた自分が、ここでは実は何やらすごく特別な力を持っているだなんて、何かすごいことのような気もするが、そのせいで自分は、見たくてたまらない魔法を、この目で見ることはできないらしいのだ。
 だとしたら、何か、とっても損なことのような気もする。
 それに、さっき、里菜の目の前で魔法が使えないとわかった時、ヴィーレは、ほんの一瞬ではあったが、わずかに身を引くようにして、何か不吉なものを見るような目で里菜を見たのだ。
 それは、ほんの一瞬のことで、ヴィーレはすぐに、後悔したように、やさしい笑顔を里菜にむけてくれたのだが。
 ヴィーレにとって魔法はあるのが当り前の慣れ親しんだ日常的な行為なのだとすれば、それが使えなくなるということが彼女に取ってひどく不自然なことなのだというのは、里菜にも想像できた。
(これって、きっと、ヴィーレにとっては、誰かに見られたら声が出なくなっちゃうとか金縛りみたいになって動けなくなっちゃうとか、そういうのと同じことなのよね。あたしだって、そんなふうになったら、その誰かを気味悪いと思うに違いないわ)
 そんなふうに魔法のことばかり考えながら、上の空で身体を拭き清め終え、ヴィーレのお古のワンピースを手にとったとき、里菜の心に、初めて別のことが浮かんだ。たぶん子供服なのだろう、ヴィーレが今着ているものよりどことなく子供っぽいデザインのその服と、自分のちっぽけな痩せた身体を見比べて、里菜は思ったのだ。
 ふくよかで女らしいヴィーレが長身で逞しいアルファードと並んだところは、背の高さも釣り合いがとれていて、いかにも似合いの恋人同士のように見える。なのに、ちびでやせっぽちの自分は、アルファードと並ぶと、遠目に見たら、たぶん、大人と子供の組み合わせにしか見えないだろう。いや、近くで見ても子供連れに見えるかもしれない。
(もっと大人になりたい!)
 それは、彼女が、もう何年も前から忘れていた気持ちだった。そういえば、小さいころは里菜だって、早く大人になりたかった。大人になどなっても別にたいして良いことはなさそうだと気づいてしまったのは、いつごろのことだったろう。
 でも、ここでは、きっと、大人になると良いことがあるのだ。なにしろ、アルファードと並んで立って釣り合う女性になれる、それだけで充分、すてきなことではないか──。
(よし! いっぱい食べて大きくなるぞ、なんてね。背は、もうあんまり伸びないかもしれないけど、せめてもうちょっと肉がつけば、胸も少しは大きくなって、ヴィーレみたいに女らしくなれるかもしれない……)
 そんなことを思いながら、ヴィーレのお古の服を着てみたら、子供服なのに、胸のあたりがブカブカなのである。いくらなんでも、これはあんまりだ。里菜は、余った胸元の生地をつまんで溜め息をついた。


 里菜が、そんな呑気なことを考えている時、隣室のアルファードとヴィーレは、深刻な顔で、小声で話し合っていた。
「……そういうわけで、リーナが、あの特殊な力を、必要に応じて自分で抑制できるようにならないと、非常にまずいと思う」
「そうね。さっきのあたしみたいに、彼女が見ているだけで、みんな魔法が使えなくなるのなら、彼女、この世界では、普通に暮してはいかれないわ。まわり中の人が、とっても不便な思いをすることになるもの」
(……不便なくらいなら、まだいい。たとえば、もし彼女が、目の前で見た以外の魔法まで消そうと思えば消せるとしたら。そして自分の力の影響力をよく理解しないまま、誰かに悪い目的で利用されたりしたら。そうしたら彼女は、この世界を根本から揺るがすような危険な存在になりかねない。そもそも、魔法を消す力などというのは、人間の領域に属する力ではない。神々の領域に属するべき力だ)
 その懸念を、アルファードは、口には出さなかった。生まれた時から魔法を当たり前のものとして受け入れてきたヴィーレに、聞かせるべきことではないように思えた。聞かせても理解できないだろうと、わかっていた。
 自分がこういうことを考えることができるのは、魔法が使えないからだ。あたりまえとして魔法が使えるものには、これらは、理解不能な観念だろう。普段は忘れているが、自分はやはり皆とは違うのだと、アルファードはあらためて思い知った。
 自分が本当に皆が言うように他の世界から来た人間なのか、それとも、ただ記憶を失っているだけで本当はこの世界の人間なのか、それはわからない。だが、いずれにしても、
自分には、魔法が使えない。その結果、他の人は空気のようなあたりまえのものとしてほとんど意識もせずに受け入れている魔法の存在を、自分は常に意識してきたし、魔法について、たぶん他の人は考えないだろうようなことを、いろいろと考えてきた。
 この世界に生まれ育って魔法の存在を当たり前だと思っている人間には多分絶対に理解できないことが、自分には理解できる──。それは、優越感ではなく、苦い感情だった。
 自分以外に、この概念を理解してくれるのは、たぶん、里菜だ。
 アルファードが里菜に魔法について何も話していなかったのは、ひとつには、彼にしてみれば魔法の存在自体は話すまでもない当然のことだったからだし、また、自分が魔法を使えないことや<マレビト>に期待される特別な力については、知らない世界に来たばかりでショックを受けているはずの里菜に対する配慮として、里菜の魔法の能力が未知数である今の段階で不用意に触れるべきではないという判断もあったからだ。
 もちろん、里菜が魔法を使えるのかどうかは、彼にとって、『少なくとも自分の名前は覚えているらしい彼女がもとの世界の記憶をどこまで持っているのか』という彼自身の素姓に関わるかもしれない問題と並んで大きな関心事だったのだが、
(今はまだそういう話題を持ち出すべき時ではない、なに、俺の素姓など今まで十数年間も知れなかったのだ、あと数時間くらい知れないままでもどうということはない。まずは彼女を落ちつかせ、安心させることが先決だ)と、はやる心を抑えて、ずっと質問を我慢していたのだ。
 それが彼女をあんなに驚かせる結果になろうとは思ってもみなかったし、彼女が魔法の存在自体にあれほど驚いたということは、彼にとっても驚きだった。
(では、この世の外のどこかに、魔法というものが存在しない別の世界があるのだ。だとすると、俺もそこから来た人間なのだろうか。もしかすると彼女は、俺がずっと密かに追い求め続けてきた俺の出自を明かしてくれる存在となるのかもしれない。女神はついに俺のもとに、俺の存在の謎を解き明かして俺を本当の俺自身にしてくれる使者を遣わしてくれたのかもしれない……)
 そんな思いをひそかに巡らせながら、アルファードは、注意深く付け加えた。
「いずれにせよ、あの子の扱いには十分な注意が必要だろうな。とにかく、あの子は当面俺が預かることにする。魔法を消してしまうんじゃ、それしかないだろう?」
「そうよね、それしかないわよね……」と言いながら、ヴィーレはそっと目をそらした。


 入浴を済ませ、身支度を整えた里菜は、約束通り、ふたりから魔法のことをいろいろと話してもらった。
 魔法には<本物の魔法>と<普通の魔法>の二種類があり、<本物の魔法>の力の持ち主だけが<本物の魔法使い>、または単に<魔法使い>と言われること。神話によると、この世で最初の<魔法使い>は、女神の恋人”アルファード”だったということ。
 女神の寵を受け山頂の神殿に迎えられた彼は、女神から、特別に魔法の力を授けられ、<本物の魔法使い>となったという。そして、心優しい若者であった彼は、自分が得たそのすばらしい力を下界の同胞たちにも分け与えたいと願い、女神は彼の仲間を思う熱意にほだされて、ついにはそれを許した。
 が、女神が人類に許したのはアルファードに授けたような<本物の魔法>の力そのものではなかった。<本物の魔法>は本来神々の領域に属する超自然の力であり、いくら女神が幼い人類を我が子のようにかわいがっていようと、そのような力を不用意に人類に分け与えることは、幼児に火を与えるほどに危険なことだったのだ。
 女神は、人類のために、<本物の魔法>のなかから小規模で危険が少なく生活に役立つようなものをいくつか選び定めて、それと同じような現象を起こすための、ごく限られた力を人類に授けた。
 それが、魔法の起源に関する神話である。
 そして、今、この世界で現実に<本物の魔法>を使えるのは、よその世界からやってくる<マレビト>だけなのだという。
 <マレビト>がなぜそのような力を持つのか、誰も知らない。
 そもそもそれが神話に言う<本物の魔法>と同じ力であるのか、本当のところはわからない。
 が、彼らが特別の力を行使するのは確かで、その力は神話や伝説の中の<本物の魔法>そのものにしか見えないから、自然、彼らの力は<本物の魔法>と呼ばれ、彼らは<魔法使い>と呼ばれることになる。そして、この村では、「<本物の魔法>は本来神々に属する力であり、女神だけが誰かに与えることができるものだから、その力を持つものはすなわち女神に嘉されしもの、聖なるものであるはずだ」という考えから、<マレビト>は、村に恵みをもたらす女神の申し子として尊ばれ、歓待されてきた。そして、これまでの<マレビト>たちは、その期待に違わず、その特別な力で、この村や、時にはこの世界全体に、様々な幸運をもたらしてきたという。
 ところが、その出現から言って間違いなく<マレビト>であるはずのアルファードは、なぜか、<本物の魔法>どころか、逆に一切の魔法が使えないのだという──。
 そこまで聞いてはじめて、さっきアルファードが『自分は魔法が使えない』と言ったときにはそれがどんなに例外的なことかを知らなかった里菜も、魔法について語る時のアルファードの口調に混じる微妙な抵抗感の意味を察した。そしてアルファードの薄い唇の端にこびりついている微かな苛立ちと焦燥の意味が分かったような気がした。
 どうやらここでは別の世界からやって来た人間というものが意外と普通に受け入れられているものらしいと、里菜はちょっと安堵していたのだが、どうも、<マレビト>であるというのは、別の意味で、やはりなかなかに大変なことらしい。
 そして、よく考えてみれば、一応<マレビト>に相応しくある種の『特別』な力は持っているらしい里菜も、生活の役にたつ<普通の魔法>が使えないことではアルファードと同じだ。その上、自分の持っているらしい『特別』な力は、この国で暮していくのには、むしろ邪魔になるものらしい。この世界で、魔法が普通に生活に浸透していることを知れば知るほど、そのことがわかってくる。
 自分が、そこにいるだけですべての魔法を無効にしてしまうとすれば、それは、『あちら』の世界の感覚でいえば、里菜の行く先々で電気が止まってしまうとかコンピュータがダウンしてしまうとかいうのと同じなのではないだろうか。そんな人間がそこらを歩き回ったら、そこの人々の生活は、大混乱するはずだ。
 考えてみれば、とんでもないハタ迷惑である。
 どうやら自分は、このままでは、村の人々の生活の中に入っては行けないらしい。ここで生きていくためには、自分のこの変な力を、なんとか抑える必要があるらしい……。
 と、思っていると、アルファードも、そのことに言及して、こう続けた。
「……だから、君はなんとかして、その力を必要に応じて抑えられるように練習しなければならない。俺とヴィーレが手伝おう。きっと、できるようになるだろう。それまでは、とりあえず、ここに居ればいい。いや、もし君がそれでいいと思えばの話なんだが……。俺はもともと魔法が使えないんだから、そういう面では、君がいても生活に影響がないだろう? ほかの、たとえばヴィーレの家では、そうはいかないんだ。わかるね?」
 なぜか言い訳けがましく口にされたその言葉に、里菜はちょっと驚いてアルファードを見た。
 彼がここに居ろと言ったことに驚いたのではない。彼女は、最初から、当然ここにずっと置いて貰えるものと思い込んでいたので、アルファードのほうはそれを当然とは思っていなかったらしいことに驚いたのだ。
 里菜はアルファードの言葉に勢いよく頷いて、にっこりした。
 どうやら、この、はた迷惑な力のおかげで、自分はここに置いてもらえることになったらしい。だったら、この力もまんざら無駄ではないのだ。
(そうか、あたしは、この世界では、アルファードとしか暮せないんだわ。こういうの、『割れ鍋にとじ蓋』って言うのよね!)
 あまりロマンチックな表現とは言い難いが、里菜の貧しい語彙の中では、これ以上的確にこの状況を言い表せる言葉は他に思いつかなかったのだ。
 まあ、それはそれとして、それなら自分はこのまま力を制御出来ないままでもかまわないと、里菜は思った。
 村の他の人と混じって普通に暮らせなくても、アルファードのそばに置いてもらえさえすれば、里菜はそれでよかったのだ。
 この世界で最初に出会って、やさしくしてくれたアルファードを、里菜は、もう、いつのまにか、幼児が親を頼るように信じ切り、頼り切っていた。
(アルファードがそばにいてくれるんなら、あたし、なんにも怖くない。アルファードさえいてくれれば、この世界で、あたしに悪いことなんて起こるはずない)
 何の根拠もなく、里菜は、そんなふうに確信していた。
 突然『別の世界』に来てしまって、帰る方法もわからないというのに、里菜は、自分でも意外なほど平静に、ただ、ありのままに事態を受け入れることができた。
 驚きも混乱も焦りも、なぜかまったく感じなかったし、そんな自分を不思議だとも不自然だとも思わなかった。もとの世界に帰る方法が分からなくても、『帰りたい』とも『帰らなくてはならない』とも思わないのだから、何も慌てる必要はないではないか。
 里菜は、元来、あまり積極的な性格ではない。内向的で、変化を嫌い、慣れ親しんだ自分の小さな世界に固執するタイプである。
 そんな里菜が、見知らぬ別世界で、こんなに安心していられるのは、その世界も、そこに住む人々やその生活も、どうやら自分の世界とさほど違わず、なぜか言葉も通じるということのほかに、アルファードという、やさしく力強い、頼もしい保護者役を得たからなのだ。
(あたしたちは、世界でただふたりきりの<マレビト>で、しかも、『割れ鍋・とじ蓋』コンビなんだ! あたしがこの世界で最初にアルファードと出会ったのも、きっと、偶然じゃない。そんな偶然があるわけないわ。これって、やっぱり、運命の出会いよね!)
 すっかりそう思いこんだ里菜が、アルファードの真面目くさった講釈を聞きながら一人でにこにこしていると、ヴィーレが、突然、ぽんと手を打って、わざとらしいほど明るい声を上げた。
「あ、そうだ! ね、ファード、昨日あたしが持ってきたお菓子、まだあるでしょ? お茶にしましょうよ、ね! リーナ、お菓子、食べるわよね?」
 そして、返事も待たずに立ち上がり、勝手知ったる様子でてきぱきと茶器を並べ、戸棚から取り出してきた焼き菓子を、里菜の前に、山のように置いてくれたのだった。
 薬草のお茶と共に味わうヴィーレの焼き菓子は、ヴィーレの笑顔みたいに甘くやさしく家庭的な、手作りの味がした。おいしい、おいしいといくつも食べる里菜を、ヴィーレはにこにこと眺めて、こう言った。
「気にいってくれてうれしいわ。あたしね、自分の作ったものを誰かが喜んで食べてくれるところを見るのが、なにより好きなの。今度から、いままでの倍、持ってくるわね!」
 里菜がいくつも食べているあいだ、ひとつの菓子をゆっくりとかじっていたアルファードが、その言葉に、ぎょっとしたような顔をしたが、幸いなことに、それに気づいたのは里菜だけだった。

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